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抽象的生活
生活の中での嬉し悲しは、どこか、非常に抽象的でもあるし、また、それ以外の点においても、むしろ、抽象的な生活というのは、すごくあるのではないかと思います。 具体は、抽象から現れてくるのであるという考えもありますし、抽象は、具体から摘出されたものだと言う考えもありますし、考え方は色々ですが、はたして、どれほど、「はじめに具体あり」なのだろうか? 具体的なことははたして、どれほど抽象的なものに対して、優位を誇っているのか? そのような疑問も僕は意識しましたが、 質問は、 「抽象的な生活」 ただこれ↑において、みなさん、なにかご考察、ご感想、あればお願いします。 (僕としては、自分自身の生活も、自分の近隣の社会も、いうなれば、具体的な生活意識から、抽象的な生活意識に随分移行してきているような気がします。)
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- corpus
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道具を作る人は抽象的だと思っています。例えば、ミシンは手縫いと全く違うメカニズムで動いています。しかし、両者は同じ目的をもっています。洗濯機も選択板で擦るではなく、回転をさせて擦っています。餅つき機もおなじです。具体を抽象し、それをまた具体に戻しているから、このような離れ技ができるのだと思います。
- nabayosh
- ベストアンサー率23% (256/1092)
もう2か月も前に立てられた質問に、今さらどうこう言うのもどうかと思いますし、かなり話も円熟しているので、わたしが回答する必要もないのでしょうが、わたしには「抽象的な生活」というものに、ピンとこない何かが感じられます。そのため、自分の考えていることを整理したいがためにこの回答欄を使用させて頂きます。 なぜ「抽象的な生活」というのがピンとこないかというと、「抽象があるなら具体もある」はずであり、では「具体的な生活とはなんだろう」という疑問に達した時に、「生活とはもともと抽象的なものではないのだろうか」という問題提起に行き当たりました。 「具体的な生活」というのを考えた時、例えば「めしたき」「ふろたき」「まきわり」など、ある情景を想像してしまいますが、そこには生活感というものは漂うものの、生活そのものではないような気がします。それが「年金について悩む」「育児について悩む」「消費期限をかなり前に過ぎた牛乳について悩む」など、生活感あふれるものであったとしても、それは生活のうちのひとこまを指しているにすぎないのではないかと考えます。要するに生活の一部分にしか想像力を向けることができないのです。では「生活全体」とは? あまりに漠然として考えられません。 そこで、なぜ考えられないのかということについて考えてみたいと思いました。わたしはどうやら物事を具体的なものに置換して思考するタイプの人間だからではないかと思うのです。「ショートケーキ」と言われて、まず最初にいちごが必ず乗ったものと思い込んでしまうようなイメージを描いてしまう頭脳を持っていますから、この「具体」というやつからは逃れることができなさそうです。これがもし「愛」「正義」などの抽象的な語句になってしまうと、わたしの頭脳は考えることをやめてしまうような気がします。むろん、「愛」「正義」の具体的行為は思い浮かびますが、全体を統括するようなものが想像できないのです。 「りんご」や「魚」と違って「愛」や「正義」や「生活」というものは、「これだよ」と指し示すことができないものだと考えます。そういうのを一般的に、「抽象的」というのではないかと考えます。だから、そもそも「生活」というもの自体が「抽象的」なものなのではないかと考えるのです。