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言葉の武士道
- 言葉は武器であり、私たちは言葉を武器として持ち歩くが、その際には言葉の武士道が必要だろうか。
- 言葉の刃物としての鋭さや効果は何に依存しており、自分の言葉はどれくらい切れ味の良いものか考えるべきだろうか。
- 優しい言葉や慰めの言葉は、何か悪しきものを断ち切り、心に響くものなのか。また、それは言葉が常に武器ではないことの証拠となるのか。
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言語とは、空気の振動パターン、ないし画面の濃淡パターンに過ぎない。 その記号パターンによって、相互の中に共通の概念を想起させるものだ。 そんなもので何ひとつ切れはしない。 (「言葉で切る」のは話し相手ではなく言葉で表現している対象) それで傷つくのは、自我が未完成で他人の評価に依存して自我の安定を図っている人間だけだ(子供に「バーカ!」と言われて腹立つか?)。 思想(物事の評価)を志す者であれば、自己を最もよく知るのは自身であって、批判者の評価が不当に低い場合は、その相手の認識力の低さ&言葉で攻撃する事が意味を持つと思っている=当人が他人の評価に依存している、という二重の意味で相手のレベルの低さを表明しているに過ぎない。 そもそも、相手に意味を伝えようとする時、相手を批判する必要はなく、自己の考えの正当性を表現すれば済むはずである。 そうした「表現」すべき中身のない人間が、相手を批判する事で自分を上に置こうとするのであって。 つまり、言葉で切り合うというのはレベルに低い者同士においてのみ成り立つ幻想であり、剣の達人が「活人剣」を口にするように、攻撃する言葉は無力で、活かそうとする言葉のみが相手を動かし得るのだ(物理的に屈服させる事が相手が心を動かされた事ではない)。 「活かそうとする」というのは、決して相手にとって分かりやすいという意味ではない。 「分かりやすい」というのは、相手が何の努力もせずに受け入れられる事を意味し、そのような惰性において力を持つ(=相手を動かす)はずがない。 そもそも、言語は「記号パターンによって相互の中に共通の概念を想起させる」=ある程度共通の概念を共有していなければ、どんなに分かりやすい概念も『わけのわからない事を言っている』としか思えないものだ。 それを「より分かりやすくしよう」などと、日常の言語に置き換えても、そうしたものは意味が不正確で、相手の惰性的概念による曲解を許すだけだ。 ただ可能なのは、予め似た概念を共有している、あるいはその方向への好奇心を有している人間に、昇るためのロープを垂らすだけだ。 せめてクモの糸のように切れやすい(曲解しやすい)ものではない、厳密化されたロープを。 ただし、カンダタのケースと違うのは、ロープが切れても、落ちるのは地獄ではなく“認識を深めずとも他律的に活かされる楽チンな極楽”であり、昇る先は“そうした惰性的な社会の中で自律的に生きるために考え続け自己を律し続ける地獄(のような天国=登山は険しいほど喜びが大きい)”だという事だ。 ゆえに、強制すべき(切る)ものではなく、当人の状態における最大充足の可能性の選択に過ぎない。
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言葉は自分を切っていることになりにけるかも。 相手を切っているつもりが、実は自分を切っている可能性も なきにしもあらずや。また、それを認識すればこそ これ、すなわちモラルとなるニダ。 よく切れる刀は、間違った方向をもつ空間ベクトルを切っている。 (方向性の修正をうながす) さらによく切れる刀は、時間軸を切っている。 (直進を断念させ、分岐点からやり直しを考えさせる) 優しき言葉は自分の心を切って心の内を見せている。 つまり刀は自分と時空間を切っているに過ぎない。 他人に切られたと感じるのは、妄想である。 ただし、老獪な卑怯者が使う言葉は、相手の過去に切りつける事に よって現在の相手自身の存在を傷つけようとする。これ、すなわち 悪魔の剣である。 しかし、悪魔の剣に対しての、受け方は、神が答えを出している。 「安心しなさい過去は過ぎ去った。悔い改めよ、されば悪魔の問に 答える必要など無い。過去は過去として神が認めた過去なのだ」 善き質問に感謝ハムニダ
