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アクマとは《第二の死》へといざなうはたらきである。
- アクマとは、アッキたちを従えて人びとを第二の死の状態へといざなう存在である。
- 第一の死を死なせて復活するのをみづからこばみ、第二の死の状態にみづからすすんで突っ込むうごきをアッキと呼び、アクマがその作用を行う。
- 第二の死は、第一の死が死ななくなった状態を指し、心のさからいによって起こる可能性がある。
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仁科です 過日はジジイ扱いしてすみませんでした。 ジジイはくりやさんでエロジジイはチョトツ先生だと思います 思想家ひびのあきひこ氏が孕む公憤とブラジュロンヌさんが抱く幾つかの私憤がないまぜのごった煮状態で、冬の滝の底からマグマが噴き上がればもう春なんだろうと思います あまがっぱおばさんに愛想を尽かされてからよたよたになった状態で夕飯。夕刊。洗濯物を干す。と律儀なブラジュロンヌさんのしぶとさに私は泣きました 介護中のおじさんなら情緒も疲れていると思います 私は日頃から心が麻痺し情緒が死に、自殺しても死んでもどうでもいいような気分に最近なり、数年から十年くらいそんな感じで アマテラスもスサノオもどうでもいいのですが おじさんには思想や仕事があり、私を含む投稿者たちになくブラジュロンヌさんにあるのは思想のオリジナリティで ほんとに独創なのか分かりませんが 独創なら自負とこだわりがあるのは仕方なく、人がたまにその独創性を無自覚に嫉妬するかも知れず このごろのブラジュロンヌさんの孤独は環状の瀑布のど真ん中に一人でぽつんと立っている孤独なんだろうと思い 見まわしても人々はぶ厚い水の壁の向こうに遠く 人と幻想を共有できなければ、現実観の相違で合意し、絶交となり、地味な棲み分けは仕方のない寂しい自然なことで静かで 否みくる他人なんかは心が麻痺するきっかけで 自然な生や死や自分の顔を忘れて臆病な第二の死を往くイメージは モモっていう小説にえがかれてた灰色の銀行家たちにも似て 私は詩人の真似をしてまるで心から内発するものがあるふりをして 中には何ひとつ無くただ外から欲しいばかり 特に自分のすっからかんな言葉への反応 おじさんの文は学術オタク語みたく すねたように難解になり翻訳が要り 対話を拒むかあるいはより対話を必要とする魂胆かもてなし下手なのに りとます紙みたいに言葉で人を判別し アマテラス的いばりんぼはブラジュロンヌさんの中にもいますでしょ アマとスサに分ける見方は二分するところだけ私の対人不安に似 人をいちいち敵か味方かに分け、好かれるか否まれるかに恐々とする私 辛辣で気取り屋で責任感の強いおばさんをおじさんはついA/S思想の自動思考でとらえ、おばさんをアマテラス代表とみなし仲違いし婆悪魔よばわりしているのだと思いますが おばさんの中にもスサノオ的な在野精神やドロップアウト組に情けをかける慈しみがあるかも知れないのに愛想は尽き おじさんとおばさんの和解があるか知りませんが おじさんもおばさんも若いことは早なく どこか寂しい春 社会とおじさんの和解があるかわかりません 社会こわいです 社会不安や対人不安が症状として私にはずっとあり今後の自立の見通しもなく 定年退職した父が私を否み私はその否みに麻痺するほど悲しくやましく腹立たしいものの たぶんそれらは仕方がないことだと思うことにし 否まれ続けると心が疲れこれ以上疲れないよう麻痺し仮死し もし律儀に悲しんだら胸がへこみつぶれ割れ 否みと疲れの家には癒やしがなく日々すこしずつ疲れがつのり瓦解は待たれ 広いらしいせかいに生きているらしいのに生命観は枯れ世界観や人生観はやつれ、しなび、ちぢみゆき 私は信仰もなければ救いもなく 日記をつけて落ち着いたり、ケータイで動画を見て射精したり、毎食毎食やけ食いしたり、せっせと相談サイトで久しぶりに道化ぶったり 職業訓練に通いながら昼休みにはビルのてっぺんでひとりケータイひらいて相談サイト眺めながら母の手作り弁当を食べています ブラジュロンヌさんの逆さ政治思想やびっくり歴史観がアマガッパさんなんかの協力により美学方面にも射程をのばす良い機会だったかも知れないのに けんかに少し水をさして申し訳なく おんなを怒らせるとうまくいかないんだと思いました ひとや虫や私は女より何より単なる春にうかうか気分をやわらがしめられえそうで 春にはわらわらとエロジジイたちが相談サイトにも群れ 女から怒りを買い寂しそうなブラジュロンヌさんから私は悪魔よばわりもされず。 おじさんの心を占められなくて。 ぐろてすくなものがこの眼窩から湧き出てはむなしく渇き。 私の言葉が少しでもおじさんの心に作用すれば、このくたばった心も少しはおどるはずでしたのに。 それなのにおじさんは。あんなおばさんのことばかり見つめて。寂しいですね。
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こんばんは、Hidocchiでございます。 > ☆ ひどっちさんには 【Q:麦と毒麦 または・・・】でのはこぶるさんとのやり取りを――少し長いですが――是非読んでくださるようお願い致したいと思います。アクマ学としてです。 この場にはこぶる様がおられないため、詳細を確認することができす、余り詳しい所までは言及できかねるのですが、微力を尽くしたい考えております。 はこぶる様のご意見と致しましては、以下の傾向にあるように見受けられました。 ・性善説に基づいている。 ・社会的要因が主な原因 このタイトルから致しますと、”毒麦のたとえ”からの引用と推察されるため、以下に参考となるところを述べさせていただきます。 マタイ伝13章37~39節 共同訳 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 ・良い種を蒔く者:人の子 ・毒麦を蒔いた敵(者):悪魔 との関係が見られます。つまり、 ”良い種を蒔く”のは、神でもなければ、天使でもなく、” 人の子”だという訳でございます(一般的な解釈では、”悪魔”は超越的存在かと思われますが)。 そう考えますと、超越的存在に限らず、”人の子”もまた、悪魔になりうるものと考えられます。そしてさらに、”毒麦は悪い者の子ら”とございますが、おそらく、これが悪魔の家来たる”悪鬼”に該当するものと考えております。 そして、この毒麦を引っこ抜く(刈り入れる)のは、人間の為すことではなく、神の使い(天使)となろうかと読むことが可能かと思われます。つまり、毒麦を引っこ抜くということは、人のすることではない(民主主義的手続きを踏んだ公開を前提とした”裁判”ではなく)。もしするのならば、それは”私刑”かと察せられます。 つまり、悪魔を人間の存在として取り扱う必要があろうかと考えております。 また何かございましたら、ご返信いただければ、幸いでございます。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
