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魂は理性や知性によって変質するのか?
- 魂と理性・知性の関係について考えています。
- 理性と感性の役割分担や相互影響について疑問を持っています。
- 魂の変質や理性による魂のコントロールについて研究したいと思っています。
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あなたのお礼や補足が少し気になりましたのでお話しします。 対象を変化させたいという意識があるうちは、感性の深まりは望むべく結果に至らないのではないですか あなたの場合は感性も対象も自我意識の内に取り込もうとしているように見受けられます。 感性の深まりは自我意識を捨てていく過程において顕れてくるものと思います 自我意識が一瞬でも働けばもう後戻りになってしまいます いわゆる禅定の過程とも言うべき事と同じでしょう。 心のあり方によってこの世界が全く違って見えてくる、とも言われます 無心になって見れば、身の周りの何気ないものでも、美しいものばかりのような気もいたします。 敢えて変える必要など、私は無くてもよいと思うのですが また、いくら変えようとしても変わらぬ事の重みを、そのまま受け取る事が大切だと思うのです。
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- harrywithers
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こんにちは、 前回の投稿では少しキツイ書き方になってしまったようです。スイマセン 他の方への補足やお礼をなども、読みつつ少し整理をしてみたいと思います。 私自身は、個人的な体験によって 魂が、少なくとも“脳”という器官よりも上位にあることを、確認しています。 ※昔、速読の訓練をしたときに、指導者からは、慣れないうちは 訓練時間を過ぎて夜遅くから、速読をしてはいけないと言われていたのに、 試しにと思い、夜11時過ぎに、速読をしてみたところ、 脳内でザワザワと思考が勝手に騒ぎ出し、ベッドに入って横になっても 目が(脳が騒ぐ?)さえるばかりで、眠れないうちに朝を向かえ、往生しました。 脳が騒ぎ疲れて、やっと眠ることができました。 この時の感覚はとても不思議なもので、何も考えられずに、 感覚も薄れているのですが、一部にそれ醒めて眺めている意識…があり その意識が、魂に近いところのモノではないかなと感じている自分が居ました。 他にも、ブリージング・セミナーなどで、過呼吸状態で、 脳の新皮質への酸素の供給が制限されると、幼い頃の記憶や生まれる直前の記憶、 (一緒に体験した仲間には)前世と思われる記憶が甦った人も居ました。 但し、これらの体験は極個人的で、検証できないものなので、 頭から信じない方々に、証明する術もその気もありません(笑) > 自分の中に飛び込んで来すぎて 知覚(チャクラ)が開き始めた初期に体験することがあります、 自分自身で、知覚の開閉の制御ができない未熟な状態だとこういったことがおこります。 意識をしっかりともって、コントロールしましょう。 そういう能力を持った知り合いや、心理学の達人などは、 本人が意識せずに、他人の心を読み取るような(失礼な)ことしません、 彼らは、相手の了解を得て、しかるべき場所を用意してから、 そういう能力を発揮します、コントロールできない未熟な能力は大変に危険で、 様々な魔を呼び込むことすらあります。注意してください。 どなたか、師と仰げる方をお持ちではないでしょうか? いらっしゃらなければ、極力探して、教えを請うことをお薦めします。 こういった世界の師の探し方は、検証不可能な世界のことですから、 オウムのような最低レベルの人も沢山居ます。 こういう輩に引っ掛からない為には、(1)常識的であること、と、 (2)法外なお金を要求しないこと、この2点を基準に選ぶことをお薦めします。 上記の条件を最初はクリアしても、途中で魔が射すことがあり、 俗人は、慢心とお金とSEXで試され堕落して行きますので、注意が必要です。 