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アクマとは《第二の死》へといざなうはたらきである。
- アクマとは、アッキたちを従えて人びとを第二の死の状態へといざなう存在である。
- 第一の死を死なせて復活するのをみづからこばみ、第二の死の状態にみづからすすんで突っ込むうごきをアッキと呼び、アクマがその作用を行う。
- 第二の死は、第一の死が死ななくなった状態を指し、心のさからいによって起こる可能性がある。
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仁科です 過日はジジイ扱いしてすみませんでした。 ジジイはくりやさんでエロジジイはチョトツ先生だと思います 思想家ひびのあきひこ氏が孕む公憤とブラジュロンヌさんが抱く幾つかの私憤がないまぜのごった煮状態で、冬の滝の底からマグマが噴き上がればもう春なんだろうと思います あまがっぱおばさんに愛想を尽かされてからよたよたになった状態で夕飯。夕刊。洗濯物を干す。と律儀なブラジュロンヌさんのしぶとさに私は泣きました 介護中のおじさんなら情緒も疲れていると思います 私は日頃から心が麻痺し情緒が死に、自殺しても死んでもどうでもいいような気分に最近なり、数年から十年くらいそんな感じで アマテラスもスサノオもどうでもいいのですが おじさんには思想や仕事があり、私を含む投稿者たちになくブラジュロンヌさんにあるのは思想のオリジナリティで ほんとに独創なのか分かりませんが 独創なら自負とこだわりがあるのは仕方なく、人がたまにその独創性を無自覚に嫉妬するかも知れず このごろのブラジュロンヌさんの孤独は環状の瀑布のど真ん中に一人でぽつんと立っている孤独なんだろうと思い 見まわしても人々はぶ厚い水の壁の向こうに遠く 人と幻想を共有できなければ、現実観の相違で合意し、絶交となり、地味な棲み分けは仕方のない寂しい自然なことで静かで 否みくる他人なんかは心が麻痺するきっかけで 自然な生や死や自分の顔を忘れて臆病な第二の死を往くイメージは モモっていう小説にえがかれてた灰色の銀行家たちにも似て 私は詩人の真似をしてまるで心から内発するものがあるふりをして 中には何ひとつ無くただ外から欲しいばかり 特に自分のすっからかんな言葉への反応 おじさんの文は学術オタク語みたく すねたように難解になり翻訳が要り 対話を拒むかあるいはより対話を必要とする魂胆かもてなし下手なのに りとます紙みたいに言葉で人を判別し アマテラス的いばりんぼはブラジュロンヌさんの中にもいますでしょ アマとスサに分ける見方は二分するところだけ私の対人不安に似 人をいちいち敵か味方かに分け、好かれるか否まれるかに恐々とする私 辛辣で気取り屋で責任感の強いおばさんをおじさんはついA/S思想の自動思考でとらえ、おばさんをアマテラス代表とみなし仲違いし婆悪魔よばわりしているのだと思いますが おばさんの中にもスサノオ的な在野精神やドロップアウト組に情けをかける慈しみがあるかも知れないのに愛想は尽き おじさんとおばさんの和解があるか知りませんが おじさんもおばさんも若いことは早なく どこか寂しい春 社会とおじさんの和解があるかわかりません 社会こわいです 社会不安や対人不安が症状として私にはずっとあり今後の自立の見通しもなく 定年退職した父が私を否み私はその否みに麻痺するほど悲しくやましく腹立たしいものの たぶんそれらは仕方がないことだと思うことにし 否まれ続けると心が疲れこれ以上疲れないよう麻痺し仮死し もし律儀に悲しんだら胸がへこみつぶれ割れ 否みと疲れの家には癒やしがなく日々すこしずつ疲れがつのり瓦解は待たれ 広いらしいせかいに生きているらしいのに生命観は枯れ世界観や人生観はやつれ、しなび、ちぢみゆき 私は信仰もなければ救いもなく 日記をつけて落ち着いたり、ケータイで動画を見て射精したり、毎食毎食やけ食いしたり、せっせと相談サイトで久しぶりに道化ぶったり 職業訓練に通いながら昼休みにはビルのてっぺんでひとりケータイひらいて相談サイト眺めながら母の手作り弁当を食べています ブラジュロンヌさんの逆さ政治思想やびっくり歴史観がアマガッパさんなんかの協力により美学方面にも射程をのばす良い機会だったかも知れないのに けんかに少し水をさして申し訳なく おんなを怒らせるとうまくいかないんだと思いました ひとや虫や私は女より何より単なる春にうかうか気分をやわらがしめられえそうで 春にはわらわらとエロジジイたちが相談サイトにも群れ 女から怒りを買い寂しそうなブラジュロンヌさんから私は悪魔よばわりもされず。 おじさんの心を占められなくて。 ぐろてすくなものがこの眼窩から湧き出てはむなしく渇き。 私の言葉が少しでもおじさんの心に作用すれば、このくたばった心も少しはおどるはずでしたのに。 それなのにおじさんは。あんなおばさんのことばかり見つめて。寂しいですね。
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- hakobulu
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#19です。 >人をあざむくことしか生きる意味がないと思っているのでしょう。 : だとすれば、これすら、これこそ、その人間のキャパシティの問題ではないでしょうか。 容量が不足している、といって責めるのでしょうか。 溢れさせて制御できなくなっている者に対してそう責めたとして、何がそこから生まれるんでしょうかね・・・。 まだ溢れない余地があるのだから、その範囲で大いに攪拌し、その濁ったキャパを拡張しようじゃないか、そのために喧嘩しようじゃないか、堂々と、というならわかるのです。 そのへんを見極めようというゆとり(行き過ぎると鼻持ちならない傲慢になってはしまいますが)は必要になってくるんじゃないでしょうか。 そのキャパに留まらざるを得なかった、その人間の不幸、というか、やるせなさといったようなものを(喧嘩の言葉の中に散らばせつつ、あるいは無言のうちに)一緒に嘆いてやり、せめては一般論的な解決方法を模索する方向で推し進めることによって、悪魔は安堵の寝息を立てることができるようになるのでしょう。 (人の構成要素のひとつであることは明らかですから、つまり、自分の一部でもあるわけで)殲滅するわけにはいきませんから、この方法しかないと思われます。 この意味でも、救う者は救われる者である、あるいは同義である、ということを言ってみたいですね。 謙虚なヒドッチさんあたりからすれば不遜な物言いに感じられるかもしれませんが、そのへんはよろしくおとりなしください。 単に表現の未熟さゆえでして、ブラジュさんに対しても他意は一切ございません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ええっとですね。 単純に別の見方を出すのですが アクマは 救済などは求めていませんよ。さとり切っています。自分の生き方が最高であり 自分は最高のキャパシティを持っていると自負しているはずです。 その上で こちらがゆとりを持って それでもなお《すくい》の手を伸べるというのでしたら 分かるような気もしますが。 ★ そのキャパに留まらざるを得なかった、その人間の不幸、というか、やるせなさといったようなものを(喧嘩の言葉の中に散らばせつつ、あるいは無言のうちに)一緒に嘆いてやり、せめては一般論的な解決方法を模索する方向で推し進めることによって、悪魔は安堵の寝息を立てることができるようになるのでしょう。 ☆ この同情は アクマは一笑に付すと思います。残念ながら 根拠は わたくしの経験から言うのみですが。 転んでもただでは起きないというキャラクターです。凹むということは そう見せかけたほうがよいだろうと判断したときでなければありません。徹底しています。弱いとか自分が負けるとか そういう言葉はあり得ません。 【Q:ぱっくす・やぽにかは お気に召しますか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6554698.html そのNo.8は参考になりましょう。 ★ (人の構成要素のひとつであることは明らかですから、つまり、自分の一部でもあるわけで)殲滅するわけにはいきませんから、この方法しかないと思われます。 ☆ 殲滅しようとは考えていません。救おうとも考えていません。 その《第二の死》へといざなうハタラキが 言わば不発に終わること そういう情況をつくりあげることが 当面の具体的な目標ではないでしょうか? ぎゃくに言えば 世界がそういう情況でしかなくなって来たら アクマは商売があがったりですから あぁおもしろくない もうこの稼業もやーめたということにならないとも限らない。そういうかたちで アクマ役の人間もすくわれるでしょう。 何度でも言います。アクマは 特殊です。はこぶるさんは アッキ対策を述べておられる わたしにはこう思えるのです。 まだなお根拠は弱いですから このように問い求めをつづけている。という状態です。
