>一般的に和歌や俳句は、感じたままを詠むものだと言われます。
う~ん、私は、これまでに優れた歌人や俳人が「和歌や俳句は、感じたままを詠むものだ」と説いている歌論なり、俳論なりに出会ったことは一度もありませんが。
当人は「感じたまま」を呼んだつもりでいて、その実、本人も自覚しないまま、身の回りに転がっている月並みで類型的な認識パターンに囚われていたり、自分の感性が歴史的・社会的に規定されていることなど考えたこともなかったりというケースの方がより多そうな気がします。
その点、本当の意味で「感じたまま詠む」ことができるのは、ほんの一握りの天才的な詩歌人だけなのではないでしょうか。
>和歌や俳句が、理性や論理を表現することはできないのでしょうか。言い換えると、和歌や俳句は感性と理性の両方を表現しうるということはできないのでしょうか。
「理性や論理」というのは、ちょっとお考えになるだけで明らかなように、思考の《目的》ではなく、思考の《手段》でしかないですよね
つまり、われわれは徹底的に厳密に、緻密に考えることを「理性」的とか、「論理」的とかと言いますよね。
この限りにおいて、「和歌や俳句が、理性や論理を表現する」ということ自体が意味をなさないような気がします。
また、「感性」を働かせるというのは、決して「理性や論理」をゆるがせにすることではないですよね。
たとえば、考えるときに曖昧だったり、注意散漫だったりすることを、われわれは決して「感性」的とは言いませんよね。
思うに、われわれは、無限の謎をもって迫ってくる現実世界を前に「理性や論理」がおのれの有限さ、非力さを悟ったとき、当然のように無我、忘我の姿勢を取るしかないはずで、これがいわゆる「感性」的な認識ということになるのではないでしょうか。
たとえば、芭蕉の「松島やあゝ松島や松島や」という句についてわれわれが言えるのは、一つは、芭蕉は確かに松島の風景を眼前にしたとき、「理性や論理」では太刀打ちできないと、つまり「感性」に任せるしかないと悟っただろうということ、もう一つは、その時の感動を表現するには、ここは「松島やあゝ松島や松島や」と詠むしかないと「理性や論理」によって判断しただろうということの二点ではないでしょうか。
私は「和歌や俳句」における「感性と理性」の関係については以上のように考えていますが、もしかして、質問者さんは、下記の業平の「かきつばた」を読み込んだ歌のような例を「感性と理性の両方を表現し」たものとしてお考えだったのでしょうか。
唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ
お礼
ありがとうございます。上の三句のどこが理性的なのか、おっしゃってくださると嬉しいです。