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虚数とは想像力の世界なのか?
- 虚数とは想像をめぐらしたその観念の世界である。
- 虚数の世界にのみあることになる人は想像をめぐらしつづけている。
- 現実の複素数なる文体が実数が消えて虚数のみによって成ると社会における交流が成し得なくなる。
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No..26です。お言葉に誘引されて もう少し 考えてみました。 今の場合、ベクトルを複素平面で捉えること(平面的)は問題ないと思います。複素数=ベクトルとみなしていいとおもいます。実数部を主張の自己表現に対応させ 虚数部を反自己表現に対応させます。反自己表現は自己表現の放棄とします。 例えば 『私は金持ちになりたい』は 主張の自己表現ですが 主張になってない『紙は1グラムである』のような文語は反自己表現とします。この実数部(主張の自己表現)+虚数部(反自己表現)が 言葉として出てくる通常の会話であります。実数部の成分ベクトルと虚数部ベクトルで出力会話のベクトルが構成されていると考えます。 このような会話ベクトルが二つあるとします。二人の会話があった場合です。これら二つのベクトルの始点を揃え 仕事量を考え、交角をみます。直交すれば 仕事量は0であります。一つが実数部のみで片方が虚数部のみ の場合も もちろん 0であります。噛み合わない会話であります。会話のイメージは正にお互い垂直壁に向かって話している感じでしょう。 自己内部の『主張の自己表現』と『反自己表現』の関係も垂直壁イメージであります。 主張部分を抽出することにより反自己表現部が浮き彫りにされると考えます。自己言及としては十分なフィードバックがされ 主張の自己表現と反自己表現の関係が明確にされると思います。自己言及の後の モヤモヤワールドは 反自己表現です。 ざっと以上のように考えてむました。何度か言いましたように このような数学的表現は あくまで 比喩であります。定性的な感じが伝われば それで十分であろうとおもいます。 以上 参考までに。
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- amaguappa
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>《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )となる。 > これでは 社会における交通(まじわり)が成らない。成し得ない。 > という憶測としての発見をきょう得ました。 「なにものかの実にたいする虚ろにして成らなさの表れである《わたし》を虚数とするなら、 《わたし》とは自乗するとマイナス1になるものすなわち虚数であり、社会におけるまじわりを成さない」 という話が、どこに着地しているというのですか。 結論を予め前提に代入すると、自己完結・予定調和による珍妙な充足感があるのかもしれず。 着地できないことがらでも、ふさわしい話し方は、たくさんあるでしょうに。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 着地できないことがらでも、ふさわしい話し方は、たくさんあるでしょうに。 ☆(1) 《着地できない》というよりも――確かにここでは《ことがら》についての扱いではありますが―― 《わたし》が着地させない というところに問題を見ています。 (2) 言いかえると このいまの仮説において虚数部があたかも自然におのづからモコモコと湧いて出て来るというのではないと見ています。 (3) 一方でこの虚数部をおのれの意志によってそれとして膨らませて行く。他方で 実数部の発言をあいまいにし あやふやにするようになる。これが 《わたし》が話を着地させないという実態です。 (4) 繰り返しですが 一方で相手とのやり取りにおいて相手の問いに実数部としての然りか否かで答えるということをしないようにし 他方で自己の内ではその想像力にものを言わせて観念のモノガタリをそれが帝国にまで発展するほどに膨らませて行く。 (5) このとき 自分はモヤモヤ・ワールドの覆いを着ているような恰好になり 相手に対してはそのワールドでよいという自己肯定を為すなら対話においてあたかもマイナス一の状態になる。 かろうじて その《いま・そこにいる》というわたしが人間であるということのみによって現実性を維持している状態になる。 (6) ですから 《相手とのあいだで話を着地させないという鎖国政策にあっては ふさわしい話し方は、たくさんあるでしょうにではなく モノガタリが豊饒であるにもかかわらず その現存在性(《そこにいるわたし》)のほかにはいっさい見つからない》という見方になります。 こういったところに 仮説の話は着地しています。 すなわち(5)や(6)などにおける鎖国政策が実際にどういうコトであるのか なぜ相手に対してあたかもマイナス一の状態になるのか そういったあたりを確かにみなさんに問うています。それが 虚数を引き合いに出したゆえんです。 ★ ・・・ふさわしい話し方は、たくさんあるでしょうに。 ☆ の《ふさわしい話し方》の事例を示していただくのも 手っ取り早い解決法でありましょうね。いっさい無いとこちらは見ているのですから。