- hakobulu
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#18です。 思い切り論点を絞ります。 >アクマは ふつうの人間にはその作用を身に帯びてはたらかせることは出来ないという結論にもなります。きわめて特殊だとわたしは受け取っています。 : 全く異論はありません。 その次の段階が問題なのだろ思われます。つまり、 なぜ特殊なのか、という理由を知ろうとはなさらないのでしょうか。 あるいは、特殊であることが、 >その人の意志あるいは心の問題になります。 : とおっしゃる場合、特殊である理由として、個々の意志なり心の問題(それのみ、あるいは、殆んどの要素として、それ)に帰結せしめるのが妥当だとおっしゃっておられるのでしょうか。 つまり、極めて妥当な生育環境(とは何か、についてはさておきます。とりあえず完璧なる極めて妥当な生育環境を想定なさってください)において育った赤子ですら、自らの意志と心の命ずるところにより悪魔になる場合があるのだ。 こうおっしゃっておられますか? まず、イエスノーからのご回答を期待いたします。
お礼
イエスです。まったく条件を何らつけずに そのとおりです。 ★ ~~~~~~~~~ 極めて妥当な生育環境(とは何か、についてはさておきます。とりあえず完璧なる極めて妥当な生育環境を想定なさってください)において育った赤子ですら、自らの意志と心の命ずるところにより悪魔になる場合があるのだ。 こうおっしゃっておられますか? ~~~~~~~~~~~~ はこぶるさん ご回答をありがとうございます。 すでにやり取りを済ませているように 生まれ育った家庭や環境 そしてその人自身の感受性だとかの交通形式などなどいろんな要因がかかわっているとは考えます。とうぜんですね。しかも 決定因は それらに非ず みづからの意志だと断じます。 淡い論拠としては いかなる境遇にあろうとアクマのハタラキを身につけようと思えば その人はそうするのだ。こう推し測るからです。つまりそうするのを妨げるものは 境遇の中にはいっさいないと見るからです。 前回こう言いました。 ☆☆ (No.18お礼欄) ~~~~~~~ 《自分の問題》は その決心がにぶったり破られたりすることを含めて《人をあざむくためにウソをつくことはしない》という誓いの問題がまづあり これを暗黙のうちにでもおこなった人間たちにとっては もうアクマの問題はないと言うべきだと考えます。 それは ほかの人間でみづからアクマの力を身にまとおうとする場合を 言ってみればすでに弾劾しているからです。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 別の論拠を示します。 つまり 一たん《あざむきを含む偽りとしてのウソはつかない》と決めた人間は どこかで間違えてもし仮りにアクマの力を身につけようとした場合 まづ失敗すると思われるからです。無理だと思います。 なぜならその人は いろんなことを顧みるからです。自分のこと・その過去の誓いのこと 周りの人たちのこと ウソとはどういうことなのかなどなどを心に返り見るからです。 ぎゃくに言えば アクマ志願者は そんなことは一切ありません。おそらく相手に自分のいい姿を見せようとして たとえば自省する自分を示すことはあるでしょうが それはすべて《見てくれ》の問題です。すべてが 言わばかけ引きにおいてその発言も振る舞いも表わされて来るのだと見ます。自己表現の以前に すべての思惟は 相手をあざむくためにどういう自分の姿を見せようかということにかかっています。 心の内面などないのではないでしょうか? それは 人が何を思い何を考え何をしようとしているのか これを推し測り 自分のしたいように話を持って行こうとして 発言の内容を決めるだろうからです。そういう内面があるのみです。 その意味でアクマは いわゆる《政治的人間》とも言えそうです。四六時中 その場その場の相手に対して どういう仕掛けにおいてつき合おうかと考えているのだと思われます。 このような特殊なアクマ志願者は おそらく志願したときにそのハタラキを身につけるのだと推し測られます。マンガで魔法の杖を振りかざすそのとおりのように 一瞬においてではないでしょうか。三度の飯よりも 人をあざむくことが好きなのでしょう。
- hakobulu
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#17です。 > でもまづは そのハタラキの中身をしっかりと把握しなければならなかった : この「ハタラキ」という言葉を素直に解釈すれば、そう難しくはないと思うのですけどね。 ブラジュさんの今までの御見解を伺っていると、人間のように見える悪魔が、人間とは別個に存在している、という前提で論を進められているように見えたので、その前提自体が間違っているのではないか、としつこくお伝えしてきたつもりでした。 まあ、このへんは私の理解能力の問題だったのかもしれません。 「悪鬼などという生易しい悪ではない悪魔としての要素を身に纏ってしまう場合が人間にはある」 ということでよろしいんでしょうか。 あくまで「要素」であり「ハタラキ」ですよね。 そうすると、全くこの要素を持たない人間はいない、ということになりますから、この視点ではじめて自分の問題に引きつけて考えることができるようになると思うわけです。 >しっかりと把握 : するためには必須の条件だろうと思いますし、その意味では、 >そりゃあ そんなアクマのハタラキからは自由でいたい という目的は初めからある : とおっしゃる点に、まだいささかの姿勢に対する疑念(つまり、私には全くその要素は無いという視点ではおそらく「>しっかりと把握」することはできないのではないか、という疑念です)が残りそうですが、それはそれとしましょう。 前回、「あげつらう」と述べたのは、「本質的論点を逸れる」というほどの意味です。 いずれにしても「悪魔(という要素)はどのように醸成され得るのか」ということを明らかにすることによって、一定の納得が訪れるのではないでしょうか。 その意味で、この方向性を外さないことが大事ではないかと考えます。 また、個別の事例に関しては、夫婦喧嘩は何とかも喰わないそうですし、また、すねてみたり、やっかみやら嫉妬やらが渦巻いている場合も多く、何よりも詳細不明ということもあり、私の出る幕ではないでしょうからコメントは差し控えます。 客観的見解が必ずしも解決の一助にならない場合が多いということになりそうです。 あえて、ひとことふたこと感想を述べるとすれば、適当に聞き流すということを厭う正義感が根底にあるのだろうという気がしますけどね。 その意味では揶揄の要素ゼロで申し上げますがご立派だと思います。 ただ、かのパスカルの言葉にもありますが、「力無き正義は弾劾される」ようです。 この場合の「力」とは、全く私的解釈ですが、柔軟性ではないかという気がします。 論理性という一面は重要ですが、一方、感情・感覚という面がむしろ人間の本質でもあるでしょう。 この側面に対する、なんというか、ある意味でのいい加減さ、あるいは赦し、といった要素が伴なわないと、豪剣なれども折れやすい、と見なされ、それがつまり、「力無き」という印象を与えてしまう可能性はあるような気がします。 どうも、今回は感想に終始してしまったようですが、このへんが私の限界かもしれませんね。 気が向きましたらまたいつかお邪魔します。
お礼