たいへんすみませんでした。お手数をおかけしました。 ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~ ・・・ ”毒麦は悪い者の子ら”とございますが、おそらく、これが悪魔の家来たる”悪鬼”に該当するものと考えております。 そして、この毒麦を引っこ抜く(刈り入れる)のは、人間の為すことではなく、神の使い(天使)となろうかと読むことが可能かと思われます。つまり、毒麦を引っこ抜くということは、人のすることではない(民主主義的手続きを踏んだ公開を前提とした”裁判”ではなく)。もしするのならば、それは”私刑”かと察せられます。 つまり、悪魔を人間の存在として取り扱う必要があろうかと考えております。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ この一行をあけた前後の推論 これがよく分かりませんでした。 悪魔の家来である悪鬼たちを――これが毒麦にたとえられるので―― 引っこ抜くことは その刈り入れのときに神の使い(天使)がおこなうことである。人のすることではない。そのあと ★( a ) つまり、悪魔を人間の存在として取り扱う必要があろうかと考えております。 ☆ この結論が どのようにみちびかれているのかがはっきりと捉えられないでいます。 毒麦=悪鬼たち これは 人間です。麦も人間です。あっ そう言えば ★ 人の子 ☆ はイエスのことですよね? あるいはキリストとしてむしろ霊つまり去って行ったらそのあと弟子たちに送るであろうと言われたその聖霊のことだと捉えたほうが分かりやすいのかも知れません。けっきょく思想の構造は違うでしょうが 仏性にたとえればさらに分かりやすいかとも思われます。 そうしますと さらにいくらかこんがらがって来もします。 ★ ~~~~~~~~~~~ つまり、 ”良い種を蒔く”のは、神でもなければ、天使でもなく、” 人の子”だという訳でございます(一般的な解釈では、”悪魔”は超越的存在かと思われますが)。 そう考えますと、超越的存在に限らず、”人の子”もまた、悪魔になりうるものと考えられます。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりは言いかえると 上に聖霊として挙げたはたらきは 人間イエスとともにあるといった捉え方になるかと思います。(イエスの出現の以前には もし同じように《良い種を蒔く》ことがおこなわれていたとしたら それはただ聖霊だけが蒔いたのだと考えられます。アブラハムやモーセのときに 果たして良い種を蒔くということが行なわれたかどうかは いまにわかには分かりませんが)。 ★( b ) (一般的な解釈では、”悪魔”は超越的存在かと思われますが)。 ★( c ) そう考えますと、超越的存在に限らず、”人の子”もまた、悪魔になりうるものと考えられます。 ☆ これらの命題と 先の( a )の命題とのあいだをどう解釈したらよいか よく分かりませんでした。どうでしょう? ひとつひらめきました。 ▲ 刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 ☆ この《世の終わり》と言えば もし《永遠の現在》という思想に立てば 《いま》のことです。 《いま・此処なる〈わたし〉》がそれぞれ言わば麦か毒麦かの判定がくだされているのかとも思われます。すでにこのいまです。 ただし その結果がいま現われているわけではない。少なくとも人間には分からない。分からないだけではなく その判定をする主体であるのでもない。 そうしますと こうなりましょうか: 1. ( c )を解釈して: ○ 人の子であるイエスが すでにキリストとして(あるいは その死後を見越して そのキリストが父なる神とともに人間たちに送る聖霊として) 悪魔が毒麦の種をまくことをそのしかるべき範囲でゆるしていた。 2. ( a )を解釈して: ○ その毒麦は 悪鬼たちである。そしてその毒麦の種を蒔くことは 《その人間・即・悪魔である》というのではなくとも 具体的にいづれかの人間がおこなっている。という可能性があるのではないか? ☆ でしょうか? ☆ それは 《良い麦》と言っても 罪のない人はいないというごとく 完全に良いという意味ではないゆえであると。 ○ 【麦と毒麦】 ~~~~~~~~~~ 神――・・・―→ 良い麦〔その種 を蒔く〕 〃――悪 魔―→ 毒麦〔その種を 蒔く〕:これをゆるしている。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いえ分かりません。決定案ではありません。 よろしくどうぞ。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > ☆ この《群れから離れ迷子になっただけかも知れない》というのは その《一方では アクマになってしまっているのではないかとわたしがうたがっているその存在》のことでした。主語をはぶいたためのアヤマチでした。 こちらこそ、早合点してしまい、申し訳ございませんでした。 ☆ ひどっちさんには 【Q:麦と毒麦 または・・・】でのはこぶるさんとのやり取りを――少し長いですが――是非読んでくださるようお願い致したいと思います。アクマ学としてです。 了解致しました、現在読んでいるところでございます。 > 自己乖離(自己の内でのことを外部で他者が受け取るもののように感じる) ☆ これは ひょっとすると 自分こそがそれで悩んでいる。たすけて欲しい。すくわれたい。――こう言っているのか? でした。 一瞬 《群れから離れた一匹の子羊》だったかとも。そのあと閃いたことは これが手口だったかでした。アクマのです。 現時点では、何とも申し上げられないのですが、一点気付いたことを述べさせていただきます。アマさんの文章を読んでいますと、technical termが非常に多いことが気になりました。一般的に、ドクターにもなれば、当該分野において知識を有する専門家もしくはそれに準ずるもの以外の一般の方達には、これらtermは避けるべきことは教わってきたと思うのですが、なぜそれをなさらないのか という疑問がございます。 (1)「本サービスは、会員間の質問と回答の形式による情報交換の機会及びその環境を提供することを目的とします。」 