遠回りな回答になるかもしれませんが、 “魂”“心”“脳”“意識”と“知性”“感性”これら それぞれの関係性を、考えて見ます。 ご存知のように、この中で“脳”だけが、物質であり臓器です。 前回の繰り返しになるかもしれませんが、脳の中の働きが、 “知性”と“感性”です、部位で言えば、知性や理性は左脳的であり、 感性は、右脳的な働きです。(なお私は、完全な右脳左脳論を信じていません、 知性や感性は脳の中に緩やかに偏在するものだと、思っています。) そして、“心”は、これらの、 感性や知性が世界を解釈した結果として存在する受動的な感覚器官です。 外からの刺激に対して、その度に一定の様式に従った反応を示すモノです。 “意識”は“心”→“魂”へつながる、身体にとっての目や手のような器官です。 サーチライトのように、意識で照らし出さなければ、(一般的には)私たちは、 モノゴトを考えたり、感じたりすることが出来ません。 そして、“意識”はフロイトの発見した、“無意識”やユングの提唱した その底の集合的無意識(もしかすると、群魂と呼ばれるものかも知れません)へと つながっていて、その核に“魂”が存在していると、私は考えています。 上記の関係性の中で、理性や感性で色々な試みを行い、 成功し、失敗し、喜び、悲しみ、愛別離苦を繰り返し魂は学んでいくもの だと、お釈迦様も2500年も前に経典で説いておりますし、 チベット仏教では、死後の魂の輪廻と解脱の仕方を説いています。 shikaruniさまの、試みや思考は、必ず魂の役に立つものと思います。 私が心の師と仰ぐ、感性論哲学者の吉村思風先生の言葉を、送ります。 「理性や知性は、感性の実現の道具として、使うべきものである。」 カント以来、私たちは、理性や知性で、感性を押さえつけコントロールしようと 努力して来ましたが、その試みは上手く行ったとは思えません。 むしろ、感性を主体に、感性が望む世界を、理性と知性で実現する 私は、にはこちらの考えの方がしっくりとなじむように思えます。 理性や知性を道具に使うなら、 “魂”にとっての、“感性”は“測定器”なのかも知れませんね。 長くなりました、爺の独り言と、為に成ることだけを取り入れて、 後は聞き流してください(汗)
お礼
ご回答ありがとうございます。 >前回の投稿 いえいえ、お気になさらずに。 >体験 よくわかります。ザワザワした感覚も経験しました。 私の場合、時に魔にのっとられる感覚がすることもありました。 ちょうど座禅をしている頃にチャクラの本に出会いまして、チャクラを意識しながら座禅することもあり、 良くも悪くも、無駄に開いているなという感覚はありました。 写真でチャクラの状況がわかるというものを撮りに行ったくらいです。 (あやしいですね。パワーストーンのお店でして、磁場を測定するみたいなことを言ってました) なので、おっしゃっていることがすごくわかります。 堕落感も少々耳が痛いです。 意識をしっかり保つことが大事なのですね。ここでいう理性や、自分を律する感覚なのでしょう。 抑えつけるのではなく、冷静に芯をしっかり保つ感覚でしょうか。 私の場合、仕組みがわかると解決に近づくようです。 もしかすると、今は生活のためにも、勘のするどい部分を捨てるような意識で中和することが必要かもしれないとも感じました。 まだ、あっちの世界には早すぎたようにも。(あっち・・・) コントロールできれば、いい世界ですが、それを目指したいのかどうか。今まで考えもなく流されすぎていました。 今は、どちらを目指したいか方向が定め、理性の維持に努めたいと思います。 師と仰ぐ方はいないのですが、こちらで大変なヒントをいただきました。 吉村先生のお言葉も、harrywithers様のお言葉も、 的を得ていて、しっくりきます。 たくさん思うところがあったので、皆さんの知恵を自分なりに文章にまとめて、もう少し論理的な思考ができるよう反芻したいと思います。 自分なりの哲学!しちゃおうと思います。 ありがとうございました。
- hakobulu