はこぶるさん ご回答をありがとうございます。 あたま一つ抜き出ているという特徴 これをよく噛みしめることが大事だと思います。むろんアクマというハタラキをわれわれ人間が捉える場合にです。 ぎゃくに言えば なぜそうなのか? アクマは ふつうの人間にはその作用を身に帯びてはたらかせることは出来ないという結論にもなります。きわめて特殊だとわたしは受け取っています。 アクマが人間存在そのものだという見方がしりぞけられたなら そのハタラキについてむしろ人間なら誰でも持ち得ると見るのも ひとつの見方です。 そうおっしゃっているわけですが これについては おそらく潜在性(潜在能力)としてなら同調します。ですが これについては 別の潜在性もありうると考えています。 それは 《おのれについてもほかの人についても 人をあざむくためにウソをつくことはで出来ない》という能力 これによって《わたしはアクマの要素をこのわが身には表わすことはない》と宣言する場合です。生涯のあいだにその宣言したことが どうころぶか それは分かったことではありません。その上で宣言しそうつとめるという生き方があると言えると考えます。 そうしますと 微妙に対処策を含めたアクマ論は 違って来るとも見ます。 ★ 「悪鬼などという生易しい悪ではない悪魔としての要素を身に纏ってしまう場合が人間にはある」 ということでよろしいんでしょうか。 ☆ 《身にまとってしまう》のではなく 《みづからすすんで 好き好んで アクマのハタラキをわが身にまとおうとして纏う人間が 時として 現われるようだ》になります。 その人の意志あるいは心の問題になります。 ★ そうすると、全くこの要素を持たない人間はいない、ということになりますから、この視点ではじめて自分の問題に引きつけて考えることができるようになると思うわけです。 ☆ 《自分の問題》は その決心がにぶったり破られたりすることを含めて《人をあざむくためにウソをつくことはしない》という誓いの問題がまづあり これを暗黙のうちにでもおこなった人間たちにとっては もうアクマの問題はないと言うべきだと考えます。それは ほかの人間でみづからアクマの力を身にまとおうとする場合を 言ってみればすでに弾劾しているからです。 つまりは 人間はこのようにアクマのハタラキから自由であることを自然本性において持ち得ていると見ることにもなります。影響は受けるが それによって左右されることはないのだという本性(人間の自然力)です。 ぎゃくに言えば アッキにまでは成り得るということだと思います。 そうして 特殊に幾人かは アクマの作用をすすんで身につける。――こういう構図になるかと考えます。 ですから 見方が微妙に違って来ます。 ★ いずれにしても「悪魔(という要素)はどのように醸成され得るのか」ということを明らかにすることによって、一定の納得が訪れるのではないでしょうか。 ☆ アッキになることへと誘うハタラキは醸成され得るのですが アクマになることへと環境が――決定的な原因として――醸成されることはない。こう見ます。自分からアクマの力を身につけるのだからです。特殊だと見ます。 ★ 適当に聞き流すということを厭う正義感が根底にあるのだろうという気がしますけどね。 ★ ただ、かのパスカルの言葉にもありますが、「力無き正義は弾劾される」ようです。 / この場合の「力」とは、全く私的解釈ですが、柔軟性ではないかという気がします。 ★ 論理性という一面は重要ですが、一方、感情・感覚という面がむしろ人間の本質でもあるでしょう。 / この側面に対する、なんというか、ある意味でのいい加減さ、あるいは赦し、といった要素が伴なわないと、豪剣なれども折れやすい、と見なされ、それがつまり、「力無き」という印象を与えてしまう可能性はあるような気がします。 ☆ ですから これらの方法は 飽くまでアッキ対策だという見方をわたしはしているわけです。アクマに対しては 効かない。もしくは効くか効かないかまったく分からない。そういう働き方をするのがアクマなのだと。特殊なのです。 ★ ブラジュさんの今までの御見解を伺っていると、人間のように見える悪魔が、人間とは別個に存在している、という前提で論を進められているように見えたので、その前提自体が間違っているのではないか、としつこくお伝えしてきたつもりでした。 ☆ そのように特殊ではないと分かれば 世界は違って来るものと思います。 《間違ったとき間違いましたと言わない・言えない》のは そもそもの兆しとしてですが 特殊ですよ。金輪際言わない場合があります。人をあざむくことしか生きる意味がないと思っているのでしょう。
- hakobulu
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#16です。 少し追加します。 >ただ相手が困惑しその状態をつづけていけばよい。そして自死という結果に到っても構わない。 こういうハタラキをアクマと呼ぶと言いたいです。 : これは、端的でわかりやすい、明解ではないでしょうか。 ほとんど異論はありません。 「こういう人間」ではなく、「こういうハタラキ」ですよね。 ですから、なぜ「こういう人間」がいるのだろうかではなく、なぜ「こういうハタラキ」が人間の内面で兆すのだろうか、ということを論点にするしかないと思うのですが。 そういったスタンス、つまり、彼に起こり得るなら我にも起こり得ると考えないと手元に引き寄せることができませんから、本質を逸れるような気がします。 その「ハタラキの質」をあげつらっても解決の道が見出せるとは思えません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 こちらでお応えしてまいります。 ですから 質問を挙げた心つもりは ひとえに《悪魔は人間存在そのものでありうるか? もしくは 人間はそのハタラキとしてのアクマを言わば部分的にあたかも担うことになっているのか?》を突き詰めたい。でした。 ここのところ どうも存在がまるごと悪魔である人間は 考えられないのではないかという見方に落ち着きつつあります。 ★ ~~~~~~~~~ これは、端的でわかりやすい、明解ではないでしょうか。 ほとんど異論はありません。 「こういう人間」ではなく、「こういうハタラキ」ですよね。 ~~~~~~~~~~~ ☆ ここまですすめていただくなら 確かにこれからどうするかになります。すなわち: ★★(回答No.16) ~~~ 「どうすべきとおっしゃっているのでしょうか」と言い換えてもいいでしょう。 それに対して、「そうしたとすれば、こうなるから云々」という帰納的アプローチのほうが速やかにことは運ぶのではないでしょうか。 この問題に関しては。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ いえ ですからいままでは その正体を突き止めることが先だったわけです。極論としてでも一度《悪魔=人間存在》説を吟味しておきたかった。それだけの衝撃を受けていたと思っていただいてよいと思います。 そのおさらいを 面倒でもしておきます。 ○ いちどそういう声のかけ方をするのなら――それは《何々であるなら 寂しいことですね》というような言い回しを繰り返すかたちでしたが そういう話しかけ方をするのなら―― もう返答する気は失せた。どうぞお引き取りくださいと応えたわけです。 ○ なるほどその応答の仕方は納得できると言って――あっけないことに―― 引き取ったかたちになった。 ○ 少しあって なおほかの人とのやり取りが続いていたので それに加わるかたちでまたやって来た。同じことの繰り返しとなる。 ○ そのあと別の質問へ移りました。そして 《あなたは論理表現があいまいであり それは――あなたがそうであるかどうかは言いませんが――〈自己乖離〉の障害があることを疑ってみてその吟味をとおして明らかにすべきだ》と前置きして回答を寄せて来た。 ○ こちらは《のっけから人に対して論理が成っていないやら精神障害が疑われるやらと言うものではない。いったいどういう料簡をしているのか》となじって答えを書いたら 別の人間(すなわち家来であるアッキなのですが)が 昔からやり取りをしているのだから《のっけから》というわけがないではないかと言って来ました。 ○ それはそれだけだとして構わないとしますが 今度は意外とそしてやっと紛糾がおさまったのでした。《初めからわたしはあなたの見解に反対をしていませんよ》という締めくくりでした。 ○ あと味がわるいのですが 一件落着でした。 ☆ 何となく《あいまい路線》を続けているとも見られるのですが おさらいはここまでとします。 ★ その「ハタラキの質」をあげつらっても解決の道が見出せるとは思えません。 ☆ これははこぶるさんにしては 舌足らずではないでしょうか? 《あげつらう》部分もあるかも知れませんが まづは正体を捉えなくてはなりません。 ★ ですから、なぜ「こういう人間」がいるのだろうかではなく、なぜ「こういうハタラキ」が人間の内面で兆すのだろうか、ということを論点にするしかないと思うのですが。 ☆ これは ともかく《悪魔》という概念が想定されている系譜がありますので それに照らし合わせたいというところから出発しています。その概念と具体的な人間のあり方(思惟および行動)との照らし合わせです。 それで 人間としては飽くまで《ハタラキ》という見方に落ち着くのがよい。こうなりつつあるわけです。 ★ そういったスタンス、つまり、彼に起こり得るなら我にも起こり得ると考えないと手元に引き寄せることができませんから、本質を逸れるような気がします。 ☆ これに――しかしながらなお―― 一歩先を見据えたいとは思います。高校生番長から暴力団のボスへという事例は 《彼我の差》はおっしゃるように あまりないですよね。その先もう一歩延びる事例 それを アクマのハタラキと見たい。そういう欲望がわたしにはありますね。 それは――つまり彼我の差のない・この世の中における必然性の世界から頭一つ分だけ突き抜けたアクマというハタラキを想定したいというのは―― 悪を奨励するかそれとも死へといざなうかで分かれるのではないか。ここにあります。 悪へと人をみちびく――つまり悪に手を染めさせる・その悪行を日常茶飯事とするようになる――こととは アクマは別だと見たい。