の解釈について、 1. 設立の背景 当社は、「世界中の人と人を信頼と満足でつなぐこと」を理念として掲げ、平成11年7月に設立されました。あらゆる分野において誰もが気軽に質問でき、お互いに経験や知識を教えあうことにより、助け合うことができる場として「OKWave」というQ&Aサイトを設立しました。 http://www.ullet.com/edinet/S0006UGV.pdf 「有価証券報告書」p.5からでございます。 つまり、「あらゆる分野において誰もが気軽に質問でき、お互いに経験や知識を教えあうことにより、助け合うことができる場として「OKWave」というQ&Aサイトを設立しました」とございます。つまり、一種の“互助の精神”にも通じるところがあろうかと存じます。従いまして、一方通行的なものではなく、また質問者と回答者の上下関係等もない ものと思われます。 (2)評論家の功罪 「音楽現代」のバックナンバーを調べていた最中、以下の文言を見つけました。これは、おそらく助川氏だけでなく、少しでも歴史を顧みることができた方達ならば、以下の帰結に賛同するものと察せられます。今となっては、どうしようもないことなのですが、批評でいちゃもんを付けられて、ドビュッシーが書き直してしまった曲よりも、その前のドビュッシー自身の原曲に興味を持つのは、愚生一人だけではないと思っております。 因みに、「音楽現代」のバックナンバーを調べてみたのですが、案の定、前衛音楽は、衰退の傾向にあるようです。 助川「活字は権力だし凶器にもなる。昔、無調でないとだめだとか、前衛的でないとだめだ、というので、散々作曲家を罵倒した批評家がいた。あの人たちは日本の作曲を随分ゆがめましたよ。作曲家というのは創作の過程では本当に孤独なんで気が弱くなってるもんですよ。ドビッシイみたいな人でも批評でなんか言われて曲の一部を書き替えてしまったことがあるそうだから。」 http://www5c.biglobe.ne.jp/~onbukai/HP-tosyo/onse1999/zd-199902.htm からです。 なお、マシュマロ様におきましては、根底にあるのは、時間とともに(科学の進歩と同様に)発展・進歩をとげていく。そして、今現在、“前衛美術”なるものも現実として存在している。「なぜ、過去にまで遡る必要性があるの?」 といった現実主義的なものがあろうかと推察しております。 ただ、愚生の主張と致しましては、「“論理的・評論的解釈による美の認識方法”が、あまりにも横行してしまった。そこで、論理では説明しがたい、“一目ぼれ”してしまったかのような美しい作品に出会ったときの“感動”・“感性”を大切にしたい。そして、もう一度かような感動に触れてみようではないか?」といったものでございます。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 やっほおお です。終結したようです。 ★ 評論家 ☆ ってそんなにえらいんですか。おどろきです。 文学評論は それとして言わば独立した分野であると思っています。思想にもなり得ますし。あるいはまた 作家も自作についてみづからが評論家になって 推敲し模索し試行錯誤しているものと思います。その過程は とうといものであるように思います。 音楽や絵画は 文学よりももっとインスピレーションのはたらく領域だと思いますから 評論は作品に届かない位置にあるように思います。あるいは作品はつねに評論を超えていると思います。たとえつたない作品であったとしても その創作の性格から言って 独立性がつよいように思います。 ドゥビュッシでも評論の声に弱かったのですか。感受性がつよいからでしょうかねぇ。 【Q:麦と毒麦 または・・・】――たいへんお手数をおかけしますが 重要だと判断しました。よろしく――批評も――お願いしたいと思います。 ★ つまり、「あらゆる分野において誰もが気軽に質問でき、お互いに経験や知識を教えあうことにより、助け合うことができる場として「OKWave」というQ&Aサイトを設立しました」とございます。つまり、一種の“互助の精神”にも通じるところがあろうかと存じます。従いまして、一方通行的なものではなく、また質問者と回答者の上下関係等もない ものと思われます。 ☆ そう言えば このような趣旨のことを一度聞いたような気もしますが。有価証券報告書ですか。役に立ちますね。 ただしいぢわるく見れば 質問者に回答者がおしえ その回答者も質問者になったときには おしえを受ける。そのように立ち場を替えるときに 相互扶助になるのだよと言って来るかも知れません。 でも 結着はついたと思います。 ★ ・・・technical term が非常に多いことが気になりました。一般的に、ドクターにもなれば、当該分野において知識を有する専門家もしくはそれに準ずるもの以外の一般の方達には、これら term は避けるべきことは教わってきたと思うのですが、なぜそれをなさらないのか という疑問がございます。 ☆ これは案外〔と言っていいのかどうかですが〕 大事ですよね。その専門的な術語や理論が どれだけ現実的であるかを測るものにもなると考えられますから。人文科学や社会科学では特に。 《アマテラス‐スサノヲ》連関制というのも 学術用語だと思っているのですけれど。・・・ ましゅさんは どうも何かに引っかかっているのか 吹っ切れているところと奥歯にものがはさかっているところとがあるように思います。 ★ 現実主義的なものが ☆ ですか? そうかも知れません。つまり作品との実際におけるつながりを離れるということは考えられないのかも知れません。 しばらくのあいだ 踊り場にいることになりましょうか。どうでしょうか。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > 《大物フィクサー》の場合は 研究の余地があると思うのですが たとえばポルポトや独裁者たち これらの場合には すでにそのオモテの貌として《強権を用いる》というイメージがあるのかと思います。 言いかえると アクマは そうではなく――しかもつねに一対一で相手になって その相手を何とか第二の死の状態へとみちびこうとしつつ―― ちょうど《天使をよそおう》ものと思われるのです。いわゆる一本釣りなのだと思うのです。 そうして繰り返すなら その相手を みづからすすんでその《すべてを否定する精神》としての死の状態を愛するような存在(?)に仕上げる。 納得致しました。愚生は、黒幕的存在、アッキを従え、アッキに指図して行動させる というものを想定してございました。 「しかもつねに一対一で相手になって その相手を何とか第二の死の状態へとみちびこうとしつつ―― ちょうど《天使をよそおう》ものと思われるのです。」 