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虚数とは想像力の世界なのか?
- 虚数とは想像をめぐらしたその観念の世界である。
- 虚数の世界にのみあることになる人は想像をめぐらしつづけている。
- 現実の複素数なる文体が実数が消えて虚数のみによって成ると社会における交流が成し得なくなる。
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No..26です。お言葉に誘引されて もう少し 考えてみました。 今の場合、ベクトルを複素平面で捉えること(平面的)は問題ないと思います。複素数=ベクトルとみなしていいとおもいます。実数部を主張の自己表現に対応させ 虚数部を反自己表現に対応させます。反自己表現は自己表現の放棄とします。 例えば 『私は金持ちになりたい』は 主張の自己表現ですが 主張になってない『紙は1グラムである』のような文語は反自己表現とします。この実数部(主張の自己表現)+虚数部(反自己表現)が 言葉として出てくる通常の会話であります。実数部の成分ベクトルと虚数部ベクトルで出力会話のベクトルが構成されていると考えます。 このような会話ベクトルが二つあるとします。二人の会話があった場合です。これら二つのベクトルの始点を揃え 仕事量を考え、交角をみます。直交すれば 仕事量は0であります。一つが実数部のみで片方が虚数部のみ の場合も もちろん 0であります。噛み合わない会話であります。会話のイメージは正にお互い垂直壁に向かって話している感じでしょう。 自己内部の『主張の自己表現』と『反自己表現』の関係も垂直壁イメージであります。 主張部分を抽出することにより反自己表現部が浮き彫りにされると考えます。自己言及としては十分なフィードバックがされ 主張の自己表現と反自己表現の関係が明確にされると思います。自己言及の後の モヤモヤワールドは 反自己表現です。 ざっと以上のように考えてむました。何度か言いましたように このような数学的表現は あくまで 比喩であります。定性的な感じが伝われば それで十分であろうとおもいます。 以上 参考までに。
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これは、わや(てんやわんや)になっていませんか。 虚数を持ち出さずとも空想といえばよく、実数を持ち出さずとも実際や現実と言えば話は通じるのではないだろうか。 そして文末、空想世界がなぜか悪名高いものと質問者は事前に決定付けており、唐突に日本人のそれはブディズムの<さとり>についての数多の解釈にあるのではないかと跳躍する。そして更にそれが、社会の処理能力と言う意味不明な概念と結びつく。結果、文章を読む人を振り回すだけに終わっている。 もはや何が質問なのか、言いたい事なのかわからない。他の回答者さんのすごい理解力でやっとついてきている感じです。 そして言いたい事だけ言った後、最後にご教示をお願いしますと添えてある。 つまり質問者は混乱を提示して、その整理を求めているものと思われるのです。 あ)空想は現実とどう関わっているのか。 い)空想は空想に過ぎない。と、言えるものであるか。 質問者の尋ねたいことは、このような質問文では表現されないのでしょうか。 私にはこちらの方がずっとまともに聞こえます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ ~~~~~~~~ あ)空想は現実とどう関わっているのか。 い)空想は空想に過ぎない。と、言えるものであるか。 質問者の尋ねたいことは、このような質問文では表現されないのでしょうか。 私にはこちらの方がずっとまともに聞こえます。 ~~~~~~~~~~~ ☆ 《* おまけもしくは余分:》の箇所は おそらく回答者の見方にぶがあるようです。まさに《余分》として書きました。《さとり》のあまりにもひどい解釈に腹が立ったのです。つまりその解釈そのものにというよりも その解釈をゆるゆるに放っておく人びとの思想(生活態度)のあり方にです。 純粋に(?)感情からものを言っている部分です。 でも 妥当性があると思っていますから 問うています。ご教示を願うにあたいすると思います。 虚数にかんしましては その比喩であるということに いささかの重要性を見ようとしています。 1. 複素数として 実数部と虚数部とがまとまっているかたちで 人格の全体にたとえられる。 