お礼
お見事ですね。僕は剣道も居合も、とても修行したとは言えません。しかし師範が、「刀は己の心を斬るものだ」と言っていました。論破するだけではなく、導く言葉もあります。導く言葉が 真摯なものとして伝わるのは、言葉が単に優れているのではなく、言葉を振るう者が推敲の過程で、自らの心を練っているからだと思えます。 迷いや、憎悪など、気持ちを削ぎ落として文章を書くと、大体、よいものになると僕は思います。憎悪をそげば、嫌味が抜けて、「善い」モノにはなるでしょう。しかし同時に、過不足なく論旨も明らかになるので、優れているという意味でも「良い」モノにもなると僕は思えるのです。 悪魔の剣ですが、剣とお書きである以上、諸刃なのでしょうね。意地を張って、とにかく切り返してくる人はいるものです。僕はあまり相手にしません。相手は斬ったつもりでも、実は斬れていないからです。 他に僕は妖刀というのはよく知っています。斬らないでいいモノまで叩き斬る言葉です。たとえば喧嘩するつもりが無いのに、(当たりだとしても)相手の心を見透かしたことを言ってしまうのは、斬り過ぎというものでしょう。名刀は斬れ過ぎてはならず、斬る必要があるものだけをピタリと斬ると思えるのです。もしご関心があったら、どのような言葉が名刀とお考えか、聞かせてください。 余談ですが、小説、拝読しましたよ。結構面白いではないですか。どうぞ続けてください。SFと銘打ったのがマズかった気がします。というのも、SFだと聞けば、娯楽小説だと思って読みだすでしょう。しかしあれはスターウォーズを読むような娯楽とは違って、何かの不条理を考えさせるものに思えたのです。いっそ不条理劇のような形式をとるのが面白い気がしました。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
回答したいと思うと同時に、慎重な回答をしなくちゃあかんな、と思うわせてくれる久方ぶりの問いかけでござる。 最初にお断りしておきたいのですが、愚拙の回答は、武士道の文脈ではございません。 武士道-山本定朝、新渡戸稲造系ではなく、剣術-宮本村出身の武蔵(たけぞう)君の視点で回答させていただきたいです。 すなわち、言葉は武器である。 問いかけ(1) 否。まったく管理されない状態。ジャングル。相手が切られて血しぶきを出しているにも関わらず平然としているだけ。ただし、物理的な剣で人体を切った場合には、大抵の人がある出血量で死ぬことになっておるが、言葉の剣で切られた場合の致死量は個人差が大きく、蚊に刺された程にも感じない者が居るかと思えば、再起不能にまで追い込まれてしまうほど傷つく人もおる。 問いかけ(2) 言葉は言葉を切る。自分の言葉はより切れる方が良いに決まっている。言葉は武器なのだから。 わかりやすい例をあげれば、政治家どもが質疑応答をしている議場とか、法律家どもが裁判している法廷を想像すればよいと思う。日常の生活にも、政治力の行使とか、権利・義務の議論はちりばめられており、強力な武器としての言葉を持っている者が、この俗世間を勝ち抜いている。一番良い例は、合衆国の大統領選挙ではないかな。はじめに言葉あり。その後に言葉あり。それ以上何もなし。 大統領候補でもなく、弁護士でもない俗世間の人間が切れる言葉を持っていた方が良い点はなにか。それは競争に勝つ側面だけでなく、切らずともよい部分まで傷つけてしまうリスクが少ないからじゃ。鈍(どん)なる刃物で刻んでは切り口がギザギザになって痛いし、治癒に時間がかかり、かつ傷跡が永く残る。 問いかけ(3) 恋文の言葉と慰めの優しい言葉とを同列に論じることはできない。まず、恋文は典型的に目的を持った文書であるから、目的達成のための武器の優劣が極めて重要である。鈍(どん)なる言葉で明眸皓歯、一顧傾城の美女を獲得できるわけが無い。「愛さえあれば、言葉は要らない」なんちゅうのは、武器としての言葉が貧弱なる者の負け惜しみですね。 一方の「慰めの優しい言葉」に関して仔細に分析してみると、二種類に分けられるようだ。ひとつは、恋文と同じで、信仰宗教の勧誘員が信者獲得という目的をもって語りかける優しい言葉、そう、武器としての言葉だな。もう一方は、なかなか見極めがつかないが、見返りを一切期待することなく、相手のことだけを思って語りかける優しい言葉です。