補足
お礼欄のあと書いています。 ☆☆(お礼欄のしめくくり) ~~~~ それは――つまり彼我の差のない・この世の中における必然性の世界から頭一つ分だけ突き抜けたアクマというハタラキを想定したいというのは―― 悪を奨励するかそれとも死へといざなうかで分かれるのではないか。ここにあります。 悪へと人をみちびく――つまり悪に手を染めさせる・その悪行を日常茶飯事とするようになる――こととは アクマは別だと見たい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ で ★★(回答No.16) 「どうすべきとおっしゃっているのでしょうか」 ☆ そりゃあ そんなアクマのハタラキからは自由でいたい という目的は初めからあるでしょう。 でもまづは そのハタラキの中身をしっかりと把握しなければならなかった。事例としても理論としてもしっかりと把握し そこで明らかにした認識をわれわれが共有し活用すること これになると思います。 それ以上のことは 何も出来ないのではないですか? ですから アッキはいやと言うほどテレビの報道やらドラマで出て来ますが アクマは もしアッキとは別だとしたら ちょっとやそっとでは取り上げられないと思われます。 小説や映画で たとえば悪女ものが わづかにアクマのハタラキといった主題に当たっているでしょうか。 少ないですよね。 じつは 前回例として出した《男と女》の話は わたしの経験に呼応しています。それで今回も そういう理論と絡めて捉えようとしたわけですから。 けれども この事例研究と理論認識と言っても 具体的な事例が少ないのであれば なかなか問い求めはすすみません。ということになるかも知れないですね。 取り敢えず ここまでをお応えとしたいと思います。
- hakobulu
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#15です。 >No.2の回答などは ぼろくそに言って来ていますし その《回答を評価する》が 10ポイントにまでなっています。 : いや、大笑いしましたよ。^^; 気づきませんでした。 わかりやすい回答で、且つ喧嘩腰、というのが野次馬根性を刺激するにはもってこいですから、その当たりの条件は備えていますね。 ブラジュさんの質問内容が難解すぎることが、あるいは拘りすぎる点でしょうか、それが一層拍車を掛けたような気もしますが、いかにも現実社会にありそうな、なかなか微笑ましい現象です。 さて、本題ですが、おっしゃっていることが一貫しておられることはわかります。 ただ、繰り返しになりますが、 >それを質問しているのだ、というお答えはまさかないと思いますが、であれば、どうだとおっしゃっているのでしょうか。 : この点を伺わないと、埒が開かない、という局面にもう差し掛かっているのではないでしょうか。 悪魔の吊るし上げをして満足しようというのでなければ、です。 「どうすべきとおっしゃっているのでしょうか」と言い換えてもいいでしょう。 それに対して、「そうしたとすれば、こうなるから云々」という帰納的アプローチのほうが速やかにことは運ぶのではないでしょうか。 この問題に関しては。 そうしないと質問の呈をなさない、そんな気がします。
お礼
ご回答をありがとうございます。 No.17のお礼欄および補足欄のあと書きこみます。 ハタラキとしてのアクマの事例として思い浮かぶのは 多くありません。 ○ 遠藤周作:『悪霊』 その女主人公ですが 題名からしてアクマが主題です。 ○ アレクサンドル・デュマ・ペール:『三銃士』 に出て来る《ミレディ》という女策士 ○ ヒッチコックの映画で《悪女》を扱ったもの。 たしか短いもので三十分ものだったような。 テレビ放映で見た記憶があります。 ☆ いやぁ 少ないですね。いづれも女であるとは いやはやですね。 そうかんたんに取り上げあつかうというわけには行かないようでもあります。
- hakobulu
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ブラジュさんの質問をご覧になっている方の中には、私と同様に、面白そうだが、難しそうで下手に回答などしたら恥をかいてしまう、回答などとんでもない、と思っておられる方は多いことでしょう。 私などは無謀にも回答というおこがましい形態で投稿するのですが、その気があるのであれば、もう少し庶民にもわかりやすい表現をお願いしたいと、あえて要望しておきます。 英気を養いつつの片手間で結構ですが、気楽に、しかし、本質を逸らさずに且つわかりやすく、という注文を素人からあえてつけさせていただきます。 それに答えていただくだけの力を、ブラジュさんはお持ちでしょう。 そこが弱点でもある(この点に関しては機会を改めてお話しできることもあると思います)わけですが、また、(必然的に)表裏一体の長所にもなっています。 なるべく論点を絞りたいと思いますので、今回は2点について伺います。 【可能な限り平易な言葉・平易な論理】でお願いいたします。 1. > ( d-1 ) おそらく アッキは 人間の心ないし意志によってみづからのもの(ウゴキ)とし得ると思われます。破れかぶれに成り得ますから。 ( d-2 ) アクマは どうか? ( d-3 ) 要するに 第二の死に人々をいざなうということは 何事にもあやまちの道を用意しそこへといざない あやまちに落ち入ったなら その姿を固まらせるというハタラキ これを生身のニンゲンがおこないうるか? : この点に関してですが、つまり、悪鬼は感覚的に悪さをする、ぐれた高校生番長みたいなものだが、悪魔は用意周到に人を麻薬漬けにする暴力団の元締めみたいなものだ、という感覚での表現でしょうか。 私としては、そうした悪魔としての暴力団の若かりし頃は、悪鬼としての高校生であったはずで、なぜそれを分けようと考えるのか、そのへんがよくわかりません。 後者のほうが手に負えないことはわかりますが、(異質の)別人であるという視点で対処したところで番長は日夜生まれ続けるわけですから、ブラジュさんが何を求めているのか実際のところよくわからない、ということです。 明らかに異質の別人としての存在である、という結論になった場合の、ブラジュさんの腹案はどうなっておられますか? 全くない、ということはないと思いますのでお聞かせください。 たぶん、そのほうが早いような気がするので。 2. > ( d-4 ) アクマというハタラキは 人間〔の心や意志や努力〕を超えた力から来るのか? それともやはり――モノや環境のみによるのでないなら―― ニンゲンが好き好んでそう成り そういうドクターであり演出家に成って《活躍する》ということなのか? : それを質問しているのだ、というお答えはまさかないと思いますが、であれば、どうだとおっしゃっているのでしょうか。 これを伺ったほうが、これも早いと思います。
お礼
アクマは相手が何が何だか分からなくなって 自暴自棄になろうと 自分に向かって暴力をふるうまでになろうと あるいは精神錯乱に落ち入ろうと 自死に追いこまれようと どうなっても構わない。ただ相手が困惑しその状態をつづけていけばよい。そして自死という結果に到っても構わない。 こういうハタラキをアクマと呼ぶと言いたいです。 あるいは 完全に自信を失いその結果 そのアクマ役の人に従属し服従するようになるかも知れません。家来とする。それは アッキの誕生となります。 でもそうなったとしても アクマ役はアッキたちと組んでいるのではないのです。支配しているという実態が現われることもあるでしょうが それもけっきょくどうでもよいと思っているはずです。 アクマは したいようにする。まったくの自由を《享受》しようということのみが 生きることであり それには周りの人間たちは 家来になるようにするか 消えるようにするかなのだと考えます。 ですから 完全に《死んで》いるのだと思います。そういう意味で――そういう意味でのみですが―― さとり切っているのだと思います。 けっこうスペースが余りましたが 取り敢えずはこんなところです。どうでしょう? * 《番長》は 悪いことをしよう・また家来たちに悪いことをさせようとしているのでしょう? それとは微妙に違って アクマは 相手が自分と同じように《死ぬ》ことを求めているのです。その点で 違うでしょう? 暴力団の元締めでさえ 微妙に違うでしょう?