したがって、生活を抽象的と非抽象的とに分ける意味もないのではないでしょうか。 色紙をちぎったもので、大きな絵を描いたりしますが、その絵というのが「生活」、ばらばらの色紙が「生活感のある具体」のように思います。その色紙がぽろっと落ちて独立しても、絶対に「生活」にはならないような感があります。 また、別の喩え方をするなら、「言葉」の集積が「文脈」を作るという感じでしょうか。1つ1つの言葉には意味があるけれども、それが文となって初めて1つの方向性を導き出すような。 そうそう、「言葉」というものについてもよくよく検討する必要がありそうです。「生活」と同じように、「言葉」もどこまで言っても抽象的なものではないかと考えるのですよ。言語をシニフィアンとシニフィエの記号として捉え、そのメカニズムについてうんぬんと言ったにせよ、「赤」という言葉の指す色の範囲すら境界線のぼやけてしまう曖昧なものなのです。 そうした、あまりに抽象的な「ことば」を以て「生活」について述べるとしたら、どうしたって具体的な答は出てきません。 今何か「抽象的な生活」について具体的な解を求めようとしているのであれば、それは言葉の及ぶ範囲ではないと思います。抽象的な解は沢山出るでしょう。それがどれだけ問題の核心を鋭く抉れるのかはわかりませんが。 以上のことを漠然と考えたので、ここに書き付けておきます。
* お釈迦さんはね、み~んなから尊敬されていました。 * いつの間にか彼は、沢山の弟子に慕われていました。 * でも、みんな尊敬はするけど 遊んでくれないンですね。 * 沢山の人に慕われていても、孤独なんです。 * 寂しすぎて寂しすぎて、秋の夜長にこう言ったンですね。 * 「一切皆苦!」――イジけちゃったンです。 * ところが弟子がそれを聴いて、 * 「おい!ブッダがまた凄いことを仰ったぞ!!」って。 * 遊んでほしいだけなのに、彼の広い心を満たしてくれる人に居てもらいたいのに…… * ソクラテスはね、踊りたかったンです。饗宴の席で。 * 「踊るあほ~に観るあほ、……」の声に誘われたンです。 * だから「お~い。俺も俺も!」て、言ったンですね。 * そしたら弟子に止められて「ややや、先生は『あほ』じゃないですから」って。 * ソクラテス君、「なんだよ~、みんな俺のこと、そんな見上げなくてもイイじゃないかぁ~」 * ……ってね、ぐれてたンです。 * やがて楽しい時間も終わり、みんな帰ってから、独り言―― * 「満足な豚なんかより、不満足な人間のほうがイイもぉ~んだ、フン……(涙)」 * そしたら聴いてたンですね!まだ一人部屋にいたプラトンが、 * 「名言じゃ!ideaの参考にしよう!!メモメモ……」って。(笑) * も~ソクラテス君は、尊敬されているのに、お友達いなくて、寂しい寂しいンです。 釈尊(ブッダ)、ソクラテス、キリストに孔子……のちに先哲と敬われる人物が、紀元前5世紀ごろにうわ~ッと出てきます。彼らは進みすぎた心の持ち主だったため、多くの人に尊敬されていても、物足り無さと孤独を背負っていたのかも知れません。普通の人が容易に理解しあえる人を見つけるのに対し、彼らはど~だったのかなぁ……と。同レベルの友人を探していたのかも、と空想してみました。(あ、だから*部のお話は、フィクションですよ☆(笑)) だから案外、彼ら同期の先哲が隣り近所に住んでいたら、お互い大親友になっていたかも知れませんね。常人には解らない高度なギャグを言い合ったり、誰かが毒盃を仰いだり十字架にかけられたりしたら、停めに入ったりね。(笑) 彼らの思考は、当時の一般水準から視て、飛びぬけて 非日常的で抽象的だったと思いますよ。 ……その、ひょっとしてドラちゃん、そこまでいっちゃッたのかな~って。ありふれた物じゃ満足できず、価値観をさらに深めて深めて掘り下げてしまったというか…… 具体的な生活の中で(バイト中(笑))、ふとこんな事を思いついたので……ま~誰しもに「幸あれ!!」ですよ★ \(^・^), (?)