この問題はコミュニケーションについてが主題で、いかに正当なコミュニケーション、意思疎通が行われるのかといったことを問うているのかなと思いました。 実数、虚数の喩えの意味はわかってきました。その利益はまだ?ですが。 ただ、次の三行はわかりませんでした。 >《いま・そこにいる》というだけの現実性 これが――死ねば―― 消えます。というよりは 消えつつも 消えていながらむしろ生前よりもいっそうあざやかに感じられるようになる。そういった側面があるようです。 上の文章の意味をもう少し説明してください。 正当なコミュニケーションが成立する基のところは信頼であると思います。おそらく、言葉の正確さや適切な用法といったものに根幹があるのではないでしょう。それらが重要であることは間違いではないですが、根幹ではないと思います。多少わかりづらい自分専用語を使っていたとしても、相手の目指す所を察してを信頼することができれば、後は言わんとするところを咀嚼するだけです。妄言が頻発するようなコミュニケーションにおいてさえ、相手の望みに人間ゆえに共感することができれば、言語以上の普遍性を獲得することになります。そのようなものが基盤になってコミュニケーションが行われるのであるでしょう。従ってこの問いを追求すれば人間にとっての普遍なるものに行き着くのかなと思いました。それは、善や徳ではないでしょう。神や覚りでもないでしょう。もっと切実で、真の実像とも言うべき『ひとのすがた』があるのではないかとも思えます。それは我々の真の姿でもあるでしょう。それを客体化できたときに初めて、本当の自己理解が為されるのかもしれません。
お礼
おっしゃるとおりです。――ご回答をありがとうございます。――コミュニケーションについての問い求めであり 交通論です。 じつは 虚数とは何か この問いにもまだ――交通論の反面で―― 未練はあります。どういうイメージでとらえたらよいか そういう問いです。 数学カテでしたかで こういう回答を読みました。つまり 直線上に原点ゼロを取って位置づけたプラス一の地点を想像裡において あたかも雲に乗っけて 立たせる。直角に立った状態が 虚数単位の i であると。これをさらに 初めのプラス一とはちょうど反対側の直線上の地点に着地させる。そうすると そこが マイナス一の地点であると。 数式としてなら +1 × i ⇒ +1 × i^2 = +1 × (-1) = -1 こういうイメージでよいでしょうか? という問いも 未練として持っています。 * さて 交通論です。 ★ ~~~~~ 正当なコミュニケーションが成立する基のところは信頼であると思います。 おそらく、言葉の正確さや適切な用法といったものに根幹があるのではないでしょう。それらが重要であることは間違いではないですが、根幹ではないと思います。 ~~~~~~~ ☆ おそらく――ここでも 対立するのですが―― 《信頼》は 結果であると見ます。 コミュニケーションが成り立つかどうかは 《問いに答えているかどうか》による。《問いに答えているかどうか》は 然りか否かをはっきりと明示することだと見ます。その意味での意志表示いかんなのだと。 二つ以上の選択肢から選ぶような問いの場合には 選択肢の一つひとつについて 然りか否かの意志決定およびその意志表示の問題であると見ます。 あれかこれかの問いに対して あれもこれもという答えを出す場合にも その答えについて然りか否かを明確に示すことが 問題なのだと。 然りと否とのあいだで迷う場合 そのときには時間をくれたまえとことわって まだ決められないと答える。 これを《実数部》という言い方でたとえているわけですが この実数部が明らかに示されるならば 問答は成り立ち 交通は発展すると見ます。その積み重ねをつうじて 互いにシンライ関係も得られることになりましょう。 そうなれば ★ ~~~~~~~~~ 多少わかりづらい自分専用語を使っていたとしても、相手の目指す所を察してを信頼することができれば、後は言わんとするところを咀嚼するだけです。 妄言が頻発するようなコミュニケーションにおいてさえ、相手の望みに人間ゆえに共感することができれば、言語以上の普遍性を獲得することになります。 そのようなものが基盤になってコミュニケーションが行われるのであるでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ と。さらに再掲しておきましょう。 ★ ~~~~~~~ 従ってこの問いを追求すれば人間にとっての普遍なるものに行き着くのかなと思いました。 それは、善や徳ではないでしょう。神や覚りでもないでしょう。もっと切実で、真の実像とも言うべき『ひとのすがた』があるのではないかとも思えます。 それは我々の真の姿でもあるでしょう。 それを客体化できたときに初めて、本当の自己理解が為されるのかもしれません。 ~~~~~~~~~ ☆ これは みなさんでさらに話し合って行ってください。 * ★ ~~~~~ >《いま・そこにいる》というだけの現実性 これが――死ねば―― 消えます。というよりは 消えつつも 消えていながらむしろ生前よりもいっそうあざやかに感じられるようになる。そういった側面があるようです。 上の文章の意味をもう少し説明してください。 ~~~~~~~ ☆ いや 生前には その人がすぐそばにいてもその現存在性が必ずしも こちらの自覚として 伝わって来ていなかった。けれども死に際して あざやかなほどに浮かび上がって来たという実感を持つことがあるでしょうという議論です。消えてしまったがゆえに 感じられるというような。 (ほんとうは それではだめなのですけれど。でもその生前においても持たれるべき自覚を持った場合にもそれをさらに上回って死後となっては その感覚は大きいのではないでしょうか)。感慨のようなものですが。
- ok9608
