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アクマとは《第二の死》へといざなうはたらきである。
- アクマとは、アッキたちを従えて人びとを第二の死の状態へといざなう存在である。
- 第一の死を死なせて復活するのをみづからこばみ、第二の死の状態にみづからすすんで突っ込むうごきをアッキと呼び、アクマがその作用を行う。
- 第二の死は、第一の死が死ななくなった状態を指し、心のさからいによって起こる可能性がある。
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仁科です 過日はジジイ扱いしてすみませんでした。 ジジイはくりやさんでエロジジイはチョトツ先生だと思います 思想家ひびのあきひこ氏が孕む公憤とブラジュロンヌさんが抱く幾つかの私憤がないまぜのごった煮状態で、冬の滝の底からマグマが噴き上がればもう春なんだろうと思います あまがっぱおばさんに愛想を尽かされてからよたよたになった状態で夕飯。夕刊。洗濯物を干す。と律儀なブラジュロンヌさんのしぶとさに私は泣きました 介護中のおじさんなら情緒も疲れていると思います 私は日頃から心が麻痺し情緒が死に、自殺しても死んでもどうでもいいような気分に最近なり、数年から十年くらいそんな感じで アマテラスもスサノオもどうでもいいのですが おじさんには思想や仕事があり、私を含む投稿者たちになくブラジュロンヌさんにあるのは思想のオリジナリティで ほんとに独創なのか分かりませんが 独創なら自負とこだわりがあるのは仕方なく、人がたまにその独創性を無自覚に嫉妬するかも知れず このごろのブラジュロンヌさんの孤独は環状の瀑布のど真ん中に一人でぽつんと立っている孤独なんだろうと思い 見まわしても人々はぶ厚い水の壁の向こうに遠く 人と幻想を共有できなければ、現実観の相違で合意し、絶交となり、地味な棲み分けは仕方のない寂しい自然なことで静かで 否みくる他人なんかは心が麻痺するきっかけで 自然な生や死や自分の顔を忘れて臆病な第二の死を往くイメージは モモっていう小説にえがかれてた灰色の銀行家たちにも似て 私は詩人の真似をしてまるで心から内発するものがあるふりをして 中には何ひとつ無くただ外から欲しいばかり 特に自分のすっからかんな言葉への反応 おじさんの文は学術オタク語みたく すねたように難解になり翻訳が要り 対話を拒むかあるいはより対話を必要とする魂胆かもてなし下手なのに りとます紙みたいに言葉で人を判別し アマテラス的いばりんぼはブラジュロンヌさんの中にもいますでしょ アマとスサに分ける見方は二分するところだけ私の対人不安に似 人をいちいち敵か味方かに分け、好かれるか否まれるかに恐々とする私 辛辣で気取り屋で責任感の強いおばさんをおじさんはついA/S思想の自動思考でとらえ、おばさんをアマテラス代表とみなし仲違いし婆悪魔よばわりしているのだと思いますが おばさんの中にもスサノオ的な在野精神やドロップアウト組に情けをかける慈しみがあるかも知れないのに愛想は尽き おじさんとおばさんの和解があるか知りませんが おじさんもおばさんも若いことは早なく どこか寂しい春 社会とおじさんの和解があるかわかりません 社会こわいです 社会不安や対人不安が症状として私にはずっとあり今後の自立の見通しもなく 定年退職した父が私を否み私はその否みに麻痺するほど悲しくやましく腹立たしいものの たぶんそれらは仕方がないことだと思うことにし 否まれ続けると心が疲れこれ以上疲れないよう麻痺し仮死し もし律儀に悲しんだら胸がへこみつぶれ割れ 否みと疲れの家には癒やしがなく日々すこしずつ疲れがつのり瓦解は待たれ 広いらしいせかいに生きているらしいのに生命観は枯れ世界観や人生観はやつれ、しなび、ちぢみゆき 私は信仰もなければ救いもなく 日記をつけて落ち着いたり、ケータイで動画を見て射精したり、毎食毎食やけ食いしたり、せっせと相談サイトで久しぶりに道化ぶったり 職業訓練に通いながら昼休みにはビルのてっぺんでひとりケータイひらいて相談サイト眺めながら母の手作り弁当を食べています ブラジュロンヌさんの逆さ政治思想やびっくり歴史観がアマガッパさんなんかの協力により美学方面にも射程をのばす良い機会だったかも知れないのに けんかに少し水をさして申し訳なく おんなを怒らせるとうまくいかないんだと思いました ひとや虫や私は女より何より単なる春にうかうか気分をやわらがしめられえそうで 春にはわらわらとエロジジイたちが相談サイトにも群れ 女から怒りを買い寂しそうなブラジュロンヌさんから私は悪魔よばわりもされず。 おじさんの心を占められなくて。 ぐろてすくなものがこの眼窩から湧き出てはむなしく渇き。 私の言葉が少しでもおじさんの心に作用すれば、このくたばった心も少しはおどるはずでしたのに。 それなのにおじさんは。あんなおばさんのことばかり見つめて。寂しいですね。