補足
はこぶるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 今回は 《第二の死》 この概念を加えたところがあたらしい問い求めです。 ところがこれが分かりにくいので 回答者の方々もそして どういうわけか質問者のわたくしも 難儀しております。あなたとやり取りしたときのほうが アクマとアッキの区分けやその概念の展開が 主観的には はっきりしていました。 あっ その前に ★ ブラジュさんの質問をご覧になっている方の中には、私と同様に、面白そうだが、難しそうで下手に回答などしたら恥をかいてしまう、回答などとんでもない、と思っておられる方は多いことでしょう。 ☆ この《面白そうだ》と言っていただいたことで よかったと思っています。今回は やはり第二の死といったことを出したからでしょうか No.2の回答などは ぼろくそに言って来ていますし その《回答を評価する》が 10ポイントにまでなっています。 いづれにしましても この質問はかなり特殊で 《下手に回答など》はしづらいようにわたくしも思います。でも暗中模索でもよいと思っております。 問いかけの(2)は 前回とそれほど違っておりません。あるいは ちょうどあなたも回答を寄せている別の質問もありますね。 【Q:偽善という客観性】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6555870.html そしてやはりちょうど このわたしの質問のほうで ひどっちさんが あなたの思想について次のように批評しているのと同じような内容で――とうぜんのことですが―― 答えておられる。つまり ▼ (回答No.10=ひどっちさん) ~~~ はこぶる様のご意見と致しましては、以下の傾向にあるように見受けられました。 ・性善説に基づいている。 ・社会的要因が主な原因 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そして今回もおおむね同じような問いかけをされています。 そうですね。ちがいは――これは ひどっちさんにもお応えしたところですが――: 1. アクマは 独り立ちしている。また 相手に対するときには 一対一である。一本釣りである。つまりその点で 次のご指摘とは微妙に違います。 ★ 悪魔は用意周到に人を麻薬漬けにする暴力団の元締めみたいなものだ、という感覚での表現でしょうか。 2. それに付随して: オモテは ふつうの貌もしくは天使の顔をしている。ウラは 世の中の通説としての善悪のいろんな考え方に対処しうる能力を持ち得ながら その実は 顔無しである。のっぺらぼうである。 3. いろんな意味においてアクマは すでにさとっている。さとり切っている。 ● 【Q:偽善という客観性】の趣旨説明 ~~~~ つい、うっかりというものではなく、相手を虐げているということを分かっているメタ認知があっても、悪徳を実行してしまうのはなぜでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これに合わせて捉えるなら アクマはまったくの確信犯であり そう成り切っている。と言えるし そう言える場合を質問者としては扱いたいと考えています。 4. なぜ《悪に徹する》ことができるのか? 無常観としてのさとりでしょうし 相対主義の極致なのだと思います。(極致というのは いい意味で言うそうですが いちおう使っておきます)。アッキたちの群れから一段次元の高いところにいると思われる。 5. そうしてこの事項は 模索中の模索ですが:もし悪魔は けっきょく人間存在ではなしに 人間とその経験世界を超えているとさえ見るならば それは何であるか分からないという意味で《霊》である。 6. (5)のようであれば 人間はその霊である悪魔の作用を部分的に帯びてのごとくそれをはたらかせることがある。と見られます。 ☆ いまは ひどっちさんとの話し合いの結果しばらくは 休みモードであり温泉気分でもよいと思ってしまっているので ほんとうに試行錯誤で模索中ですが ひとつ考え浮かびました。 7. こういうハタラキをアクマと呼びたい: 男が女に(あるいは女が男に) おつきあいをしたのち 求愛する。結婚を申し込む。ところが 申し込まれたほうは きわめてあいまいな返事を返してくる。イエスともノーとも言わない。またはイエスともノーとも取れるような物言いで答える。 このつかず離れずが 永遠につづく。 どういうことかと言えば そのアクマのハタラキをしている女は(あるいは男は) 自分がどうなっても構わないのです。ただただ相手がまごついてどうしようもない状態になり その状態をつづけていれば満足なのです。
おはようございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > ともかくここは時間をかけましょう。どうでしょうか? 了解致しました。 > どうもわたしはいま休みモードに入っているようです。 思い浮かぶ主題をいくつかすでに質問に――あの一件落着のあとただちに――挙げていますが どうもからだは休みモードにあるようです。 いまごろ気づいてもいけなかったのですが ですからいまはゆっくりゆっくりの恰好ですすませていただきます。 お疲れ様でございます。愚生も確かにあの件では、疲れてしまいました。 寒さも残り少なくはなりましたが、くれぐれもご自愛くださいませ。
お礼
ありがとうございます。 そうですよね。 何よりも あと味がわるい。一件落着なのにです。 質問を挙げて かたちとしてもこの場につながっている状態にあることは たぶん重要でしょうしそのほうがよいと思われますので そうし続けますが いまは温泉気分でまいります。 いづれ自由に再出発しましょう。 この質問はまづこのまま開いておいて もし別の問い求め方が考えつきましたら そのあたらしい質問に切り替えたいと思います。では よろしくどうぞ。
補足
きょうその後 つぎの聖句に出会いました。 ▲ (Matthew 3:8) “・・・I tell you that out of these stones God can raise up children for Abraham.・・・” ☆ コムギから毒麦へ変わることとは別のようです。そして 毒麦からコムギへ戻ることを言うのか これも微妙に定かではありません。が 変わると言いますか 何かあたらしい人びとがあたらしい存在として湧いて出て来るかのごとくでしょうか? 地湧の菩薩? いえ分かりません。ふと出会ったものですから。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > ★ 非常に解釈が難しいところなのですが、お示しになられましたように、善意のコムギが毒麦(アッキ)にかわってしまう。 ☆ と見るのは 民間植物学による伝承にもとづくとしたほうがよいかも知れません。 仰れますように、当時の感覚からも、こちらの方が正しいかと推察されます。 > あとは 悪魔と悪霊との違いについてになると思います。 当方といたしましても、さらに考えてみたいと思っております。 > ☆ そう言えば 同じくイエスが《出て行け》と言ったあと悪霊が人から出て 豚の中に入ってその豚の群れが崖から落ちて行ってしまったとか ありましたか。 続く8章32節では、そのように描かれております。 「ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。」 ただ、インフルエンザにように、感染(?)の形態をとる可能性はがあるのかもしれません(一時流行りました”豚”インフルエンザ等でございます)。 > いやぁ むつかしいですね。細かく見る必要がありましょうか? 悪魔が人をして悪鬼にならしめ その結果が悪霊がついている恰好になるということでしょうか? 愚生の方でも、「悪魔と悪霊との違い」等含めまして、福音書、パウロの書簡等を通じて、ヒントとなる箇所を徹底的に探してみたいと考えております。 > ○ 超越的存在 ☆ というときの内実ですが 《観念 あるいは 思想》というふうに捉えれば 経験的なこととしては分かりやすいのですが これはどうでしょう? ”観念的・思想的な何か”として説明しなければ、当ご質問内容をお読みの方々も納得されないかと思っております。つきましては、こちらの方向性で微力を尽くしていきたいと考えております。 > 何だか丸投げになっていますが わたくしも考えます。 