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抽象的生活
生活の中での嬉し悲しは、どこか、非常に抽象的でもあるし、また、それ以外の点においても、むしろ、抽象的な生活というのは、すごくあるのではないかと思います。 具体は、抽象から現れてくるのであるという考えもありますし、抽象は、具体から摘出されたものだと言う考えもありますし、考え方は色々ですが、はたして、どれほど、「はじめに具体あり」なのだろうか? 具体的なことははたして、どれほど抽象的なものに対して、優位を誇っているのか? そのような疑問も僕は意識しましたが、 質問は、 「抽象的な生活」 ただこれ↑において、みなさん、なにかご考察、ご感想、あればお願いします。 (僕としては、自分自身の生活も、自分の近隣の社会も、いうなれば、具体的な生活意識から、抽象的な生活意識に随分移行してきているような気がします。)
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- Futosi
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現在の「満足」の方向性が「有体・無体に関係なく心を充足するもの」 という定義付けをされていることにより、おっしゃるように 「現代の抽象的な生活意識への変化」という形で受け取ることもできます。 日本の文化として、はっきり言うことを「歯に衣着せぬ発言」といって あまりよく思わない傾向が存在するのもご存知ですね。 ですから、目的として「…できることになる」というのがあって、 更にその具体的解決法として「~を手に入れる」というものがあれば、 いきなり「~が欲しい」と言うと物欲の旺盛さを殊更強調することに つながり、「…できるようになればなぁ」と言う前振りをして、 それに対して相手から「じゃあ~があればいいのでは」という答えを 引き出すことができれば、角の立たない発言、という感じで解釈されます。 こういった傾向から、日本に「抽象的な生活」という考え方が生まれるに 至ったのでは、と考えてみました。 jujutaujutaさんの言うとおり、抽象と具体が不可分であることについては 私も異論はないです。
私個人の感覚ですが…。 抽象と具体は表裏一体かつ不可分な事柄だよ。 どちらも始めではなく主従もないよ。 我々が人間は; 身体 → 具体的 精神 → 抽象的 でしょう?人間は具体的かつ抽象的存在。 「抽象的な生活」だけができるかな?問えるかな? 問いの立て方が少し違うような気がするんだ。 ひょっとしたらこういうこと? 具体的生活意識 → 仕事、家族、遊び、について。 抽象的生活意識 → 人生、倫理、哲学、について。 もう一度明確に問いを立て直してみてはいかが? 納得いかなかったらごめんね。
お礼
>もう一度明確に問いを立て直してみてはいかが? いえ、そこをあえて行きましょう。 其のところに意味を求めた質問です。 以下、質問形態がこれに至った説明です。 >納得いかなかったらごめんね。 あやまる必要が何処に? ですが、考え方は色々でき、具体と抽象が不可分という考えも、具体抽象に関する思考の、無数にあるアプローチの一つです。アプローチは無数であるのです。 「抽象的な生活」 ただ、これ↑について、なにか考察が無いかな? みんなどういう風に考えるのだろうか。 こういうわけで、質問させていただきました。 季節のせいか、何のせいか、なにか、自分含め界隈が、止まったようにしんと静かになっているときが、普段の半分くらいあります。 前までは、こういうことはありませんでした。 これは、僕が抽象的生活を思ったきっかけですが、僕の恣意とは関係なしに、意見をいただけたらと思います。 >問いの立て方が少し違うような気がするんだ。 これを回答として頂き、これを導いた思考を、考察としていただきます。 どうもどうもです。
補足
質問に関する補足説明のために。 >ひょっとしたらこういうこと? 具体的生活意識 → 仕事、家族、遊び、について。 抽象的生活意識 → 人生、倫理、哲学、について。 それは、考える人が決めることで、今回、僕は「抽象的生活」について、言葉以外の条件を出しません。 どのような意識が、「抽象的生活」というのに用いられるのか? そのようなことも知りたいと思っています。 が、僕の恣意とは切り離された考察こそ求めています。 ですから、いただいた回答は、そのまま、僕の恣意とは関係なく寄せられたものとして、受け取っています。 >我々が人間は; 身体 → 具体的 精神 → 抽象的 でしょう?人間は具体的かつ抽象的存在。 果たしてそう言い切れますか? 僕は、人間とは、具体的でも抽象的でもなく、ただの枠組みだと思います。 どのような枠組みかというと、便宜上で変化を遂げさせられ続ける、枠組みです。 だから、ロボット人間などが出てきたときには、まさに便宜上、何度でも変化するものです。 具体的な精神というのも、示唆できませんか? ロボットの精神は具体的?抽象的でしょうか? >「抽象的な生活」だけができるかな?問えるかな? 問いましょう。 問うてみましょう。あえて。 問うてしまえば、考察は案外できるものだし。 なんて。 一応、それ(「抽象的な生活」)が、質問です。 アドバイスありがとう。
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お礼
>現在の「満足」の方向性が「有体・無体に関係なく心を充足するもの」 という定義付けをされていることにより、 多くの人が、外部的充足を求めていた頃から、内外を問わずさまよう心の表れ、このように私は思ってみたりします。 このさまよう心の表れ、そしてさらなる動きが、抽象的生活かな? とも思います。僕的には。 心というものの抽象面が、そのまま生活に浮いてきているような。 >。。。こういった傾向から、日本に「抽象的な生活」という考え方が生まれるに至ったのでは、と考えてみました。 何故、歯に絹を着せるようになったのか? 物欲の旺盛さをシルクで覆わねばならなかったのか? 具体的というものの名において、多くを隠すとは何事か? 抽象の名において、多くを希釈、亡きものにしてしまうとは? このような思いも個人的にはありますが、 それらを一切配して、まるまま言語的意味を汲み取りつつ、各々の回答者の思いで、 「抽象的な生活」 この、ただこのことについての考察をいただきたく思いました。 歯に絹を着せるといった代表例にみる文化的傾向から、「抽象的な生活」という考えが生まれてきた。 ご回答ありがとうございます。 思惑な生活? >jujutaujutaさんの言うとおり、抽象と具体が不可分であることについては私も異論はないです。 この定位置を決め込むアプローチに、一石と言わず、かなりの石を投じたいという勝手な思いもあります。 抽象と具体は不可分。(だから?) (不可分であると言えるのは、経験的に? それとも、脳科学的に?想像論、記憶論、 具体抽象の及ぶ範囲は広大です。) また、なにも決めえない、無知識を前提とした状態から出発してみるのも、いいかもしれませんが、ここではあえて、 「抽象的生活」 に焦点をあてました。理由は、NO,1さんの御礼にあるとおり、恣意的ですが、回答者の皆様には、それぞれがおもうとおり、考察するとおりを、回答としていただけたらと思います。