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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?)

虚数とは想像力の世界なのか?

このQ&Aのポイント
  • 虚数とは想像をめぐらしたその観念の世界である。
  • 虚数の世界にのみあることになる人は想像をめぐらしつづけている。
  • 現実の複素数なる文体が実数が消えて虚数のみによって成ると社会における交流が成し得なくなる。

質問者が選んだベストアンサー

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  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.35

No..26です。お言葉に誘引されて もう少し 考えてみました。 今の場合、ベクトルを複素平面で捉えること(平面的)は問題ないと思います。複素数=ベクトルとみなしていいとおもいます。実数部を主張の自己表現に対応させ 虚数部を反自己表現に対応させます。反自己表現は自己表現の放棄とします。 例えば 『私は金持ちになりたい』は 主張の自己表現ですが 主張になってない『紙は1グラムである』のような文語は反自己表現とします。この実数部(主張の自己表現)+虚数部(反自己表現)が 言葉として出てくる通常の会話であります。実数部の成分ベクトルと虚数部ベクトルで出力会話のベクトルが構成されていると考えます。  このような会話ベクトルが二つあるとします。二人の会話があった場合です。これら二つのベクトルの始点を揃え 仕事量を考え、交角をみます。直交すれば 仕事量は0であります。一つが実数部のみで片方が虚数部のみ の場合も もちろん 0であります。噛み合わない会話であります。会話のイメージは正にお互い垂直壁に向かって話している感じでしょう。  自己内部の『主張の自己表現』と『反自己表現』の関係も垂直壁イメージであります。 主張部分を抽出することにより反自己表現部が浮き彫りにされると考えます。自己言及としては十分なフィードバックがされ 主張の自己表現と反自己表現の関係が明確にされると思います。自己言及の後の モヤモヤワールドは 反自己表現です。 ざっと以上のように考えてむました。何度か言いましたように このような数学的表現は あくまで 比喩であります。定性的な感じが伝われば それで十分であろうとおもいます。 以上 参考までに。

bragelonne
質問者

お礼

 ということですよね。――おうけい9608さん ご回答をありがとうございます。――こんな簡単・単純な話について 言ってはわるいですが いかに多くの虚数部=反自己表現としての反応が そこかしこに見られることでしょう。   そのむかし ばかの壁が流行りました。《ゼロ》で自分の耳をふさいでしまっていると 相手の話がまったく聞きとれなくなる。聞きとろうとしていない。という議論がありました。(その提唱者の思想は きらいですので 名前を出すことさえいやな感じです。専門の学識は 別なのでしょうが)。    この複素数交通論は 自己表現にかんする或る種のバカの壁になるかと思います。虚数部においてです。  なるほど ベクトルをも交えてたとえ話が出来るということですね。  ★ ~~~~~~~~  このような会話ベクトルが二つあるとします。二人の会話があった場合です。  これら二つのベクトルの始点を揃え 仕事量を考え、交角をみます。  直交すれば 仕事量は0であります。一つが実数部のみで片方が虚数部のみ の場合も もちろん 0であります。噛み合わない会話であります。  会話のイメージは正にお互い垂直壁に向かって話している感じでしょう。  ~~~~~~~~~~  ☆ つまり  ★ これら二つのベクトルの始点を揃え 仕事量を考え、交角をみます。  ☆ というふうに説明を成すのが それとして正式な話になるのですね。  考えてみれば 人を腐らせるのに 大道具は要らないということになるようです。つねに垂直壁を自分〔たち〕の口に立てておけば そのターゲットになった人は ほとんど自然に腐って行くとさえ考えられます。干す・干されるといういぢめ現象でしょうか。その意味では 悪魔という言葉を使ってよいとさえ この場合にも 思われます。  ちょっと余談を添えましょうか。  またまたやはり考えてみればですが この質問においてもはや虚数部による唯我独尊なる回答に対しては うっちゃっておくことにしたのです。そうしたら そのような質問者(つまり わたしぶらじゅろんぬ)は 病気であるという投稿が 別の質問に寄せられています。  反自己表現ですよというわたし(ぶらじゅろんぬ)の――回答を打ち捨てておくという扱いをつうじて暗黙の内に伝えようとした――メッセージが その回答者たちのみづからの内面において受け取られるのではなく あたかもわたくしが鏡のようになってその鏡に映った内容として受け取られたようです。  つまり早い話が 《自分たちの落ち入っていた虚数部のモヤモヤ・ワールドは わたし=ぶらじゅろんぬの心の中にあると見ている》結果をもたらしたようです。  ★ 何度か言いましたように このような数学的表現は あくまで 比喩であります。定性的な感じが伝われば それで十分であろうとおもいます。  ☆ であると同時に コミュニケーションにおいて何がしかの道具になるようであります。案外 効果てきめんであるようにも思われます。  減らず口である上に いぢのわるい魂胆を露呈するお話をしてしまいましたが それもこれも――つまりその悪魔でさえ―― 人びとが虚数部の墓場からよみがえるための手だてに――神 嘉みしたまうならば―なること請け合いであると確信するからこそであります。  おうけい9608さんを巻き込んでしまったようですが 質問者としましては ひととおりの問い求めが出来たかと大いによろこんでおります。  むろんご批判のある方は これからでもさらにご投稿を寄せていただきたいと考えます。  ひととおりのまとめを得まして――たいへんありがとうございました―― いま少し開いていて様子を見つつ閉じることにします。