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#7です。 >もっと強く我があったためにバランスが取れていて、少し薄くなったら、バランスの取り方を見失ったのかな?? :ご存知かもしれませんが、精神を以下の3層に区分けする考え方があります。 本能ー快・不快に基づく。 超自我ー本能を抑制することにより崇高なものを目指す。 自我ー上の二つを調整してバランスを取りつつ、現実社会に向けて自己実現を図ろうとする。 非常に大雑把ですが大体このようになります。 いわゆる「我が強い」と感じる方は結局のところバランスが本能の側に偏っていると捉えることができると思われます。 そこで、心ある方は超自我的な修養などに取り組むわけです。 ただ、超自我は理性・知性などを介して崇高性を目指すものではありますが、その本質は本能の抑制・抑圧です。 本能というのは言ってみればやんちゃ坊主みたいなものですから、押さえつければ大人しくなったようには一応は見えるわけです。 しかし、本能とは生命力の根源でもまたあります。 超自我の抑圧作用が過剰になると、やんちゃな部分のみならず、生命力の本質的部分までが萎縮してしまうことがあります。 抑圧が全くなければ人間的な向上は望めないので難しいところなのですが、そのあたりも調整役としての自我の重要な仕事になります。 程度を考慮しつつバランスを取る力、とでもいったようなことになるでしょう。 大いに自分の快とするところを追求しつつ(本能)、しかし、精神的向上も目指して善を模索し(超自我)、それらのバランスを調整しつつ納得のゆく自分(自我)を構築していく。 アバウトですが、こういった感じになるのではないでしょうか。 超自我性を重視して自己の損得を省みず、というのもひとつの生き方ではあるわけですが、何らかの無理が生じてくると考えるのが自然だろうと思われます。 過去の(真の)宗教者と呼ばれる人々は、そういった無理をする必要性があったからこそ意思を貫徹できたわけだろう、というのが私の捉え方です。 生き方は人それぞれですから、何が良い悪いと言っているわけではありません。 納得いく生き方ができればそれで良いのだろうと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そういう3区分でしたか。確かにそういう一面はありますね。 読んでいると途中で、インドの修行者を思い出しました。片足立ちで何年も過ごすとか、不自然な体勢を続ける…。 何事もバランスですね。 お返事ありがとうございます。
- magga
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<<※スピリチュアルなことを否定する方は、ご遠慮くださいませ。>> 主に輪廻転生に妥当性を感じていれば良いのでしょうかね。 魂論にもいろいろあるのでしょう。 一般的には「不変で完璧なもの」というのが多いと思います。不変なら汚れることも清められることも不可能だと感じます。変化しては不変でありませんし、関係性があれば変化すると言うことですからw このような魂論は妥当性を感じませんが、生命の変化生滅していくシステムこの心のエネルギーが生滅することは考え難いということで輪廻には妥当性を感じてます。 向上(不変でなく変化)を説いているから魂論ではなく心のシステムについて語っていると憶測しますね。 <<私は、理性・知性=脳・感性=魂のような気がして>> 五感と思考の六根とその対象物の接触による認識・感覚がありますね。 身体はその伝達処理の道具に過ぎないとおもいます。ただ脳の働きは多岐にわたっていることは事実だと思いますが。 理性はその六根について現実に沿った思考をすることと思います。 <<理性って生きてる間だけ必要になってるのかな?>> 確実に理性は幸福に生きるために必要不可欠なものだと思いますよ。 <<理性・知性によって、魂自身が魂のコントロールの仕方を覚えるということはあるのでしょうか?>> 魂は知りませんが。。。 心のコントロールは理性無くしては出来ないでしょう。 <<私の魂は、理性・知性の強弱によって変質したりするのでしょうか?>> 「魂」を不変なものとせづに、「心のシステム」として考えるなら、理性高きものであるほうが欲・怒・無知から脱し慈悲喜捨の善に至り、その善の波も捨てて平安にいたることは可能なことと思います。 