お礼
おもしろいな、ウォンウォンは。 オレだったら、栗ご飯とか好きだし、。 で、価値観を磨いたり、更なる価値観を求めるってのは、「サイコーの栗ご飯」を求めるってことじゃん? で、価値観をほりさげるっつーのは、サイテーの栗ご飯の満足、つまり、「栗ご飯、無くたっていーや」。 サイテーに行くには、まずサイコーを味わわないといけないってのはわかる。 これをね、栗ご飯を、つまり命だとか、存在だとか、さも意味ありげな、好まれそーなことがらだととるとね、サイコーの栗ご飯ってのは、命を極めるとか、存在を極めるとか、そうなる。 かなりナンセンスでしょ? これを、只の存在と名づけよう。 これを味わったら、なくたっていーや。 つまり、別に消えてもかまわんとなる。 サイコーの栗ご飯を求める旅ってのは、常に飢えが伴うね。食べても、また腹が減る。 こういう旅において、よく言われるのが、 「真理は乾かない水」 つまり、それを飲めば二度と乾かない、餓えないってこと。 その旅にある真理とは、つまり只の存在ということになる。それを味わうなら、餓えない。 じゃあ餓えなくなったらどうなのかっつったら、もう「十分」なわけだから、どうってことは無いわけです。勝手に消えていく。 で、まぁ、俺の今いるところは何処なのよ?ッて話になると、どこなんだろね。しらんわそんなもんって感じです。なんか、あんま考えなくなったね。 だから、行き交う人や、車(のなかの人)なんか、みんな友達に見えたりもした。 いいのよ。これで。悪くない。ここまで来るのに、かなり疲れた。 だってこれってさ、結局なんつーの? 最初の栗ご飯じゃん。 只、栗ご飯好きなんですっていうところの。
Eros ↑ ↑ 絵のお話しましょか★ (^・^)/ ども!ふりふりウォンPです。 ↑ (あ~恥ずかし~!(笑)) ↑ 抽象絵画のお話ですね。 ↑ ――* ** ↑ ↑ 抽象絵画には二種類あるンです。 ↑ 前の回答にもある「グチャグチャぱーのピーヒョロロン」と ↑ もう一つ「シャキッ……(し~……ん)」の2つです。 ↑ 具体的に言いますと、前者が曲線による物で ↑ 後者は直線によって構成された物ですな。 ↑ ↑ ぐちゃぐちゃパーのピーヒョロロンは、なにか魂の熱い叫びを感じます。 ↑ 曲線ってのは自然を感じるモンですね。 ↑ 力強くも、優しくて温かい抽象。 ↑ ↑ それに対するは「シャキシャキパリパリ」のほうは冷たぁ~いです。 ↑ 直線……コトに垂直水平のみで構成された絵画などは。 ↑ (表現主義(前者)とも違う、モダニズムが近いかな?……) ↑ ↑ 良いですか?ココからッ★ ↑ 前者は「動の抽象」後者は「静の抽象」なんです。 ↑ あいやァ~、ドラちゃんの抽象感覚は、後者のに近いですね !! ↑ ――* 動きのある抽象は、自然の模写でこそありませんが、自然の再構成なんです。言ってみれば!手塚治虫さんの漫画読んだら、ありますあります「動く抽象表現」!黒の使い方が旨いンですよ。感覚としてすばらしい !! それに対するは「静かな抽象」コレは自然の模写でも再構築でもない、脱却ですね。人間としての新しいあり方とでも言いましょうか?この一派は実写とのコラボレーションなんかにも手を出します。雑誌の走りですね。純粋に構成、抽象。 鑑賞者として、抽象作品に接する際、 なぜこんな感覚の違い(動と静)が生まれてしまうのでしょうか。 ――それは簡単。自然は「動」だから、で、あります。 もっと言うとね、生こそ「動」なんです★ 生きる事とは、順番なんです。コレの無くなった、自由になったのがいわば「死」ではなく、「静かな抽象」でしょう。つまりね、人間は「生と死」の二元論を超えて、芸術においてベクトルを増やしちゃッたンですよ。3つに! 「動的な具体(自然)」「動的な抽象(模写でなく、表現)」そして「静的な抽象(人工)」ですね。 「静的な具体」――コレはあるかないか?つまり二元論的な「死」の論議になりますから、今は控えましょ~★とにかく生の世界において、人間の感覚はこの3つに分かれると思うのです。 ↓ えとね、ココまでにしときます。(笑)長くなり過ぎてもいけませんしね。 ↓ ドラブレ様のお蔭で、抽象をテーマにこの神無月を過ごしてきました。 ↓ 貴重な一ヶ月を、ども!ありがとうですッ!! m(_ _)m ↓ 私はそろそろ具体的な生活に戻ります。 ↓ ンではまたっ★(『ドラちゃん』が気に入らなかったら、お許しを……A^・^;) ↓ Agape