何卒、よろしくお願い申し上げます。 > これまでに考えたことは やはり例の《無常観》です。その負の色彩を帯びたものと言いましょうか 《人生や世の中の はかなさ》を強調する場合の観念ないしものの考え方です。 仰られますように、価値相対主義(もしくは、さらに進んだ”虚無主義”でございます)があまりにも行き過ぎてしまった観がございます。そろそろ是正するべきときがやってきたのかもしれません。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ”観念的・思想的な何か”として説明しなければ、当ご質問内容をお読みの方々も納得されないかと思っております。つきましては、こちらの方向性で微力を尽くしていきたいと考えております。 ★ 〔《無常観》・・・〕仰られますように、価値相対主義(もしくは、さらに進んだ”虚無主義”でございます)があまりにも行き過ぎてしまった観がございます。そろそろ是正するべきときがやってきたのかもしれません。 ☆ これらの二点について 同じ方向で捉えておられて意を強くいたしました。 ★ 愚生の方でも、「悪魔と悪霊との違い」等含めまして、福音書、パウロの書簡等を通じて、ヒントとなる箇所を徹底的に探してみたいと考えております。 ☆ さすが 科学者でいらっしゃると思いました。こちらは けっきょくいつかヒラメキが来ないかなといったふうでした。 考えてみれば 悪魔について――あるいは天使についても―― どうもしっくり来ない感じを持ち続けていまいた。この際 その認識としても深められて行けばいいがと思います。つまり一般的に説明しうる表現ということになるかと思います。わたくしなりの観想などをとおしてさらにすすめたいと考えます。 細かいところで二点です。 ★ ただ、インフルエンザにように、感染(?)の形態をとる可能性はがあるのかもしれません(一時流行りました”豚”インフルエンザ等でございます)。 ☆ なるほどですね。この解釈ですね。 ★ ~~~~~~~~~~ > ★ 非常に解釈が難しいところなのですが、お示しになられましたように、善意のコムギが毒麦(アッキ)にかわってしまう。 ☆ と見るのは 民間植物学による伝承にもとづくとしたほうがよいかも知れません。 仰れますように、当時の感覚からも、こちらの方が正しいかと推察されます。 ~~~~~~~~~~~ ☆ そうして じつは心情としては 《善意のコムギから毒麦(アッキ)に変わってしまったり その逆が起こったりする》ほうが分かりやすいように思ったりします。自由意志のあり方としてです。つまりは その自由意志に対してはたらきかける・人間の自由意志を超えた意志によるめぐみのあり方としてになるとは思います。 このようにすこし考えが錯綜して来ていますので じつは むしろ抑えて――おさえつつ――考えすすんでいるところです。すみません。 こんな感じになっていますが ひとおりのアクマ学を捉えておくことができればよいがと考えます。 * ひとつ思うことですが 悪魔といえば これもけっきょく《霊》といえば霊であるかに思われます。そのように読んで来たかと思われます。いづれにしましても それでどうなのかになるとは考えます。 ○ 神―→悪魔―→毒麦の種を蒔く(そうすることについて ゆるくされている)。 いまはせいぜい このあたりまでです。
補足
覚え書きのごとくにいささかの弁明です。 どうもわたしはいま休みモードに入っているようです。 思い浮かぶ主題をいくつかすでに質問に――あの一件落着のあとただちに――挙げていますが どうもからだは休みモードにあるようです。 いまごろ気づいてもいけなかったのですが ですからいまはゆっくりゆっくりの恰好ですすませていただきます。 でもそう言うのなら ひどっちさんのほうこそ いろいろ――特に情報を集めていただいたりの下準備の作業も――たいへんだったろうと思います。ので ともかくここは時間をかけましょう。どうでしょうか?
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > ☆ よく分かった次第です。そう言えば ヨブに対してサタンがかれを打つことを神はゆるしていました。それも その打つことは試みであると条件づけているかたちでさえあったと思います。 ご賛同いただきまして、どうもありがとうござました。確かに、以下に示しますように、神はエリファズに対して、お怒りになられています。 ヨブ記 42章7節 主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。 この正しく語らなかったというのは、以下の言葉かと思われます。つまり、神にのみ下される判断を、勝手にエリファズがしてしまったものがその理由かと推察されます。 ヨブ記 22章1から5節 テマン人エリファズは答えた。人間が神にとって有益でありえようか。賢い人でさえ、有益でありえようか。あなたが正しいからといって全能者が喜び完全な道を歩むからといって神の利益になるだろうか。あなたが神を畏れ敬っているのに神があなたを責めあなたを裁きの座に引き出されるだろうか。あなたは甚だしく悪を行い限りもなく不正を行ったのではないか。 > そうしますと ひとつ別のなぞが出て来ます。 ☆ この恩恵を受けている人間 これは アダムとエワの神へのさからい(原罪)のあとの人間について言っているのだと思われます。 そうしてそのような良い麦たちのあいだに毒麦が蒔かれる。あるいは もしそうだとしたら ふつうの麦が毒麦に・つまり悪鬼になるとも考えられます。 実際、 当時のパレスチナの農夫は、雨の多い時にはコムギがドクムギに変わると信じていたようです。 ドクムギ:牧草に混入すると家畜が中毒を起こすことがあるというので「毒麦」といわれるが、実際にはテムレンという有毒アルカロイドを算出する菌の寄生によるもの。菌に侵されなければ“ドク”という名はついていても有毒植物ではない。 ソース:http://dorosya.web.infoseek.co.jp/097/syokubutu.html 一方、以下のような福音書の一節もございます。 ルカ 8章5から12節 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」 <中略> 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。 非常に解釈が難しいところなのですが、お示しになられましたように、善意のコムギが毒麦(アッキ)にかわってしまう。一方、蒔かれたときには、有毒ではなかったかもしれませんが、その後菌の感染により、ドクムギ化してしまった(コムギには感染しないようです)の2通りの考え方がございますが、当初のパレスチナのひとたちが考えていたように、また上記福音書に記述しておりますように「コムギがドクムギ(アッキ)に変わる」と考える方が妥当かもしれません。 > つまり悪鬼たちがいるということは分かるのですが 悪魔は けっきょくエワたちが罪を犯す前にいたわけですから それは人間ではない何らかの存在であるということなのでしょうか? 創世記には、”悪魔”という言葉が出て来ないようなのです。そこで、その後の神学では、ルシファーの堕天使説等が生まれてきたものと考えております。 一方、福音書では、 ルカ 4章5節 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 こうなりますと、超越的存在になろうかと推察されます。一方、”悪霊”については多く散見されます。これは、感染する類のものかと推察されます。 ルカ 4章35節 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。 > ともに考えてくださるとありがたいです。 こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。 とりとめのない、内容となってしまい、心苦しいのですが、最後まで、およみいただきましたこと、厚くお礼申し上げます。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 まづ麦と毒麦とが 種が違うのかどうかが分からなかったものですからヰキぺを見てみました。種が違うもののようです。 ▲ (ヰキぺ:麦) ~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%A6 1.