かような存在は、実社会でも生息しているように見受けられます。《天使をよそおい》ながら、男どもを煽り立て、自分の都合のいいように仕向ける・戦わせるといった女性(社員)も実際おりました。男がバカだと言ってしまえば、それまでなのですが..... ”(自分の都合で)足を引っ張ることは頻繁にしてくれますが、手を引っ張ってくれることは決してしてくれない” 確かにいたかと記憶してございます。 > でももういちど見なおして出直したほうがよいのかも分かりません。と考えるようになりました。 了解致しました。「日本語の論理表現」のご質問に、移らせていただこうかと思っておりましたが、これ以上揉めることはないようにも思われました故、少し様子見をさせていただければと 思っております。アレルことがあるようでしたら、すぐに参加させていただきたいと思っております(仮説につきましては、愚生にも責任がございますから)。 最初のところがよく分かりません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ > と言っても たしかに一方でそのハタラキそのものになった節があるとすでに言っています。他方では それはただ単に九十九匹から離れ迷子になっただけかも知れないと考えているところもあったりします。 新たな「日本語が論理表現にふさわしくないわけがない」のご質問では、木造様が途中に入られ、論点を元に戻す作業がなされておられます(おそらく、お気遣いをなされたものかと)。従いまして、考えすぎのようにも、お見受けするのですが….. ~~~~~~~~~~~~~~~~ > ☆(1) 九十九匹から離れてしまった一匹という可能性は少ないとおっしゃっていますか? はい、仰られる通りでございます。 .> (2) 木造さんの回答内容が 《論点を元に戻す作業》だというその意味がよく分からないのですが? 猛突様、bragelonne様両お方を存じておられること。冷静になるべきときは、いたって冷静な発言をしてこられた経緯からの理由でございます。アレそうになったため、ご質問の本来の目的に沿った回答をお寄せになったものと考えております。 > (3) そうだとしても そのことと アクマの《実存》の可能性との関連も よく分かりません。 この件とは、関係ございません。ただ、bragelone様は決して、一匹になってしまってはいない ということを申し上げたかった それだけでございます。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
ご回答をありがとうございます。 あぁ 論理表現においてわたし自身が失態を演じました。 ☆☆ 他方では それはただ単に九十九匹から離れ迷子になっただけかも知れないと考えているところもあったりします。 ☆ この《群れから離れ迷子になっただけかも知れない》というのは その《一方では アクマになってしまっているのではないかとわたしがうたがっているその存在》のことでした。主語をはぶいたためのアヤマチでした。 言いかえると こうです。心つもりとして: ○ ~~~~~~~~~~ ここまでみづからのマチガイを認めることをしないのは――つまりそれだけで終わらず なお食いついて来るというのは―― 人間としてのわたしから見れば アクマというハタラキによるのではないかと捉えられる。この判断があります。 けれども その傍らには いわば神の席があって そこからは《いやいや 単なる迷い子であるに過ぎないかも知れない》という声が つねに聞こえて来る。つまり おまえは 判断をし間違えていないかというきよらかなおそれを持ち続けなさいと。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ 木造さんは 正直な話 ご自分の主張が――口調としてなのですが―― つよすぎると感じています。それだけなのですが。 ☆ ひどっちさんには 【Q:麦と毒麦 または・・・】でのはこぶるさんとのやり取りを――少し長いですが――是非読んでくださるようお願い致したいと思います。アクマ学としてです。 いまの時点でつぎのようなお話を述べます。 2月17日に【Q:ひとは やわらがしめられうるか?(つづき)】へ ちょとつくんが投稿して来ました(回答No.1)。【Q:審美眼】などの質疑応答を終えたあとです。わたしの反応は これは戦争の継続なり と読みました。 これを受けて そのあと【Q:《第二の死》とは】をもうけ さらにこの《第二の死》が 概念として・話題として通じると見ましたので 本質問【Q:アクマとは《第二の死》へと・・・】を起ち上げました。むろん親分がやってくるだろうと見越したからです。 読み間違いだったかと半分あきらめが漂ったときに 【Q:日本語が・・・】を問題にせねばならないとふと思いました。そうして やがてふたたびの戦闘開始となりました。お引き取りのままでは終わらなかった。 その親分さんの二度目の投稿(No.10)を読んで さすがに むなしいと思いました。しかも少し経って今度はその思いをひるがえして 《しらみつぶし作戦》で応答しておくのもよいと考え 途中まで・先に補足欄にて返事を書きました。 さすがむなしい! という再度の思いとともにふと思ったことは こうでした。 ■ 自己乖離(自己の内でのことを外部で他者が受け取るもののように感じる) ☆ これは ひょっとすると 自分こそがそれで悩んでいる。たすけて欲しい。すくわれたい。――こう言っているのか? でした。 一瞬 《群れから離れた一匹の子羊》だったかとも。 そのあと閃いたことは これが手口だったかでした。アクマのです。 分かりません。いっさい推し測っているだけですので 分かりません。 しなくてもよいものをと判断すべきかも知れないところの戦闘の途中経過ではあります。 どうなるか わたしがどうするか これも分かりません。いまの時点で このようです。 ましゅさんは 別だと思って来ましたが そしてそう思っていますが このところ考え直さねばいけないのかといういぶかしみが起こり始めました。 この主観が 公共のつとめでありますように。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > と言っても たしかに一方でそのハタラキそのものになった節があるとすでに言っています。他方では それはただ単に九十九匹から離れ迷子になっただけかも知れないと考えているところもあったりします。 新たな「日本語が論理表現にふさわしくないわけがない」のご質問では、木造様が途中に入られ、論点を元に戻す作業がなされておられます(おそらく、お気遣いをなされたものかと)。