その他の回答 (47)

回答No.38

こんばんは、bragelonneさん。 あきまへん、さっぱりですわ。 垂直壁をイメージしようとすると 困ったもので、立て板をイメージしてしまいます。。。トホホ 立て板に水……流れる~流れる~ ここで、一句 “濁れる水のなかれつゝ澄む”   山頭火 俳句から何か出てきませんかね?

bragelonne
質問者

お礼

 あめですねぇ。ご回答をありがとうございます いつも いつも。  ★ “濁れる水のなかれつゝ澄む”   山頭火  ☆ どういうこっちゃ? 《流れつつ》(?)なら どういうこっちゃ。濁流ちがうのかな。  ★ 垂直壁をイメージしようとすると  ☆ って どうしてわざわざこちらからイメージするのかなぁ。  この質問が 垂直壁 ってなことは・・・ないよね。  まぁ 力量がまだあり余っているってことかな。  まだまだ さとる歳でもないって言われているのかな。  練られて磨かれる。きよらかに。  垂直壁なる悪魔が 神のゆるすところなりってのは そのお歳ころでは 考えられなかった わたくしは。  よのなか見えてくると さっぱりわやです。吊るし上げに遭っています。  (へへっ。そうとうたかぶっちゃって。おまえは へりくだるということを知らんのか? へぇー。知らんのです)。  (日曜日もおわり。また あたらしい一週間ですね りとるきすねえさん)。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.37

あ、もういいですよ。お好きなように、お好きなように。サイトを楽しんでくださいね。

bragelonne
質問者

お礼

 同じことを とは言えません。  欠席裁判への参加という再犯行為は いただけません。  つまり それをも お好きなようにとは言えません。  これは市民の当然の言い分です。  お止めするためでもありません。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.36

類推というのは、演繹的な作業なのです。 「虚数」という既存概念をあなたが経験的にイメージしていて、そこへ、あなたが経験的にイメージしている「人、《わたし》」という既存概念を類比させているでしょう。 その際に、法則性を照らし合わせるために、演繹の重要な過程を踏むのですよ。 この照らし合わせの際に、公理を不問に付しますから、非常に近眼視・視野狭窄的な特殊性にもとづいてダンスを踊っていることになるのですよ。 そして、それは、悪いことなのではなくて、もしも類推が鋭く本質的であればそれだけ双方の経験的なイメージに洗練をかけ、虚数と《わたし》なら、虚数の理解、《わたし》の理解が、経験的にとどまったところから飛躍的に深化するはずなのです。 この質疑でokさんが類推のお手伝いをしているのは質問者にとって喜ばしいことです。それは、質問者の経験的イメージの停滞が、okさんの経験的イメージによって飛躍できるからです。 そうして類推は、ただ、自身の内的なイメージ深化や自己発見を本人において促すものです。 しかし、目的を履き違えて、共有されうる客観的普遍性に届く発見があると考えるとしたらそれは大変な誤りです。 それを可能的にのみ示唆するのは、詩の仕事です。 >《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )となる。 > これでは 社会における交通(まじわり)が成らない。成し得ない。 > という憶測としての発見をきょう得ました。 これがどこに着地しますか、と先のほうで書きましたね。 論としてどこにも着地しないということを、よく考えてもらいたいと思います。 しかしながら質問者から、アブダクションだという主張が上がりました。 まさに、ささやかなもやもやした思い付きであり問いを発さない、実務界に流行を見たアブダクション概念そのものの質問内容であると思いますが、 論理的推論における論法を比較したうえで「回答者の勘違い」と判子を押しながらアブダクションと言われてしまいますと、 はたして、一件の明証を俟たれる事実や具体物について、その明証性に代えて、公理をもちいて立てる仮説によって言明する、という作業をアブダクションだと思っているわたしは、教えるのが親切かなと思ってはみますが、どうですやら。 以下が、類推の説明です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC アブダクションの理解の一助に、論理的推論のやや簡潔すぎる具体例を挙げます。 しかし例示のような自然現象よりも、医学や建築学などわかりやすい体系をもつ範疇において功を奏するつまり結果を出せるという点が、肝心だと思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E7%90%86%E7%9A%84%E6%8E%A8%E8%AB%96

