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「囚人のジレンマ」の状態での認識対象は?
西洋近代的な「主客二元論」の下では、 主体が第三人称を客体側へ据えて認識を行なってきた、と思われますが、 「囚人のジレンマ」の概念は、西洋近代社会で生まれているのに、 同時に御互いを「第二人称」として認識し続けているかの様に、 私には思われます。 でも唯の錯覚なのかも知れませんので、適切な認識を保持したいものですから、 下記の内容に関しましての回答を御願い致します。 『「囚人のジレンマ」の状態の下で認識されているものは、 「第二人称」的な自己なのでしょうか?』
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囚人のジレンマは技術ではありません。 東洋思想については知りません。 相互認識を扱う科学の分野ということなら、生物学、心理学、社会学、ゲーム理論、行動経済学等の行動科学全般だと思います。 いずれにしても、当初の質問からも、経済学カテゴリーの範囲からも、質問内容が逸れ始めています。 当初の質問について私が回答できることは以上です。
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>そもそも文献で分かる程度に留まっている愚問でしたら、此処で伺おう、とは考えません。 「文献で分かる」と書いた覚えはない。 「囚人のジレンマのどんな文献にあるどんな記述を読んだか」を聞いただけ。 それを聞いたのは、文献にある説明が誤解を招くものだったり、その説明についてのあなたの解釈が誤りである可能性があるから。 ゲーム理論の文献はもちろん膨大で、それらを全て読んだわけではないだろうし、また専門外の人が正確に理解することは期待できない。 だから、「どんな文献のどんな説明を読んだか」は回答する上での有用な手掛かりになる。 >一方向的ではなく、「囚人のジレンマ」の様に、御互いの出方を窺う認識の視点が取り扱われている』という事が、私には不可思議に思われたのです。 確かに、ゲームの(ナッシュ均衡を含む)均衡の一般的な解釈では「各プレイヤーは他人の行動について何らかの予測をしその予測の下で最適な行動をする」とされている。 この解釈では、各プレイヤーにとって、他人は自然や社会と同様(あるいはそれらの一部として)1つの客体だと思う。 そこでは各プレイヤーは客体への1つの認識(それを主観と呼ぼうが何と呼ぼうが)を持つと仮定されるだけだと思う。 拘束力のある約束をできない状況での人間行動をそのまま形式的に記述しただけだと思う。
お礼
専門分野だけに括られた事情なのではなく、 壮大な越境が可能であれば、誠に有り難いです。
補足
すいません。 無理矢理の質問へのお付き合いを賜り、とても嬉しく思います。 本当に参照文献は御座いません。 私の勝手な「妄想」で、 『認識主体と認識客体との相即関係』を連想しておりました。 と申しますのも、 『主客二元論が登場した当初には、 「認識客体が認識主体へ影響を及ぼす」という関係が、 科学の中で取り扱われていなかったのではないか?』 と私が考えていたからです。 そもそもの着想の元は、 『東洋医学と西洋医学との間での接客(患者への認識)の齟齬の起源を知りたい』という痛切な願いで御座います。 そして其の酷く愚かで拙く幼稚な思考の過程の途上で、 『「囚人のジレンマ」という技術(?)が 「相互認識の技術の分析の手段」にもなり得るかも知れない』 という奇妙な妄想が思い浮かびましたので、 更に詳しく知りたくなったものですから、伺わせて頂きたくなりました。 従いまして、折角の機会ですから、追加の質問をさせて下さい。 その疑問は、次の通りの内容の物です。 つまり 『自分を認識している他者達からの視線を認識し合う関係を、 東洋哲学的に取り扱った、西洋近代的な科学技術の事例は、 現時点で発明されていますでしょうか?』 という内容です。 度々乍ら畏れ入りますが、 ご教授を何卒宜しく御願い申し上げます。
「お互いを第二人称として認識」や「第二人称的な自己」といった言葉の意味がよく理解できません。 補足で説明してください。 その錯覚が囚人のジレンマに関するどんな文献のどんな記述を読んで生じたのかも書いてください。
お礼
矢張り汎用性が乏しい状態では助言なんてとても出来ないですよね。
補足
注目を下さりまして、有り難う御座います。 因みに畏れ入りますが、 そもそも文献で分かる程度に留まっている愚問でしたら、 此処で伺おう、とは考えません。 私の気になったことは、下記の通りの内容です。 つまり、 『周知の通りに、西洋近代科学の視点では、 第1人称の認識主体と第3人称の認識客体とを峻別させて、 一方向的な主従関係を拵えている、と言えますが、 其処から派生した筈の経済学では、 一方向的ではなく、「囚人のジレンマ」の様に、 御互いの出方を窺う認識の視点が取り扱われている』 という事が、私には不可思議に思われたのです。 ややこしい表現を使い、申し訳が御座いませんが、 もし支障が御座いませんでしたら、 御教授を賜れると助かりますから、宜しく御願い申し上げます。
お礼
又別の機会に御教授を賜れると、幸いに思われますから、 其の際には、何卒宜しく御願い申し上げます。
補足
有り難う御座います。 伺える可能性を他の分野が秘めている事情を諭して下さいまして、 非常に助かりました。