2. それによって 《現実》部と《空想》部との区分もそのまとまりも 捉えられる。 3. というよりは このおっしゃった《現実と空想》とをひとまとめとした人間存在のあり方が そもそも大きく全体として《現実》だと見ているからです。 4. 《空想》というよりは 総括概念として《想像》であり しばしばそれが独り歩きするなら《空想》であったり《妄想》であったりする。そして特に もし実数部としての《社会性としてのまじわり》の部分がすでになんらかのかたちでゼロになってしまったとしたら そのときの独り歩きの想像世界は まさにモヤモヤ・ワールドになる。――比喩としてでも こういった全体としての現実における心的現象を見て取れるのではないか? 5. あるいはほかに この複素数なる全体としての《わたし》の現実が 数として一であるなら その自己表現は つねにその一の自乗としての動態であるとやはり比喩として言っています。 6. 虚数部を含んで どういうわけか《一》なるわたしの文体過程というわけですが もしそのとき実数部が社会力学のその力関係の錯綜する中で萎縮してしまったなら そしてゼロになってしまったなら わたしは 虚数部のみで生きることになる。その場合には おのれの文体過程として自己の同一性を取り戻したいので自己の自乗をこころみても(つまり わたしがわたしであろうとする自己の肯定をこころみても) せいぜいが虚数部の自乗として マイナス一になる。マイナスの自己表現にしかならない。 だから 相手にその意志が伝わらなくなる。社会性にとぼしくなる。――こういう事態についても 比喩として 明らかにしようとしています。 まとめますと (1) ひとの人格存在を《実数部と虚数部との合わさった複素数》としてたとえていること。 (2) その自己同一性を 数として一にたとえ 基本のあゆみは《虚数部を内に含みつつも 全体として 一であり つねに一の自乗として・またその連乗積なる一として過程し続ける》と見ていること。 (3) この(2)に付随することとして もし実数部がゼロになると 自己の自乗は マイナス一になってしまうと見ること。 ここらへんに その有益性を捉えようとしていますが ワヤですか?
- YaGhoogle
- ベストアンサー率22% (5/22)
「シュレディンガーの猫」の問題よりも遥かに現実離れの状態になっていませんか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうでしょうか。
- JidousyaGaisya
- ベストアンサー率23% (45/189)
判断の対称性が破れる過程の成立もが自発的に起きるのか否か、という難しい問題の解決が、此処では期待されていて、其の為に「虚数」の事例が使われているのでしょうか? 実際の思考の場合には、ジュリア=クリステヴァ氏の主張の通りに、間テクスト的に意味が絞り込まれていく、という過程を経由せねば、思考は纏まらないのではないでしょうか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 そんなことはないと考えます。 ☆☆(趣旨説明) まづ 推測がゆるされるとしたらのお話です。 推論をしめしてくださるのが いちばんでしょう。 わたくしがその矢を受ける気づかいはありませんが ソーカルの矢には痛手を負ったはずなんですが。
- FEX2053
- ベストアンサー率37% (7991/21371)
> ★ 向きません。 / 変な理解になる。 / 妙な事になる。 > 可能性をまったく否定しますというご見解でしょうか? ハイその通り。可能性を全く否定します。というのも「実数部も虚数部も数学的には確実に存在する概念」だからです。確実に存在し、その内容も数学的にきっちり定義出来るものを、現実の「良くわからない部分」に対応させるのは、どう考えても無理があります。例えば、あなたの考える世界で複素共役とか、交換法則など一連の法則が成り立ちますか? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E6%95%B0%E5%8D%98%E4%BD%8D http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E7%B4%A0%E6%95%B0 「数学的にどうだ」という問題が、現実世界の「どうあるべき」とごっちゃになることは、数学にも哲学にも幸せな事ではありません。 とはいえ、こう言うのは占星術と天文学のようなもので、双方が「領域を侵さない限り」両立できるものです。哲学的な事象を数学的にきっちり定義されているモノに置き換えて発想することが問題だ、と言っているだけで、「精神分析的思考に新しいパラメータを導入する」という質問者の発想そのものを否定している訳ではありません。というか、むしろ面白い発想ではないかと思います。