bragelonne
質問者

お礼

 まづ 質問についての答えになっていないと申し上げねばならないでしょう。  ご投稿には感謝しますが 趣旨説明やこれまでのお礼欄での応答説明についての答えにもなっていない。この意味です。  ひとつに あなたの議論は その扱う主題が すでに自分が前もって内容を規定したものとなっています。自分で勝手にまぼろしの内容を描いておいて それをたとえばこのわたくしの質問趣旨であると決めつけているそれだけの議論です。そのためだけの議論です。  あなたの批判している主題内容とわたくしの趣旨説明の内容とが同じであるということを証明しなければ話が始まりません。  ふつうなら こんなことはあり得ません。回答を寄せるというのなら 相手の言い分を捉えてから始めるのは当然です。   個々の小結論についてそれぞれひとつの例示が必要でしょう。むろん相手の文章もしくはその要約をきちんと引き合いに出すという意味です。三回にわたって その手続きが皆無です。   わづかにこちらの使った言葉である《仮説法(アブダクション)》を 自分の文章の中に用いた。これだけに終わっています。しかもその仮説法の解釈は 自分の定義を述べただけであり 相手のそれとの照らし合わせもせず あとは 自分の定義をあなたも用いなさいと押しつけているだけになっています。  わたしが仮説法についてきわめて簡単な図式でしか説明していないのは それはあなたの文章の中にすでにその図式から捉えられる内容と一致する考え方があったからです。  ★★(回答No.16)=(あ) 結論を予め前提に代入すると、自己完結・予定調和による珍妙な充足感があるのかもしれず。  ★★(回答No.25)=(い) ご質問の内容は、結論と前提が自家撞着しているので、 / 瞬間湯沸かし的に発生した一文の思い付きを、代入遊びで書き換えてひとつことを言うという形になっています。  ☆ すなわち 結論を先に・つまり何の根拠もなく論証もせずに真っ先に提示するという仮説法による筋の運び方を 上のように勘違いしている。このようにも説明しましたし そのおぎないとして演繹法などとの対比を示した図式をも用意しておきました。  ほんとうは 批判者の側がとうぜんのごとくおこなわねばならない《相手の定義や言い分を間違いなく捉えているというその確認を みづからの文章においても復唱しつつ 怠らない》という作業を こちらからわざわざながら しておきましょう。  つまり そちらの仮説法の定義を こちらのそれと突き合わせておくという作業です。次がその定義です。  ★(う) はたして、一件の明証を俟たれる事実や具体物について、その明証性に代えて、公理をもちいて立てる仮説によって言明する、という作業をアブダクションだと思っている〔わたしは・・・〕  ☆ たぶん《事実や具体物》というところが 理解しづらいところでしょう。たぶんと言ったのは 《明証性》あるいは《明証を俟たれる》という表現をどう捉えたらよいか はっきりしないからです。  じつは この定義を大目に見れば〔じつは〕わたしのすでにおこなっている仮説法の用い方と何ら違いはないと言えます。  またそのことは 上に取り上げた(あ)や(い)の規定とも同じ内容だと言ってもよく そこでの《自家撞着》や《瞬間湯沸かし器》といった余分な用語を取り除くならばそのように言えると思われるからです。  (う)の規定内容にこだわろうと思えば こうです。たとえば《明証性に代えて》という表現がどうして出て来るのか これが不可解だからです。とうぜん《初めに結論として仮説を提示し そのあと その仮説の妥当性を 抽象的な理論としてまとめるかたちにおいてもまた具体的な現象について検証するかたちにおいても 示して行く》というとき そこで《明証性に代えて 公理をもちいて立てる仮説によって言明する》とわざわざ初めの作業をふたたび繰り返すということは おかしいからです。  そもそも《事実や具体物》についてその《明証性》といったことを先に前提として持ち出す あるいはその《明証が俟たれる》と言って作業の最後まで作業する人のあたまに課題として持たれている――こういったことは どこかおかしい。  自己表現をして行くにあたって その自己の意志や心のありかを――むろん確かに事実認識にもとづきその事実認識を資料として提示しつつですが――表わすことが どうして《事実や具体物の明証性》やらと殊更かかわらせねばならないのか?  上に《じつは》と言って示したように この(う)の定義はそれとして寛大に扱うなら用を成します。成しますが ようく考えるなら 表現のあり方がどうも飲み込めるものではない。そういうこだわりをいまは述べています。  仮りに明証性があるとするなら その事実や具体物について初めに言明した仮説は 《明証性に代えて》 提示したわけではありません。