なかなか実例が思い浮かばないほど稀有だと思いますが、お釈迦様が赤の他人に優しい言葉を掛けたなんてこともあったのかもしれない。こちらは、なにかを獲得するという目的を持たないので、愚拙が提唱する「武器としての言葉」の範疇外だなぁ。 さて、ことほど左様に言葉には武器としての側面が大きく強いので、まずは武器としての言葉の利害得失を良く理解したいところですが、日常生活に飛び交う言葉のうち「言葉の下痢」というのがあるのでこれはこれで峻別するべきです。 言葉は本来、話者から他者に伝えるものですが、他者に伝えるという目的を忘れてだた虚空に向かって発せされる言葉のなんと多きことか。これを言葉の下痢といいます。とまらない。始末に負えない。迷惑。 英語でスピーチ・ダイアリア、ドイツ語でシュプラーハ・ドゥルヒファレンと言いますが、実際に英語人、ドイツ語人に対してこの「言葉の下痢」という概念を説明したところ、すぐに理解してもらえたので、文化を超えて下痢が蔓延しているのでしょう。 武士道とは関係なかったですが、武蔵(たけぞう)あらため宮本武蔵が書した五輪書を読み直しながら、武器としての言葉の使い方を観が直してみるのも一興ではないでしょうか。
お礼
親方、どうもありがとうございます。僕の問いの枠に沿ってくださったわけですが、総合すると、言葉を発するのは、何かを獲得するためであり、目的をもって使役する以上、武器であるということですね。したがって、目的を持たない無償の行為に伴う言葉に関しては、武器の比喩は当てはまらない。また目的無く垂れ流す言葉は不快である。こういうお考えのようです。 この設問、僕は、人それぞれ、どの場面で言葉を操ってきたかが、もろに出てくると思っています。おそらく親方は、ビジネスの世界で生きてらっしゃったのかもしれない。それなら会社の利益なりを背負ってるわけで、下手に譲歩するわけにはいかなかったのだろうと思えます。目的を明確にもって、そのために言葉を振るっていらっしゃった。そういう方の経験を聞きたいということではあるのですが、少々、反論させてください。 たとえば相手を論破することが商売である場合、切れ味のよい言葉をもっていた方がよいでしょう。弁護士などその典型です。相手を打ちのめせば、それだけ結果が出ると言えます。剣客商売をやればよいのです。 しかし、選挙演説の場合はどうでしょうか。対立候補をやっつけ過ぎると、逆に「この人は冷たい人だ」ということで、票が逃げてしまうのではないでしょうか。それよりはいっそ、バカかもしれないが、実直な方がよいということはあるでしょう。会議でもそうではないでしょうか。相手を叩き潰すより、まぁまぁなぁなぁとやった方が、提案した議題が可決しやすくありませんか。恋愛も同様です。俺はすごいのだぞ、おまえを愛していると言い続けると、大体は失敗します。どうも駆け引きが必要で、常にスパスパと切れ味のいい刀を振るっているのが上策とは限りません。 こうなると言葉は武器ではあるが、電光石火の如しと、機を捉えて相手を叩ききればよいのではないらしいということになります。むしろ、実は、何かしらのルールに則って、美しく斬らねばならないのではないか。そのルールを外れてしまうと、「外道」という烙印を押されてしまうのではないか。親方は切れ味の良い刀の方が、傷も直りやすいとおっしゃっているが、ここには相手への配慮があるわけです。何かモラルがあるような気がしますが、いかがですか。
- 柊 うろん(@uronly)
- ベストアンサー率12% (113/890)
答3番さん【フロントバイステップ】で攻撃しすぎ 【言葉のスポーツ】と書いてある読んで応えよう 甲子園で素振り見せ合えって諭すのかアンタは 私輩がエアガンで撃つときはこんなカンジかな
お礼
ありがとうございます。No3ってpさんのことですか。大丈夫ですよ。pさんは僕のことを信用して、ああやって書いてくれたのでしょう。言葉を刀に限らず、いろいろ喩えてみても、幅が広がって面白いなと思います。
- tanpan2010
- ベストアンサー率7% (16/211)
東大卒(東大に行く夢を見るのを卒業)の俺的には、3番はラブレターは書いた先の相手を思う自分の切なさみたいなのを、慰めの言葉は、かけた相手の辛さや苦しさを斬ってるのではないか?