理性が無ければそれだけ無知に陥り、欲と怒りに飲まれやすくなることでしょう。 <<理性が強いと感性が抑えられる気はしますが、魂が変わらないなら、考えるのは無駄。考えるというのは行動のためだけにある気がします。ぼーっと考えるだけの生活は、本質的に無駄ですね?>> まず理性的な思考無くしてなかなか邪見を見破れないと思います。見破れなければその間違った見解にとらわれたままで、その思考回路の中でぐるぐるすることになりますね。邪見から身を守るために重要な働きをしますね。 理性的でない思考はゴミですがw この理性が「正しい見解」に。「正しい見解」から智慧・感性そのものである「考えないこと」にいたることは実は結構大変なことだと思います。自分の中にある全ての邪見を見つけ解決(心から納得)しなければなりませんから。 これが出来ている人は「貪り・怒り・無知」が完全に絶たれているでしょうからねw阿羅漢・解脱者ですよ。 参考になれば幸いです 幸福でありますようにノシ
お礼
ご回答ありがとうございます。 今回こちらで、理性的な思考の重要性を体験させてもらいました。 普段の生活では得られない貴重なものです。 本を読むより、身近に感じた論理的世界… 皆さん、素敵です。
#5です。補足として付け加えたいと思います。 現世における修業とは、魂という想念主体が脳というパソコンによって情報処理された感覚神経の牢獄に自らを閉じ込め、類魂という本体を無意識世界に追いやることによって起こる様々な苦痛を乗り越えることです。 魂とは、無意識世界に追いやった類魂の一部ではあるものの、現世に顔を出している部分、現世の感覚神経によって修行している部分ということになります。これを心理学では自我意識とか言うのでしょうか(それほど詳しくはありませんが)。ですから現世における想念主体は魂そのものであり、無意識世界から働く守護霊など類魂の作用はあくまで魂の本体、類魂です。 魂という現世で感覚神経にまみれた部分は、死後幽界という現世の垢を洗い落とすシャワー室のようなところで、少しづつ現世への執着(感覚神経の性質、嗜好)を捨てて行きます。そして最終的には類魂という元の世界に戻って行きます。 現世から類魂に戻るまで、想念主体は想念主体のまま何も変わりません。死後変わるのは肉体の感覚神経の牢獄から解き放たれて、3次元の制約を無視出来るようになるのと、他者の想念と繋がる(読心できる)ようになることです。肉体の5感はありません。しかし、感識能力は肉体よりはるかに優れているようです。その仕組みは分かりません。“人間にはよく分からないもの”です。 現世の肉体というものはあくまでも霊(魂)の道具です。想念の全ては魂にあり、肉体はただ、修行のために感覚の苦しみをもたらすだけです。そういう道具です。脳でさえ、身体を制御する為のコンピュータという道具に過ぎないのです。魂は脳というコンピュータから情報をキャッチして様々な想念を生み出し意思が発生し、また脳というコンピュータを使用して身体を動かすのです。この時理性的判断も感性的判断もすべて魂自らが選びとっていることです。脳はパソコンと同じ物質に過ぎませんから、意思など発生しません。 脳というコンピュータがもし故障したら、それに閉じこもっている魂という想念主体は、脳による情報処理の誤作動に振り回されることになります。記憶、やり方のパターンなど。でも、そんな場合でも、魂の本質だけは本人のままです。“心のどこかに本人がちゃんと残っている”とよく言われるのはそこなのです。そして病んだ脳から解き放たれたら、元の理性も感性もなお冴えわたります。霊言を読めば霊に理性があるのは明らかです。生きている人間と同じ様に思考します。
お礼
ご回答ありがとうございます。 江原さんの言葉にも大まかなものがありましたが、 さらに掘り下げてくださり、さらに、脳との関係もよりわかりました。 きれいにまとめてくださって、大変助かります。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