仮説の提示のあと 明証性について検証するのです。それが 思索であり論考です。この質問のばあい ok9608 さんがその大半をやってくれました。(回答No.3&14&26)。わたしの文章をふくめて 社会における日常の生活としての人びとの経験やその感覚に頼るという――その検証においての――玉に瑕があったかも知れませんが それは そのあとでも批判を俟つ・批判に俟つという作業を怠っているわけではありません。  つまり言いかえるなら この質問での問い求めは ひとつの筋としてすでにそこまでの中身の進展が得られています。しかもそれを踏まえることなく そもそも《まぼろしの主題を思い描いてそれが 質問者の仮説の内容であるから 批判する》という物言いをなおもつづけている。  これがまさに虚数部単独の立ち挙がりによる自己表現であるという所以です。ふつうに相手に答える答えとしての実数部がない。そして あるように見せかけている。見せかけの連続で 批判つまり対話を成り立たせていると言い張っている。  見ている人にはあるいは これでも話し合いが成り立っていると見る向きもあろうかと考えますが じつにかすってもいません。そこのところを じっくりと考えることをおすすめしておきましょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~  >《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )となる。  > これでは 社会における交通(まじわり)が成らない。成し得ない。  > という憶測としての発見をきょう得ました。  これがどこに着地しますか、と先のほうで書きましたね。  論としてどこにも着地しないということを、よく考えてもらいたいと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このあと《仮説法》を引き合いに出して反論があったと言っていますが・つまり  ★ しかしながら質問者から、アブダクションだという主張が上がりました。  ☆ と言ってさぞ話がかみ合っていると見せかけようとしていますが 何ら話になっていません。じつに《どこに着地するのか》について詳細にこちらは 答えているからです。長くなるので引用はしません。No.16お礼欄です。  ことほどさように 話をはぐらかす。初めっから はぐらかしで成り立っている。つまり 虚数部おばさんです。その観念の王国が打ち建てられているとすれば 女王であるのかも知れません。そのみづからの姿を しっかりと把握するようにつとめるのが まづここから始めるべき第一歩なのでしょう。  ★ 論理的推論における論法を比較したうえで「回答者の勘違い」と判子を押しながらアブダクションと言われてしまいますと、  ☆ せっかくその内に返り見る機会をそれとなく与えるべく《勘違い》と言ってはみたものの むなしさが消えなかったごとく すべてはわるいほうの予想どおりに ことがすすんでいます。  ★ この照らし合わせの際に、公理を不問に付しますから、非常に近眼視・視野狭窄的な特殊性にもとづいてダンスを踊っていることになるのですよ。  ☆ 《公理を不問に付す》ということは 事実上《公理にのっとって考えをすすめている》ということです。公理とはそういうものです。自由意志 良心・信教の自由 表現の自由などなどというのが 内容です。  《照らし合わせ》をいっさいしていないのが あまがっぱさん あなたです。あなたに合わせて しかもおとづれを受けたならまづはこちらだけが《ダンスを踊って》やっているということです。  もうひとこと 助言しましょう。《近視眼うんぬん》ではなく たしかに《遠視眼的および視野肥大的な特殊性にもとづいて まだ気づいていないダンスを踊っている》のが あなたです。  たぶんこのような最後の締めくくりがまだなお必要であったのかも知れません。あったのでしょう。だから まだブロックする気は起こらなかったのです。天の配剤。  このあとは どうなりましょうか。わたくしも 力量に限界があります。あるようです。限界があるという力量 これを示す場合も 人間の世の中にはあるようです。  ★ 類推というのは、演繹的な作業なのです。  ☆ 自由な対比です。しかもそれは 不明瞭な寓喩です。ここはそれでよいと言っています。数論とは切り離して 比喩を見つけて捉えそれとして現実世界に当てはめたというだけのものです。  自由な対比からは 帰納法的にさらに推論をすすめる場合もありましょう。演繹というのは どうでしょう。別に類推したことがらを 大前提に置いたというわけのものでもないでしょう。大前提でもない事柄から 演繹するという見方は どうでしょう。  用語は その場での適宜性が大事です。

