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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:清和源氏と桓武平氏について)

清和源氏と桓武平氏の武士の起源と現在の状況について

このQ&Aのポイント
  • 清和源氏と桓武平氏は、武士の起源である荘園の発達と関係しています。
  • 天皇家の貴種からなぜ武士の集団が生まれたのか疑問です。
  • 現代の社会で、清和源氏と桓武平氏の子孫はどうなっているのか、その血筋は続いているのか気になります。

質問者が選んだベストアンサー

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  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.5

> なぜ、天皇家という貴種から、武士の集団が生まれたのでしょうか?  天皇家という貴種から、武士の集団が生まれたのではありません。  土着の武士が、自分たちの利権を守るために、貴族や寺院に対抗できる貴種を頭(かしら)に頂いたのです。そして「吾こそはその一族である」と称して権威付けに利用した、というダケの話です。  ちなみに、天皇家は貧乏でした。子供たちを十分食べさせられないので、「自力で生きろ」と、姓を与えて臣下にしてしまったのです。臣下になれば、いわゆる貴族と同等に公務員的な役職に就いて報酬を得て生きて行けるシステムだったからです。  なぜ貧乏だったかと言えば、公地公民制度だったのは昔の話。当時は貴族や寺院が広大な「荘園」を抱えて年貢などを私(横領)していたからです。 > 清和源氏と桓武平氏の子孫の人々っていうのは、今、日本の社会で > どうなっているのでしょうか?  残念ながら、清和源氏の嫡流は、3代将軍実朝の死とともに滅んだことになっています。  分家でよければ、足利や新田氏が鎌倉幕府を倒し、あるいは室町幕府を興して、有名になりました。  さらにその分家の、古河公方足利氏の末裔が徳川幕府から喜連川(現さくら市の北東部お丸山公園)に封じられてから「喜連川」姓を名乗っていました。  足利では、徳川の主筋となってしまいますから、遠慮していたんですが、明治維新とともに徳川に対する遠慮がなくなって「足利」に戻って子爵になった由です。  さらに「高家」、例えばあの仇討ちで有名になった「吉良」さんなどとして残っていました。  そう言えば、明智光秀は美濃の「土岐源氏」の分家ということになっていましたが、先日見たTV番組に、光秀の末裔という人が出ていました。もちろん「明智」姓ではありませんでしたが、本当なら生きているわけです。  桓武平氏は壇ノ浦あたりで滅んだことになっていますが、一族はたくさんいて、鎌倉幕府の執権だった北条氏も桓武平氏を名乗っていたはずです。  そんなわけで、嫡流の「源」や「平」を名乗っている人はいないと思いますが(名乗っている人はいるが、明治以降の姓)血脈は続いていると思います。足利さんなら明治までは確実に存在したわけですから。  余談ですが、大戦後「吾こそは南朝の正当な子孫である」と言い出して物議を醸した(現天皇不適格確認訴訟までやった)人はいます。興味があったら、「熊沢天皇事件」といいますので、検索してみてください。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 > なぜ、天皇家という貴種から、武士の集団が生まれたのでしょうか? ~~.権威付けに利用した、というダケの話です。……そのように理解をし直します。  ちなみに、天皇家は貧乏でした。~~当時は貴族や寺院が広大な「荘園」を抱えて年貢などを私(横領)していたからです。……そのように理解をし直します。  残念ながら、清和源氏の嫡流は、~~例えばあの仇討ちで有名になった「吉良」さんなどとして残っていました。……そのように理解をし直します。 そう言えば、明智光秀は美濃の「土岐源氏」の分家ということになっていましたが、先日見たTV番組に、光秀の末裔という人が出ていました。もちろん「明智」姓ではありませんでしたが、本当なら生きているわけです。……私も、半分居眠りしながら見たと思います。そういえば明智健三郎とかいう人が、「本能寺の変」のことで本を出版していましたが、あれはペンネームだったのですかねぇ。一度、このサイトで質問したのですが、信ぴょう性がないと言われ、買うのをやめたのですが。笑 余談ですが、~~「熊沢天皇事件」といいますので、検索してみてください。……この後、調べてみます。

その他の回答 (4)