お礼
どっか(どこか忘れた。らーめんやのような気もするが、空がまだ明るかったのでどうかと思う)にいって、棲家(家ね)に辿り着くまでに、力尽きたというか、どうにも座り込みたくなって、うろうろしてたらついには行き倒れたんです。 道で。車もブンと、時には走りますから、さすがにそこでへばるわけには行かない。で、その道の北側(地元は南北に斜面で、北側が山、南は海。)が、石垣で一段高いプレーンになってて、駐車場になって居ります。石垣をよじ登って、駐車場は柵に覆われていますから、その柵の脇、コンクリートでなだらかなスロープになってて幅が一メートルくらいあるかな、わかりにくい状況だろうけど、そこで、座り込むどころかあっさり寝てしまったわけです。 道行く人からは、石垣の上で座っていれば見えるけれど、寝ていれば見えなかったのでしょう。 いつもの道、車、行く人と、ごく近しい距離にありながら、自分は居なかった。 で、そこ(駐車場の脇)で寝ながら空を見た感覚は、 どうってんでしょう。 静かで、のんびりしてて、温度的に寒いけど寒くなくて、ああ、これは猫だと。 道端でも塀の上でも寝たいときに寝る、猫の気持ちだと、いうなれば、こう訳せるように思います。 このように描写すれば、抽象的生活というのは至極具体的に、そうで無い生活とに差異があることがわかる。寝たければ道端でも寝るというような生活です。 抽象的になって思うことは、動的、具体的な頃?(そんな頃あッたんかいなと思うが)には、なかった危機?そだね、危機が、満ち満ちていること。なんか、充満してるんですよ。静かだけれど、危機なんですね。明らかに。 抽象的生活において、危機は襲い来るものではなく、満ちているんです。 なんつーか、それで(それでかどうかしらんが)、抽象的生活に、「動き」ではなく俯瞰的に見る「流れ」があることに気づきました。生の流れ。存在の流れ。などなど。流体ってゆうんですかね。これは静かなんですが、内も外もなく流れとるんですね。自分は、流れる以外に術を持たないわけです。つまり、ここでは自分(他も)というのは、流れですね。存在も流れ。 だから、止まってるけど流れてるわけです。 まぁ、ここらでヨイショしておこう! さんきゅー、ウォンウォン。
補足
今日のドラゴンブレインは、50ウォンPくらいです(ウォンP的テンション幅)。 んで、抽象的生活の記憶を省みると、あまり出てこない。ですが、こんなことがあったんですというよなことを、お礼に書こう。書いてみよー。 (御礼下部の注釈:ヨイショ→卸す(原稿を卸すなど)
生活の中での嬉し悲し……コレ本当は、至極具体的に出来ていますよ。 まぁそれは良いとして……ども!#4でございます。m(_ _)m あれから、抽象的生活を実践してみました。 要は、逆キャンプですね。 大自然。具体的な腹の足し。様々なノウハウ。 そこで養われる、不思議な英気。(時にはロマンス(笑)) ――これの逆です。 ついでに、このサイトの質問にも、 あえてポイント絶対貰えそうにないのに答えてきました。 あ~……疲れますよ。(笑)ホント。 「素」て言いますね、最近。「アイツ、いま素だな」とか。 余裕ぶった状態の反対で、無防備・無表情の状態を指す様です。 木枯らしの街を歩いてみるに、大体の人が「素」の状態で歩いています。 一人の場合ね。 人間存在を問う場合、「一本の葦」だとか「個人」を問う場合が多いですから、 まぁ「人間は考える"す"である」と言った所でしょうか――? でも、私は「そんな状態は素ではない」と思うのです。 個人主義の世の中では、たいてい答えは「人それぞれ」なのですが すくなくとも私の素は「一人でいるとき」ではなく 「誰かといるとき(まぁ……特に好きな人ですね)」だと考えております。 街中で知らないおばちゃんに挨拶するのを躊躇ったり、 部屋でこっそりエロビデオ鑑賞の時間を過ごすのは……まぁ楽しいんですけど(笑) あくまで存在としての代替手段だと考えます。 