スピリチュアルなことを否定するわけではありませんが、昨今のスピリチュアルブームとでもいったようなものに対しては、あたかもスピリッツなるものが単独で存在しているかのように考えている点で違和感を覚えています。 そのような者の私見でも宜しければ少しお話ししてみます。 > 理性・知性=脳 感性=魂 :とおっしゃっていますね。 感覚としてはわかりますが、私としては全ては脳につながると考えるのが自然ではないか、と思います。 ならって表示するとすれば、「感性←脳→理性・知性」とでもいったような感じでしょうか。 脳が人間の全てとは思いませんが、根本であり、魂なり理性・知性なりを生ぜしめているのものである、と考えるのが妥当でしょう。 「感性=魂」 とは溢れ出るものであり、 「理性・知性=脳」 とは、それを制御しようとする力だろうと思います。 溢れ出るのも制御しようとするのも全ては脳の働きによるだろう、ということです。 おっしゃるように人間はそれら(理性⇔感性)のバランスを崩すこともあります。 むしろ、常に不安定であり続けるものだと言ったほうが良いかもしれません。 ところで、それらのバランスを司っているものはなんでしょうか。 仮定するとすればこれを自我と表現することもできるように思います。 >今の私は、そのバランスを乱し、ほとんど真っ二つに別れたような感覚で、感受性が大変強くなっております。 :というのは自我が非常に弱くなっている状態、と捉えることが可能でしょう。 >魂が脳に影響を与えている気はするが、脳は魂に何をしているのだろう? 行動をもって影響を与えている気がする。 :脳が何をしているのか、というよりは、理性・知性が脳を介して魂にどのような影響を与えているのか、と考えたほうがわかりやすいかもしれません。 ただ、その影響というのはあくまで魂に対して「抑制的」あるいは「抑圧的」に働いているものと思われます。 魂という言葉を「自然な感性の発露」という意味でお使いであるならば、場合によっては本能と表現するのが適切なこともあるかもしれませんが。 以上のような前提で回答に入ります。 >しかし理性・知性によって、魂自身が魂のコントロールの仕方を覚えるということはあるのでしょうか? :先述しましたが、この場合も、理性・知性と魂のバランスを取るものとしての自我を想定するのが良いと思います。 色々言っても全ては一個の人間の中で起こる事象ですし、目に見えるものではないので名前をつけて区分するのはあくまで便宜上のことにはすぎないのですが。 魂自身が変化するというよりは、理性・知性とのバランスの偏りが異なってくるために、結果として自我が変化する、ということではないでしょうか。 自我とは、現実社会に対して個人が自己を表明するための最終窓口であるとも言えます。 >理性が強いと感性が抑えられる気はしますが、魂が変わらないなら、考えるのは無駄。 考えるというのは行動のためだけにある気がします。 :このことに関しても同様の考え方ができます。 理性と魂のバランスがどのように変化し、それが自我によってどのように顕現されるのか。 ということでしょう。 「根本の魂が変わらないのなら」という意味でおっしゃっているのでしょうが、根本の魂というもの自体、根本の理性が存在しないように存在しないものではないか、と思います。 また、「考える」という作業自体は脳に記憶されますから、無駄であるかどうかその時点で判断するのは難しいような気がします。 >ぼーっと考えるだけの生活は、本質的に無駄ですね? :先に述べたようにその時点で判断するのはなかなか難しい面があると思います。 また、「無駄とは何か?」ということも考慮される必要があるでしょうね。 無為こそ有為、というのが案外真理だったりするかもしれませんから。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに、脳の働きによる部分は大きいと思います。 だから、薬で治療できたりするわけです。 自我というのが、辞書を引いても、いまいちピンときません。 おっしゃりたいところは、わかるのですが、 私の場合、我が強いように思えて、我が強いからバランスを乱しているように思います。 その我の位置付けもよくわからないのですが、魂の中に、自我という癖が根付いているようにも思います。 昔は、もっと強く我があったためにバランスが取れていて、少し薄くなったら、バランスの取り方を見失ったのかな??