従いまして、考えすぎのようにも、お見受けするのですが….. > ☆ というように もちろん周到な見方をおこたらないわけです。 どうでしょう? 後者つまり《周囲からの影響》は どこまで効いているのか? これには わたしは問い求めの余地があるように思っています。 残念ながら、歴史上少なくとも独裁者と言われたひとたちも(ポル・ポト等でございます)、当初は熱狂的な“理想主義者”に過ぎなかったと推察しております。しかし、自分の理想と、また一方では、周囲からの期待も重なり(連鎖反応が生じてしまい)、あのような大惨事を起こしてしまったものと考えております。 意外と、冷酷無比な“アクマ”はあまり表だって出てこないためか、情報が入手しにくい状況にあろうかとも思われます。マキャヴェリもそうですし、韓非子もそうなのですが、その論調・主張とは異なり、最後はあっけなく死んでしまっていたものかと記憶しております。アッキとは異なり、正真正銘のアクマはそうそう表には出てこないものなの とも考えております。 > 《自己陶酔》も それほど長くもしくはそれほど強くは効いていないかも知れません。というのも アクマは 老獪であって ちょっとやそっと押しても引いてもびくともしない《神のごとき・負のだけれど精神》であると思われるからです。 確かに、仰られる側面もろうかと存じます。 > ☆ ほんとにわたしたちは こうなるとアクマよりも歳を取って手練手管に通じていなくてはならなくなるようです。 おっしゃるとおりですね。 ご賛同いただきまして、厚くお礼申し上げます。 > ですから ☆☆ ( d-4 ) アクマというハタラキは 人間〔の心や意志や努力〕を超えた力から来るのか? ☆ というときの《超越的な力》というのは それほど神秘的なものではなく けっきょく社会の中の人間関係が錯綜して長い間の歴史的に出来た結果としての恨みつらみ その匂いにふと触れた瞬間に われはアクマになるぞと心に決めるということかも知れません。そういう力によるアクマの生成です。 仰られますように、“恨みつらみ”がその根底となって、何らかのきっかけで、アクマ化してしまう可能性は存在するかと思われます。 > こうやって考えて来て ふと思いました。 ○ 社会学のなかでアクマ学というべき議論をまとめておけば 人生や社会における壁や溝や山や谷について 意外とその事態の認識が出来て ひとは凹むことも少なくなるかも知れない。 アッキの場合は、往々にして逮捕されこともあり、犯罪心理学等により、ある程度は説明可能な段階まできているものと推察しております。ですが、これらを操るアクマともなりますと、かなりの大物という印象があり(証拠はございませんが)、研究対象にはなりにくい とも考えてはおります。ですが、大物フィクサー(例えば、児玉 誉士夫や許永中です)からの調査研究により、アクマ学、もしくはそれに相当する研究分野が現れることは、将来の日本人には益するところがあろうかと考えられます。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
いやぁ またまた あるいはまだまだ アクマについては分からないものですね。 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ アッキとは異なり、正真正銘のアクマはそうそう表には出てこないものなの とも考えております。 ☆ という感じで 捉えがたい存在(?)である アクマは。 【Q:麦と毒麦 またはメフィスト―フェレス】で 案外 それまで考えていたことを表わせたと思ったのですが あらためて《人間としてのアクマ》を捉えようとしたところ 何だか捉えたと思っていたものも全部どこかからすり抜けて行ってしまった感じにもなっています。 《大物フィクサー》の場合は 研究の余地があると思うのですが たとえばポルポトや独裁者たち これらの場合には すでにそのオモテの貌として《強権を用いる》というイメージがあるのかと思います。 言いかえると アクマは そうではなく――しかもつねに一対一で相手になって その相手を何とか第二の死の状態へとみちびこうとしつつ―― ちょうど《天使をよそおう》ものと思われるのです。いわゆる一本釣りなのだと思うのです。 そうして繰り返すなら その相手を みづからすすんでその《すべてを否定する精神》としての死の状態を愛するような存在(?)に仕上げる。 でももういちど見なおして出直したほうがよいのかも分かりません。と考えるようになりました。 最初のところがよく分かりません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ > と言っても たしかに一方でそのハタラキそのものになった節があるとすでに言っています。他方では それはただ単に九十九匹から離れ迷子になっただけかも知れないと考えているところもあったりします。 新たな「日本語が論理表現にふさわしくないわけがない」のご質問では、木造様が途中に入られ、論点を元に戻す作業がなされておられます(おそらく、お気遣いをなされたものかと)。従いまして、考えすぎのようにも、お見受けするのですが….. ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (1) 九十九匹から離れてしまった一匹という可能性は少ないとおっしゃっていますか? (2) 木造さんの回答内容が 《論点を元に戻す作業》だというその意味がよく分からないのですが? (3) そうだとしても そのことと アクマの《実存》の可能性との関連も よく分かりません。 必要でしたら おしえてください。 見直しと出直しを考えようと思います。
- ノーバン(@nobound)
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難しい質問ですが・・・一部分だけでも考えてみます。 >第一の死が死なない。第一の死が 固定する。という第二の死。 とは何か? それは「終身刑」に近いのかなとちょっと思いました。 第一の死では、あやまち、しかも重い犯罪、殺人などを犯してしまうと、そこで「ああ俺の人生はもう終わりなのかな」と一度人生の死を思います。しかし刑に服すことで、もう一度人生をやり直すことができます。あるいは、あまりにも残忍な場合は「死刑」という本当の死を与えられます。 それに対し、日本にはまだありませんが、「終身刑」は一生刑務所から出られない、つまり罪の固定、第一の死の固定ということになります。これこそ第二の死といってもいいくらい相当きつい報いです。 これは何も犯罪に限ったことではありません。「潜水服は蝶の夢を見る」のように意識があっても体が動かない状態や、精神疾患で病態がずっと固定している状態などは、同じ苦しみを味わいます。 それがアクマの働きからくるのか、自らが自らに連続殺人や終身刑を命令するのか、そこに救いとか希望はあるのかはまだよくわかりませんが、誰も好き好んでこのような地獄を味わい続けたいわけはありません。そこに本人の意思はないと思っています。映画 「瞳の奥の秘密」を見て、さらにこのイメージが強まりました。沈滞している今の日本もこの状態に陥っていなければいいのですが・・・