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No.3です。交通論に比喩的に数学を借用するには 何がいいのか 少し考えてみました。ピンボケかもしれません。ご容赦を。 ヒントは心理物理学で用いるベクトルあるいは多成分分析です。心理物理量とは物理量の刺戟を人間に与え(入力)します。すると その入力に対応して 人間は何かの答え(出力)をだします。その答えを 一つのベクトルとして そのベクトルの構成因子を多成分分析するというものです。 交通論として 入力(発言、主張)としては あるベクトルに相当させます。このベクトルも多成分分析されます。この入力各成分に対して人間の各成分ごとの出力をだし トータル出力のベクトル(発言、主張)をみるのです。入力ベクトルと出力ベクトルをみます。これらベクトルがどのようになっているか、です。両ベクトルの原点をそろえ ベクトルの大きさと 角度であります。交通論は 入力と出力の相乗する仕事と見做せないことはないと思います。角度、大きさ により、+、0、-になります。0の理解は両ベクトルが直交している場合です。出力はされているのですが 全く噛み合わない場合です。直交ベクトルは一組だけではなく無数にあります。これは モヤモヤワールドの世界です。個々のモヤモヤワールドに対応して 人間の応答の仕方(固有の関数)でいくらでも創ることができるのです。その関数は 入力の各成分を分析して それら成分に対する答えをみれば 決まります。比喩としては 線形空間で対応できる ようにおもいます。 +は 相乗して仕事ができている場合であり、-は 入力とは逆の仕事(その人から説得させられた)に相当する のではないか と思います。 実数、虚数あるいはそれらの自乗の意味づけとくらべて どうでしょうか 以上 参考までに。
お礼
ううーん。分析視角や分析の対象物が錯綜しているように――ご回答をありがとうございます―― いまわたしには感じられていますが どうなんですかねぇ。 べクトルをめぐって わたしなりに解釈すれば このようになります。 (1) 対話においてひとまとまりの発言がそれぞれ ベクトルとなる。 (2) 一方が問いを出せば この問いが出力のベクトルであり これを相手が聞き取れば ベクトルを入力したことになる。 (3) ベクトルであるゆえに その中身について構成因子がありその多成分分析を行ない得る。 (4) この多成分分析は それとして必要に応じて つねに一人ひとりにおいても互いのあいだでも 成されるものであろう。 (5) 出力ベクトルと入力ベクトルとのあいだに差があると分かった場合 その対話がさらに展開する過程においておそらく 二つないし三つの結果が現われる。 (6) ひとつに たとえ差があっても 互いのベクトルがちょうど自由に対等であるかたちにおいて相乗効果を発揮する結果を得るという場合。これは プラスの結果を得る場合である。 (7) マイナスの結果になる場合というのは それなりに結果を出しているのだけれど その場合には一方の側が他方の出力ベクトルによって《説得されている》という様相を呈している。 これは どうなんでしょう けっきょく説得されたと言っても その人も相手の側のベクトルにまで力量を伸ばせばそれですでに直ちに自由に対等になるのとちがいますか? どうでしょう。 (8) 結果が ゼロになる場合。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 0の理解は両ベクトルが直交している場合です。出力はされているのですが 全く噛み合わない場合です。 直交ベクトルは一組だけではなく無数にあります。 これは モヤモヤワールドの世界です。個々のモヤモヤワールドに対応して 人間の応答の仕方(固有の関数)でいくらでも創ることができるのです。 その関数は 入力の各成分を分析して それら成分に対する答えをみれば 決まります。 比喩としては 線形空間で対応できる ようにおもいます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これはさらに詳しいご説明をお願いすることになると思うのですが いかがでしょう。 (9) わたしの単純な理解では 相手の出力ベクトルを それを受け取った側がその入力ベクトル〔およびそこからの自分の答えとしての出力ベクトル〕によってかき消している場合であると見られます。 相手の出力ベクトル(つまり問いや主張としての発言)が プラス m であれば それに応答する側の入力⇒出力のベクトルが マイナス m であるというかたちを 推定します。 モヤモヤ・ワールドなる《わたし》を肯定した・つまり自乗し 自乗して出力したとき それはマイナスの状態となって表現されるのではないかと。 (10) もし自己表現としての出力べクトルが マイナスとなって現われるとすれば それはたとえば虚数という概念を引き合いに出すのも あながち的外れではないように思われます。その対比では 好い結果を得る場合は 実数部が活きているのだという見方になります。 (11) 重ねて言うことになりますが 《自乗》という概念もこの際 必要です。 一般にふつうに物思いにふけっているという意味で虚数部の世界にある場合は 特に問題はないわけです。 これを――片や 実数部を無くしてしまってまで――単独でふくらませてさらにこれを おのれの命だというまでに自己の自己であることのシルシとしたりするなら その自己肯定は わたしの自乗であるのだと見られます。そういう問題が起きると見ます。 (12) 多成分分析のその構成因子については触れませんでしたが その成分がひとまとまりになったのが 出力や入力のベクトルですから このベクトルをめぐって扱っているぶんには いま特に必要ないかとも思います。 さあ どうなりますか わたしには まづここまでですが。