お礼
ありがとうございます。まさにそうですね。ラブレターも、つらつらと書かれては、読む方はたまったものではありません。だから、自己批判があって、客観的に書いたものの方がいいでしょう。慰めの言葉は、確かに恨みつらみを斬っているとも考えられます。こうした言葉は、浄化の作用をもつと言えるかもしれません。
- 柊 うろん(@uronly)
- ベストアンサー率12% (113/890)
【1】私輩は【ガンマン】ゆえ道具としかみてない 【2】狙うは【自己矛盾】屠るべきは【理不尽】かな 【3】あれは【なげなわ】だろ【お前が欲しい】的な その発想はなかった☆こういう問いかけいいなあ
お礼
ありがとうございます。なるほど、言葉はピストルですか。そして時として、投げ縄。さながらカーボーイですね。理不尽という盗賊を追い払い、追っている牛は女というわけです。かっこいいなぁ。
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お礼
戯言につきあってくださり、感謝いたします。他の回答者から、言葉は鋭利だとしても、包丁のような道具で、料理に使うようなイメージじゃないかという比喩が提案されました。これはpsytexさんのお考えとも矛盾しないでしょう。刃物である言葉は、対話の相手を傷つけているのではなく、議題に上がっているテーマに細工をしているに過ぎないということですから。見事な細工の施された品を見て衝撃を受けるのは、確かに自分の力量を恥じいった未熟者に違いありません。子供は放っておくに限ります。 しかし言葉とは、地獄に垂らされた救命のロープと喩えてみせるあたりが、さすがにpsytexさんです。この比喩にOKWaveに参加してらっしゃるpsytexさんのお気持ちをみたような気持ちです。「おまえごときが」といって、足で下を蹴り落とすということをせず、鷹揚に糸を垂らす。しかしその糸は登るのが難しく、当人の意志と努力が無ければならない。あるいは素養が無ければならない。しかし、この糸を登れば、救いの地まで導けるという確固たるお気持ちがあるということに、恐れ入りました。 ロープが切れて落ちる先をpsytexさんは謙虚に、何も考えないでよい他律の極楽とおっしゃるが、やはりそれは地獄というべきでしょう。眠りを覚まされたことを恨むのは思春期の青年くらいです。考えに考えるしかなく、思考を徹底的に追求するしかないと思えます。その道を示す糸は、なるほど強固なモノでなければならず、直ぐに断ち切れてはならないでしょう。とはいえ、僕の糸は随分と気楽なものです。「束の間、まぁ楽しくやろうじゃないの」というのですから。この設問は、地獄で頭を休めるための遊具の一つなのです。敢えて縄という比喩にのるのなら、あやとりのようなものです。投稿者の回答に応じて、形が変わるのですから。
補足
【締めるにあたって】 皆さま、どうもありがとうございました。武士道についてですが、「電光石火の如し」と武蔵に喩えてくださる回答がありました。これは、言葉のある一面を鋭くとらえています。言葉はその力を制御しないと、本当に、電光石火のごとく、隙を見て相手を叩き斬ってしまいます。 なるほど、これもこれで、一つの生き方として人を魅了するに足るほど、爽快なのですし、弱肉強食は現実の一面なのです。とある高名な教授が、バッタバッタと論敵を斬りまくっていく姿は、ショーとしては見ものでした。「明快でないものは存在しないも同じことだ!隙あり!トゥ!」と刀を振るうのはさながら時代劇。しかしこれでいいのだろうかという疑問はあったのです。それではコミュニケーションにならんではないだろうか、と。 というのも、高みに達した人にしてみたら、その下の人と会話する必要など本来はないのです。からかうとか、「おまえなど話すに値しない」と蹴落とすばかりでしょう。上記の教授は、斬り捨て御免とやってみせていますが、要は相手を蹴落としているのです。僕も実生活では、そんなところがあるのです。「ん?おまえの言っていることは、~~という点で不備があるぞ。そんなの議論に値しない。出直してこい」と(丁寧な言葉で)言ったりします。 