回答No.34

こんばんは、bragelonneさん。   「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」 助詞 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E8%A9%9E#.E6.A0.BC.E5.8A.A9.E8.A9.9E イメージで教える日本語の格助詞 http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/~sugimura/achivement/pdf/026.pdf イメージで教える日本語の格助詞と構文 http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/~sugimura/achivement/pdf/045.pdf 論文名 http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/~sugimura/achivement/achivement.htm 数理基礎論 http://www.sm.u-tokai.ac.jp/~sugita/Classes/Kyouyou/kisomain.pdf 十進BASIC による複素変換のイメージ化 http://izumi-math.jp/M_Sanae/s_rpt_2/s_rpt_2.PDF 社会的分散認知システムとしてのCMC ―電子空間はどこに存在するか― http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/413pdf/03-02.pdf

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」  ☆ あなたには――あっ まづは りとるきすねえさん こんばんは ご回答をありがとうございます―― 山が見えましたか? くっきりと 白い山が?  もう少しでしょうか? わたしにも。  ▲ (数理基礎論 pp.12-13) ~~~~~  http://www.sm.u-tokai.ac.jp/~sugita/Classes/Kyouyou/kisomain.pdf  1.4 複素数  1.4.1 虚数の発見  次に複素数について説明しよう。方程式 x2 = -1 の解は「ない」で実用上は問題が起きない。面積を 負にするという問題はどこからも出てこないからである。したがって,初めから数学者が理論的に複素数を考えたのではない。実際に歴史上でも,メソポタミアの数学では現在我々が学ぶ2 次方程式の解法が知られていたが、負の数の平方根は初めから議論の対象になっていない。インド数学でも同様である。  このことは,負の数や分数が初めから日常生活に密着して考えられたことと本質的に同じである。ところが,次のような例が現れて,複素数の存在を認めないと矛盾が解決できなくなった。  初めに,3 次方程式 x3 = 3px+2q の解が  x = 3√q +√q2 - p3+ 3√q -√q2 - p3 であることを注意する。(詳しくは後で説明する) 所で,  x3-7x+6 = (x-1)(x-2)(x+3) = 0 の解は 1, 2,-3 であるが,定理に代入すると p = 7/3, q = -3 なので、根号の部分が  √(-3)2 - (7/3)3 =√9 - 343/27 =√-100/27  となり,実数を拡張した数を考えないと解が存在しないことになり矛盾を生じる。  *(ぶらじゅ註) 数式における根号が コピーペーストでは正確には表わ    されません。原文にあたってみてください。  1.4.2 複素数の定義と計算  実数を拡張した数を考えるとは,実数の計算と同じ計算規則を持っていて、実数を含むものでなければ ならない。多項式の扱い(記号計算法) を理解していれば、記号 i を使った 1 次多項式に i2 = -1 という規則を追加した数という考えは容易に理解できるものである。この数を複素数と名付けた。即ち、複素数は a + ib (a, b : 実数, i2 = -1) と表され,多項式として計算することを定めた数である。 ib は虚数と呼ばれる。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ イメージとして 虚数を思い浮かべるには行かないようですが その生成して来たわけについて説明しているようです。  さて 世界は騒然として来たでしょうか? 雑然とでしょうか?  何かの臨界に達したでしょうか?  このあと何が起こると見ますか?  富士山が見えたとしたなら ぢゃぁあとは ニッポン晴れでしょうか。  たのしいかもね。  どうですか?