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こんばんは、ご返答遅れましたこと、深くお詫び申し上げます。Hidocciでございます。 > ☆ ほんとうに ここまで疑うかという事態があります。世代の違いからだけとも思えないようですし。しかし――主題は違いますが 今回――どこかの知事は 天罰だとかんたんに言ってくれます。 おそらく、自分と人様は異なる(別次元の存在である)と思っているのかもしれません。 > ★ 最低限の“律法”は必要だったのかもしれません。ですが、ファリサイ派の人たちのように、“律法のみ”となり、その律法の守る順位により、ひとの序列化も同時にされていくといった弊害もでてきたものと推察しております。 ☆ そのようなまとめに落ち着くように思いました。 どうもありがとうございました。もし愚生がお役に立つことができましたなら、望外の喜びとするところでございます。 > ☆ この今の事態についてもそして尖閣沖事件を初めとしてあたらしい政権についても 人びとはぼろくそに言うようになって来ました。これは お上意識の裏返しでなければよいと思うのですが。そして仮りに別の政権が出来たときにも 失態について同じように 不平不満でもよいとすれば 批判をしつづけるのならまだまし――そこまでともかく自由であろうとするのなら まだまし――とも思われますが。 昔は、敗戦国であったが故の”政府不信”が根底にあったと思っていたのですが、田原氏の著作のもございましたように、戦前から既にそういう傾向が見られたそうでござます。批判することが許されない社会よりもマシかもしれませんが、もっと将来の日本像を見据えた批判・意見を見てみたいと思っています。愚生と致しましては、二大政党、民主党と自民党のがっぷりよつに組んだ緊張感溢れる論戦を期待していたのですが、そうともいかなかたような,,,,,,,,,, > ☆ 恥ぢは それほど悪い感性としての慣わしではないと思えるのですが まだまだただの外形的な習慣だったのでしょうか。つまり消えてしまうのでしょうか? 以下の幕末に訪れたシュリーマンの観察とは、幾分異なったように思っております。もし、恥とい気持ちがなくなってしまいますと、モラハラやクレーマーのような人達が増えてきつつあるのを見ますと、消えつつあるのかと思ったりもしております。 「その精勤ぶりに驚かされるのだ。彼ら[役人] に対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら「切腹」を選ぶのである」p.146 シュリーマン著(石井和子訳)「シュリーマン旅行記 清国・日本」からでござます。 > ★(回答No.38) つまり、日本国憲法は形骸化しているとの判断から(すぐにこの条文は削除すべきかと)、憲法の持つ影響力は低いものと考えております。 ☆ ODA という方法と同じ筋では考えられないのですか? ODAは元々は戦後補償・賠償の要素があったようでござます。ただ、一般的には、”無償供与”は少なかったと記憶してはいるのですが、もし、”無償供与”だとしましたならば、憲法のあり方を考え直すきっかけとなればと思ってございます。 > あぁ ダニエル書の上のメシア預言のくだりは ヘブル語ではなく アラム語を遣って書かれているとも知りました。そして《人の子のような者〔が天の雲に乗り・・・〕》というように《・・・のような者》と表現しているようです。覚え書き(資料)になりますが。(それ以上の知解はまだですが)。 そうだったのですか。知りませんでした。映画「パッション」では、当時の言葉であったアラム語(+若干のラテン語)で制作されていたようでございます。見た人の感想を聞きますと、とても響きのいい言葉だったと話していたのを覚えております。 > そろそろこの主題は ひと区切りをつけて つづいてか・しばらくおいてか あらためて問い求めるかたちを採るのもよいかも知れません。どうですか? 了解致しました。そして、どうもお疲れ様でした。また、neutral様のご回答にも心和むものがござました。 