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戦国時代の大名の石高 徳川家
大名の石高はコメの生産高(米何俵?)でしょうか。 疑問に思ったのですが、徳川家康が戦いで勝つと、勝った相手の領土が自分のものになって自動的に米俵が入ってきたのでしょうか。農民たちは何の抵抗もなく、勝利した戦国武将に米を差し出していたのでしょうか(人が好過ぎる)。負ける側の武将はやけくそになって米俵を焼却したりしなかったのかな。農民は自分の田んぼで取れた米のどの程度の割合を差し出していたのでしょうか。 時代劇は美しく演出されていますが、ひどいことをしていたのでしょうね。
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>大名の石高はコメの生産高(米何俵?)でしょうか。 基本は、その領地の米の生産高ですね。 1石は、1両でした。 米が収穫できない対馬・北海道などでは米以外の農産物を基準に石高を決めていました。 >徳川家康が戦いで勝つと、勝った相手の領土が自分のものになって自動的に米俵が入ってきたのでしょうか。 先ず、配下の武将に奪い取った領地を与えます。 残った領地は、幕府直轄地として代官を派遣して統治を行います。 代官は、名主・庄屋に命じて年貢を徴収します。 >農民たちは何の抵抗もなく、勝利した戦国武将に米を差し出していたのでしょうか 農民たちは、領主は誰でも気にしていません。 時代劇では、農民は弱小に描かれていますが「実際は、強い」のです。 幕府も各藩も代官所も、農民一揆を一番恐れていましたよ。 現在でも、市町村長が誰になっても気にしませんよね。^^; 気にするのは、利害関係者のみ! >負ける側の武将はやけくそになって米俵を焼却したりしなかったのかな。 基本的に、農村部では戦闘はありません。 負けたから「収穫前の農地を燃やせ!」という武将は、勝敗に関係なく双方から非難されたのです。 勝者から、徹底的に処罰を受けます。 武将の切腹では済みません。 >農民は自分の田んぼで取れた米のどの程度の割合を差し出していたのでしょうか。 「4公6民」が一般的でした。 収穫の4割が年貢。残りは農民の取り分です。 「お主も悪よのぉ。お代官様ほどでは・・・」 この様な時は、年貢の比率が高くなります。
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- gunsin
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農民は生産物の内、決められた割合で年貢を納めます。 俺達が土地を守っているので農業が出来るのだからと言う理由で 大名が上前を撥ねるのです、それが年貢なのです。 搾取される側の農民は、戦に負けた大名が誰に代わろうと、搾取 される事には変わりないので新しく大名に、成った殿様に黙って 年貢を納めるのです。 この事は、王様が居る世界中の国々が同じ図式です。 農作物の不作が続いて決められた年貢を納められないのに、強要 すると、餓死するしかないので、島原の乱などの様に農民一揆を 起こします。 フランスでは農民の一揆で王政が倒れ、王様のルイ16世、王妃の マリー・アントワネット等の王様一族が、ギロチンで首をチョン 切られました。 島原の乱では10万人以上の農民が殺されましたので、米を作る 農民がいなくなったので、幕府は近隣の諸藩に命令して農民を 移住をさせました。 乱を見た、他藩も農民がいなくなると困るので、虫けら同然の 農民の接し方を改め、多少、農民を大切にするようになりました。
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- f272
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大名の石高は領地でとれるコメの生産高にもとづいていますが,同じものではありません。検地によってその土地からとれるコメの量を決めます。米以外の農作物や海産物の生産量も米の生産量に換算します。このようにして村単位で石高を決め,大名が領有するすべての村の石高を合わせたものが大名の石高になります。実際にその村で取れるコメの量は毎年変化しますし,田んぼの面積も変わりますが,新たに新田として登録しない限りは石高は変わりません。 領有する領主が変われば,新たな領主に年貢を納めます。今でも国に税金を納めるのと同じことです。 > 負ける側の武将はやけくそになって米俵を焼却したりしなかったのかな。 そういう例もありますが,負けるというのはたいていの場合は家来になるということです。だったら勝った側に対して心象をよくしておいたほうがよいでしょうね。家来にならずに殺されるのなら,コメを焼いているような暇はありません。逃げるか,戦うかです。 > 農民は自分の田んぼで取れた米のどの程度の割合を差し出していたのでしょうか。 6公4民ならば石高の60%を年貢として納めます。5公5民ならば石高の50%を年貢として納めます。江戸時代の初めのころは農民の取り分が少なかったのですが,後になると4公6民だったり3公7民だったりします。さらに隠し田を作ったり農民もしたたかです。
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