イネ科 1-1. イチゴツナギ亜科 1-1-1. Bromeae 連 1-1-1-1. スズメノチャヒキ属 - イヌムギ - 雑草 1-1-2. Poeae 連 1-1-2-1. カラスムギ属 - エンバク、カラスムギ 1-1-2-2. ドクムギ属 - ドクムギ、ホソムギ(ペレニアルライグラス)、 ネズミムギ(イタリアンライグラス)、アマドクムギ、ノゲナシドクムギ、 ボウムギ 他 - 牧草、雑草 1-1-3. Triticeae 連 1-1-3-1. エギロプス属 - タルホコムギ、クサビコムギ 他 1-1-3-2. オオムギ属 - オオムギ 1-1-3-3. コムギ属 - パンコムギ、デュラムコムギ、クラブコムギ、 スペルトコムギ、エンマコムギ 他 1-1-3-4. ライムギ属 - ライムギ 1-2. キビ亜科 1-2-1. Andropogoneae 連 1-2-1-1. ジュズダマ属 - ハトムギ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうしますと ★ 非常に解釈が難しいところなのですが、お示しになられましたように、善意のコムギが毒麦(アッキ)にかわってしまう。 ☆ と見るのは 民間植物学による伝承にもとづくとしたほうがよいかも知れません。 ★ 一方、蒔かれたときには、有毒ではなかったかもしれませんが、その後菌の感染により、ドクムギ化してしまった(コムギには感染しないようです)の2通りの考え方がございますが・・・ ☆ この《感染》ということ自体は 科学的なことのようにも受け取られますね。これらの説を足して二で割るというのも情けないことかも知れませんが ううーん ただし善意が悪意に変わるのは 人の自由意志によるということですから ありうると言えるとは思うのですが?・・・ あとは 一点をおそわって もう一点は課題になるかと思われます。 ★ ~~~~~~~~~~~ 確かに、以下に示しますように、神はエリファズに対して、お怒りになられています。 ヨブ記 42章7節 (* 省略とします)。 この正しく語らなかったというのは、以下の言葉かと思われます。つまり、神にのみ下される判断を、勝手にエリファズがしてしまったものがその理由かと推察されます。(* 省略にしたがいます)。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たしかにこのエリファズは 神のようになってヨブをさばくように語っていますね。 あとは 悪魔と悪霊との違いについてになると思います。 ★ 悪魔 1. ★ 創世記には出て来ない。 2. そこでの《へび》はどうか? 3. ★ その後の神学では、ルシファーの堕天使説等が生まれてきたものと考えております。 4. ★ 《ルカ 4章5節》――こうなりますと、超越的存在になろうかと推察されます。 ★ 悪霊 5. ★ 〔聖書に〕多く散見されます。 6. たとえば ★ 《ルカ 4章35節》――これは、感染する類のものかと推察されます。 ☆ そう言えば 同じくイエスが《出て行け》と言ったあと悪霊が人から出て 豚の中に入ってその豚の群れが崖から落ちて行ってしまったとか ありましたか。 いやぁ むつかしいですね。細かく見る必要がありましょうか? 悪魔が人をして悪鬼にならしめ その結果が悪霊がついている恰好になるということでしょうか? あと ○ 超越的存在 ☆ というときの内実ですが 《観念 あるいは 思想》というふうに捉えれば 経験的なこととしては分かりやすいのですが これはどうでしょう? 何だか丸投げになっていますが わたくしも考えます。 これまでに考えたことは やはり例の《無常観》です。その負の色彩を帯びたものと言いましょうか 《人生や世の中の はかなさ》を強調する場合の観念ないしものの考え方です。 【Q:麦と毒麦・・・】で考えたこととして この《はかなさ》という・しかも《さとり》が曲者なのではないかでした。この世のよきことやあるいは愛といった概念に対して もはや親の仇としてのごとく敵対するようなさとりです。負のさとりです。しかもこの観念が人の中にいだかれると ヱ゛クトルとして動き出すのではないかというものです。 よろしくどうぞお願いします。
こんばんは、Hidocchiでございます。 > たいへんすみませんでした。お手数をおかけしました。 いえいえ、こちらこそよろしくお願い申し上げます。 > ★( a ) つまり、悪魔を人間の存在として取り扱う必要があろうかと考えております。 ☆ この結論が どのようにみちびかれているのかがはっきりと捉えられないでいます。 前文は、「 そもそも、 毒麦が普通の麦かの判断をする能力がない(もしくは、善悪人を定義付けすることが不可能)」ということを述べております。 > 毒麦=悪鬼たち これは 人間です。麦も人間です。あっ そう言えば ★ 人の子 ☆ はイエスのことですよね? あるいはキリストとしてむしろ霊つまり去って行ったらそのあと弟子たちに送るであろうと言われたその聖霊のことだと捉えたほうが分かりやすいのかも知れません。けっきょく思想の構造は違うでしょうが 仏性にたとえればさらに分かりやすいかとも思われます。 愚生が間違えておりました。ただ、”精霊(or ロゴス)”というよりも「”人”の子」の”人”に重点を置き、勝手に解釈した次第でございます。 ★( b ) (一般的な解釈では、”悪魔”は超越的存在かと思われますが)。 ★( c ) そう考えますと、超越的存在に限らず、”人の子”もまた、悪魔になりうるものと考えられます。 ☆ これらの命題と 先の( a )の命題とのあいだをどう解釈したらよいか よく分かりませんでした。どうでしょう? 愚生の間違いでございました。この場をお仮し、深くお詫び申し上げます。 従いまして、超越的存在でもあり、ひととしての存在の両面を持ち合わせているというのが適切かと思われます。 > ひとつひらめきました。 ▲ 刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 ☆ この《世の終わり》と言えば もし《永遠の現在》という思想に立てば 《いま》のことです。 さすがに、bragelonne様でございます。思弁的思考力は、愚生のはるか上を行ってございます。 《いま・此処なる〈わたし〉》がそれぞれ言わば麦か毒麦かの判定がくだされているのかとも思われます。すでにこのいまです。 ただし その結果がいま現われているわけではない。少なくとも人間には分からない。分からないだけではなく その判定をする主体であるのでもない。 そうしますと こうなりましょうか: 1. ( c )を解釈して: ○ 人の子であるイエスが すでにキリストとして(あるいは その死後を見越して そのキリストが父なる神とともに人間たちに送る聖霊として) 悪魔が毒麦の種をまくことをそのしかるべき範囲でゆるしていた。 2. ( a )を解釈して: ○ その毒麦は 悪鬼たちである。そしてその毒麦の種を蒔くことは 《その人間・即・悪魔である》というのではなくとも 具体的にいづれかの人間がおこなっている。という可能性があるのではないか? ☆ でしょうか? 当初は、”2”の意見でございましたが、「 悪魔が毒麦の種をまくことをそのしかるべき範囲でゆるしていた。」とも言えるかと思われますし、また「エヴァをそそのかした「蛇」のように、自由にしていた。」 とも考えられますが、いかがなものでしょうか? > ☆ それは 《良い麦》と言っても 罪のない人はいないというごとく 完全に良いという意味ではないゆえであると。 ”完全に良い”とは断じかねますが、人達に恩恵(糧)をもたらす存在であることは事実かとも思われます(「パンのみに生きるに非ず」とはございますが、一定の恩恵・糧をもたらしているものかと考えております)。 ○ 【麦と毒麦】 ~~~~~~~~~~ 神――・・・―→ 良い麦〔その種 を蒔く〕 〃――悪 魔―→ 毒麦〔その種を 蒔く〕:これをゆるしている。 ~~~~~~~~~~~~~~~ 「これをゆるしている。」もしくは、「特別な監視はしていない。」、「自由に任せている」。 さらに申しますと、”毒麦”と一緒に刈り取られてしまいかねない”(善意の)麦”に試練を与えている。つまり、本来は、”天使”が、(両者を区別し)刈り取るものなのですが、”人”によって、勝手に”(善意の)麦”をも刈り取られてしまう危険性もあるためでございます。 全くもって、申し訳ございませんでした。愚生の誤りにつきましては、深くお詫び申し上げます。もし、ご意見等賜れば、幸甚でございます。
