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高校倫理 カント『純粋理性批判』について

 大学受験生です。  教えていただきたいことがあります。  カントの『純粋理性批判』に対する参考書の解説の中で  「感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされる」  「私たちの経験による認識というのは、実は何らかの時間、空間を限定した上で ないと成立しない」 という表現があるのですが、よく内容がつかめていません。  具体的にわかりやすくご説明いただけると助かるのですが。  よろしくお願いします。

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  • vivipvpv
  • ベストアンサー率50% (5/10)
回答No.2

哲学経験ないけど、何となく回答>w<b >感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされる >私たちの経験による認識というのは、実は何らかの時間、空間を限定した上で ないと成立しない この二つの命題は実質的には同じこと言っているようだよぅ 「経験」=感覚や知覚によって直接にあたえられ体験されるものごと 感覚や知覚→総じて感性をさすと思うぅ それで、二つの命題比べたら、なんとなく言ってることはおなじかなぁ ようは感性と限定された時間・空間の関係をいってるってこと つぎ! 自分たちの日常会話って、大体場所と時間を指定して会話されるよねぇ? A 「集合!!」 B 「どこに?」 A 「山梨県に」 B 「いつ?」 A 「週末に」 B 「なぜにわざわざそんな遠くに?」 A 「山が本当にないのか手分けして調べよう」 とまぁ、こんな風に何処で何時何分何秒地球が何回回ったらという時間・空間の限定を伴って 初めてコミュニケーションが成り立っているといっても過言ではないのでは? 逆に時間・空間指定がなければどうなるかなぁ 例えば、時間指定がない場合 A 「Cは私の妻だ」 A 「Dは私の妻だ」 B 「重婚・・・!?」 このばあい、Aは犯罪者(重婚罪)かあるいは一夫多妻制の国の人となってしまいそう でも、時間指定があればはっきりするかなぁ~ A 「Cは私の妻だった」 A 「Dは現在の私の妻である」 E 「おまえだったのか!わしの元妻Dの不倫相手は!!」 E 「いつだ、いつからなんだ。はけ!!」 A 「うははははぁ、ぐはぁ、・・・」 *動詞の過去・現在形も時間指定の一種と考える いずれでもなかったとなってまうことにも・・・ 空間指定は考えてみてちょ このように日常生活においては、時間・空間の限定があって初めて 物事が認識・理解されるといっても過言ではなさそう 時間・空間の限定、すなわち時間・空間の区切りがあって物事の関係が見えてくるということ ここでもう一つ 人の理解とか認識はどのような過程を経て起こるか 外界→感性→認識→理性→観念、データ、命題etc→理性→観念、データ、命題etc→・・・・ という感じにかんがえられているのかなぁ? これを前提に話をすすめようっと >感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされる >私たちの経験による認識というのは、実は何らかの時間、空間を限定した上で ないと成立しない これは、つまり、 外界→感性 の段階で時間・空間の区切りがおこっているということでは? つまり、外界を、区切られた時間・空間として感覚に受け止めて認識に至るということ 例えば、t時にA点にある物体がT時にB点に移動するという現象を t時における空間A点、T時における空間B点、と時間・空間を限定(or区切る)したうえで、 その二つの区切りを対比した結果として物体の動きを認識するに至る これが感性の働きだ、ということかなぁ でも、これだとパラパラ漫画みたいだなぁ なんか変じゃないか!! >カントの『純粋理性批判』に対する参考書の解説の中で この参考書の題からして、理性と感性を比較してるのではなかろかぁ つまり、時間・空間の限定は理性の作用ではなくて感性の作用だよとか あり、これじゃぁ日常会話の件、意味ないような・・・ あ、でも、日常会話の件考えると、時間・空間限定は理性の作用とでもいえそうだぁ たぶん>< げぇ、もうAM4:00じゃんけぇ なんてこった!!

musaoutosa
質問者

お礼

vivipvpvさん  ご回答いただきありがとうございました。  非常に具体的に書いていただいたので少しは意味がわかりました。

その他の回答 (3)