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11082/34531)
回答No.4

>天皇様がやりっぱなしに子孫を増やしたからといって、それを養えないほどに、日本に生産力がなかったとも思えないのですが。 天皇様は自前の資産をほとんど持っていません。それは今の天皇様&皇族もそうでしょう?娘が結婚するにあたって結婚相手に1億円が渡ることが「税金の無駄遣い」と猛批判を浴びています。もしそれが「秋篠宮家の資産から渡される」んだったら誰から文句をいわれる筋合いではないわけで。 平安時代の昔から、誰が天皇になるのかはキングメーカーである貴族が決めるもので、本人が成り上がるものではないですよね。 >清和源氏と桓武平氏の子孫の人々っていうのは、今、日本の社会でどうなっているのでしょうか??? 遺伝子的には、どこかにいます。もしかしたら質問者さんや私の遺伝子にも何%か入っているかもしれません。 家系図的には、養子をもらったりして繋がっている(ことになっている)家は沢山あるでしょう。 >「万世一系」の男子というのはいないのでしょうか??? 万世一系なんてのは信仰の問題であって、現実にはそんなの無理です。日本には天皇家の他にも世襲制になっているものは(伝統芸などで)山ほどありますが、万世一系で繋がっているものなんてひとつもありません。 例えば徳川家は七代で「一系」が途絶えて、八代目がご存知吉宗です。 歌舞伎の大名跡である「市川團十郎」も、初代と今の海老蔵は血筋は繋がっていません。それは「中村勘三郎」も同じです。四代目が養子です。 江戸時代の大名家も、全部きれいに「一系」で繋がった家なんて聞いたことがないです。どこかで必ず養子が入っています。 徳川十一代将軍家斉は、なんと男子26人、女子27人もの子供を残しましたが、まず成人したのが半分。そこから子供(家斉からすると孫)はほとんどないか、早世してしまったそうですよ。Wikipediaによると男系で今も子孫が残るのは1人だけだそうです。 そのくらい「男系」で子孫を残すのは難しいのです。男って死にやすいですからね。 ただ、人類全体に視点を持つとあるひとつの興味深い「事実」があります。アジア系の男性の約1600万人は、遺伝子を調べるとある一人の「父親」にたどり着くことができるそうです。 多くの子孫を残した偉大なその男は誰なのかは分かっていませんが、今のところそんなことが可能な人がいたとしたらチンギス・ハーンではなかったかといわれています。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 娘が結婚するにあたって結婚相手に1億円が渡ることが「税金の無駄遣い」と猛批判を浴びています。もしそれが「秋篠宮家の資産から渡される」んだったら誰から文句をいわれる筋合いではないわけで。……なんで問題化しないのだろうか???と、私は不思議に思っているのですが、この問題は、宮内庁の前代未聞の大チョンボだと思います。長官の首がいくついくつあっても足りないくらいの。しっかり調べもしないで、もろ手を挙げて喜んでいた。それが今になって、「しっかり説明を」なんて、と。 もしかしたら質問者さんや私の遺伝子にも何%か入っているかもしれません。……私には、混じっていないと思いますが。笑 万世一系なんてのは信仰の問題であって、現実にはそんなの無理です。……そうなんですか???どうも「万世一系」ということの意味を誤解して、理解していたようです。 例えば徳川家は七代で「一系」が途絶えて、八代目がご存知吉宗です。……これなんですよ。吉宗って徳川家康の曾孫なんでしょう。家康の血が混じっている。だから「一系」は途絶えていない、と理解していたのです。 ただ、人類全体に視点を持つとあるひとつの興味深い「事実」があります。~~今のところそんなことが可能な人がいたとしたらチンギス・ハーンではなかったかといわれています。……そういえば「ミトコンドリア・イブ」なんていうのも聞いたことがあります。

  • D-Gabacho
  • ベストアンサー率64% (1057/1649)
回答No.3

Wikipedia「武士」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB)によれば、武士の起源には諸説あり、まだ決定的な学説があるわけではないとされています。 武士の起源に関する質問者さまの考え方は「在地領主論」と呼ばれるもので、一般の武士の発生起源としては依然として有力な学説ですが、質問者さまが疑問を抱かれたように、この考え方では清和源氏や桓武平氏のような上級武士を説明できません。 そこで提唱されるようになったのが「職能論」です。平安時代中期以降、出世の望みの乏しい下級貴族は、安定的に身分・地位を世襲するために、専門の職能をもつようになっていきました。そのなかで軍事(武芸)を専門とする道を選んだのが清和源氏や桓武平氏だったというわけです。 清和源氏や桓武平氏も武士ではありますが、一般の武士とはいろいろ違う面が多いので、歴史学では一般の武士と区別して「軍事貴族」と呼ばれることもあります。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 「荘園の成立と武士の誕生」については、しっかり自学したつもりでいたのですが、やはり、複雑ですね。整理したものをもう一度、読み返してみます。

