- ベストアンサー
自然への没入に耽る東洋思想的な立場から全体を眺望する事は、果たして既に可能になっているのでしょうか?
- 東洋思想の立場から自然への没入に耽ることが重要であると言われていますが、全体を眺望することは可能なのでしょうか。
- 東洋思想では、自然との一体感を追求することが重要視されていますが、それによって全体を把握することができるのでしょうか。
- 自然への没入を重視する東洋思想の立場から、全体を見渡すことは既に可能になっているのか疑問です。
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
東洋思想的立場から言えば既に可能になっているのであろうと感じています。 先日、初めてスキューバダイビングなるものを体験しましたがあれはまさに『天人合一』の肉体的な疑似体験に近いものだなと感じ入りました。最初は視覚など五感による発見や驚きを感じているのですが、徐々に流れに身をゆだねて漂うことこそが海を理解できるのであろうなとおぼろげに感じてきました。まだまだ五感の届く範疇でしかないのものの天人合一でいう『理』というネットでどこまで精神的知覚アンテナを拡張できるか、同時に自己をどこまで希薄に『無』に近い状態に持っていけるかが肝要なのであろうと感じました。 座禅を組んでも三昧の境地に入れない私ですら海の中でそんなことを感じるのは東洋思想のバックボーンがあるからなのでしょう。デカルト的な分解→統合の発想ではなかなか到達できないことではないかと思います。 ただビギナーが漂っちゃいけませんね。事故って気絶したと思われたらしくインストラクターに心配かけちゃいました(笑)。
その他の回答 (5)
- hanniyagi
- ベストアンサー率15% (14/88)
悪い奴が参入してきた。と思われる事になるのでしょうが。「天人合一」という言葉がありますが。 ??、私は聞いた事がありません。前にも、同じ言葉を使って、巧言礼飾、だけに気を使っている、 と見れる作文、と思える、筆問者がいましたが。 ・・・同一人物さん、ですよね?。どうも、東洋医学、鍼灸師、あたりの言葉、とも推測されるようですが。 東洋思想、仏教、ヒンズー教、道教、儒教、に、天人合一、という思想、言葉はありません。 気になるのは、どうも、カルト宗教家の造語、という感、臭い、がする言葉だ、という事です。 大乗仏教=ヒンズー教、の、天、とは人間を超えた、擬人、天人、であり。始めから合一している。 天人と人が、合一する、という言葉、思想は成立しません。人間が、梵天、帝釈天、吉祥天、にはなれないし。成ろうとするのは、空想、妄想、です。 道教や儒教の、天、は世界の法則性、世界を在らせているもの、の意味で、天声、天運、天命、など、の言葉がありますが、天人、という言葉は、天女、と同じような意味になるはずで。それと、人間が合一する、という思想、言葉、も成立しないはずです。 天人合一、という言葉が、東洋医学、鍼灸術に、ある、とすれば。 それは、天身合一、人間の体の在り方は、世界の在り方法則性と一致している。というような意味になるでしょうが。それは人間に限った事ではなく、そういう分野の認識用語であり、哲学、としては。 言うまでもないこと、になります。 東洋思想で、似ている?言葉、として。知行合一、と云うのはありますが。 知恵と行動を一致させよ。知恵は、自己を度外視し、物事を考えるなら、何が正しいかは解る。 人間にはそういう能力、良知、が備わっている。正しいと考えたなら、行動をせよ。という。陽明思想、ですが。心を捨てよ、の思想であり。王陽明の放浪、遍歴、のなかに。仏教修行者、の経歴があり。 仏教の亜流思想と見るべきものでしょう。日本の陽明思想家、として、大塩平八郎、吉田松陰、 乃木希助、などを三島由紀夫が揚げていましたが。いずれも、自分のことは考えずに、行動、をした者達。と言えます。三島本人は?、平時には出番のない思想でもあります。 震災、福島原発など平時でないなら。日本人の中に生きている、陽明思想、志士たち、が活躍し 、国を救う、ことになるのかもしれません。 木を見て森を見ない。部分を注視すると、全体は見えない。全体に注視すると、部分は見えない。 車を運転するときは、両方に気付く位置に視点を置け。でしょうが。 森を見て木を見ない、の問題提起、や、文章表現、などを見ると。カルト宗教家?などの論法を 猿まね?しているのでは、そういうのに陥っている女性なのでは? との疑念を感じないでもありません。外れていれば幸いと思うものです。
お礼
「知行合一」という幼稚園児レベルの用語を掲げて、 偉そうに自己主張を為さっているのは何故の事なのでしょうか? 天人と人とが同一化するのではなく、 「天地人一体」の状態になる、という事を、 「天人合一」と多くの方々が呼んでいるのです。 つまり、『「無心」で「天の運命の成り行き」に身を任せる』 という態度の価値が重要視されてきた訳でして、 下記のWebページでも、其の説明が紹介されていますから、 御覧になって下さいませ。 http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rls=com.microsoft%3Aja%3AIE-SearchBox&rlz=1I7TSJH_ja&q=%E5%A4%A9%E4%BA%BA%E5%90%88%E4%B8%80%E3%81%A8%E3%81%AF&aq=2&aqi=g3&aql=&oq=+%E5%A4%A9%E4%BA%BA%E5%90%88%E4%B8%80 http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rls=com.microsoft%3Aja%3AIE-SearchBox&rlz=1I7TSJH_ja&q=%E2%80%9D%E5%A4%A9%E4%BA%BA%E5%90%88%E4%B8%80%E2%80%9D+%E3%80%80%E6%96%B0%E4%BD%93%E9%81%93&aq=f&aqi=&aql=&oq= http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/M21/M215579/3.pdf http://www.google.co.jp/search?q=%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%BF%E3%81%9F%E4%B8%AD%E5%8C%BB%E5%AD%A6%2F%E9%A2%A8%E6%B0%B4%E3%81%A8%E4%B8%AD%E5%8C%BB%E5%AD%A6%2F-%E5%A4%A9%E4%BA%BA%E5%90%88%E4%B8%80%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3-&rls=com.microsoft:ja:IE-ContextMenu&ie=UTF-8&oe=UTF-8&sourceid=ie7&rlz=1I7TSJH_ja&redir_esc=&ei=N2SYTb-4A4SgvgOq2vzpCw