ホントは愛想も尻尾もふりふりして、はしゃいでいたいのです。 (←―やはり人それぞれか……?(笑))早い話が、性善説ですね。 そりゃぁ善いほうが良いに決まっております。ん、こっち採用ッ !! (笑) 個人だけを切り離して見たほうが、一見解りやすいんです。 しかし、そうなると説明の付かない部分がかなり出てくる。 そりゃそうです。人間は「人と人との間」と書きますからね。 だんだん金八先生みたいになってきましたが、 そういう目先の解りやすさが抽象を生んでしまうのだと思います。 回り道しようが、気力さえあれば人間は具体的思考のほうがラクです。 抽象的思考――それはショートカットだと思います。 便利です。でもショートカットしまくるとコースアウトします。 どんだけぶっ飛んだ思考にも、日常は大切だと言うお話ですね。 よって、抽象的生活とは、ショートカット多き道の事なり!ジャンジャン♪(笑) (※長々と失礼しました~。。。 m(_ _;)m )
お礼
ずっとはなしていたいけど~ ことばがたりなくて~♪ ずっといっしょにいたいけど~ じかんがたりなくて~♪。 うーむ。 ウォンPさんは、こんな↑友だちでしょうか。 この上も在るにはあろうけれども(^^、すっごい好感触。 そんなあなたの「疲れた。。」なんて、 {靴紐かなんかで一緒に歩いてた友だちからはぐれて、遅れて、一生懸命走って友達に追いついて、そこでいう「疲れたぁっ。」}みたいなもんです。 その友だちは、遅れて、友達との距離のままに、はぐれて、歩いていても、爽やかなもんです。 静かなもんです。 元気なもんです。 抽象的なもんです。 そういう風に、誰かとの間に在る距離のままに、居れる、過ごせる人です。 そのくせ、いろいろ問題を抱えることもあるし、撒き散らすこともある。 「ホントは愛想も尻尾もふりふりして、はしゃいでいたいのです。 」 ウォンPさんの影響でハイテンションです。 静かなもんだ(^^。 逆キャンプのアイデアを聞きまして、大自然が、やって来る。在るがままの人工世界に。ということで、「カミングバック大自然IN ぱんぷきんトレイン(満員電車)。」なるものを想像しました。 まぁ、ガラスを全部取っ払って、満員電車が走ってゆくというお話です。。到着した頃には、みんな何かを風で拭い去られたような、そんなテンションになっているのではないでしょうか(^^。(なるでしょ?風に当たりすぎたら、でろーんって。) 「「素」て言いますね、最近。」 ジャンジャン♪とはいいませんよね!最近。(^^。 そこらへんがトリッキー! どーもアリガットです(←外人)。 冒頭の部分のように、もっとはなしたいけど字がたらん。(グッッ!) だ~からぼくら~♪まんまのまんまなのさ~♪ うごく大陸にのってー♪ うごく空をみるー♪。 僕の抽象的生活は、コースの外だろうがINだろうが、止まっている。止まってて、動いている。だから、今までの動きが消えて、そうなったみたいな。 そんな表現があてはまりそうです。あなたの場合はどうですか?ショートカットということと、止まっていることが、すこし近似しているように、僕には思えました。
- mukudori
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NO6です。 >リアリティとは何処にあるか? 抽象的生活というものにおいて、リアリティは、どうなのか? そのようなことを、おききしてもよろしいでしょうか? リアリティと言うものは根底にあります。 我々は地に足をつけずして生きることはできませんから、 生活と言うもの自体は本来それを意味する事だと私は思います。
お礼