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~ それは「終身刑」に近いのかなとちょっと思いました。 第一の死では、あやまち、しかも重い犯罪、殺人などを犯してしまうと、そこで「ああ俺の人生はもう終わりなのかな」と一度人生の死を思います。・・・ ~~~~~~~~~~ ☆ という切り口でのご見解 これも分かりやすいと思いました。 ★ これは何も犯罪に限ったことではありません。「潜水服は蝶の夢を見る」のように意識があっても体が動かない状態や、精神疾患で病態がずっと固定している状態などは、同じ苦しみを味わいます。 ☆ とつづいて来ます。 わざとげんみつさを追求するとしたら こうなるかも知れません。つまり ○ このように《精神疾患で病態がずっと固定している状態》が アッキの場合にはときどきふと気づくようにして自覚にのぼる。けれどもさらになおこの気づきを即座に否定し続ける。そうして 第二の死にそのつど近づく。 ○ ところがアクマの場合には すでに――仮定ですが――この第二の死に到っておりそれが固定しており またそうだと分かっていてもそれでよいのだと居直っており それどころか つねにほかの人をもそのみづからと同じ状態へとさそう。つまりこのいざないをおこなうことこそが アクマのパンであり仕事であるとなっている。 のうばうんどさんは こころやさしい方だとお見受けしました。 ★ ・・・誰も好き好んでこのような地獄を味わい続けたいわけはありません。そこに本人の意思はないと思っています。映画 「瞳の奥の秘密」を見て、さらにこのイメージが強まりました。沈滞している今の日本もこの状態に陥っていなければいいのですが・・・ ☆ 質問者は それこそ鬼になって アクマの場合にはみづから好き好んでその状態になったのではないかとうたがっています。むろんそうではないという結論にみちびかれてもよいわけで さらにこの問い求めが深められていくことを いまは願っています。 この映画について知らなくてすみません。 かんたんに言うと 悪循環に落ち入ることはありやなしや? という問いになりましょうか。あれば そのあと毒を食らわば皿までというかのごとく 故意にそのアクの状態に突き進んで行くという場合を想定していることになります。 単純な例を出しますと いまは与野党を問わず経済の安定成長を軌道に乗せるべく よい予算を組むことがいわば至上命令だと思われますが かえって足を引っ張る方向へと突き進みその悪循環に陥っているとさえ思われます。 ひとの世の中には 歴史的な積み重ねとしても そのようなアクマのハタラキが現われる定めがあるのか? どうしようもないのか? それとも実際に具体的に人間がわざとそういうハタラキを どういうわけか 担って振る舞っているのか?
こんばんは、Hidocchiでございます。 以下に、第一、二の死につきまして、勝手ながら、概略を示させていただきました。不備な点等ございましたら、加筆・修正賜りますれば幸甚に存じます。 [各定義] 前提:あやまちは、心を失くし、われ無しとなる“死”である。 ただし、この“死”とは、生物学上の“死”という意味ではなく、人間的・精神的“死”の状態を指しております。あくまで”形而下”の問題としてのものでござます。 ・第一の死:あやまちに気づき、われに還り、われ有りとした場合の“死”である。このため、這い上がり再生可能な“死”をも意味する。 ・第二の死:わが心に背き続け、われを離れ、われ無しとなった結果の“死”である。つまり、われ有りの状態に復帰することを拒み、再生への道を閉ざしてしまうが故に、「この第一の死が死ななくなる」ことをも意味する。 ・《アッキ(悪鬼)》:進んで、自らの再生へ道を閉ざしてしまう者。そして、第二の死の状態に自ら進んで突っ込んでいく者。 ・アクマ(悪魔):アッキたちを従えて、人びと [善意の第三者] を第二の死の状態へ是が非でもいざなうその作用。もしくは、そうした者たち・親玉。 > ( d-3 ) 要するに 第二の死に人々をいざなうということは 何事にもあやまちの道を用意しそこへといざない あやまちに落ち入ったなら その姿を固まらせる[身動きできなくする]というハタラキ これを生身のニンゲンがおこないうるか? 存在していると考えております。例えば、”既得権益”もその好例かと推察しております。例えば、新規参入者の参加・介入の妨害。そして失敗した際には、2度と這い上がれないようなシステムが構築されておりますから(一度でも失敗したものには金融機関からの融資は受けることが不可能に近い現実がございます)、一回でも失敗させれば、それでコトが済んでしまうという状況にあろうかと察せられます。 >( d-4 ) アクマというハタラキは 人間〔の心や意志や努力〕を超えた力から来るのか? それともやはり――モノや環境のみによるのでないなら―― ニンゲンが好き好んでそう成り そういうドクターであり演出家に成って《活躍する》ということなのか? 「ニンゲンが好き好んでそう成る」ことはあり得ると思っています。ですが、当初はそうではなく、”自己陶酔”、”周囲からの希望、煽動”等が主な原因かと思っております。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