- harrywithers
- ベストアンサー率60% (199/331)
こんにちは、 私の立脚点は質問者さまと違っています、その為に以下は回答にならないと思いますが・・・ 感性も理性や知性も、厳密には魂ではありません、 感性も理性も知性も、魂の働きによって心の表層に現れてくるものです。 魂は魂として、学ぶためにこの世に肉体を持って生まれ来ます。 何故でしょう、よく言われるのは、肉体を持たない魂は、 現実的で具体的な経験が出来ない為に、肉体を持ち生まれ来るというものです。 そして、感性や理性や知性は、肉体があるからこそ、 身体に付随して生じ経験し蓄積するモノです、 これらの、経験を通じて、魂は学び成長して行くモノです。 私たちは、身体を通じて、痛み、温度、愛情を含めた喜怒哀楽の感情、等々 色々な経験を繰り返し、その経験を通してだけ、私たちの魂は学ぶことが出来るのです。 > 理性が強いと感性が抑えられる気はしますが 気がすることを、どれだけ重ねても論理的な論証にはなりません。 理性は、外界のモノゴトを合理的・論理的に捉えて、 判断なり行動の決断を下そうとする働きで、 感性は、外界のモノゴトを感覚的・直感的に判断し捉えようとする 非合理的で、問題解決への直線的な働きです。 このふたつの働きは相反するものではありません、 お互いに相補的な働きで魂の目的を助けるものであり 邪魔になるものではありません。 もしも、それが(お互いや魂にとって)邪魔になるなら、 余りにも程度の低い利己的な合理性(=屁理屈)や 未成熟で偏向した感性を疑うべきものです。 ニュートンが、リンゴが落ちる様から、万有引力の発見に至ったエピソードや、 ベンゼン環二重結合の発見が、夢からのインスピレーションだったという話 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%82%AF%E3%83%AC http://wiki.yukawa100.org/index.php?%C3%E6%B4%D6%BB%D2%CF%C0%A1%A7%C7%AF%CE%D8%CC%CF%CD%CD%A4%AB%A4%E9%A4%CE%A4%D2%A4%E9%A4%E1%A4%AD そして、ノーベル賞受賞の湯川秀樹博士の中間子論、これらのいずれも 理性的な論理的思考と夢などからインスピレーション(感性)から働きで、 物理や化学の偉業を成し遂げ、それによって人類の発展に寄与し、 魂に徳をつんだと考えられます。 現世の私たちは、魂だけでは生きられません、 理性や感性が身体や脳を通じて、お互いに助け合う働きをすることで 魂に徳(経験)を積み上げ。魂を磨き成長していくものです。 魂が魂だけで成長可能なら、何故私たちは、 この困難な世の中に生まれ出てくるのでしょうか? 感性は、感性だけで磨かれるものではなく、論理的思考や理性、経験で磨かなければ ただの未成熟で偏向したたままの、自分の未熟さにさえ気づかない 独りよがりの感性モドキでしかありません。 私たちは、他の魂と交流し、助け合い、磨きあうために生まれでて来ます。 他の魂と、身体を通じての交流から学び取り、与えるものだけが 私たちの魂を成長促進させるので、そこには、理性とか感性とかの差は有りません。 文章から(お年の)若い方のように、思われますが、 自ら書いておられるように、根拠のあやふやな 「気がすることを」「ぼーっと考えるだけ」では、まさに時間の無駄です。 心理学の分野では、魂を正面から扱っているのは、 トランスパーソナル心理学と呼ばれる分野です、 入門書を下に貼っておきますので、先ず全体像をつかんでから、 自分に合うと思われる本を読まれてみることをお薦めします。 http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss_b?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%83g%83%89%83%93%83X%83p%81%5B%83%5C%83i%83%8B&x=0&y=0
お礼