末尾ながら、ご質問者様はじめ、今まで愚生の拙い文章をお読みいただいた方々には厚くお礼申し上げます。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 留意点を復唱しておきます。 ★ 愚生と致しましては、二大政党、民主党と自民党のがっぷりよつに組んだ緊張感溢れる論戦を期待していたのですが、そうともいかなかたような,,,,,,,,,, ☆ まことにそうだと思います。保守の思想も大いに重要であり必要です。イギリスの事例からで 自民党がその役割を果たせるか いまひとつとは思うのですが 《政治》は理論どおりにも行かないでしょうから 当分の間は自民党も活躍してもらわないとですよね。 ★ もし、恥とい気持ちがなくなってしまいますと、モラハラやクレーマーのような人達が増えてきつつあるのを見ますと、消えつつあるのかと思ったりもしております。 ☆ 恥ぢは 世間体とは違うと思っていたのですが。残るものもあるかとは思いますが。 ★ ODAは元々は戦後補償・賠償の要素があったようでござます。ただ、一般的には、”無償供与”は少なかったと記憶してはいるのですが、もし、”無償供与”だとしましたならば、憲法のあり方を考え直すきっかけとなればと思ってございます。 ☆ そうでしたか。当たり前のことと思っておりました。これは死角と言いますか 注意が届きませんでした。ありがとうございました。 ★ ダニエル書の上のメシア預言のくだりは ヘブル語ではなく アラム語を遣って書かれている ☆ ただしアラム語は かじったこともありません。 次のサイトで見ています。 ○ Blue Letter Bible http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Dan&c=7&v=1&x=55&y=7#conc/13 ○ in the night : ley-leya' (Aramaic):li-laila ( Hebrew ) ○ of days : yowm(sg.) / yomayya (pl.)(Aramaic) : yom (sg.) / yamim (pl.) ( Hebrew )( 母音の変化は 入力まちがいではありません) ☆☆ そろそろこの主題は ひと区切りをつけて つづいてか・しばらくおいてか あらためて問い求めるかたちを採るのもよいかも知れません。どうですか? ★ 了解致しました。そして、どうもお疲れ様でした。また、neutral様のご回答にも心和むものがござました。 ☆ 悪魔の生成する過程については 探究を引き継いでまいります。 きわめて中核の話でした。神学から経験思想への翻訳も 出来るものなら 問い求めたいと思っております。 そうですね。ここらで一たん閉めましょうか。そうしましょう。にゅうとらるさんからも ごあいさつをいただいていますし。 おつかれさまでした。ありがとうございました。 みなさんも さらなる問い求めのときには どうぞそれぞれのかたちでご参加ください。 ありがとうございました。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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ぶらじゅろーぬさん、おはようございます。 ご返信ありがとうございます。 ひどっちさん、 参考になるサイトをありがとうございます。 途中なのですが、現在個人的事情で なかなか読みも書きも考えもできません。 申し訳ないのですがいったん降ります。 頂いたご返信文と、 ひどっちさんが紹介してくださったサイトは、 一度読みましたがもう一度ゆっくり読みます。 理解に時間がかかりそうです。 書きっぱなしになってしまい申し訳ありません。
お礼