回答No.33

皆様の誤解が残りますといけませんので、前回の質問を思い浮かべました。 従いまして、安易にうっちゃると誤解を助長しかねないでしょうから、 次の内容を盛り込ませて、「虚数」についての説明を行なって頂けないでしょうか。 http://okwave.jp/qa/q6695986.html

回答No.32

仏教的な「空」の概念と【空っぽ】の状態との相違を意図しているのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご投稿をありがとうございます。  何のことでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 回答No.23&27におけるやり取り つまり質問者からの応答について 見過ごすようでしたら ふつうにまともな回答者とは認められなくなります。

回答No.31

http://twitter.com/#!/iTerwtt_bot/statuses/67344908448579584 此処の指摘は教科書的な誤りを含んでいますか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご投稿をありがとうございます。  ★ 教科書的な誤り  ☆ ということは 教科書的なただしさがあるということでしょうか。  そんなことは わたしの知ったことではありませんので うっちゃっておきます。  あしからず。    というよりも けっきょく回答になっていない投稿です。  これを重ねるのであれば 考えます。

回答No.30

(^O^)/ども 悪名高きモヤモヤ・ワールドって?(^_^;) 頭カッカしてくると… 湯気たちのぼる… メラメラ ゆらゆら ってアレですか?ーーーーーゆらぎの時空

bragelonne
質問者

お礼

 ようこそ ねえさん。ご回答をありがとうございます。  ★ 悪名高きモヤモヤ・ワールドって?(^_^;)  ☆☆(趣旨説明欄) もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  ☆ つまり村上春樹の本の中の世界のことです。そこでの結論は あたまの中は モヤモヤでもいいから そのままにして仕事にあそびに生活を送って行けというものだと見立てています。  そのあたまの中の世界のまま相手との会話をするなら それは自分があたかもマイナス人間になっているみたいであろうと見積もったところです。どうでしょうか?  ★ ってアレですか?ーーーーーゆらぎの時空  ☆ ってアレですよ。たゆたえども沈まずというところの航海術のことです。複素数ゆえに。  って端折っちゃったかな。

bragelonne
質問者

補足

 おぎないです。  次のような問いについても ご教示をもとめています。つまり数論としての問いです。  ☆☆(No.15お礼欄) ~~~~~~~  じつは 虚数とは何か この問いにもまだ――交通論の反面で―― 未練はあります。どういうイメージでとらえたらよいか そういう問いです。  数学カテでしたかで こういう回答を読みました。つまり 直線上に原点ゼロを取って位置づけたプラス一の地点を想像裡において あたかも雲に乗っけて 立たせる。直角に立った状態が 虚数単位の i であると。これをさらに 初めのプラス一とはちょうど反対側の直線上の地点に着地させる。そうすると そこが マイナス一の地点であると。  数式としてなら    +1 × i ⇒  +1 × i^2 =  +1 × (-1) = -1  こういうイメージでよいでしょうか? という問いも 未練として持っています。  ~~~~~~~~~~~~

回答No.29

実際に触っても分かる存在とイメージとの両方が認識の行為者と違って対象になるのではないですか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★★(回答No.23) 虚数から神の良い匂いが醸し出されている、という見方  ★ 実際に触っても分かる存在とイメージとの両方が認識の行為者と違って対象になるのではないですか。  ☆ よく分かりませんが 或る程度こうではないかと推し測ったところを箇条書きにしてしるしてみます。  (1) もし《神の良い匂い》について触れるのでしたら――それは きわめて文学的な表現に落ち入ったものですが もしそうするとしますと―― いまここで扱っている《虚数部》は それが単独分立したなら 《神の良い匂い》があたかも悪魔の匂いもしくは死の香りとしてかもし出されている状態であろうと思われます。  (2) 神の良い香りでありつつ――つねにそうでありつつ―― 現象としては虚数部の独自のモヤモヤ・ワールドは 悪魔の匂いもしくは死の香りとして起きていると考えます。もっともそれは むしろその虚数部を自己表現に用いている当の本人にとってという意味合いが濃いのですが。  (3) ちなみに きわめて単純にたとえれば 実数部における自己表現は 生命から生命に到らせる生命の香りです。  (4) ここで《対象になる》のは すべてです。特に何かに限られるということはないと考えます。  《実際に触っても分かる存在》も《イメージ》も そして《認識》も《認識の行為者》も例外なくすべてが 香りにかかわって《対象になる》と見るのですが どうでしょう?