お礼
ふぇっくす2053さん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。 分かりました。ご説明をありがとうございます。 ともかく分野は分野としてはっきりと区別した上で 話をしなさいと。 精神分析は基本的に嫌いですので そうではないかたちで 心的現象を明らかに出来ないかということから出発していますが それは措いておきまして もし数論の世界を侵さないと言いますか 邪魔したりその成果を汚すことをしたりしないなら 区別を保って おのれの分野なりに考えて行けばよろしいと。こう受け取りました。 No.3でのやり取りで触れたのですが この場合の応用つまり借用は けっきょく《実数か虚数か》 この仕分けのみによって 人どうしの対話が《対話ないし問答になるかならないか》を捌くことになる。こういう単純な方程式になっています。 実際の人間は 誰でも多少のモヤモヤの世界をおのれの中に持っています。つまり虚数部です。(けっきょくその用語を借用しているだけのようなのですが)。でも ふつうの人なら その虚数部を自分の中に許容しつつも 社会的交通においては 相手との問答において 問いに対しては答え 答え自体を問いに変えて やり取りをつづけて行くかたちになります。つまり虚数部を含みつつも 実数部において相手とまじわって行きます。 これが言いたかっただけかも知れません。 あとは 仮りにですが 実数部をあたかも無くしてつまりゼロにして 虚数部だけで生きている状態が 起きないとも限らない。この問題提起にも触れていたかも知れません。 そういったところでしょうか。 もしこのようなジャンル別の区分や さらにその用語の応用は借用であるということ これらがはっきりとしてそのうえ議論がもし成り立つとしたならば ご投稿に感謝申し上げます。ありがとうございました。
- ok9608
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私には二つの問題を提起されていると思いました。誤解していたらご容赦を。 (1)一つは数学上の数字と他の分野での数字の意味はどう捉えたらいいのか(2)思考を複素数で説明できるのか。 (1)数学は数学の定義(公理)に従って演繹されたもので 数学という論理世界でのみ成り立っているものと思います。その数字なり数式なり結果を他分野では一つの言葉として使用(応用)しているものと思います。厳密に使用する場合は 例えば 数字であれば どのように説明対象と対応しているか を関係者が理解できるように十分に説明に説明する必要があります。例えばマイナス数字を 借金に対応するのは 分かり易いでしょう。ではマイナス電荷量という対象はどうでしょうか。十分に理解するためには 相当な説明と理解が必要とおもいます。が一度理解が成り立ちますと 使い勝手は非常にいいとおもいます。逆にいいますと 対象に数学を応用する場合 十分に説明がつくのならば(フィジカルミーニングが十分)何にでも 使用できると思います。 (2)思考を複素数に対応させ実数部を判断出力に虚数部を思案中(モヤモヤワールド)に対応させる という考えは 数字の説明が不十分と思います。例えば、実数部の数字は 思考判断の何に対応するのでしょうか。大きな声でYESといえば10で、反対に大きな声でNOといえばー10なのでしょうか。少数点以下はどう理解するのでしょうか。あるいは平方根、あるいはベキ乗はどう何に対応するのでしょうか。虚数部(モヤモヤワールド)については、実数の明確化があって 次の次の段階と思います。 と理解します。普通は このような複素数的思考は 諦めて 現実の判断は ことば思考を続けて いく場面と思います。というか無難と思います。 しかし、ここで重要なことは 思考を複素数に対応させ ことが出来るかもしれない と発言されたことです。フィジカルミーニングをどう構築していくか 興味はあります。 以上 参考までに
お礼