スマートな回答と感じました。 リアリティというものは根底にある。 本来、生活そのものは、根底に生きるという意味。 だから、そこにはリアリティ(根底)がある。 果たして、生きること、(または生活(地に足をつけて生きること、そうせねば生きれないということ。))は根底だろうか?根底にそれ(生)は在るのだろうか? 回答をいただいて、私はこのように、思いました。 絵を描くという事の根底にも、リアリティはあるのでしょう。 では、リアリティの根底とは、それ(リアリティ)が根底か? 二度にわたる回答、 本当に感謝いたします。 リアリティ(根底)が在るというのは、それが、遍在であるのでしょう。 しかし仮に、穴の開いた遍在は、穴の向こうには行けない。 何故なら、その穴の向こうは、無いから。 そういうわけで、言ってみれば、真実というのは実に穴だらけ。いや、「実」ではないが。 ともすれば穴の上にあるようなもので、根底を持っていないのではないか? そのようにも思うわけです。 どうもありがとう。 考えれました。
- mukudori
- ベストアンサー率20% (29/142)
人の脳を通るものは皆、具体的にも抽象的にも変化できるものだと私は思います。後にも先にもなく、優位も劣位も無いものと思います。 例えば階段の踊り場を通る時、それが名称そのもので見ることしか出来なければそれは具体的にしか存在しません、ただ登って降りるのみの生活的行為です。 しかし一歩足を前に出しながらもその場所からムードを感じ取り、階段の踊り場という生き物と対面しているようだと思ってしまえば抽象的になります。例えばの話です。 なので求めれば求めただけ生活は抽象的になるものなのではないでしょうか。 ちなみに私は絵を描く者です。 90%の日常生活と10%の想像世界を混ぜて描いています。普段の生活は、具体的日常生活から抽象的なものを掬い上げる物の見方を心がけています。 ちなみに言葉の使い方でも物事は変化するものだと思います。 以上です。
お礼
ほんとうにいろんな回答がありますね。 安心、いや、納得?とにかく感謝します。 静かな言葉振る舞いの裏に、熱い、厚い?何かの印象を受けました。 もしよろしければ、リアリティとは何処にあるか? 抽象的生活というものにおいて、リアリティは、どうなのか? そのようなことを、おききしてもよろしいでしょうか? もしお気が向けば、お答えいただきたい。 別にスレッドを建てて、あえて空気を逃がす意味も無いので、ここで尋ねます。 つまるところ、「抽象的生活に、真実性はあるか?」 こういうことです。 >ちなみに私は絵を描く者です。 私はどちらかというならば、絵になるものです。 非常によい、いや、よいのではなく、なんというか、これは失礼な表現ではなく、感心をこめて、読むに足りる回答、ありがとうございました。
- mktoolll
- ベストアンサー率22% (20/88)
万物は抽象的なものだと考えています。 今回は人間の活動範疇においての「抽象的な生活」を考えてみます。 「生活」においての抽象的側面と具体的側面ですが、うーん・・・いくら考えても具体的にしか感じられない。 やばい、私の抽象的スイッチが切れたので具体的スイッチだけで考えてみよう。 喜怒哀楽(物事に対する反応だから具体的)、人生(人が生まれてから死ぬまでのことだから具体的)、仕事してる人(文字通り具体的)、無職(文字通り具体的)、精神(人間の心の中のことだから具体的)、人生の意味(個人個人が自分の人生に対して見出す目的だから具体的) 人間が創作してきた言葉は、それぞれに具体的意味を持っているようですね。「抽象的」という言葉さえも「まわりくどく説明するしかない物事を指し示す言葉」という意味でとても具体的だしね。 とらえ所がなく、何にも形容できない「生活」を送る人は少なくとも地球上にはいないと思う。 もし、「火星から毎朝UFOを乗り継いで出勤してます。」という社員がいても、本当なら具体的(ビックリだけど)だし、嘘ならユーモア、思い込みなら病気だし・・と非常に具体的。 意識レベルでも同じ事だと思うな。 明確な目標と不明確な目標、どっちも結局具体的。 自分自身を追い詰めて生きるかダラダラ~と生きるかの違いのように感じます。 現代は高度な情報化のおかげで、人生でやってみれることの選択肢情報がいっぱいありますので、つまみ食い的人生を選ぶ人が多くなってくるのは必然です。 どちらが悪いなんてことはなくて、他人に迷惑かけず食べていけるのならそれで良いと私は思っています。 今回の考察での私自身に対する結論として、人間の「生活」に抽象性は皆無である。 最後に、この宇宙に存在するもの全ては限りなく0に近い確率で存在し消滅している、人間はその全てについての「何故?」に回答することはできていない。その意味で、やはり、万物は抽象的である。 以上、今回の質問で感じた事を書いてみました。