すごいですね ひどっちさんは。旗幟鮮明の点において。 こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ アクマというハタラキは・・・「ニンゲンが好き好んでそう成る」ことはあり得ると思っています。 ☆ ドクター・アクマとか 演出家と言ったりしていますが まだまだ断定は避けているところがありました わたしは。 と言っても たしかに一方でそのハタラキそのものになった節があるとすでに言っています。他方では それはただ単に九十九匹から離れ迷子になっただけかも知れないと考えているところもあったりします。 ★ ですが、当初はそうではなく、”自己陶酔”、”周囲からの希望、煽動”等が主な原因かと思っております。 ☆ というように もちろん周到な見方をおこたらないわけです。 どうでしょう? 後者つまり《周囲からの影響》は どこまで効いているのか? これには わたしは問い求めの余地があるように思っています。もし《好き好んで》であったら そのような周囲の意向といったものをも考慮していたとしても いづれかの瞬間に或る日ふと そういう趣きのヒラメキがあって ひとりすっくと立った。こういう場面を思い描いてはおります。そのヒラメキのときの決断に それまでの周りから受け取ったその願いや思いをすべて注ぎ込んだかたちであってもよいのですが。 ついでにと言ってもいけませんが 《自己陶酔》も それほど長くもしくはそれほど強くは効いていないかも知れません。というのも アクマは 老獪であって ちょっとやそっと押しても引いてもびくともしない《神のごとき・負のだけれど精神》であると思われるからです。 あるいはまた こちらがイニシアチヴを取って押しているようであっても じつは押されているという結果になることさえあると思われます。議論として明らかに攻め切ったというときにも その攻め切られた事態を逆手に取って 攻勢に出てくることなどはわけないのかも知れません。不合理ですが 何でもありのマキアヱ゛ッリなのだと思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ ( d-3 ) : 存在していると考えております。 例えば、”既得権益”もその好例かと推察しております。 例えば、新規参入者の参加・介入の妨害。そして失敗した際には、2度と這い上がれないようなシステムが構築されておりますから(一度でも失敗したものには金融機関からの融資は受けることが不可能に近い現実がございます)、一回でも失敗させれば、それでコトが済んでしまうという状況にあろうかと察せられます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ほんとにわたしたちは こうなるとアクマよりも歳を取って手練手管に通じていなくてはならなくなるようです。 おっしゃるとおりですね。 もしきびしいことを言おうとすれば ふたつあります。 ひとつは これは制度が変われば――制度の運営に融通を利かせれば――或る程度は アクマの力も制限されることがありうると思われることです。アクマは いっぺんに急所をねらうものとすればです。 もうひとつには 同じく社会制度じょうの死をこうむるという事態だということです。この被害者は じつは 社会慣習じょうの失敗をなめていますが 必ずしもあやまちを犯したわけではない。そのゆえです。 アクマは その狙った相手をもこのあやまちなる死に追いやり この第一の死を《愛する》ようにみちびくものと考えます。その人間が アクマもしくはアッキなる姿に骨の髄から成るように仕上げるのだと思います。 ですから ☆☆ ( d-4 ) アクマというハタラキは 人間〔の心や意志や努力〕を超えた力から来るのか? ☆ というときの《超越的な力》というのは それほど神秘的なものではなく けっきょく社会の中の人間関係が錯綜して長い間の歴史的に出来た結果としての恨みつらみ その匂いにふと触れた瞬間に われはアクマになるぞと心に決めるということかも知れません。そういう力によるアクマの生成です。 ですけれど 《心に決める》ということは その人間が好き好んでみづからすすんで成るということであるかとも思われます。 あるいはこのアクマのハタラキを発揮するのは 人生に一度か二度 もしくは自分の仇と言いたい特定の相手に対してだけのことかも知れません。あとは そのアクマの状態から逃れ出ることが出来るかどうか分かりませんが もう足を洗っているかも知れません。 こうやって考えて来て ふと思いました。 ○ 社会学のなかでアクマ学というべき議論をまとめておけば 人生や社会における壁や溝や山や谷について 意外とその事態の認識が出来て ひとは凹むことも少なくなるかも知れない。 ☆ と。 さてどう展開すれば・・・。
あー 推敲中のを間違えて投稿してしまいました エロジジイとかふざけて書いた所は削る予定でした すみません
お礼
まぁ 当たらずと言えども遠からずとも言えるような感じで そう言われてよろこんでいるかも知れず。・・・ 違っていても たいした感じではないようでもあり。 つまりは わたしがニンゲン扱いしないという宣言を出してそのお方に与えたので その傷を癒やすためにのようにご機嫌をうかがってくれたというようにも解釈されて。 われに味方がいるということの現実性について ちと考えてみなくてはならなくては くてくてというような感じにて。
補足
味方とは? その国から派遣されて地球に駐在する大使館に勤務する外交官。 その外交官どうしであることが 味方どうしであるということになります。 その国と言っても けっきょくこの地球のことなのですが。 ただし 必ずしも目に見えない国であるかも知れません。 同じ地球のことなのですが 目に見える国々と目に見えない国とがあるというところでしょうか。 けっきょく自覚の有無で どちらの国に重心があるかが決まり 外交官でいられるかどうかが決まるでしょうか。 重心は たぶん 自分だけでは決まらないかも知れません。 いづれ心の窓をノックするそのおとづれがあることでしょう。
- Yodo-gawa
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馬鹿の考え休むに似たり。っていうか、病人ですな。専門医の診断を受けましょう。 己の発想を哲学と思い込んでいるのは質問者だけです。自己評価が高すぎます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 自己評価が高すぎます。 ☆ あなたの評価が低すぎます。というよりも 評価をする能力がありましょうか? ★ 己の発想を哲学と思い込んでいるのは質問者だけです。 ☆ この《おのれの発想》について そもそも認識をしたのですか? していないから その中身の復唱もできない。復唱もしないで 批評も評価もあったもんぢゃない。それくらいも分からないで 回答を寄せるのですか? ★ 馬鹿の考え休むに似たり。っていうか、病人ですな。専門医の診断を受けましょう。 ☆ だいたい自分の理解力を超えたことについては たいていの人間は こう言います。そう言っておけば なんとかカッコウはつくと思う多少の知恵がはたらくのでしょうか。 あほの浅知恵 死ぬに似たり。っていうか 死人ですな。ごしゅうしょうさまでした。ここにも坊さんは いらっしゃるようですから ご厄介になりましょう。 たいへんありがとうございました。
- O次郎(@stokesia)
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悪魔とか鬼とか、みんなただの空想です。 はやく普通の世界に帰ってきてください!