ご回答ありがとうございます。 皆さんのご回答を読んでいるうちに、私の立脚点 理性・知性=脳 感性=魂 が、愚かだったなぁと思えるようになりました。(^-^); 3年ほど前、座禅をし始めた頃から、感受性が強くなったと言いますか、昔にも増して、人や自然を感じれ、幸せを感じ、愛とは何かを感じ、良いところもたくさんあったのですが、 最近、人の思ってることや感じてることが、自分の中に飛び込んで来すぎて(以心伝心というやつです。)、次第に、もうそんなもの受け付けたくないという憤りが生まれ、そのため強い気を発信したりと、情緒不安定でして、それは理性が足りないからだと思うに至り、質問のような表現になってしまいました。 生まれつき勘がするどく、以心伝心は私にとって当たり前のことで、以前は気にせず理性でうまく受け流していたように思います。 それができなくなった今、処理能力の落ちた脳のせいにしてしまったわけです。情けない。 また、人は経験をするために肉体を持って生まれてくるというのは、江原さんや飯田史彦さんの本などで知っていました。 ですが、理性や感性の知識が薄かったため、こじつけてしまったようです。 ご回答のおかげで、感性・理性・魂の位置付けがわかってくると、パッと晴れたような気持ちです。 パッと晴れただけじゃ、思考の癖で、すぐ消えてしまうので、行動して身につけていきたいと思います。 ※「気がする」は、書いているうちから、もしかしたら突っ込まれるだろうなぁと思っていました。実はそこは、あまり回答が欲しい部分でないことと、普段、携帯をメインでこのサイトを見ているために、打つのが面倒くさかったという理由でして、すみません。 質問の仕方も、もう少し考えます。
スピリチュアリストの私見ですが脳とは、心と肉体をつなぐ情報処理機関つまりタンパク質でできたパソコンに過ぎません。 心の全ては魂にあります。魂という人間の科学では良く分からない“心”そのものです。心それ自体非物質の存在証明です。それが主体です。 心を物質的に説明する事など出来ません。 なぜならあの神経信号はあくまでもあの神経信号でしかないからです。 神経信号がこの心だというのは無理です。妄想です。幻です。 だって自分の心を見てごらんなさい。 それは神経信号ですか? 神経信号はあくまで肉体からの感覚を脳というコンピュータで情報処理して魂に伝えられるだけです。想念の全ては魂にあります。 だから、精神活動の内入力(肉体からの感覚を受け取る)のは脳を媒体として情報整理され魂に伝えられますが、出力(心から出る全ての想念)は魂により行われます。 従って感性も理性もすべて魂のものであり、死後もありのままの自分が継続するのです。ですので感性が強いのは魂のせいで、理性は脳のせいなどと考える必要はまったくありません。すべて魂です。あなたが現世で苦しんだ事は理性の発達においても感性の磨きにおいても向上のタネとなり、この世の出来事で無駄なことは何一つありません。全てが有用です。 コントロールの仕方も何も、あなたが今自分の心をコントロールしていれば、それが死後も同じように続くに過ぎません。 向上についてですが、理性の発達も感性の磨きも魂の向上のうちに含まれるものと思います。類魂には永遠の過去の情報が詰まっており、現世での理性的な学びは類魂の情報に加えられて、情報の向上となるのではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ますます、仕組みが理解できたように思います。 皆さんのご回答のおかげで、理性を伴った"無"を一時、感じることができました。己を律しながら、自分も含めすべてをあるがままに受け入れる感覚です。魂(己)を感じた気がします。 ただ、一時ですので、またすぐに忘れてしまいます。もう少し時間がかかりそうです。 ご回答を定期的に読み返したいと思います。
魂の有無や実体については仏教の業論をご参考にしてください 人の業の実相の中に、魂の問題は全て含まれています。 感性と理性とについては、カントの純粋理性批判をお勧めします 感性と理性の働きや相互作用について説かれています。 こんな言葉を昔読んだことがありました 感性が変化すれば対象も変化する 対象が変化すれば感性さえも変化する・・・ この頃は年をとったせいか 感性も対象もだいぶ変わりました(お笑いかな?) いつのまにかという感じです この積もり重ねが業なのかもしれませんね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 昔、"鏡の法則"という本を読んだことがあります。私にとってはまさに、感性が変われば対象が変わるという内容でした。対象が変われば感性が…というのは、普段から感じています。 前者を実行しました。 その対象は変化しませんでした。 この話を否定したいのではありません。 私には対象を変化させたい願望があり、また、周りの対象に振り回されることから、対象が変化せずとも振り回されるなという業(カルマ?課題?)があるようです。 まずは、業論を読んでみたいと思います。
補足
お礼記載後からの追記 真に感性が変われば、対象への見方が変わり、私の中で対象が変わりますね。修行が足りないようです。 少し感覚がつかめては消えていきます。 あと、少しのようです。 あしからず。