お礼
★ さらに申しますと、”毒麦”と一緒に刈り取られてしまいかねない”(善意の)麦”に試練を与えている。 ☆ ここでピンと来るものがありました。《試練を与えている》というところです。 ★ ”(善意の)麦”に ☆ もである。というところが みそであるように思います。 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 さっぱりすっきりいたしました。ありがとうございます。 ★ 「これをゆるしている。」もしくは、「特別な監視はしていない。」、「自由に任せている」。 ★ つまり、本来は、”天使”が、(両者を区別し)刈り取るものなのですが、”人”によって、勝手に”(善意の)麦”をも刈り取られてしまう危険性もあるためでございます。 ★ また「エヴァをそそのかした「蛇」のように、自由にしていた。」 とも考えられますが、いかがなものでしょうか? ☆ よく分かった次第です。そう言えば ヨブに対してサタンがかれを打つことを神はゆるしていました。それも その打つことは試みであると条件づけているかたちでさえあったと思います。 そうしますと ひとつ別のなぞが出て来ます。 ★ ”完全に良い”とは断じかねますが、人達に恩恵(糧)をもたらす存在であることは事実かとも思われます(「パンのみに生きるに非ず」とはございますが、一定の恩恵・糧をもたらしているものかと考えております)。 ☆ この恩恵を受けている人間 これは アダムとエワの神へのさからい(原罪)のあとの人間について言っているのだと思われます。 そうしてそのような良い麦たちのあいだに毒麦が蒔かれる。あるいは もしそうだとしたら ふつうの麦が毒麦に・つまり悪鬼になるとも考えられます。 つまり悪鬼たちがいるということは分かるのですが 悪魔は けっきょくエワたちが罪を犯す前にいたわけですから それは人間ではない何らかの存在であるということなのでしょうか? 人間を善と悪とを知る木からその実を取って食べるようにとそそのかした蛇としての悪魔は 人間より以前にいた何かなのでしょうか? つまりは そのつてでは 人間が悪魔になることはないとも考えられるのかどうか? すみません。よろしかったら ともに考えてくださるとありがたいです。
補足
訂正をふくみつつ おぎないです。 すでに次のようにご見解をうかがっていました。 ★ 〔悪魔について〕従いまして、超越的存在でもあり、ひととしての存在の両面を持ち合わせているというのが適切かと思われます。 ☆ ですから もうほとんどお答えをいただいていたようなものでした。 つまり問いとしては ☆☆ ~~~~~~~~~~~ つまり悪鬼たちがいるということは分かるのですが 悪魔は けっきょくエワたちが罪を犯す前にいたわけですから それは人間ではない何らかの存在であるということなのでしょうか? 人間を善と悪とを知る木からその実を取って食べるようにとそそのかした蛇としての悪魔は 人間より以前にいた何かなのでしょうか? つまりは そのつてでは 人間が悪魔になることはないとも考えられるのかどうか? ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしなりの表現をしますと: ○ 悪魔は 人間に対するという面においては何らかの《超越的存在でもあり》 かつ《ひととしての存在》にはたらきかけ そのはたらきかけられた《ひととしての存在》をとおして作用するというかたちを取る。このような《両面を持ち合わせているというのが適切かと思われます》。 ☆ このようで ひととおり納得できると思います。たぶんよろしいかと思いますが お答えのほうもよろしくお願いいたします。 わづかに疑い虫になろうとすれば ○ 《超越的》とは何か? ☆ だろうとは思います。どうでしょう?
お礼
たとえばひとのを借りて来て (b^-゜)(*^-^)b♪(*^ ・^)ノ⌒☆ ヾ( ´ー`)(*^_^*)三 (/ ^^)/ :*:・( ̄∀ ̄)・:*: (|||_|||) ┐(´ー`)┌ (//▽//)… … …φ(.. ) こう書けば ちょっとは情緒があって ニンゲンがかわいいと思われるだろうか? にしなさん ご回答をありがとうございます。 そう言えば あの回答も取っておくとよかったかも知れなくて ただし あれは 情緒にうったえる部分がつよすぎるおもむきが濃いのであって。 つなぎは つなぎであるようなのだけれど。 そうですな。 でも やわらがしめるちからになったところもあったかも知れず。 ただしそれが よかったか むしろわるかったか これも分からないのであって。 そうですな。 じつは わたしの直感では――という意味は 勘違いや おそれ多い間違いをもおかしているかも知れないということですが―― みづからを死なしめる振る舞いに到るということを それがあっても かまわんという腹を決めたかたちで想定したのでした。 主語をはぶきましたが あなたは知っているかどうか ほかにダイスの名の人間がいたでしょう? この人間に到っては 読み違いでした。自死を考えるとは思わなかった。あるいは考えた末に――第二の死を避けて―― 戻って来ると思っていました。そうではなく 自死は思いとどまったかも知れないけれど むしろ第二の死のほうへより近くすすんだという感じを受け取っています。 このゾンビ倶楽部では エロぢぢいは もう幽霊のごとくであって かえってゾンビ界と現実界とを自由自在に行き来することができると思って よろこんでいるだろうし むしろそれを誇っているかも知れないと推し測ります。 ですから あなたとわたしとの差は あなたがまだのぞみを持っているというところにあります。 人間とその自然本性について のぞみを持つことは わたしとてつねに外しませんが その大前提の上で 特定の人間についてその人たちが この常なるのぞみを砕く結果になるということをすでに想定したというのが わたしです。 ★ おんなを怒らせるとうまくいかないんだと思いました ☆ 百年の不作と 昔の人は言いました。一生ものだと思います。 でもそのアッキの動きとしては かえって神からの試練になりえます。われをきたえてくれます。大いに美酒への道を彩ってくれもします。 もんだいは アクマです。問題があるとしたら アクマです。 ★ A/S思想の自動思考でとらえ ☆ スサノヲ庶民に さすがアクマはいないと思われますが つまりはいたとしてもアマアガリをして行くでしょうから なのですが ただしアマテラス公民であるからみなアッキであったりアクマの要素があると断定するのは早いと思います。 つまり 普段はそういった判定をしないものです。たぶん アッキはけっこう日常茶飯事であるとも言えるので――これはさすが自分をも含めて―― アッキの動きだわいと判定したりするでしょうが さすがアクマは よほどおのれの腹の底にそのヒラメキを得た場合にしか考えることもないのではないでしょうか? それに 仮りに人間そのものがアクマであったとしても 同時代に・また一定の地域や場に 何人もいることはないと思われます。そのときには 貴重な存在になるはずです。神のごとく如何なるものの下にも立つまいと心に決めた場合であるようです。 ★ ~~~~~~~~~~~~ ブラジュロンヌさんの逆さ政治思想やびっくり歴史観がアマガッパさんなんかの協力により美学方面にも射程をのばす良い機会だったかも知れないのに けんかに少し水をさして申し訳なく ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは ましゅさんも言っていたなぁ。そういう見方をするのは それこそアクマですよと言ったら おどろきですか? 十字架の道がおのれの前にない・見えなくなるとすれば それは アクマの方面だとわたしは思います。というよりも わたしたちはすでに身も心も張りつけになったところから歩み始めているのです。 その張りつけによる第一の死が死なしめられたところから 起き上がらしめられました。と知らなければいけません。もし ★ 寂しいですね。 ☆ というぼやきを吐くのならば。 ただ 九十九匹ではなく そこから何らかの事情ではみ出てしまったというのであれば その一匹について最後の最後まで探し出さなければならない。声をかけつづけなければいけない。 ★ 私の言葉が少しでもおじさんの心に作用すれば、このくたばった心も少しはおどるはずでしたのに。 ☆ いづれにしても あのときはグルだと疑われてはダメ。