しかし、傷つけるのなら蹴落とすのではなく、黙って無視していた方が、親切というものです。そして会話する以上は、僕とて楽しくやりたいので、斬り捨てるのはストレスになってきます。そして誰にでも、目上の方もいるのです。僕はもちろんのこと、その電光石火の刀を振るった教授の上にも、更なる遣い手がいるのです。上の相手に勝とうと思えば、必殺の居合抜きとばかりに、虚を突いて、出来ないことはありません。しかし、ただの殺戮なら、敵を作るばかりで、いっそ会話しない方が処世術として優れているのです。 僕の糸を丁寧に察してくださったのだと思いますが、柳生の活人剣の例を出してくださった方がいました。まさに、言葉が刀であるのなら、それが理想です。しかし慢心に陥ったりすると、電光石火をやってしまいます。 もともとこの設問は、極端な喩えをしていたのです。ルール(武士道)があって振るう刀というものを僕は想定したのですが、ルールということを重くみれば、喩えは実は刀ではなくてよいかもしれないなとは思っていました。むしろ包丁であるというたとえが出たのは、僕の設問を尊重してくださったからでしょう。他には、次のものです。 ・ピストル、ロープ ・救命の縄 ・料理道具の包丁 ・夢 こうした言葉へのイメージは、普段、その方がどこで言葉を磨いてらっしゃるかによりけりだと思います。そのどれも、その方の言葉の使い方の含蓄があって、優劣をつけることのできるものではないと思います。しかし自分の言葉の使い方を、惜しげも無く率直に伝えてくださったという意味で感動したので、psytexさんの回答を選びました。 なるほど、psytexさんの投稿は、他の方の設問欄でも拝読したのですが、難解で、揶揄されることもあるようです。しかし地獄へ垂らす蜘蛛の糸のごとく、強靭な綱でありたいとは、恐れ入りました。これは人間にできることを超えようとしているともいえ、その是非を問う意見もあるかもしれません。所詮人間が垂らすことのできる糸は、蜘蛛の糸より弱い程度のものなのではないか、とも。この点はまた設問を改めて議論することがあるかもしれませんが、しかし、実践から語ってくださったという意味で、僕には一番説得力をもっているように思われたのです。 最後に自分のことを書きますが、僕としては、言葉を紡いでできるものは布だというイメージがありました。文章のまとまりを意味するtexteという西洋語の語源は、布なのだそうです。おとぎ話の冒頭、よく糸巻き車が出てきますね。運命の神が紡ぐことで、物語が出来上がっていくというイメージです。テクストの語源は、この場合、ただの連想ゲームの小道具に過ぎませんが、僕は次のように空想しているのです。 言葉という布を身体にぴたりと合った形でまとえば、自らのシルエットを際立たせることができ、自己表現ができます(鋭い言葉)。あるいは、だぼだぼに覆って、自らの姿を欺くこともできます(嘘の言葉、あるいは鈍い言葉)。 ガーゼのように優しい肌触りの布を傷口に当てれば、出血を止めるでしょう(慰めの言葉)。また分厚く作った布をねじって、綱にすれば、救命にも使える(導く言葉)。絹のようにはかなく作った布を身にまとっておけば、誘惑もできるでしょう(セクシーな口説き文句)。あるいはこの布が適度な厚みなら、お互いのプライベート空間を作るためのカーテンにもなるでしょう(線引きする言葉)。 逆に、重たい布を相手に覆いかぶせて、窮屈な気持ちにすることもできます(決めつける言葉)。更には、布を使ってグイグイと首を締めあげることもできます(批判する言葉)。足元にピンと縄状にした布を張って待ち伏せして、罠を作ることもできる(意地悪な言葉)。 他の使い方もあります。布をはためかせれば闘牛のようなことができ(挑発の言葉)、掲げれば標識になる(宣言やマニフェスト)。弾幕のような布をバシッと落とせば、話を切り上げられる……などなど。 連想はいくらでも膨らみますが、これ以上はポンジュを真似したような下手な詩になりますし、僕の言わんとすることの要領は伝わったと思いますから、そろそろやめにします。しかしこうやって比喩を列挙して行くと、何か言葉の可能性が広がっていく気がして楽しくならないでしょうか。