もう、わかんにゃいw 文章序盤からわからず、後半まで読んで更にわかりませんでした。。 >ひとの意志決定をめぐってたしかな区分を示すかどうか とは一体どういう意味合いなのでしょうか。その意思決定が現実を示唆するものなのか、想像の範疇であるのかと言う意味でしょうか。。 ついていけない感が満載ですが、一つ一つ紐解いてみようかなと思ったりもしています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 イエーィ。光波さんが 戸惑うのを見るのも いとたのし。 ★ その意思決定が現実を示唆するものなのか、想像の範疇であるのかと言う意味でしょうか。。 ☆ もしこの問いに対して あんた そうは言っても《現実》とは何か 《想像》とはどういうことか そういう言葉の定義をまづしておかねば話は始まりませんよとか何とか言って そういった話を 延々とああたらこうたら言い続けたとしてみてください。 それが 虚数部における想像行為であり はっきり言えばすでに精神錯乱です。いつまで経っても 実数部が現われて来なければ そうなります。 はい その意志決定および意志表示が 現実であることを表わします。もしくは 人と人とのあいだに意思疎通が成り立ったという現実を表わします。 こういう答えをいつまで経っても しないとすれば――つまり延々と 能書きを垂れ続けるとすれば―― それは 意志表示が成されず 意思疎通が成り立たず きわめて閉鎖的なタコツボのごとくの・その意味での《想像の範疇である》と見るものです。 これを 実数部と虚数部とで区別するというねらいがあります。 なお 人間存在というのは じつに先ほどの精神錯乱に落ち入ったとしても だから実数部での自己表現が成され得ない状態に落ち入ったとしても その存在じたいで人間でありますから 《いま・そこにいる》というだけで じつは大きく広くは《現実》である。こういう見方も 基礎にあり それをないがしろにすることは出来ない。こうも考えております。 この人間存在としての・それだけとしての現実というのは 単に実数部としての現実性に閉じ込められることなく 言わばその境位ないし境地としての存在であり 現実だと見ます。そういう意味での《存在と死》ですね。 《いま・そこにいる》というだけの現実性 これが――死ねば―― 消えます。というよりは 消えつつも 消えていながらむしろ生前よりもいっそうあざやかに感じられるようになる。そういった側面があるようです。 ★ 一つ一つ紐解いてみ ☆ てください。
もう、わかんにゃいw 文章序盤からわからず、後半まで読んで更にわかりませんでした。。 >ひとの意志決定をめぐってたしかな区分を示すかどうか とは一体どういう意味合いなのでしょうか。その意思決定が現実を示唆するものなのか、想像の範疇であるのかと言う意味でしょうか。。 ついていけない感が満載ですが、一つ一つ紐解いてみようかなと思ったりもしています。
お礼
ご回答をありがとうございます。どちらかが消されましょうから 返答をどちらにも掲げておきます。 イエーィ。光波さんが 戸惑うのを見るのも いとたのし。 ★ その意思決定が現実を示唆するものなのか、想像の範疇であるのかと言う意味でしょうか。。 ☆ もしこの問いに対して あんた そうは言っても《現実》とは何か 《想像》とはどういうことか そういう言葉の定義をまづしておかねば話は始まりませんよとか何とか言って そういった話を 延々とああたらこうたら言い続けたとしてみてください。 それが 虚数部における想像行為であり はっきり言えばすでに精神錯乱です。いつまで経っても 実数部が現われて来なければ そうなります。 はい その意志決定および意志表示が 現実であることを表わします。もしくは 人と人とのあいだに意思疎通が成り立ったという現実を表わします。 こういう答えをいつまで経っても しないとすれば――つまり延々と 能書きを垂れ続けるとすれば―― それは 意志表示が成されず 意思疎通が成り立たず きわめて閉鎖的なタコツボのごとくの・その意味での《想像の範疇である》と見るものです。 これを 実数部と虚数部とで区別するというねらいがあります。 なお 人間存在というのは じつに先ほどの精神錯乱に落ち入ったとしても だから実数部での自己表現が成され得ない状態に落ち入ったとしても その存在じたいで人間でありますから 《いま・そこにいる》というだけで じつは大きく広くは《現実》である。こういう見方も 基礎にあり それをないがしろにすることは出来ない。こうも考えております。 この人間存在としての・それだけとしての現実というのは 単に実数部としての現実性に閉じ込められることなく 言わばその境位ないし境地としての存在であり 現実だと見ます。そういう意味での《存在と死》ですね。 《いま・そこにいる》というだけの現実性 これが――死ねば―― 消えます。というよりは 消えつつも 消えていながらむしろ生前よりもいっそうあざやかに感じられるようになる。そういった側面があるようです。 ★ 一つ一つ紐解いてみ ☆ てください。
- codotjtp
- ベストアンサー率26% (40/149)
>決まっていたら こうして苦労などしないと思いませんか? 本当に苦労なのですか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/NaN
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★★(回答No.8) ~~~~~~~~ >虚数としてかんたんに誰でも言えるのですよ。 お尋ねになる前に答えが決まっていませんか。 ☆☆(同上・お礼欄) ~~~~ 決まっていたら こうして苦労などしないと思いませんか? ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そして今回: ★ 本当に苦労なのですか。 ☆ 前回と今回のあいだに何かつなぎが要りませんか? 飛躍し過ぎではありませんか? 《苦労》という言葉じたいは 言葉のあやであるに過ぎません。 飛躍しすぎていませんか?