あなたは人の心の中に、脳と魂のふたつの心、ふたつの世界がある事を、理解しておられるんですね、宗教では、人は神の子、仏の子といいます。なぜかというと、最初は人は神、無我でした。地球に来て、人の脳、自我と合体して、神と人の合いの子の、神人になりました。アトランチス文明時代までいました。その後人だけになりました。だから人の心は、脳の自我と、神の大自然の心の無我の、ふたつの心があり、対立しています。脳が思考してる時は、人の心と自然の心、情緒との交流を、脳が遮断するのでストレスになります。脳が休むと、人と自然が交流するので、心が癒されます。だから日本の伝統文化は、脳を休めて、心の癒し、情緒を追求しています。座禅、茶道、能、雅楽、日舞、演歌、落語、日本画、中国の太極拳など、次に人の使命ですが、宇宙が成長するためには、不完全、不調和を、完全調和に変換する必要があります。その場所として、仮の世界の地球ができました。だから地球は、脳の自我の不完全不調和と、神の自然の無我の調和が交わるシュミレーションの世界です。2012年に、人は脳を分離して、神にもどります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 四国88カ所巡りや尼さん体験、座禅、瞑想などしていたら、心が勝手に一人歩きしてしまったようで、これはいかんと思い出しました。 それが悪いわけではなく、単に自分には早すぎたのだと思います。 それにしても2012年の話は初耳です。もうすぐですが、そんな気配も感じられません。
- Caryo_t
- ベストアンサー率45% (112/246)
なぜ「魂」と「理性」があると考えるのでしょうか。 恐らくそれは、そう考えるのが「理性的」だからではないでしょうか。 魂は、魂の欲するままに理性に影響を与え、 理性は、理性の欲するままに魂を理解する。 ならば、魂は「自らを知る」ことを求めていることになります。 したがって、考え続けること、知り続けることが理性の役割だ と言えるのではないでしょうか。 ここで重要なのは、「考える・知る」という行為が、 単なる思索を意味しないということです。 「ぼーっと考えるだけの生活」で知ることがありますし、 知的障害の方も現在進行形で何かを知り続けています。 以上をすべて真実であると仮定すれば、 魂は本質的には変化せず、ただその捉え方が変化すると考えられます。 ならば、「魂の向上」とは、魂の本質と理性が近づくことであり、 究極的には、理性が魂を「理解」して一体化することでしょう。 これを悟りと呼ぶかどうかは、表現の問題です。 shikaruniさんが理性を欲するのも、魂の求めなのかもしれませんし、 実はそれを行わず、感性(と理性が呼ぶもの)に身を委ねるのも、 また魂の求めるものなのかもしれません。 あやふやに聞こえるかもしれませんが、shikaruniさんが辿ってこられた紆余曲折は、 頭の中で考えたことも含めて、すべて「実態」があることだけは事実です。 したがって、すべて無駄ではないことも明らかです。 (無駄はゼロですが、実態はゼロにはなりませんから) 以上のことから、ご質問にお答えしますと 問:しかし理性・知性によって、魂自身が魂のコントロールの仕方を覚えるということはあるのでしょうか? 答:理性は魂をコントロールせず、魂も理性をコントロールできない(コントロールできるなら、すぐに理解できる)のだと思います 問:私の魂は、理性・知性の強弱によって変質したりするのでしょうか? 答:魂は変質せず、ただ理解があるのみだと思います 問:理性が強いと感性が抑えられる気はしますが、魂が変わらないなら、考えるのは無駄。考えるというのは行動のためだけにある気がします。 答:考えることは、魂の求めることだと思います。そして無駄もなさそうです。 問:ぼーっと考えるだけの生活は、本質的に無駄ですね? 答:自分自身が存在するのが必然であるように、無駄ではないのでしょう。 以上は、単なる私の考えですので、心理学とは何の関係もありません。 お気に召さない場合には、ご放念ください。
お礼
ご回答ありがとうございます。とても嬉しいです。 色んなことを理解しても、死んだら知恵もなくなるような気がしておりましたが、残る仕組みが少し理解できたように思います。魂が自らを知ることを求めているんですものね。自らを理解できるとは、思いもしませんでした。 お釈迦様や賢者の方々の知恵の高さがわかった気がします。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 まさにそうです。そう思います。 全てのお言葉が身にしみる思いです。