- 締切済み
人はなぜ生きるのか/心の拠り所
2点。前半のテーマは、くだらないことかもしれません。 誰しもは一度はぶつかったことがあるんじゃないでしょうか、「人はなぜ生きるのか」という疑問。ただ、この問いはすでに破たんしているような気がします。私たちが生きても死んでもいない状態があって、そこから「生きる」という状態を選び取ることができるとしたら、その問いは意味を持つかもしれない。でも、「なぜ生きるのか」という問いを発する私たちはすでに生きてしまっています。そこに「なぜ」は存在しないような。 要するにこの問いは、「人は何を拠り所に生きればよいのか」、「あなたは何を拠り所に生きているのか」を知るための問いなんじゃないでしょうか。 人との関係がどうもうまくいかない時は、死にたいなんて思っていたこともありました。ただ、身近な人の老いや、死を垣間見てきたら、積極的に死を選びたい、という感情もわかなくなりました。 ただ、最近何もかも「信じる」「夢中になる」なんてことができなくなって、漠然とした心の拠り所のなさに、何かに突如として依存してしまいたくなります・・・。そんな気持ち、ありますか?もしそうなら、みなさんはどんな風に心を保っているんでしょう?
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
お礼
確かに、「人生の意味」のような話になると、宗教の存在も無視できなくなりますね。ただ・・・、そういった話は、ニュートラルな状態から自律的に考えていきたいなあ、というのはあります。もし、例えば「人は~のために生きているのだ」と断定するような教義があったとしたら、ちょっと僕とは相性が悪いかなあ、という感じです。 生の意味を考える時、僕も小さな動物のことをよく想像します。厳しい自然環境の下では、生を受けても一瞬で途絶えてしまう命もある。また、家畜のようにそもそも人間に食されるよう運命づけられた者たちもいる。彼らには「生の意味」を問うことさえも許されないような。 >その上で、拠り所とか、人生の意味を考えると、 それは人生をやっていく技術の一つに過ぎない、という ことになると思います。 今の自分にもしっくりくる言葉です。 ふと思ったのですが、人生の意味が見いだせないのなら、自分からそれを後付けしてしまうのも、ありなのかなあ、と(笑) 最後の言葉は空海なんですね。難しくてよくわからないけど(汗)、留めておきます。