補足
すいません。 私の勉強が不足し過ぎているのかも知れませんので、 少しでも適切な方向へ自己を導きたいものですから、 もう少しの御教授を賜れませんでしょうか? そもそも、たとえ「天人合一」なる言葉がWikipediaに残っていませんでしても、それは常識の範疇に属している筈だ、と私は認識していたのですが、その理解は間違っているのでしょうか? http://www.epochtimes.jp/jp/2007/03/html/d80582.html http://www.peoplechina.com.cn/shehui/2008-12/09/content_169060.htm http://www.peoplechina.com.cn/shehui/2008-12/09/content_169060_2.htm http://wiki.livedoor.jp/seishindou/d/%C5%B7%BF%CD%B9%E7%B0%EC%BB%D7%C1%DB 少なくとも私はカルト団体に興味を持っておらず、 単純に奇妙な生理現象の仕組みを知りたい、 と考えているだけです。 因みに「天人合一」なる用語に私が出会ったのは可也昔の事で、 同志社大学の入試問題(現代文)の中で知りましたので、 此の言葉の怪しさを想像した事は御座いませんでしたが、 視点を修正させるべきなのでしょうか?
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
>自然への没入に耽る東洋思想的な立場から全体を眺望する事は、果たして既に可能になっているのでしょうか? 「既に」という言葉をお選びなり、時間軸に沿った変化に関するご質問と思いますが、私は、この自然観は時間で変化するものではないと思います。 昔も、今も、将来も、自然への没入に耽る東洋思想的な立場から全体を眺望する事は可能でしょう。 内観こそが森羅万象を”観る”方法である、と考えるのではないでしょうか。
補足
重要なポイントへの注目を示して下さり、有り難う御座います。 折角の機会を安易に締め括るのが勿体無く思われますから、 若し支障が御座いませんでしたら、御忙しい中へ畏れ入りますが、 次の疑問へのご教授をも賜れますでしょうか? ↓ 『和(自己主張を慎み合う調和)を以って尊しと為す』、という発想は、自己の個人的な内観だけに留まらず、 『東洋社会での「小宇宙」的な階層構造をも築いて「きた」』と考えられますでしょうか?
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
東洋の宗教の多くは、(仏教も含め)多神教でアニミズム的であり、一神教的な“第一原因から演繹される戒律”というよりプラグマティックな道徳的側面が強い。 その伝で東洋思想も、本質的な意味をロジカルに掘り下げる=白黒ハッキリ決着をつけるものではなく、そこはグレイなまま(不可知論にケムに巻き)応用に主眼を置いたものになっている(世界観より自己の内省)。
補足
他の方からの投稿からも窺われます通りに、 「天人合一」という言葉を知らない方がいらっしゃるのは、 果たして何故なのだ、と思われますでしょうか?
- カルキノス(@Karkinos)
- ベストアンサー率30% (146/486)
内側からでも森を見ることは可能だと思いますが。 森の一部──つまりは木となって森を理解すればいい。
補足
説明が乏しくて、すいませんでした。 『鍼灸師達が接皮に着手なさる際に、 「彼等が森の状態を感じ取っている」』という事情は、 容易に明らかになりますが、 「見ているのか否か」、つまり視覚からの開放の有無が分からなくなったのです。 そこで、もし支障が御座いませんでしたら、 『内部から全体へ「統合」されていく』考え方につきましての御意見を賜れませんでしょうか?
- FukushimaGP2
- ベストアンサー率16% (37/225)
題名に惹かれたのですが、何を質問されていらっしゃるのかすら理解する能力がありませんでした。。。 哲学ってミステリアスですね。 さっぱりわかりませんが、おっしゃられている西洋は理屈っぽいのに対し、東洋は感情的な感じがします。 つまり、感情で全体を感じられるか?みたいな質問と解釈しました。 だとすれば、理解なんて所詮思いこみや勘違いのなせる技なので、感情でなら幾らでも可能なのではないでしょうか? すんまそん。
補足
有り難う御座います。 此の質問の趣旨への深い配慮に感謝を致します。 『無くなり得る対象の欠如の後で比較が可能にしてくれ得る、唯物論的な「相対無」』は、現代の自然科学の基本になっていますが、 『東洋思想的な「絶対無(NULL?)」が「欠如の候補への認識の不能性」に基づいている』という事情を鑑みますと、 「始まりの問い」への回答の為にも、東洋思想はもっと高く評価されるべきですよね。 実際に或る鍼灸師達の某グループが研究なさっている臨床内容によりますと、奇しくも掌が色彩を識別しているらしく、 其の時に体が求めている色彩を掌に向けた際だけに、 問題対象の経絡の近隣の筋肉の過剰な緊張が解れるそうでして、 其の状態の間に鍼を打ち込むと、適切な部位に効果が届き易くなっている様です。 因みに折角の機会ですから、追加の質問をさせて下さい。 『東洋思想的な自然観の下では、「連歌」の様に、 隣接箇所との「縁起」に注目している』 という認識は適切なのでしょうか? 御忙しい中への御邪魔を致しますが、 若し支障が御座いませんでしたら、御意見を賜れますでしょうか?