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西洋哲学の系統分けについて
西洋哲学は大雑把に存在論と認識論とに分けられるでしょうか?同じ哲学者の思想の中にも両面がある場合もありますか?西洋哲学は古代から近代にいたるまで、どういう系統立てが出来るか、あるいは類型化できるかを大まかでよいので教えて下さい。合理主義と経験主義とか実念論と唯名論といった区別もありますが、もっと大きな分類でお願いします。系統的把握なので中,小分類ではなくあくまでも大分類。あまり細かい分け方は無用です。
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>西洋哲学は大雑把に存在論と認識論とに分けられるでしょうか? 認識論(英語ではepistemology)はギリシア語の「知識」epistemeと「理論」logosの合成語で、J・F・フェアリーの「形而上学要義」(1854年)の中で初めて、存在論とともに哲学の二大部門の一つを指す名称として使用されています。一方ドイツ語の認識論Erkenntnistheorieという語を最初に用いたのはカント学徒のラインホルトでツェラーの「認識論の課題と意義について」(1862年)の刊行により漸く普及するようになりました。 認識論は形而上学または存在論と並んで思弁哲学の二題部門を形成しますが、そのいずれが優先するかは議論の分かれるところです。デカルト、ロック、カント、らは窮極的実在の本質に関する形而上学思弁よりも認識論の優先すべきことを主張していますし、スピノザ、ヘーゲル、ホワイトヘッドらは逆に形而上学の建設後それにふさわしい知識論を採択しています。一方両者の関係を相互依存的に捉える折衷的な立場もあります。 思弁哲学においては、認識論と存在論はその二大部門と考えてよいようです。
- hanniyagi
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在るものをあるがままに見る者は、思惑愛好家、ではなく愛知者(哲学者)呼ぶべき者ではないね。 とソクラテスが言った。とプラトンが書き残していますが。 ここに言う、思惑愛好家、とは誰を意図しているのか。 ないもの、を在る、と信じ、主張する。ユダヤ人、ユダヤ思想。を指している。と捉えると。西洋思想は 。ユダヤ思想と、反ユダヤ思想のせめぎあいであり。分かり易いものとなるのでは?。 ユダヤ思想は認識論、どう思うか、であり、反ユダヤ思想を哲学、と置くなら。哲学は、世界の、在り方、 起こり方、と合致する。考え方を求める、方法論、であり。その考え方に導かれる、存在論。 となります。 哲学は存在論と認識論の二つに分けられるか?分けられる=分けられない。 存在論と認識論は繋がっている、一体のものであると同時に、対立物であり反対のもの、なのです。 それがまた、知恵(自己を度外視して、我、がなくとも、在る世界、を考える能力)と心(自己の感情や 欲球の想起継続)の在り方、起こり方。でもあるのでしょう。 哲学を存在論とするなら、存在論、と言えそうなのは。 古代インドの、すべては縁によりて起こる、を理法として、諸行無常、諸相無我、を説いた、釈迦の哲学。と、道は道にして常の道にあらず。名は名にして常の名にあらず。の古代中国の 「老子」の哲学。 そして。中世キリスト教思想のあまりの知恵のなさ、への反抗として起こった。真理の探究、としての 物理科学の思想。しかないでしょう。(物理科学は事象×知恵 ではなく、事象×数学 になっている、数学は知恵か?が問題になるのでしょうが。) 西洋の思想史の中で、反ユダヤ思想と言えそうなのは(物理思想を除けば)、インド哲学の流入、影響、であろう、古代ギリシャ哲学と。 そして、キリスト教成立=ユダヤ思想の復活、知恵の暗黒、ヨーロッパの中世を経て。 ギリシャ哲学の復活、の意味を持つ、カントの形而上学の見直し、以後の。ドイツ哲学、反形而上学としての弁証法哲学。でしょう。 そして第2次世界大戦。 「ヘーゲル右派とヘーゲル左派が、スターリング・ラードで、死の抱擁、をした。」と歴史家が表現する。 神を信じない者同士の、最後の血の一滴までも、の凄惨な闘いの背後では、反ユダヤ思想、の意味をはき違えている。では済まされない。ホロコースト、ユダヤ人の抹殺が行われていました。 報道されたアウシュビッッの悲惨故か、戦後、反ユダヤ思想はタブーとなり。 第2次世界大戦、、そしてその後のソ連との冷戦に勝利したのは。ユダヤ思想の大国、アメリカ、でした。 西洋思想史で、勝利する、のは、常にユダヤ思想、だったのです。 ユダヤ思想=西洋思想 に人類の未来を託して大丈夫なんでしょうかね。 戦後のアメリカナイズによって、日本人の知恵は、明らかに低下している、ように見えるのは私だけ でしょうかね。
お礼
御回答を感謝申し上げます。ただ当方、哲学の初歩にも至らぬためせっかくの御高説ですがほとんどワッケわかりません。ただ認識論と存在論とにワケきれないことはわかりました。カントの思想の中にも認識論的面と存在論(形而上学)的面とがあるのですね。ハイデッガーはどうでしょう。大半は後者でしょうか?
お礼
御回答ありがとうございました。ネットを検索していたら哲学が思弁哲学と批判哲学に大別され、ライプニッツやヘーゲルが前者でカントは後者に属するとのことでしたがこれは合っていますか?そして前者の思弁哲学が認識論と存在論(形而上学)とに大別されるということですね。ところで日本の西田哲学というのは認識論と存在論のどちらの方に入りますか?両面があるのでしょうか?