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戦国時代の知行について
見てくださった方、ありがとうございます。 知行についてよく分からないことがあるのですが…武士は主君の為に働く見返りに土地という給料をもらうわけですよね? 柳川13万石ならば13万石ほどの米を生産できる土地をもらい、治めるわけですが、例えば300石などの低い知行しかもらっていない武士でも300石の土地を与えられたのでしょうか? そんな細かく土地を分けているのかなぁと疑問に思ったので聞いてみました…。 また、部隊を率いるようになるにはどの程度の知行をもらっている武士だったのでしょうか? どなたかご回答よろしくお願い致します!
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あまり聞いたことのない言葉や内容が出てきますので、参考資料をつけることとしたいと思います。書籍のコピーは著作権の問題があるので、ウィキペディアが中心となりますがご容赦ください。 江戸時代と戦国時代は同じようでまるで違うということです。まず、最初に戦国時代の知行ですが、石高制ではなく、貫高(かんだか)制がほとんどであったことです。1貫を2石(他の考え方もあります)に換算する方法もあるので、それに従うと300石は150貫になります。 石高制について。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98%E5%88%B6 貫高制および石高制の移行(貫高制の終焉の項目を参照してください)について http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%AB%E9%AB%98%E5%88%B6 次に武士の居住について、江戸時代は島津藩などの例外を除き、城下町などの藩主居館・藩庁のある場所であったのに対して、戦国時代の武士の多くは農村に住み、農業経営者でもあったことです(後期になるに従い戦国大名の力が高まると城下に集住するようになります)。 戦国時代の下層武士であった地侍について http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%BE%8D 地侍より上層の土豪について http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E8%B1%AA より上層の国人について http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%BA 関連項目として寄親・寄子について http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%84%E8%A6%AA%E3%83%BB%E5%AF%84%E5%AD%90 三番目に武士と主人の関係について御恩と奉公と言われますが、この内の御恩については新恩給与と本領安堵の二つがあり、本領安堵も多かったのです。地侍クラスであれば自分が耕作している土地や、支配していた土地を含めて本領安堵を受けることが多くありました。戦国大名などの主人にすれば、本領安堵することにより武士を家臣化しようとするわけです。また主人は、本領安堵によって支配の公認と、もしもの時にその土地を守っていくことになり、これが御恩になります。武士は、この見返りに軍役奉仕することになります。ですから、武士は主君の為に働く見返りに土地という給料をもらうだけではないのです。当然軍役奉仕に伴って手柄を立て、新恩給与として新規に土地を与えられることも多くありますが、この場合は占領地であることが多く、本拠地からは離れていることになります。 なお、残っている資料からは新恩給与・本領安堵ともに10貫未満のものも多くみられ、中には1貫に満たない場合もあります(一か所ではなくあちこちに知行地を持つものが多いので、一か所とは限らないのですが)。当時、1町(約1ヘクタール)当たり10石の米収があったとされ、これを貫高に換算すると5貫となります。広さとしては約100m×100m=10000m2です。現在の田圃でも1町の田はそれほど多くありません。数反(1町=10反)程度の田も多く存在します。戦国時代ではこの傾向はもっと高く、田一枚ごとの知行宛行(あてがい)もあったと考えられます。さらに、土佐に一領具足という制度があります。半農半兵の存在ですが、このような階層は多くの地域にあり、また農業経営の規模も、武士としての格(兵か士か、徒歩か騎乗か、単身か従者ありかなど)や規模についても各自バラバラですが、手作地の年貢免除だけで軍役奉仕の層はかなり存在しています。ですから、300石=150貫程度でも少ないとは言えません。また、100石程度から騎乗身分とみなされますので、騎乗の武士(ひとかどの武士)で、従者が数人付きます。300石となると在地領主としての土豪くらいになります。 後世の資料になりますが、旧高旧領取調帳(明治初年の近世末から明治の郷村調査表)を見ると、村(現在の大字―おおあざ―程度の広さ)の持高(年貢高)が1000石を超える村は少なく、だいたい数百石規模です。 一領具足 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%A0%98%E5%85%B7%E8%B6%B3 騎乗身分(士分) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E5%88%86 旧高旧領取調帳データベース(調べられます) http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 長くなりますが次に続きます。
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- damerimen
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武士が主君のために働く見返りに土地を給料として貰うのは 石高制ができたときは崩壊していました。 給与制になったんです。 主家が一気に換金して給与を臣下に支払う。このシステムになりました。 幕末まで土地を給与としてもらってたのは尾張名古屋と仙台伊達の2家だけです(地方持高制といふ) 田と言うのは今でも残ってる考えですが反収=一反(300坪)当りの収量が大体決まっているものです。 普通1反辺り3石、9俵が見込めます。 軍役中は1食=2合と決められており 日に6合 月に180合 0.8升 年に4320合 4.3升 4斗 となります。 4斗=一俵ですから 一人当たりの食費がはじけます。 じゃぁ300人だ!と計算しちゃいけません 兵糧用でもあるし武器整備や修築などにも使わねばなりません 通常は3人程度の軍役が課せられたようです。地方によってことなります。