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.4

私も今カントを読みかけているところです。 むずかしいですね。 まだ途中なので専門家の方をお待ちすべきなのでしょうが、私が現在理解している範囲でお答えします。 「感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされる」 「私たちの経験による認識というのは、実は何らかの時間、空間を限定した上で ないと成立しない」 たとえば、「赤いバラ」という認識をmusaoutosa さんがしたとします。 これは、厳密に言うと、『「あの日」「あの空間(場所)で」見た赤いバラ』ということになるはずです。 具体的な日付や場所を言っているのではなく、一度見たことがあるからこそ認識は可能になる、ということです。 「あの日、あの場所で見た」=「経験」です。 そのように、あるひとつの認識には必ず時間と空間(場所)が伴なうと言っている。 そういうことだろうと思います。   

musaoutosa
質問者

お礼

hakobuluさん  ご回答いただきありがとうございました。  具体的で助かりました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

「感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされる」 ○ 難しいことを言っているのではないのですね。存在という点で考えればいいんですよ。 時間の流れを横軸に、空間(3次元空間を含む高次元空間)を縦軸に取ると、この二つの直交軸上の交点、つまり十字の交点に人も何もかも存在しているということなのです。この存在の中で全ての思考・感性、行動が起きているわけですから、このことを感性に当てはめると「感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされる」となるわけです。あまりに当たり前すぎることですから悩む話ではないのですね。

musaoutosa
質問者

お礼

mmkyさん  ご回答いただきありがとうございました。

  • hanniyagi
  • ベストアンサー率15% (14/88)
回答No.1

困ることはありません。大学入試にそういう問題が出ることはありません。出題者にも解る筈がないことです。 時間、空間は、ア・プリオリな認識である。というのは、カントの考え違いなのです。 人間の赤ん坊や下等動物の脳の働きとして、時間、空間を認識する筈は有りません。 備わっているのは、光や、音波、の差異を知覚する能力であり。色形の差異、音波の差異を、姿形として認識し、音、声、を出すもの、として認識し、そしてその姿形あるものが、動く、声、音が変化する。ということを認識する、はずです。時間、空間、とは、ア・ポステオリな、(架空の)概念なのです。 完成の働きとは、必ず特定の「物と変化」を前提としてなされる。 私たちの経験による認識とは、実は何らかの「変化と、変化する対象(物)を限定した上でないと成 哲学の二つの方向性は、自己の構築、「人間であるとは、人間になること」ヤスパースの言葉として教わったかもしれませんが、ここれは、古代インド哲学、また仏教の思想でもあります。だから、修行(人間に成るための)なのです。 もう一つの方向性は、釈迦が、八正道、の第一に揚げる。正しい思惟、を揚げ、理法第一、としているように、正しい考え方、理法、方法論、ほ求める。というのが、哲学者、(愛知者)。また東洋の 菩薩(ボーディン・サットバ、悟りを求める者)達の、方向となのます。 カントは、道徳家として知られるように。理性の実践とは、自らを律する道徳と考えている。故に、哲学者と評され。また、倫理の教科書なのでしょう。人間を目的として用い、手段として用いてならない。というのが、カントの道徳、と言われる言葉だった、でしょうか。 倫理む=反倫理、でもあり。人間を手段として用いてはならない、と教えるのは。人間を手段として用いれば、自分だけは儲かる。と教えていることでもあり。 幸せ、とは周囲が自分に都合良く展開している状態である。と教えると。幸せになるためには、周囲を自分に都合良く回転させることだ、支配権を獲得かる事だ、言っている事でもあるのです。 ちと、混乱させ、受験の邪魔をする回答になったかも知れません。 受験対策なら、他の事を勉強されてはどうでしょうか。カントの純粋理性批判まで、完璧に理解しようとは、東大を主席で合格するつもりですか。主席で卒業する方がましですよ。 変なことを教えられ受験に失敗した。と言われても、私が困りますが、(困る訳ないか)

musaoutosa
質問者

お礼

hanniyagiさん  ご回答いただきありがとうございました。  深入りするつもりはないのですが、あまりにも意味がかわらなかったもので。