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武士はなんで焼く?
武士が戦った時なぜ町を焼いたり、城を焼いたりするのですか? 町を焼いたりしたら自分の領土になった後に恨みを買って一揆が頻発したり、懐かなかったり、経済活動が停滞して税収が落ち込んだりするのでは、城を焼かなければ城の住人を皆殺しにした後に自分らで使えるのにと思います。 わざわざ武士が火をかけて焼くのはなぜでしょう?
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火炎というのは一つの武器です。 弓にせよ鉄砲にせよ刀にせよ敵の数を減らすには一人一人減らしていく必要があります。 まとめて一気に減らすには火炎が最も手っ取り早いということです。 火攻めと言います。 相手が町の中に分散していたり複数の建物に立て籠もっていたりした場合にやられました。 焼死を免れて逃げ出してくる敵を待ち構えていて殺したり捕まえたりします。 信長の比叡山焼き討ちが典型的な例です。 第二次世界大戦の沖縄戦でも使われました。 火炎を噴き出す火炎放射器という武器が多用されて防空壕内の住民を焼き殺しました。 沖縄戦が凄惨を極めたのはこの為です。 防空壕内で住民に混じっている武器を持った戦闘員(兵隊)を一人一人殺すよりも手っ取り早かったからです。 焼夷弾というのも一つの手法です。 空中から投下することで町に火をつけることができます。 いかに戦国時代とは言え町全体を焼き払うということは余りやられませんでした。 局所的なことはやりました。 理由はご指摘の通りです。 城に火をつけるのは中にいるのは戦闘員だけですので手っ取り早いということです。 ご指摘の通り後で城が使えませんので、武器として火炎の代わりに水を使いました。 城を水で埋めてしまうという方法です。 全部は水没しませんので周りを水浸しにして孤立させ餓死するのを待ちました。 城の近くの川の流れを変える方法です。 城の周辺を貯水池にしてしまいます。 これをもっとも得意としたのが秀吉です。 秀吉の戦法は戦術というよりも大土木工事でした。 町を焼き払うというのは、むしろ撤退する側がやりました。 焼け跡の町に入っても食料が手に入りません。 その上大量の被災者がいます。 攻撃側にとっては、相当な負担になります。 世界的にこれを得意としたのがロシアです。 広大な土地を利用して町を焼き払いながら軍隊が撤退して行きました。 追いかける攻撃側は消耗してしまいます。 ナポレオン軍とドイツ軍を相手にして二度とも自滅させてしまいました。
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- ithi
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hojumon さん、こんばんは。 それは町人の居住区を焼くことによって、城を裸にする。つまり基本構造のみにしてしまうということです。つまり、攻撃側にとって、守備側の位置がわかりやすくなります。 町人たちはあとで家を建て直すとか税金を免除するというような優遇措置でごまかします。
- eroero4649
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「焼き打ち」は世界中どこでも昔から見られる定番の戦術です。 まず攻撃側のメリットです。敵の町を焼いたり略奪することで、その町に住んでいた人たちは「ここは危険だ」と逃げるようになります。そこから逃げて誰も住まなくなったら、敵はそこから収入を得ることができません。また「今の領主は敵からちゃんと身を守ってくれない」となったら敵側に寝返るということだって考えないといけません。まあなんというかISとちょっと似ている部分はあります。「敵対すると恐ろしい目に遭うぞ。そうなりたくなければ、俺たちの支配下になれ」というわけです。 また攻める側からすると敵側の領地はアウェーの場所です。今のアフガニスタンがそうですが、テロリストを追いかけたら村の中に逃げ込んだ、となったら探し出すのがとても難しいです。みんな同じような顔をしていて、みんなAKライフルを持っているからです。農民とテロリストの見分けがつかないのです。だったら自ずと「村ごと焼いてしまえ」となってしまうところがあります。