回答No.2

>清和源氏と桓武平氏 鎌倉時代くらいまでなら、どちらも「臣籍降下」の大元が分かっていますので、出自は確かなものと言えました。しかしながら、直系の「桓武平氏」は源氏によって滅亡させられ、「清和源氏」も室町時代には没落していきました。 戦国時代になると、清和源氏の末裔を称して家格を誇張する大名が続出し(笑)、それ以降は「清和源氏」「桓武平氏」を名乗る者の信憑性がなくなっていったのです。 >清和源氏と桓武平氏の子孫の人々 「自称・清和源氏」「自称・桓武平氏」の方々なら、おっしゃる通り「溢れるほどいる」と思いますが、その信憑性には確実に疑問符が付きます。明治期の戸籍登録時にそんな疑問符が付く家系図をわざわざ作った方も多いようですからね。 >「万世一系」の男子というのはいないのでしょうか まず存在しないでしょうね。だって現在の皇室にしても「南北朝時代」のことを考えると「万世一系」ではありませんからね(笑)。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 質問した後からも、調べていたのですが、源氏や平氏にしても、「清和」や「桓武」だけじゃなさそうですね。知りませんでした。 明治期の戸籍登録時にそんな疑問符が付く家系図をわざわざ作った方も多いようですからね。……私個人も、先祖は4代までたどれるのですが、どうも、「清和」も「桓武」も名乗れそうもありません。農民だったようで。今更、偽の家系図を作っても使い道もないし。笑 「南北朝時代」のことを考えると「万世一系」ではありませんからね(笑)。……そうなんですか???今まで、「皇統は断絶していない」と理解していました。何か「万世一系」ということについて、誤解しているようです。

  • rikimatu
  • ベストアンサー率19% (629/3297)
回答No.1

臣籍降下という奴です。皇族を離れる代わりに家臣となるという事です。 初期には経費削減と言う意味合いもありましたが 皇位継承で争わないという意味合いでやる場合もあります。 それと、天皇の皇子が降下することを、「一世の源氏」といい、任官の上で大いに優遇された。嵯峨天皇の子である源定・源融、仁明天皇の子である源冷は父天皇の意向で親王の例に準じて内裏において元服を行っており、親王に準じた待遇を受けた。その後、陽成天皇の退位後の後継選定で藤原基経が源融を退けて光孝天皇を即位させ、光孝天皇が崩御するとその基経が臣籍に降下した源定省を復籍させて宇多天皇として即位させるなど、同じ天皇の子でも親王と一世源氏の区別の明確化を迫られる事態が発生し、宇多天皇以降の儀式書では親王の元服と一世源氏の元服では異なる作法が記されるようになる。しかし、その後も規模を小さくしながらも内裏で元服を行い、内蔵寮から饗宴や引出物が用意された醍醐天皇の子である源高明・源兼明の元服など一世源氏の特殊性が完全に排除されることはなかった(内蔵寮は天皇の私的な支出を扱う官司であり、一世源氏の元服を公的行事から天皇主催の私的行事に切り替えることで特殊性を維持したとみられる)。『源氏物語』において、桐壺帝が一世源氏である光源氏の元服を自ら主導して、引出物も自ら準備している(費用も桐壺帝の負担と考えられる)のも、一世源氏の特殊性が描かれた場面と言える。皇孫に至って臣籍降下することを「二世の源氏」といい、一世の源氏よりも家系的には不利を蒙ったといわれる。しかしどちらにせよ、一部の家系をのぞいてはその地位を子孫に伝えることは難しかった。しかし、天皇が代を重ねていくに従い、父祖の代の源氏とは血縁が離れていくため、天皇の「ミウチ」としての関係も薄れていくのが常であった。3代目以降も上級貴族であり続けた例は少なく、中央で下級貴族として細々と生き延びるか、受領階級として地方へ赴任しそこで土着して武士化するか、完全に没落するかしかなかった

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。