お礼
うーむ。 限りなく大量のヒントを得た気がする。 非常に、得体の知れない気持ちが湧き上がってきました。 ありがとうございます。 よくよく考えて、もし考えて言うことがあれば、補足の欄を使用させていただきます。 ありがとう。 最初に、万物は抽象的だと言ってしまわれたところに、非常に興味を覚えました。 最後にその理由が簡潔に説明されているのも素晴らしい。 ただ、「人間の暮らし」と、「私の暮らし」は違うのではないか? そう思います。 なぜなら、地球であろうが、何処であろうが、関係ないからです。 抽象の秘孔は、「私」に隠れているのかもしれません。 ほんとうにおもしろい回答をいただいた。
ぼんやり・ふわふわ・宙ぶらりんな、もそもそwant-my-pcです。m(_ _)m ★★★ なんとなく、こ~漠然とした……何でしょう?(笑) ―――― 具体例が解りやすいでね。やっぱ。 よし!そ~しょ。ウン。 20世紀の始め頃、「表現主義」てのが流行ったンです。 あらゆる芸術ジャンルで。 絵はそれまでの「印象派」から、急にグチャグチャぱーのピーヒョロロンになるし、 建築は、ぐにゃぐにゃ 且 横から視るとシャキッ!としたような。 映画は『カリガリ博士』などという妙ちきりんな title だし 音楽に至っては、爆チュー問題よりもでたらめな、節も音階もありゃしないようなのね。 ご苦労様でした。ご苦労様でした。m(_ _)m ……で、その音楽のほうです。 内面の真実を、直接的に描き出すのが表現主義なんですね。 絵画や建築・映画。これらはまだ解るンです。 「なんとなく訴えてくるものがある」というか「やっぱ解んね」ってか。 ところが表現主義の音楽ってのは、ただただ不快なんですよ。 「キィ~ッ!! ……っちゃもう」って感じですね。 耳直しに演歌を聴きたくなりました。 それは前述のとおり、節も音階も「下手糞」通り越して「出鱈目の境地」だからなんです。 ポップ衰退気味の音楽界ですが、まだまだ全然安心ですね。 人間の精神が進化して、あんなのみんな聴きだしたらど~でしょう。 自分だけ昔のままの感性でいたなら、間違いなく発狂してますね。 SEX PISTLES とか、もう全然ポップですよ。 表現主義の前じゃ。 節もなく音階もない、宙ぶらりんのチーパッパなんですよ。パ~プ~ー!! 絵画や映画は、それでもまだ枠があるから助かるンですね。「こっち側は 非芸術」 建築は、言うても 重力の法則に従っているから、安定してんの。 でも……音楽の表現主義は救いようがないですよ。 ――~~ はい! 今のが前置きです。(笑) ここから「抽象的な生活」を説明しますよ~。 あっ気なく言いますが、「節も音階もない生活」ですね。 音楽を聴くとき、われわれは無意識に 次の展開を予想しているのですよ。 それが出来ない。 だから「具体的な目標を持って生きられない」ンですね。ジャンジャン♪****** ……結論はえらい陳腐になってしまいましたが、(笑) ま~ぜひ一度ですね、表現主義の音楽を聴いてみてください。 認識 変わります。否!認識ぶっ飛びます……(※妊婦の方はご遠慮ください。) ★★★ ※ 一部、表現主義的な表現が含まれておりますが、adviceの性質上必要不可欠です。 けっして お手を触れないで入れないでください。。。 m(_ _)m
お礼