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
#10の者です。 >最後のほうの《非光速性》というのは ふつうの《光速性》を >勘違いなさったのではないかといぶかるのですが 超弦理論において、全ての素粒子は、量子の振動状態として 導かれました(言い換えれば、プランク定数(h)から、あらゆる 物理定数を導いた)。 量子=光子であり、全ての存在は本質的に光速で運動しており、 「量子>クォーク>原子>分子>細胞>認識体」といった、階層 現象表面性に付随して、非光速性を幻出しているのです。 (過去(超光速=虚数エネルギー=記憶=時間的流れ)と未来 (光速下=正エネルギー=予測=空間的広がり)の相補分化)。 我々の環境認識が、感受器官の表面の量子相互作用パターン による予測に還元されるように、また非光速性(=有限的存在性)は、 光速性(ライトコーン=仮説的時空への無の射影)へと還元されるのです。
お礼
ご回答・ご説明をありがとうございます。 ★ 非光速性(=有限的存在性) ☆ あぁ えぇ つまりわたしは 《光速のもとにある経験世界性》のことを《光速性》と呼んでしまっていたのでした。すみません。 《とうぜん光速で走る光のもとでその生がいとなまれる世界における存在性》のことを言いたかったのでした。 ★ ~~~~~~~ 我々の環境認識が、感受器官の表面の量子相互作用パターン による予測に還元されるように、また非光速性(=有限的存在性)は、 光速性(ライトコーン=仮説的時空への無の射影)へと還元されるのです。 ~~~~~~~~ ☆ よろしかったら お答えください。 (1) 《環境認識》であれば その《予測》だけではなく ふつうに《知覚》あるいは《認識》はなされないのですか? (2) 《表面の量子相互作用パターン》は 予測のためにだけある特殊なものを言っていましょうか? (3) 知覚も認識もおこなわれるがすべては 《予測に還元される》のですか? (4) 認識体〔かつ意志行為体だとも思うのですが〕である有限存在つまりいまこの場合 人間は 《光速性(ライトコーン=仮説的時空への無の射影)へと還元される》ことを認識し得るのですか? (5) ぎゃくにもっと突拍子のないことを想像すれば 人間は光速を超えられないのですか? (6) 《仮説的時空》という限りでは 人間もその存在や生きる動態が 仮説的時空そのものなのではないのですか? (7) ★ ~~~~~ 量子=光子であり、全ての存在は本質的に光速で運動しており、 「量子>クォーク>原子>分子>細胞>認識体」といった、階層 現象表面性に付随して、非光速性を幻出しているのです。 ~~~~~~~~ ☆ というふうに順序をぎゃくにして立ち到ったのですが ここでは ★(7‐1) 全ての存在は≫本質的に≪光速で運動しており ★(7‐2) ≫階層現象表面性に付随して≪、非光速性を幻出しているのです。 ☆ とうかがいます。勝手に括弧を付して 対比をさせたのですが まづ(4)について重ねてお尋ねするべきだと思います。その光速での運動体であることの本質を 人間は認識し得るものですか? (8) あるいは冒頭に書きましたように 《光の飛ぶこの世界に生きる人間は 光速性を持つという表現を得る》ことは あり得ますか? あり得ませんか? (9) その上でお尋ねしたいと思います。(5)ぎゃくにもっと突拍子のないことを想像すれば 人間は光速を超えられないのですか? (10) 量子=光子よりも 《階層現象表面性に付随して、非光速性を幻出している》認識体である人間のほうが 自由であるという命題は 妥当ですか? つまり (9)=(5)の問いです。 すみません。ただ厄介なだけかも知れないのですが お気に召したなら おしえてください。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
#2の者です。 「虚数」という字面に引きずられていませんか? 虚数といっても、演算上は実数と全く変わりなく、逆に虚数 から見れば実数が虚数になる、即ち正確に言えば「互いに 虚数関係にある」と言うべきものです。 それらは0でのみ重なります。 0、即ち仮説的時空において、空間軸に対して虚数の時間軸 との等距離点に表れる“0の面”、その名もライトコーン=光の 描く面(=過去と未来を分ける)でもあります。 原理的に超弦(量子振動)=光速に還元される本質性を、 階層現象表面的に捉える事(仮想的)で派生する非光速性 (光速下=未来=予測と超光速=過去=記憶)の境界としての 界面原点。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 「虚数」という字面に引きずられていませんか? ☆ 想像の数( imaginary number )であるにもかかわらず《虚数》と翻訳したのですよね? つまりそれを逆手に取って 《虚》という文字(つまりその意味)には 引きずられています。虚構(フィクション)というときの《虚》との連絡がよさそうですから。 今回のご回答は 内容が専門的でわたくしの理解が浅いという事由によっても 分かりにくいです。