※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?)
虚数とは想像力の世界なのか?
まづ 推測がゆるされるとしたらのお話です。
( あ ) 虚数は 現実とどうかかわっているのか?
この問いから出た考え(推測)ですが その名のとおりに
( い ) 虚数とは 《想像をめぐらしたその観念の世界》である。
と言えるものであるのか? これが質問です。おしえてください。
*
さらに推測を交えた世界に入りますが 趣旨説明を述べます。
まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。
たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。
ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?
たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況は相手からその答えを求められ決断をも迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。
つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( bi )とで構成される複素数( a+bi )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?
いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?
いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。
もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。
言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。
《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として・つまりやはり一でありつつ また多少そこから脱線しても元の一に戻りつつ 生きる。
ところが 現実は 複素数である。かも知れない。虚数の動きが 心に忍び込んで来るのかどうなのか 起きる。おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。
自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。代わりに ひょっとするとその想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭の中にあそぶかのような時空間をすごすということかも知れない。
もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?
《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )となる。
これでは 社会における交通(まじわり)が成らない。成し得ない。
という憶測としての発見をきょう得ました。
ご教示ください。
* おまけもしくは余分:
悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?
余計でした。つまり《さとり》についてのゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるのですよ。
ご教示を願います。
お礼
ということですよね。――おうけい9608さん ご回答をありがとうございます。――こんな簡単・単純な話について 言ってはわるいですが いかに多くの虚数部=反自己表現としての反応が そこかしこに見られることでしょう。 そのむかし ばかの壁が流行りました。《ゼロ》で自分の耳をふさいでしまっていると 相手の話がまったく聞きとれなくなる。聞きとろうとしていない。という議論がありました。(その提唱者の思想は きらいですので 名前を出すことさえいやな感じです。専門の学識は 別なのでしょうが)。 この複素数交通論は 自己表現にかんする或る種のバカの壁になるかと思います。虚数部においてです。 なるほど ベクトルをも交えてたとえ話が出来るということですね。 ★ ~~~~~~~~ このような会話ベクトルが二つあるとします。二人の会話があった場合です。 これら二つのベクトルの始点を揃え 仕事量を考え、交角をみます。 直交すれば 仕事量は0であります。一つが実数部のみで片方が虚数部のみ の場合も もちろん 0であります。噛み合わない会話であります。 会話のイメージは正にお互い垂直壁に向かって話している感じでしょう。 ~~~~~~~~~~ ☆ つまり ★ これら二つのベクトルの始点を揃え 仕事量を考え、交角をみます。 ☆ というふうに説明を成すのが それとして正式な話になるのですね。 考えてみれば 人を腐らせるのに 大道具は要らないということになるようです。つねに垂直壁を自分〔たち〕の口に立てておけば そのターゲットになった人は ほとんど自然に腐って行くとさえ考えられます。干す・干されるといういぢめ現象でしょうか。その意味では 悪魔という言葉を使ってよいとさえ この場合にも 思われます。 ちょっと余談を添えましょうか。 またまたやはり考えてみればですが この質問においてもはや虚数部による唯我独尊なる回答に対しては うっちゃっておくことにしたのです。そうしたら そのような質問者(つまり わたしぶらじゅろんぬ)は 病気であるという投稿が 別の質問に寄せられています。 反自己表現ですよというわたし(ぶらじゅろんぬ)の――回答を打ち捨てておくという扱いをつうじて暗黙の内に伝えようとした――メッセージが その回答者たちのみづからの内面において受け取られるのではなく あたかもわたくしが鏡のようになってその鏡に映った内容として受け取られたようです。 つまり早い話が 《自分たちの落ち入っていた虚数部のモヤモヤ・ワールドは わたし=ぶらじゅろんぬの心の中にあると見ている》結果をもたらしたようです。 ★ 何度か言いましたように このような数学的表現は あくまで 比喩であります。定性的な感じが伝われば それで十分であろうとおもいます。 ☆ であると同時に コミュニケーションにおいて何がしかの道具になるようであります。案外 効果てきめんであるようにも思われます。 減らず口である上に いぢのわるい魂胆を露呈するお話をしてしまいましたが それもこれも――つまりその悪魔でさえ―― 人びとが虚数部の墓場からよみがえるための手だてに――神 嘉みしたまうならば―なること請け合いであると確信するからこそであります。 おうけい9608さんを巻き込んでしまったようですが 質問者としましては ひととおりの問い求めが出来たかと大いによろこんでおります。 むろんご批判のある方は これからでもさらにご投稿を寄せていただきたいと考えます。 ひととおりのまとめを得まして――たいへんありがとうございました―― いま少し開いていて様子を見つつ閉じることにします。