前半でかなり盛り上がったせいか、おもしろい。 そして、このアドバイスで、自信ありってところが、具体的だけど、抽象的傾向な感じを受けます(^^。 >ぼんやり・ふわふわ・宙ぶらりんな、もそもそwant-my-pcです。 等身大は知りませんが、アドバイスは、かなりパキッとしてるじゃないですか。 オ○・ヨーコ。ヘンレノンのあの人。 やってましたね表現主義。 まぁ、それもともかく、今までの延長、流れ、今までの耳で、今を「聞く」からつらい。 音量などの鼓膜の弊害、身体的な問題をクリアすれば、表現主義の音楽、それも静かになる。抽象的生活においては。 こんな感じです。 で、いただいた回答。 「あっ気なく言いますが、「節も音階もない生活」ですね。 音楽を聴くとき、われわれは無意識に 次の展開を予想しているのですよ。 それが出来ない。 だから「具体的な目標を持って生きられない」ンですね。ジャンジャン♪」 実にはっきりした回答です。 もし、僕が世の中にこれを感じていて、それが事実ならば、かつ、世の中が、具体的目標を強いて求めず、具体性に縛られていないなら。世の中はマシになった、もしくはなる。(よくなるわけではない。マシになる) 「具体的な目標を持って生きられない」 これは、好感が持てる人に多いと思いませんか? 「抽象的な安定性をもって生きているかもしれない」という事になるかも。 でも、↑な人は、結構具体的にも見えるんじゃないかなぁなどと思います。もちろん、別に、抽象をヨイショしてるわけではないですよ。 非常に参考になるアドバイスでした。 ありがとうございます。 (表現主義の音楽ついでに。川の流れとか、滝壺の音とか、木の葉擦れ(風で鳴る音ね)など、出鱈目の境地にしては心地良い。表現主義も、意味を汲み取れば結構深い井戸かもしれません(作品にはほとんど接して無いけど)。
- sowow
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「人間」やってれば、やっただけ抽象的生活になってくよなー。(へんな日本語ですが・・) とゆう感想です。 抽象の具体的正体が知りたいです。
お礼
何処となく共感のあるご感想、ありがとうございます。 >抽象の具体的正体が知りたいです。 こういう想いをもたれる場合もあるということで、参考にさせていただきます。 どうもです。 (そういえば、どうもということばは、NO2でいただいた回答に当てはまりそうですね。)
- 1
- 2
お礼
私も、抽象事物(平等とか)を考えると思考は沈没し、静まります。全体を統括するような事柄を思考する場合、思考は、どっかの海を漂っている。 そして、それがことごとく生活に成就してくる。 これを、思考と生活の分離がなくなるところだろうと、つくづく思い、それを抽象的生活と、あざ名すことにしました。 >「具体的な生活」というのを考えた時、例えば「めしたき」・・・・生活そのものではないような気がします。 そのとおりだと思います。おっしゃるとおり、生活を全体的に統括するのは、生活であり、それは、少なくとも具体的とは言えないでしょう。それを、抽象、非抽象に論じたところで、生活の捉え方を語っているに過ぎず、生活そのもの(本質)を語ってはいない。 世俗の兆候として、具体に脅迫されているような気がします。具体はこういいます。 「具体的なものこそが実体、実質であり、リアリティなのだ。」 具体物というのは、宇宙が消えるときには、何の役にも立たないし、誰もそれには見向きもしないだろう。 そこはかとなくわきつくるよしなしごと。 それが具体です。 (まして抽象が役立つとは言わないが)。 はじめから世に、具体など存在せず、それら全ては幻想に過ぎなかった。 想像の先立た無いところに、それだけでなく何者も先立たない所に、抽象的生活はある。 抽象と具体を、あい対する者として捉えるのはそもそもおかしいが、「抽象は、具体よりもリアル(真実的)だ」という、明快な結論を、この御礼で私は言っておこうと思います。 余計なことばかり言ってしまいましたが、これにて。 ありがとう御座いました。 追記:もし、真実的な具体、抽象的な具体をあげるならば、それは、いじれない具体、どうこうできない具体だろう。つまり、「謎存在」です。 謎の生活は、抽象的生活のようであるかもしれません。謎(明白でないもの)が真実的であるというのは、おかしな話で、話の落ちにもちょうどいいです(^^。
補足
おー、ありがとう御座います。 返事が遅くなってすみません。 もう少し詠ませてもらい、そのあとに御礼に馳せ参じつかまつりたいと思います(なんのこっちゃ)。 ともかく、ひとまずの御礼を言っておこうと思い、補足欄を使わせてそれをささせていただきます。ありがとうございました。