それだけではなく たとえば次のような事情をご理解なさらないようにしていませんか? ☆☆(No.9お礼欄) ~~~~ ★ 二乗すればマイナスになるという虚数の特性の意味 ☆ むろんこれは 数論から離れてまったく自分勝手に解釈しなおして取り上げています。 《わたしがわたしであろうとする自己肯定》のことを自己の自乗という言い方で 勝手に言い表わしています。しかも そのとき数論における《 虚数 i の自乗がマイナスになる》という部分だけは こちらに都合良く 採り入れています。怪物をこしらえるような借用となっています。それだけのことです。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりあくまで《数論の取り決めを応用している もしくは勝手に借用しているだけ》という事情です。またそれゆえこの質問は あくまで哲学のそれです。けっして 数学にかんする問いを出しているのではありません。そういう事情です。 ★ ~~~~~~ 虚数といっても、演算上は実数と全く変わりなく、逆に虚数 から見れば実数が虚数になる、即ち正確に言えば「互いに 虚数関係にある」と言うべきものです。 ~~~~~~~~ ☆ これはたぶん 《本質と現象》といった見方からの批評であるかと思うのです。その座標軸のほうへ話を持って行ったあとの議論であるのではないか? ここでは 《人と人との交通において コミュニケーションないし対話が成り立つか》という問いから出発しています。そしてこの質問では 《自由意志ないしその実際の発動いかん》を ひとつの判断基準として採用しました。言いかえると 《意志表示がなければ 対話は成り立たない》という命題を前提にすることにしました。 そのために 意志表示のあることによって対話が成り立つという場合の鍵を握るのが 《実数部》であると――この段階では勝手に――取り決めました。したがって 意志の表明を行なわない自己表現の場合を《虚数部》と規定したことになります。 虚数部による――内面にその意志がとどまってしまうところの想像裡における――自己表現は 対話を成り立たせない。こういう規定もしくは命題を導き出したのでした。そこでは 自己の肯定として《わたし》の自乗をしても その結果がマイナスになる。というその部分は 好いとこ取りとして 数論から引っ張って来ています。分かりやすいと思われるからです。 昔の夫婦のあいだでは 夫は お茶とメシと風呂のほかはしゃべらなかったと言います。でもこれが 虚数部の想像であるのではなく 実数部におけるコミュニケーションを成り立たせているとすれば どういう事由が考えられましょう? その文脈(つまり夫婦という状態ないし情況)もかかわっているでしょうが それは おそらく《実数部プラス虚数部》としての人間存在が 大きく広く《現実》であるという大前提によるものではないでしょうか? つまり何が言いたいかと言えば 複素数なる境位が 人格の基礎を受け持つということであり それは しかしながら 逆の見方から言って《虚数部》だけによっては コミュニケーションは成り立たないということ。このことではないでしょうか? 虚数部としてのモヤモヤ・ワールドをたとえ頭の中にかかえていたとしても 実数部として意志表示をすれば 何の問題もない。また たとえ虚数部の想像や妄想であるとしか思えないような言い回しで意志表示をした場合にも 文脈や過去の経験事例からして実数部が活きていると分かれば 全体として互いに人格としての境位において対話は成り立つということ。 人間の現実とは こういうあり方をしているのではないか。と問うています。 わたしは鉄面皮ですから無理解を承知で言うとしますが 次のご回答内容にちなんで言って この《いま・ここなる〈わたし〉の現在時》というのは すべてである。世界のすべてである。あらゆる時空間である。宇宙大である。と見なせませんか? 鍵をにぎるのは 実数部であり 実数部と見なされるだけで 大いなる現実を構成するのだと。ぎゃくに言えば 虚数部だけでは 現実から遠ざかると。 ★ ~~~~~~~ それらは0でのみ重なります。 0、即ち仮説的時空において、空間軸に対して虚数の時間軸 との等距離点に表れる“0の面”、その名もライトコーン=光の 描く面(=過去と未来を分ける)でもあります。 原理的に超弦(量子振動)=光速に還元される本質性を、 階層現象表面的に捉える事(仮想的)で派生する非光速性 (光速下=未来=予測と超光速=過去=記憶)の境界としての 界面原点。 ~~~~~~~~~ ☆ 最後のほうの《非光速性》というのは ふつうの《光速性》を勘違いなさったのではないかといぶかるのですが どうですか? もし《非光速性》を持ち出すのでしたら それは とうぜん《実数部+虚数部》としての複素数なる存在もしくは要するにこの経験世界 この経験世界を超えている非経験のことではないでしょうか? しかもその非光速性もしくは非経験は この経験世界の到るところに遍在している。と想定される。といったふうにです。 ただし この非光速性の現実性は じつに――むしろ《現象》論としての――《実数部》にこそある。とも 議論を伸ばして捉えるのですが いかがお考えになりましょう? つまり《いま・ここなる〈わたし〉》です。なぜなら すべては この《わたし》の無限の自乗としての動態であると考えられるからです。つまり この《主観》が世界であると。わづかに《主観》どうしのかかわり及びまじわりのほうが 実際には重きを置かれるべき場である。 さらに噛み砕いたご説明をできるものでしたら 願いたいところです。