おうけい9608さん いつもご回答をありがとうございます。 そうですね。 無理を承知で と言いますか もともと比喩と表現の問題ですが ひととおり説明を重ねます。 それだけでもうだめだと言われかねませんが (2)の問題のほうからまいります。 ★ 実数部の数字は 思考判断の何に対応するのでしょうか。大きな声でYESといえば10で、反対に大きな声でNOといえばー10なのでしょうか。少数点以下はどう理解するのでしょうか。あるいは平方根、あるいはベキ乗はどう何に対応するのでしょうか。 ☆ 実数――あるいはつまり その数字の大きさや特定性というよりは そもそも実数であるということです――は 相手の問いに対する答えであることを指します。色よい返事かどうかにかかわらず 一般に論理的におよび人格的にあるいは社会情況的に妥当な内容を持つなら 《答えであるという条件を満たす》と捉えます。それが 実数です。 つまり イエスなりノーなりをはっきりと言えば 実数であるという捉え方です。さらにその中身としての数字・その大きさについては この段階では問いません。つまり 小数点以下いくつもゼロが並ぶようなか細いイエスであっても それがイエスであるなら 実数であり《答え》であり 対話を成り立たせる交通だと見なします。 ★ 虚数部(モヤモヤワールド)については、実数の明確化があって 次の次の段階と思います。 と理解します。 ☆ つまりは 上の意味における実数が確かなものであれば その実数であるとは認められない答え(と言いますかそのモヤモヤした態度ですね)は 虚数だと比喩的に捉える。 こういった単純な応用です。ですから たぶんこうであれば (1)の問題つまり数字(要するに 一定の数)と現実のものごととの対応の問題は 括弧に入れたままでの応用になるという寸法ですが いかがでしょう? ★ フィジカルミーニングをどう構築していくか ☆ あくまで《実数と虚数》との区別のみを比喩において応用したものですので そこまで残念ながら行っていないのでしょうね。 というよりも 素人としましては 人間論ないし交通論としての話のほうから 数論の比喩的応用は ここがだめ こうすればよいかも知れないといったアドワ゛イスはいただけないものでしょうか? 成っていないでしょうか。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
完全に空想上のものであれば、自乗したらマイナスになる 必要はありません。 原理的に「マイナス=相補分化的なもの」が、仮想的空間に 射影される(=自乗で作用する)事により、虚数化するのです。 つまり、我々の感受するこの世界(有限な性質=空間的広がり)が 虚像で、絶対化において無に還元される確率的実体の方が 本質的である証し。
お礼
ご回答をありがとうございます。 たぶん――たぶんですが―― 実数との対比において・もしくは複素数としての実数との組み合わせにおいて 見ていただくと 少しは違ったふうに見えるのではないかと思いましたが いかがでしょう? もう一点ですが ★ 本質と 虚像としての現象 ☆ この見方とは基軸が違うように捉えていますが その点は いかがでしょう? ただし――これも たぶんですが―― ★ 完全に空想上のものであれば、自乗したらマイナスになる必要はありません。 ☆ は そのようであるとうなづいたのですが ただしこの場合 マイナスになってもよいのかなとそのあと また思ったのです。その点 いかがでしょう? つまりマイナスになる場合のほうが 話として分かりやすいであろうと思われます。 そう言えば 話の中身については 何ら触れていただけないのですね。 いづれにしましても ありがとうございました。 * ★ 原理的に「マイナス=相補分化的なもの」が、仮想的空間に / 射影される(=自乗で作用する)事により、虚数化するのです。 ☆ このあたり もっとくだいて表現しうるものならば お願いしたいのですが どうでしょう? つまり想像の世界に浸っている場合 その世界だけにおける《わたし》の自乗つまり自己肯定のような行為は どうその表現の結果が現われるのか? こういった問い求めです。 ひょっとして マイナスになるかも知れない。むろん表現上のことですが(想像としての問題ですが) おもしろい現実の捉え方になるかも知れないと。
- FEX2053
- ベストアンサー率37% (7991/21371)