- isaa535
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5です。 戦国と規定すると該当年数が長くなります。 貫高制は秀吉太閤検地により石高制に移行しました。 柳川13万石は太閤検地の後の石高制の時ですので私の回答はそのころ の事になります。
- fumkum
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続きです。 次に部隊の指揮官に関してですが、部隊といっても規模の差があり、また、地域、家により差や呼び方が違い一概には言えないのですが、各種兵科を持つ独立戦闘単位の備(そなえ)はおおよそ300~1000人規模で、指揮官は士(侍)大将と呼ばれ、江戸時代の小大名クラス、戦国時代においては先述した寄親・寄子の寄親クラス、おおよそ戦国大名家の家老等と呼ばれる重臣=多くは旧国人領主クラスです。 備の中の各種兵科には、弓足軽組・鉄砲足軽組・長柄(長槍)足軽組などの各50人前後の足軽隊が存在します。この指揮官が足軽大将と呼ばれ、だいたい騎乗身分から選ばれています。ウィキーには近世の柳川藩の例が出ていますが、それには200~300石クラスとされています。戦国期では100貫程度以上になっているようです。さらに騎乗身分の者を中心に編成された騎馬隊があり、指揮官は番頭、物頭と呼ばれ、500貫より上の層、多くは数千貫の知行を持つ者が任命されているようです。 足軽大将 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E8%BB%BD%E5%A4%A7%E5%B0%86 備 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99 長くなってしまいました。参考程度に。
- isaa535
- ベストアンサー率56% (31/55)
知行であれば戦国、江戸を問わず300石の武士であれば米が300石 取れる土地の支配権を(税取立て)主君から与えられていると言う事になります。 支配権のみですので土地及び民を私有財産に出来たわけではありません。 300石の内、税率分の米を得る事が出来ました。 当時の一般的な課税は五公五民(50%)でしたので150石が300石 取りの武士の給与となります。 土地が細かく分けられていたかと言うお話ですが、税を税率分取る為に当然 細かい住所までは決めていませんが地主単位で何石取れるかの記録はあったはずです。 地主は更に小作人単位で把握していたでしょう。 その事から考えると武士に対しての知行は大きな振り分けは村単位で その下の単位は地主単位だったと思います。 尚、知行の他に蔵米知行(戦国)、蔵米支給(江戸)と言って主君の直轄地で取れた米を支給 される武士もいました。 蔵米は織田信長が兵農分離した際に傭兵の足軽大将などの支給で始めた記録があります。 江戸時代になると蔵米支給が主流となる藩が多くなります。 知行ですとあまりにも狭い知行で運が悪いと飢饉、台風で米が取れない場合 大変な事になります。 部隊を率いた最も低い足軽の上の足軽組頭で数十石だと思います。 木下藤吉朗がねねと結婚した時の長屋暮らしのあれです。
- tanuki4u
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そんな細かく土地を分けているのかなぁと疑問に思ったので聞いてみました…。 ↓ 分けています。しかも田一まいづつをカウントしますので、もっと細かい数字となります。 ざっくり江戸時代中期で 3000万人の国民がいて 3000万石のコメを生産していた。 農民人口が8割程度。 つまり、8人の農民で10人分のコメを作っていた。 10人家族の農家で考えれば、10人で12.5人分のコメを作る田を保有して生産していた。つまり農家単位で言えば、12.5石のコメを生産していた。農家一軒ごとに税金をとっていたわけですから、12.5石単位で把握しています。 実際には村請となりますが http://www.teu.ac.jp/aqua/GS/2009/Paper/Metoki_2009.pdf ここのシミュレーションの元になっているのが 平均集落 500人 600石程度の生産力。 ちなみにこれでも江戸時代は大雑把というか一元的な統治がされております。 その前の段階では、1畝づつ所有者が違うというのが室町時代の常識だったようだ。
- izuhara
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ご質問の趣旨とずれるかもしれませんが、 戦国時代をはじめ主従関係は基本的に双務的契約関係ですので、知行を安堵(保証)してもらう見返りに、定められた軍役に従う、と理解した方がよいと思います。 知行が給料化したのは江戸期に入ってからです。 柳川13万石の例で言うならば、秀吉は立花宗茂の軍忠を評価して、13万石相当の土地として柳川を中心とする土地を与えました。 宗茂はその見返りとして、13万石に応じた軍役を務めることになります。 100石あたり1人の軍役であれば1300人を動員し、100石あたり3人の軍役であれば3900人を動員します。 石高はあくまでも軍役の目安であり、実際の収穫量とは異なります。 江戸期には、石高が家格となり、土地は増えていないのに石高増加を望むことがしばしばありました。 土佐9万8000石だった山一豊は、後に20万2600石への増石を上申しています。 http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 国立歴史民俗博物館の旧高旧領取調帳データベース で江戸期のものですが、全国の村の石高がわかります。 数十石の村もまれではありません。 最後のご質問については、部隊を何人規模とするかによりますので、お答えできません。
筑後にあるかどうかまでは知りませんが、全国的には村高300石程度の村はあるでしょう。 細かく分けているとは思いませんが。 部隊の程度が不明ですが、村一つでも戦うときは戦ったと思います。
- PENPENMAKKY
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柳川13万石は、柳川藩の総収入です。柳川藩で働く侍はここから給与をもらいます。 旗本は幕府からです。 尚、土地はもらえません。土地は百姓など地主の物です。石高は徴税権に過ぎません。 300石は上士に分類されます。上士は100石以上です。これは全武士の1割程度と言われてます。小藩の300石取りは家老か中老です。 100石で3人ほどの部隊を率います。100石未満は大名の兵隊です。