>(1) ひとの人格存在を《実数部と虚数部との合わさった複素数》としてたとえていること。 (2) その自己同一性を 数として一にたとえ 基本のあゆみは《虚数部を内に含みつつも 全体として 一であり つねに一の自乗として・またその連乗積なる一として過程し続ける》と見ていること。 (3) この(2)に付随することとして もし実数部がゼロになると 自己の自乗は マイナス一になってしまうと見ること。 >ここらへんに その有益性を捉えようとしていますが ワヤですか? 以上の文章は、 1)人格存在は、現実部と想像部の合わさったものとして成り立っている。 2)現実部と想像部を合わせた形において、人は自己同一性を保っている。 3)もし人が現実から乖離、或いは現実部を脱落してしまえば、残るのは想像部のみとなってしまい、それはもはや幻想や妄想の類となって、他者との交流に役立たないばかりか、むしろ害悪のものとなってしまう。 という文章で表すことはできないのでしょうか。 実数、虚数に喩えることでかえって話がわかりにくくなっているのでは無いかと言うのです。 二乗すればマイナスになるという虚数の特性の意味、意義と、マイナス=害悪であると言う一般のイメージとは、まったく異なるものなのではないか。そこら辺が錯綜しているのかなとも思います。 私には、実数、虚数を持ち出すことの有益性があまり認められません。ただ無闇に文章の意味を不明瞭にしてしまっているだけなのではないかと感じました。
お礼
ご回答をありがとうございます。 鍵語は 意志決定ないしそれにもとづく《意志表示》にあります。 おっしゃるところの《現実部と想像部》との区分が ひとの意志決定をめぐってたしかな区分を示すかどうか これはどうでしょうか? これを特に示すために 《実数部と虚数部》という表現を用いています。 ★ ~~~~~~~~~~ 3)もし人が現実から乖離、或いは現実部を脱落してしまえば、残るのは想像部のみとなってしまい、それはもはや幻想や妄想の類となって、他者との交流に役立たないばかりか、むしろ害悪のものとなってしまう。 ~~~~~~~~~~ ☆ なぜ幻想や妄想ではいけないのか 他者とのまじわりにおいて現実性が失われさらには害悪をもたらすものになるのか それは交通において意志の表明がしっかりと成されているかどうかにかかっていると言いたいためです。 たとえば《想像部》のみであっても 文学作品は まさに虚構としていちおう社会の中で受け容れられ その作品の発表によってあたかも交通が成り立っていると受け取られているかと思われます。むろん作り話は作り話であるという了解があるのですが もしそのような虚構世界と同じような《想像部》における――それとしての―― 一般の人びとによるそれぞれの言説が いちおう社会的な発言であり対話であると受け取られたなら どうなるか? こういう問いを含みに持っているとお考えくださるとよいかと思います。 《現実部と想像部》との区別だけでは そのような意味合いを示すのはむつかしい。こう考えるのですが どうでしょう? ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~ まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。 たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ もしこれが《想像部》という言葉で表わした日には ああだこうだ うんにゃ 何がかにだ かにが何だとと永遠に《さとり》論議がつづくものと思われます。そういう現実の問題に対処するために 虚数という用語を用いようと考えました。《 imaginary number 》つまりそれゆえ i ではあるのですが。 ★ マイナス=害悪であると言う一般のイメージ ☆ これは 一般性を持ちますか? たとえば正負の愛ということをわたしは言いますが そのときは ふつうの愛情とふつうの憎悪のことです。もし仮りにマイナスの愛である憎悪が 《害悪》であるという意味を持つとすれば それは 第一次の規定のそのあとに第二次として帯びるニュアンスなのではないでしょうか? もしくはたとえば うらみや嫉妬は たしかに一般にマイナスのイメージでありさらには害悪のイメージをも帯びるかとも思いますが それは そうだとしたら 認識間違いによるものだとわたしは見ます。どうして人に自然に起きる感情が その初めから《害悪を帯びる意味でのマイナス》となるのでしょう? とうぜん自己表現の動態として その《わたし》を確かなものとしてたしかに前へあゆませる一因としての心的現象であるに過ぎない。はずです。(ブディズムのよいところにも触れておかねばならないとしたら これは 《空観》のよさであるはずです)。 ところが まじわりがあっても(つまり相手を目の前にしているのではあるが)対話ができない。または しない。発信はするが相手からの受信は あたかも鎖国政策を取るかのように 受けつけない。