釈尊のさとりについて
増谷文雄氏の著作『釈尊のさとり(p.65)』によると、釈尊がさとりを開いた後、次の様に考える場面が、南伝・相応部経典6-1に書かれてあるそうです。
曰く、『私が悟りえたこの法は、はなはだ深くて、見がたく、悟りがたい。寂静微妙にして、思惟の領域を超え、優れたる智者のみよく覚知しうるところである。・・・この世間の人々は、・・・この理はとうてい見難い。・・・この理とは、すべては相依性にして、縁(条件)ありて起るということであり、また、それに反してすべての計らいをやめ、すべての所依を捨てされば、渇愛つき、滅しつくして、涅槃にいたるということである。』
そこで疑問なのですが、釈尊は前段で、「私が悟りえた法は、思惟の領域を超え、優れたる智者のみよく覚知しうるところであって、一般の人には理解できない」と言っていますが、後段で述べている内容、つまり、「すべては相依性にして、縁(条件)ありて起るということであり、また、それに反してすべての計らいをやめ、すべての所依を捨てされば、渇愛つき、滅しつくして、涅槃にいたる」ということは、一般の人に理解出来ないほど難しい内容ではないと思うのです。
と言うことは、前段で言っていることと、後段で言っていることとの関係は、どのように考えれば良いのでしょうか?
後段で言っていること以外に、何か、あるのでしょうか?
あるとしたら、それは何でしょうか?
どなたかお教え戴けたら幸いです。
お礼
貴方は、私の背中を押してくれました。釈尊を選びます。ありがとうございました。