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 悪魔とか鬼とか、みんなただの空想です。 ☆ そうしますと 《空想》は 《現実》ではないのですか? ★ はやく普通の世界に帰ってきてください! ☆ このあなたの《普通の世界》には 《空想》がないのですか? そうですね。 たとえば《はかない(儚い・果敢無い)あるいは はかなむ》ということばがあります。 これは 《はか(進捗)が行く》や《はか(進捗)取る⇒捗る》のハカが無いと言っているのですが いわゆる無常観のことですね。果ては《どうせ死ぬ身だ》というところに行き着くようなひとつの見方です。 ところが ここから《空想》が始まるのです。 だったら ヤケクソだと言ってみたり あるいは どうせおれなんか死んだって どうってことないのだしとか あるいは何を《空想》してか 人をひとりやふたり殺しても おれもいっしょに死にゃあいいんだろとかつぶやいてみたりということが 起こらないとも限らない。 つまりこの《空想》が アッキもしくはアクマになりうるというもんだいです。 そうぢゃないですか? わたしたちは 誰もが ウソをつくのです。あやまちは そこから始まります。その一片のウソによって どこまでも続いていた広い我が宇宙が 一瞬のうちに区切られて来ます。《わたし》の生きる時空間が限りのある場であり時間であるということになります。 このうつろいゆく世界を見たあとは 片やその《第一の死からの復活》という空想を編んでみたり 片やこの第一の死はもはやどうしようもないのだ あぁ世の中は飲めや歌えやでおもしろおかしく生きるしかないから始まって しまいには いまをうまく生き切ればよいのだ そのためには何でもしよう 悪というのは見つかるから悪なのだ 見つからなければ生きるためには善である あぁそうだ この思想をおれは広めてやる アクマの思想だ これならこわいものは無い うんぬん うんぬんとその《空想》が果てしなく続きしかも思想として編まれて行きます。 アッキたちが 現実に いるではないですか。アクマも ひょっとしたら そのあなたの傍にたばこをくゆらせて坐っているかも知れないではないですか。いや 分かりませんが そういう思想ないし風潮は 世の中を飛び交っていますよ。 そういう主題を取り上げています。 ご自分のお考えを どうぞお寄せください。
お礼
たとえばひとのを借りて来て (b^-゜)(*^-^)b♪(*^ ・^)ノ⌒☆ ヾ( ´ー`)(*^_^*)三 (/ ^^)/ :*:・( ̄∀ ̄)・:*: (|||_|||) ┐(´ー`)┌ (//▽//)… … …φ(.. ) こう書けば ちょっとは情緒があって ニンゲンがかわいいと思われるだろうか? にしなさん ご回答をありがとうございます。 そう言えば あの回答も取っておくとよかったかも知れなくて ただし あれは 情緒にうったえる部分がつよすぎるおもむきが濃いのであって。 つなぎは つなぎであるようなのだけれど。 そうですな。 でも やわらがしめるちからになったところもあったかも知れず。 ただしそれが よかったか むしろわるかったか これも分からないのであって。 そうですな。 じつは わたしの直感では――という意味は 勘違いや おそれ多い間違いをもおかしているかも知れないということですが―― みづからを死なしめる振る舞いに到るということを それがあっても かまわんという腹を決めたかたちで想定したのでした。 主語をはぶきましたが あなたは知っているかどうか ほかにダイスの名の人間がいたでしょう? この人間に到っては 読み違いでした。自死を考えるとは思わなかった。あるいは考えた末に――第二の死を避けて―― 戻って来ると思っていました。そうではなく 自死は思いとどまったかも知れないけれど むしろ第二の死のほうへより近くすすんだという感じを受け取っています。 このゾンビ倶楽部では エロぢぢいは もう幽霊のごとくであって かえってゾンビ界と現実界とを自由自在に行き来することができると思って よろこんでいるだろうし むしろそれを誇っているかも知れないと推し測ります。 ですから あなたとわたしとの差は あなたがまだのぞみを持っているというところにあります。 人間とその自然本性について のぞみを持つことは わたしとてつねに外しませんが その大前提の上で 特定の人間についてその人たちが この常なるのぞみを砕く結果になるということをすでに想定したというのが わたしです。 ★ おんなを怒らせるとうまくいかないんだと思いました ☆ 百年の不作と 昔の人は言いました。一生ものだと思います。 でもそのアッキの動きとしては かえって神からの試練になりえます。われをきたえてくれます。大いに美酒への道を彩ってくれもします。 もんだいは アクマです。問題があるとしたら アクマです。 ★ A/S思想の自動思考でとらえ ☆ スサノヲ庶民に さすがアクマはいないと思われますが つまりはいたとしてもアマアガリをして行くでしょうから なのですが ただしアマテラス公民であるからみなアッキであったりアクマの要素があると断定するのは早いと思います。 つまり 普段はそういった判定をしないものです。たぶん アッキはけっこう日常茶飯事であるとも言えるので――これはさすが自分をも含めて―― アッキの動きだわいと判定したりするでしょうが さすがアクマは よほどおのれの腹の底にそのヒラメキを得た場合にしか考えることもないのではないでしょうか? それに 仮りに人間そのものがアクマであったとしても 同時代に・また一定の地域や場に 何人もいることはないと思われます。そのときには 貴重な存在になるはずです。神のごとく如何なるものの下にも立つまいと心に決めた場合であるようです。 ★ ~~~~~~~~~~~~ ブラジュロンヌさんの逆さ政治思想やびっくり歴史観がアマガッパさんなんかの協力により美学方面にも射程をのばす良い機会だったかも知れないのに けんかに少し水をさして申し訳なく ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは ましゅさんも言っていたなぁ。そういう見方をするのは それこそアクマですよと言ったら おどろきですか? 十字架の道がおのれの前にない・見えなくなるとすれば それは アクマの方面だとわたしは思います。というよりも わたしたちはすでに身も心も張りつけになったところから歩み始めているのです。 その張りつけによる第一の死が死なしめられたところから 起き上がらしめられました。と知らなければいけません。もし ★ 寂しいですね。 ☆ というぼやきを吐くのならば。 ただ 九十九匹ではなく そこから何らかの事情ではみ出てしまったというのであれば その一匹について最後の最後まで探し出さなければならない。声をかけつづけなければいけない。 ★ 私の言葉が少しでもおじさんの心に作用すれば、このくたばった心も少しはおどるはずでしたのに。 ☆ いづれにしても あのときはグルだと疑われてはダメ。