「虚数」は「数学的にそう言う単位を考えた方が、概念を成立させやすい」から作られたものです。 「数学的には実在するもの」ですから、哲学の世界で論じることは向きません。哲学の世界と数学と無理やり結び付けると変な理解になります。更に、数学的には「無限にも種類が合って一つ一つう大きさが違う」んですけど、これも哲学と結び付けると妙な事になります。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 向きません。 / 変な理解になる。 / 妙な事になる。 ☆ たぶんこれは 一般論だと思うのですが どうでしょうか? 可能性をまったく否定しますというご見解でしょうか? むろん 一義的に対応させることができるのではないかというような応用ではありません。そのことを前提にしていただいた上で 結論づけておられましょうか? いまひとつその全否定の根拠が分かりづらかったものですから お尋ねしました。 ありがとうございました。
お礼
ということですよね。――おうけい9608さん ご回答をありがとうございます。――こんな簡単・単純な話について 言ってはわるいですが いかに多くの虚数部=反自己表現としての反応が そこかしこに見られることでしょう。 そのむかし ばかの壁が流行りました。《ゼロ》で自分の耳をふさいでしまっていると 相手の話がまったく聞きとれなくなる。聞きとろうとしていない。という議論がありました。(その提唱者の思想は きらいですので 名前を出すことさえいやな感じです。専門の学識は 別なのでしょうが)。 この複素数交通論は 自己表現にかんする或る種のバカの壁になるかと思います。虚数部においてです。 なるほど ベクトルをも交えてたとえ話が出来るということですね。 ★ ~~~~~~~~ このような会話ベクトルが二つあるとします。二人の会話があった場合です。 これら二つのベクトルの始点を揃え 仕事量を考え、交角をみます。 直交すれば 仕事量は0であります。一つが実数部のみで片方が虚数部のみ の場合も もちろん 0であります。噛み合わない会話であります。 会話のイメージは正にお互い垂直壁に向かって話している感じでしょう。 ~~~~~~~~~~ ☆ つまり ★ これら二つのベクトルの始点を揃え 仕事量を考え、交角をみます。 ☆ というふうに説明を成すのが それとして正式な話になるのですね。 考えてみれば 人を腐らせるのに 大道具は要らないということになるようです。つねに垂直壁を自分〔たち〕の口に立てておけば そのターゲットになった人は ほとんど自然に腐って行くとさえ考えられます。干す・干されるといういぢめ現象でしょうか。その意味では 悪魔という言葉を使ってよいとさえ この場合にも 思われます。 ちょっと余談を添えましょうか。 またまたやはり考えてみればですが この質問においてもはや虚数部による唯我独尊なる回答に対しては うっちゃっておくことにしたのです。そうしたら そのような質問者(つまり わたしぶらじゅろんぬ)は 病気であるという投稿が 別の質問に寄せられています。 反自己表現ですよというわたし(ぶらじゅろんぬ)の――回答を打ち捨てておくという扱いをつうじて暗黙の内に伝えようとした――メッセージが その回答者たちのみづからの内面において受け取られるのではなく あたかもわたくしが鏡のようになってその鏡に映った内容として受け取られたようです。 つまり早い話が 《自分たちの落ち入っていた虚数部のモヤモヤ・ワールドは わたし=ぶらじゅろんぬの心の中にあると見ている》結果をもたらしたようです。 ★ 何度か言いましたように このような数学的表現は あくまで 比喩であります。定性的な感じが伝われば それで十分であろうとおもいます。 ☆ であると同時に コミュニケーションにおいて何がしかの道具になるようであります。案外 効果てきめんであるようにも思われます。 減らず口である上に いぢのわるい魂胆を露呈するお話をしてしまいましたが それもこれも――つまりその悪魔でさえ―― 人びとが虚数部の墓場からよみがえるための手だてに――神 嘉みしたまうならば―なること請け合いであると確信するからこそであります。 おうけい9608さんを巻き込んでしまったようですが 質問者としましては ひととおりの問い求めが出来たかと大いによろこんでおります。 むろんご批判のある方は これからでもさらにご投稿を寄せていただきたいと考えます。 ひととおりのまとめを得まして――たいへんありがとうございました―― いま少し開いていて様子を見つつ閉じることにします。