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日本仏教の経典と漢文の読み方について
- 日本仏教の経典である摩訶止観の第五の「此三千在一念心」の日本語読みについて、本文は「此の三千は一念の心に在り」とするのか、「此の三千が一念の心に在り」とするのかを教えてください。
- 日本仏教の開祖である日蓮上人の遺文である観心本尊抄の「本門釈尊為脇士」の日本語読みについて、本文は「本門の釈尊を脇士と為す」とする門派と、「本門の釈尊の脇士と為り」とする門派に分かれています。この表現の日本語読みを教えてください。
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日蓮上人御書の研究家ではありませんが、手元に観心本尊抄の注釈があります(日蓮立証安国論 付 観心本尊抄、徳間書店)。 1.ですが、やはり「此の三千、一念の心に在り」がよいと思います。注釈もそうなっています。もしどうしても「が」か「は」を入れるのであれば、「は」の方がいいでしょう。漢文訓読は古文でなされるもので、古文では「が」は所有格(現代語の「の」)の意味に用いられることが多く、現代語のように主格に使うのは書き下し文としてはあまり感心しません。御書に頻出する「日蓮が身」とかはもちろん「日蓮の身」という意味ですね。 2.英語でも漢文でも前後関係がないと正しい解釈はできません。観心本尊抄のどのあたりかいろいろ探してみました。最後の部分ですね(ふう)。原文はこうなっています。 此時地涌千界出現 本門釈尊為脇士 一閻浮提第一本尊可立此国。 ここの「為」は英語で言えばbecomeに当たるので、英語で書くと、 本門釈尊 becomes 脇士 となると思います。これは「本門釈尊が脇士となる」という意味で、自然な訓読は「本門釈尊を脇士となす」だと思います。もし「本門の釈尊の脇士と為り」であれば、「(而)為本門釈尊(之)脇士」(括弧の部分は任意)でなければならないでしょう。原文のまま「本門の釈尊の脇士と為り」と読むのはかなり無理です。ただ、日蓮上人が日本語の用法に引きずられて漢文の語法を誤っていた可能性もあるかもしれず、その場合は後者の読みもあるかもしれません。原文を見ずに、書き下し文だけ読んでいると後者の読みでも自然のような感じがします。 ネットを検索して次のサイトが参考になりました。 http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/ehoufuenin.htm
お礼
ご回答ありがとうございました 【「此の三千、一念の心に在り」がよいと思います。 古文では「が」は所有格(現代語の「の」)の意味に用いられることが多く、】 「が」と「は」の二つにこだわり三千で区切ることに納得しました。 【自然な訓読は「本門釈尊を脇士となす」だと思います。 後者の読みでも自然のような感じがします。】 漢文の書き手の誤りもあったかもしれないとの考えも納得しました。 ご紹介のURLは大変参考になりました ありがとうございました