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.28

No..14です。 今の時間しか応答できないもので遅くなりました。ベクトルについてお尋ねなので 若干の解説を。 複素数でもベクトルでも 数学的比喩として借用しているだけで 対応を深く考えても 別途 あらたな探求手段が開発されない限り  あまり深い意味は得られないとおもいます。  二つのベクトルを比べる場合、加算(減算も含まれる)か 掛け算(内積か外積)か考えられます。 交通の場合、二人の間の仕事発生と 私は捉えました。すると 数学的にはベクトル長の掛け算とCOS(θ) (θは交わる角度)の掛け算です。するとθ=0°の時(同方向)、最大仕事になります。仕事量はベクトル長の掛け算になります。θ=180°の場合は 仕事量はマイナスになります。マイナスの理解ですがお互い 同じ方向の意見に従った仕事とは 逆のものです。相手の反意見を取り入れた結果に対応したものとしました。絶対量は ベクトル長の掛け算です。 θ=90°の場合(直交)の場合、ベクトル長には 関係なく 仕事量は0なのです。お互い好き勝手を好きなだけ言ったとしても結果は0仕事なのです。まったく噛み合ってない意見交換です。この場合の直交の意味ですが ベクトルを平面で捉えると90°or 270°しかないのですが 立体(3次元)で考えると 直交を保つ二つの立体的ベクトル(独立ベクトル)が現れます。この例えは 噛み合わない議論は何通りもある ことに対応させたらいいのではないか とおもいました。モヤモヤワールドの問題は そのことを相手に説明しても現実ではないとか単なる想像とか妄想とか と思われ 会話が噛み合ってない ことだと思いました。 また今の場合 ベクトルの成分分析の対応までは ご指摘のように 不必要かもしれません。 自己肯定は入力をうけた内部のベクトル演算のなかに十分なフィードバック機能があると考えればどうでしょうか。ここでは機能の成分分析まではいらないと思います。 二つのベクトルの加算も考えられますが、これは簡単な挨拶程度の応答に対応かと思います。または 加算は むしろ 個人の内部思考に対応するかも知れまいと思いました。交通をどう捉えるでいかようにでもなるのですが、私は二人の仕事と考えました。外積は次元の違うパワーを生む場合で今回は相当しないとおもいました。 複素数にしてもベクトルにして 単なる比喩なので 定性的に感じを理解すればいいと思います。それを深く追求しtも比喩以上のモノは出てこないとおもいます。 以上 大変失礼しました