こういう状態は シンドロームと言ってもよいほどであり それは 実数部を無くしてしまいただ虚数部のみで想像はしているという状態だと見るのです。しかも虚数部において発信している。交通が成り立っていると思い込んでいる。という診断をしています。 この症候群をかかえつつもそして実数部がたとえゼロになっていたとしてもなおその全体としての人間存在であるなら 人格の基体でありつづけるなら その人は或る種の仕方でなお《現実》でありましょう。このとき もしそうではなく実数部を表現だけとしてでも現実部だというふうに規定してしまうなら 《実数部プラス虚数部から成る全体》としての現実が あやふやになってしまいます。 ★ 二乗すればマイナスになるという虚数の特性の意味 ☆ むろんこれは 数論から離れてまったく自分勝手に解釈しなおして取り上げています。 《わたしがわたしであろうとする自己肯定》のことを自己の自乗という言い方で 勝手に言い表わしています。しかも そのとき数論における《 虚数 i の自乗がマイナスになる》という部分だけは こちらに都合良く 採り入れています。怪物をこしらえるような借用となっています。それだけのことです。
- codotjtp
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>虚数としてかんたんに誰でも言えるのですよ。 お尋ねになる前に答えが決まっていませんか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 決まっていたら こうして苦労などしないと思いませんか?
お礼
ということですよね。――おうけい9608さん ご回答をありがとうございます。――こんな簡単・単純な話について 言ってはわるいですが いかに多くの虚数部=反自己表現としての反応が そこかしこに見られることでしょう。 そのむかし ばかの壁が流行りました。《ゼロ》で自分の耳をふさいでしまっていると 相手の話がまったく聞きとれなくなる。聞きとろうとしていない。という議論がありました。(その提唱者の思想は きらいですので 名前を出すことさえいやな感じです。専門の学識は 別なのでしょうが)。 この複素数交通論は 自己表現にかんする或る種のバカの壁になるかと思います。虚数部においてです。 なるほど ベクトルをも交えてたとえ話が出来るということですね。 ★ ~~~~~~~~ このような会話ベクトルが二つあるとします。二人の会話があった場合です。 これら二つのベクトルの始点を揃え 仕事量を考え、交角をみます。 直交すれば 仕事量は0であります。一つが実数部のみで片方が虚数部のみ の場合も もちろん 0であります。噛み合わない会話であります。 会話のイメージは正にお互い垂直壁に向かって話している感じでしょう。 ~~~~~~~~~~ ☆ つまり ★ これら二つのベクトルの始点を揃え 仕事量を考え、交角をみます。 ☆ というふうに説明を成すのが それとして正式な話になるのですね。 考えてみれば 人を腐らせるのに 大道具は要らないということになるようです。つねに垂直壁を自分〔たち〕の口に立てておけば そのターゲットになった人は ほとんど自然に腐って行くとさえ考えられます。干す・干されるといういぢめ現象でしょうか。その意味では 悪魔という言葉を使ってよいとさえ この場合にも 思われます。 ちょっと余談を添えましょうか。 またまたやはり考えてみればですが この質問においてもはや虚数部による唯我独尊なる回答に対しては うっちゃっておくことにしたのです。そうしたら そのような質問者(つまり わたしぶらじゅろんぬ)は 病気であるという投稿が 別の質問に寄せられています。 反自己表現ですよというわたし(ぶらじゅろんぬ)の――回答を打ち捨てておくという扱いをつうじて暗黙の内に伝えようとした――メッセージが その回答者たちのみづからの内面において受け取られるのではなく あたかもわたくしが鏡のようになってその鏡に映った内容として受け取られたようです。 つまり早い話が 《自分たちの落ち入っていた虚数部のモヤモヤ・ワールドは わたし=ぶらじゅろんぬの心の中にあると見ている》結果をもたらしたようです。 ★ 何度か言いましたように このような数学的表現は あくまで 比喩であります。定性的な感じが伝われば それで十分であろうとおもいます。 ☆ であると同時に コミュニケーションにおいて何がしかの道具になるようであります。案外 効果てきめんであるようにも思われます。 減らず口である上に いぢのわるい魂胆を露呈するお話をしてしまいましたが それもこれも――つまりその悪魔でさえ―― 人びとが虚数部の墓場からよみがえるための手だてに――神 嘉みしたまうならば―なること請け合いであると確信するからこそであります。 おうけい9608さんを巻き込んでしまったようですが 質問者としましては ひととおりの問い求めが出来たかと大いによろこんでおります。 むろんご批判のある方は これからでもさらにご投稿を寄せていただきたいと考えます。 ひととおりのまとめを得まして――たいへんありがとうございました―― いま少し開いていて様子を見つつ閉じることにします。