殺されるのは怖いですからね。 また守る側があえて自分の町を焼くことがあります。これは「焦土戦術」といわれます。20世紀になるまで、軍隊は「食料などは敵地で現地調達する」というのが普通でした。敵の町を占領すればそこに食べ物があるのは確実ですよね。敵なのだから、遠慮なく頂戴すればいいのです。 ところがその町が占領したときには既に焼け野原になっていたら、食料が手に入りません。敵地だからどこに食料があるかもよく分からない。食料不足で兵士が飢え死にしたら戦争どころではありません。これが成功した例で有名なのが、ナポレオンのロシア遠征でした。ロシア軍は焦土戦術で自分たちの町をあえて焼いてしまって相手に利用させないようにしたのです。ここにロシアの厳しい冬が重なってナポレオン軍は全軍崩壊に至りました。 明治の西南戦争では、熊本城が戦場となりましたが、籠城する明治政府軍は城の南西方向にある市街地をあえて焼け野原にしてしまいました。市街地は平らな場所だったので、建物が焼かれてしまうと城からよく見えるようになります。市街地の建物に隠れながら城に近づくことができなくなりかつ、城からの鉄砲や大砲がよく届くようになり、薩摩軍は市街地方面から城に攻めることができなくなりました。そこからもう敵は攻めてこられない(無理に攻めようとすると大損害を出す)ので、籠城軍はその方面の防御を最小限して危険な方向(このときは西側が攻城戦の要となりました)に手厚く兵を分けられるようになったのです。 また戦国時代には「青田刈り」という戦術もよく使われました。稲や麦の収穫の直前に敵に攻めていって稲や麦を刈り取っていくのです。こうすると敵は収穫が得られなくなり、こちらはその刈り取った稲や麦を自分たちの食料にすることができるのです。これを何度も収穫の時期にくり返されると農民ももうウンザリですよね。刈り取って持って帰る時間がない場合は、とりあえず焼いてしまうということもありました。
- jkpawapuro
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今週の土曜に再放送する真田丸を見れば良く分かると思います。 町を残したままだと進撃路が限定され、しかも敵が町の陰に敵兵を隠します。 結果包囲分断殲滅の憂き目に合います。 だから攻撃側としては町が残ったまま責めるのは至難の業です。 また大手通をまっすぐ進もうとしても、相手の城から鉄砲撃たれまくります。 焼き払って見通しをよくしてしまえば余計な奇襲をくらうリスクは大幅に減ります。 城の天守閣・本曲輪等を焼く焼かないの場合、堀を越え橋頭保を確保し攻め入ることに成功してしまえば必ずしも城に火を放つ必要はありません。ですが建物一つ一つを調べ敵を掃討していくにはやはり時間がかかりますし被害も出ます。城を焼いたほうが手っとり早く確実です。 それこそ関ヶ原の折に各地で攻城戦・籠城戦が発生したようなケースでは、いち早く城を落とし次の戦場に進軍しないといけないのでだいたい城を焼くと思います。一方沼田城の三つ巴の争奪戦みたいなやつは、その城を奪いそこを拠点としてすぐ攻め返してくるであろう相手勢力に対する防衛拠点にしないといけないのであまり城は焼きません。 また石田三成の佐和山城、秀頼の大坂城などは、前の君主が滅びたことを印象付けるためにどうせ古い城を破却して新しい城を作ります、城を焼くのに躊躇ありません。
- trytobe
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城を焼くのは、敵を完全に追い出すため。反逆する人間が潜むところは、焼いて追い出す。反逆する者と食糧や武器が同居しているなら、そんな食糧や武器は焼いたほうがマシ。 ということ。反逆しないなら、町人の町まで焼く必要はないし、一揆も起こらない(反逆するやつの兵糧も武器も焼いてあるから)
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回答ありがとうございます。 城の場合はもったいないけど焼いたほうがマシってことですね。 >反逆するやつの兵糧も武器も焼いてあるから ひ、ひどい じゃあ焼かれた町は全て住人が反逆したってことですか?町人は積極的に反抗する理由ってないと思うのですが
お礼
ああなるほど、兵法として焼かなきゃダメなんですね。 よくわかりました! 回答ありがとうございます。