bragelonne
質問者

お礼

 おうけい9608さん お早うございます。貴重なお時間を割いてご説明をいただきまことにありがとうございます。  ベクトルの掛け算になりますと ポカンと口を開けざるを得ないていたらくです。  まづ話の大前提として この問い求めに関するかぎりで  ★ 複素数にしてもベクトルにして 単なる比喩なので 定性的に感じを理解すればいいと思います。それを深く追求しても比喩以上のモノは出てこないとおもいます。  ☆ ということであろうと確認します。  ここで比喩には 次の二点を借用しています。  (あ) 実数部と虚数部との区分を保とうとしていること。  すなわち何々であるかという問いに対して 《然り 何々である》または 《否 何々でない》のいづれかで答えるという応答を実数部とし そしてそのようなかたちの答えを表わさないですべてを迂回させようとする内容によって応答するかたち これを虚数部と呼ぶ。これら両者から成る広く自己表現のあり方を 交通論において捉えようとしている。  (い) 応答としての虚数部は それがその人の主観の内で 想像力をたくましくして描いた観念の世界として持たれているあいだは 問題はない。  それが ひとつに実際の応答にあたって実数部を凌駕して押さえ込み ひとつにおのれの虚数部だけで自立しうると夢見た果てに ひとつに交通の主体である《わたし》もその虚数ワールドを自己と見なすとき そのようにして成った独立虚数部を肯定したとするならそのときには あたかも虚数の自乗が現出するかのように 《わたし》はマイナス一〔掛ける k 倍〕となって自己表現するかたちになる。  (う)〔=(あ)のむすびの部分〕 人間は その自己表現のかたちにおいて この実数部と虚数部とを足し合わせた複素数のような姿を一般には取ると考えられる。  〔空観において一切が空だと観るとき この複素数存在とその自己表現がなくなるということではない。虚数部もそして実数部もすべて 存在関係および行為関係の錯綜する連鎖から成ると見ると言っている。縁起共生だと言う。その現象そのことは それとして現実に起きていると見ている。そして中で特に実数部は 必須である。  なぜなら たとえばこのような空観を伝えるにも 中核となる実数部は欠かせないからである。不立文字は それが分かってからの話である〕。  さて 交通論の中身ですが  ★ 仕事量  ☆ この観点からもしくはその局面について 分析されたのですね。互いのベクトルが直交するなら 成果は ゼロであると。かみ合わない。いかにベクトル長の中身に捨てるにはしのびない味わいがあっても 互いの交わりとしては ゼロとなると。  そうしますと まさに交わる角度が問題になると言っていいでしょうか。  ということは――というふうにガデンインスイに走りますが―― この角度 θ は けっきょく直角の関係になるときなのだそうですが じつは 応答において然りか否かを明示する実数部の消えてしまったゆえにあたかも〔おうけい9608さんの造語なさった〕《垂直壁》として屹立する虚数部だけの自己表現 これなのだと帰結することになると言えませんか?  あるいはモヤモヤ・ワールドなのですから けっきょくその答え(または答え方)が のっぺらぼうになってしまっているのだと。顔がない。実数部を時には補助の役目でありながら活かすことさえあると思われるところの表情がない。  あるいは仮りにその虚数部はむしろ衒学という言葉もあるように 観念の帝国であるという様相を呈しているそういうエンパイアーであるかとも見られます。いわゆる観念体系(イデオロギー)も この例に入りましょうか。  あるいは 神は宇宙の法則だぁとしきりに唱えているその呪文とさらには念力のサンクチュアリーも まさに虚数部の唯我独尊であるかと見られます。  もしこの仮説に立ってその方程式を用いるなら もし実際において相手が虚数部のみによって応答して来たなら その旨を――実態としても明らかにしてやりつつ――伝えたなら あとは 放っておくことができるというものです。省エネ対話法の出来上がりです。   1. 人間存在は 自己表現である。   2. その文体として 動態である。   3. この文体は 複素数のすがたを取る。   4. 実数部と虚数部とから成る。   5. 実数部とは 互いにその自己表現の内容を批判しあう行為である。   6. 虚数部とは 互いの批判(つまり同感をふくむ)を成さない場合の自己表現だ。   7. 虚数部による単独分立は 自己放棄である。自己表現の放棄である。   8. それはわづかに 《いま・そこにいる》というわたしの現存在性によってのみ 現実にとどまっている。   9. 虚数部による単独運転は 交通違反である。互いのベクトルは直交し 協働の成果はゼロとなる。   10. 虚数部人間は 放っておくより仕方がない。人間以前の状態にある人間である。  ★ 自己肯定は入力をうけた内部のベクトル演算のなかに十分なフィードバック機能があると考えればどうでしょうか。  ☆ これは 自己同一性の保持として(つまりわたしがわたしであろうとする文体の中核作用として) 基本であろうと思われます。思われますが他方では その意志決定ないし意思表示のあり方として 虚数部に片寄ったりしたら 交通に差し障りが出て来る。こういうふうに両側面を見なければならないのではないでしょうか。  大枠の《自己肯定》のはたらき――《自己組織化》のようなものでしょうか?――と そのときにも《わたし》の自由意志によるへそ曲がりが割って入ることがありうるという実際問題とだと思われます。  ★ ~~~~~~~~~  二つのベクトルの加算も考えられますが、これは簡単な挨拶程度の応答に対応かと思います。または 加算は むしろ 個人の内部思考に対応するかも知れまいと思いました。  交通をどう捉えるでいかようにでもなるのですが、私は二人の仕事と考えました。  外積は次元の違うパワーを生む場合で今回は相当しないとおもいました。  ~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。《加算》の場合には 入力した材料(つまり 相手の発言内容)について吟味も加工もしないということでしょうか。つまりあるいは そういう内部思考をもしほどこすとした場合には それでもそのあとの出力において あたかも相手に対してその相手の反応がどうであれもうそのまま通じて行くものと思い込んでいる場合でしょうか?  とは言うものの この《内積》についてもわたしは あやふやなままものを言っています。《外積》については 何やらわが身は宇宙遊泳に入ってしまうかというお話のようです。  質問者のそういう状態について申し訳なく思い おわびします。そこのところをなおていねいに説明したいただき感謝申し上げます。ありがとうございます。  たぶん まとめのお言葉をいただけるのではないかと横着にも思っております。