了解しました。 わたしは 人間の存在について社会に生きるからには互いに互いとのつながりがある――気持ちとしては正と負とに分かれるかかわりがある――と考えています。 ○ 存在論として 社会的に独立した主観(自由意志)を見ますが その基礎に《関係の絶対性》をも同時に見ています。 ○ ただし心における非思考の庭として――非思考であるにもかかわらず それをそっくりそのまま受け止めるという経験行為としてあると言い張るのですが―― この《関係の絶対性》を首ひとつ突き抜けているとも思っています。 ○ 言いかえるならば 人はこの世の存在として互いに互いの関係を絶対的なかたちで持つ。この関係の絶対性におとなしくしたがうならば――ということは一般に相手の意向に沿いつつ その意向の中身をも吟味しつつそれにたとえ反対であっても まづはその意向の示すところに出来る範囲でしたがって行くならば―― この関係の絶対性から抜け出てのように或る程度において自由になれる。それは 相手もそのときには自由に成れているゆえか。それとも まったくこちらの言い分に耳を貸さず 鎖国政策を採ることになったゆえか。二つに一つというかたちだと思います。 たぶんわたしたちは この自由――この程度の自由――を問い求めて生きているのだというふうに思います。自分も自由になる。相手も自由になる。これが 愛――自由における関係の絶対性――だと思います。 ではまた。
続きからでございます。 因みに、憲法でございますが、先日の地震の支援につきましては、公金を用いて国民を救済するというのは、正しい(当然の)選択かと判断されます。一方、例えば、スマトラ大地震のときにも、日本国が支援(約510億円)を致しました。ですが、これは、憲法違反(第89条)かと考えております。ここでの“公”とは”財政”の章から判断しますと、日本国内のことかと考えられます。ですが、スマトラ(インドネシア)はもちろん、独立国です。 では、この憲法が正しいのか、それとも支援を送ることが正しいのかどちらかと問われますと、当然、支援援助が正しいと考えております。つまり、日本国憲法は形骸化しているとの判断から(すぐにこの条文は削除すべきかと)、憲法の持つ影響力は低いものと考えております。 憲法 財政 第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。 > (アウグスティヌス:告白10・1) 王が 神の言葉すなわち不可視的にして 一度は死んだが復活してなお生きるキリストのことであることは 明白です。この実体は 人間の真実というように このように語るのがふさわしいということになります。 全く、意見を等しく致します。 > 悪魔は 初めから真理の中にいなかったごとく 本心から――人間の真実の言葉として――嘘をつくのです。この嘘が 光の天使に擬装したもの だから容易に欺かれるもの だからこの悪魔に仕える人は あたかも空気のような身体をもって義に仕えていると見せかけるというほどに しんきろうの中にいる だからこれが虚偽であることは すべての人に承知されていることです。 「本心から嘘をつくのです」、仰る通りかと存じます。もちろん、その中には、“真理”はございません。そして、タチが悪いことに、その中にまるで真理が秘められているかのように、そしてまた、義に仕えていると見せかけて、ひとの(心の)中に入ってきます。 > この空中の権能が あまりにも甘美な 嘆かわしくも甘美なこの世の饗応なるしんきろうをかたち作って 人びとを眠りに陥らせるのです。 まさしく、的を得ているかと存じます。 > 《実体》ということばは避けたほうがよいと考えます。 《神》を主役にして表現する形式は 上の《実体》の語と同じように 避けた方がとよいと考えます。従順というすがたが それをどのように表現したら 人びとに伝わるか。これも一考にあたいすると思います。それに イエスから友だちと呼ぼうと言ってもらったことを受け取ったすがたをも示したい。 《聖霊が宿ればもうキリストは要らない》と書きましたが むろん聖霊はキリストと同じ神です。 了解致しました。 余談ではございますが、最近のご質問にて、<「人の子」とは? 新約聖書> というものがございましたが、回答に窮しました(愚生にはお答えできませんでした)。 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
ここのお礼欄が空いてしまっていますので というとおかしいのですが。 久しぶりに 仁科さんにベストアンサーを指し上げることにしました。 流れを変えてくれました。 ひどっちさんや にゅうとらるさんにはご了解いただきたく。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございます。Hidocchiでございます。 昨日、投稿させていただきました回答の前半部分が、抜け落ちておりました。愚生の不注意により、ごちゃごちゃとなってしまい、深くお詫び申し上げます。 つきましては、前半部分を載せさせていただいております。 > そう言えば イエスも どこかの時点で 弟子たちに対して もはや師匠と弟子の関係ではなく友だちと呼ぼうと言っていませんでしたか? 〔それに わたし(イエス)よりも大きな仕事をするようになるだろうとも確か言っていましたね。もっともその務めを成し遂げることが出来るのも キリストなる神の力だということのようですが〕。 以下の箇所でございましょうか。 ヨハネ 15章14、15節 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 > もし人間はみな悪魔を父として生きているのだとすれば もうこの主張やザビーヌ発言は金輪際通らないだろうと思われます。いまでもあたかもアクマのようになって うたがいのプロとして《活躍》する人たちが存命中であるのが ちらほら見られるようです。ミスター・猜疑心だとか ミズ・検察官ないしミズ・誹謗中傷人だとか。・・・ 「うたがいのプロとして《活躍》する人たちが存命中であるのが ちらほら見られるようです」 残念ながら、現実はそうかと存じます。 イエスが第二のアダムだと見る見方をめぐっては やはり律法をどう扱うのか これを捉えておくという補助線です。簡潔に取り上げたいと思います。 > ( a ) 律法というのは イエスによるあたらしい契約を受け取るときまでの《養育係》であったと聞くが それならすでにモーセを登場させずに その前からのアブラハムの信仰 この信仰の一本道であゆんでいたらよかったではないか? 最低限の“律法”は必要だったのかもしれません。ですが、ファリサイ派の人たちのように、“律法のみ”となり、その律法の守る順位により、ひとの序列化も同時にされていくといった弊害もでてきたものと推察しております。 > ( b ) 日本人にとって《律法》は 何に当たるか? “仏教”は葬式仏教と揶揄されるぐらいですので、影響力は小さいと考えております。また、“論語”は江戸時代の封建制度に合わせて取りいれられた経緯もございますため、ここからお上志向が顕著になった可能性も否定できません。従いまして、“お上”、そして、何かはえたいの知れない“空気”といったものかと推察しております。なお、“世間の目”は、元来日本人が持っておりました“恥と感じる”ということが薄れてきつつございます。従いまして、今日では影響力は失いつつあろうかと推察しております。 続きを述べさせていただきます。
お礼
ひどっちさん ご回答をありがとうございます。 ◆(ヨハネ15:14-15) もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 ☆ こう言われると はなはだ何もかも心もとないかぎりに思ってしまいます。 でもたぶん そのつど必要なことは――その知識というよりも必要で妥当な判断は―― さづけてもらえるのではないかと思っています。(情報も大事ですけれど)。 (この今の日本をおそった重大な事態にあたって 何を考えどうすればよいか これについては今一つ何も考えつかずにいて どうしたものかと思っております)。 ★ 「うたがいのプロとして《活躍》する人たちが存命中であるのが ちらほら見られるようです」 残念ながら、現実はそうかと存じます。 ☆ ほんとうに ここまで疑うかという事態があります。世代の違いからだけとも思えないようですし。しかし――主題は違いますが 今回――どこかの知事は 天罰だとかんたんに言ってくれます。 ★ 最低限の“律法”は必要だったのかもしれません。ですが、ファリサイ派の人たちのように、“律法のみ”となり、その律法の守る順位により、ひとの序列化も同時にされていくといった弊害もでてきたものと推察しております。 ☆ そのようなまとめに落ち着くように思いました。 ★ 従いまして、“お上”、そして、何かはえたいの知れない“空気”といったものかと推察しております。 ☆ この今の事態についてもそして尖閣沖事件を初めとしてあたらしい政権についても 人びとはぼろくそに言うようになって来ました。これは お上意識の裏返しでなければよいと思うのですが。そして仮りに別の政権が出来たときにも 失態について同じように 不平不満でもよいとすれば 批判をしつづけるのならまだまし――そこまでともかく自由であろうとするのなら まだまし――とも思われますが。 ★ なお、“世間の目”は、元来日本人が持っておりました“恥と感じる”ということが薄れてきつつございます。従いまして、今日では影響力は失いつつあろうかと推察しております。 ☆ 恥ぢは それほど悪い感性としての慣わしではないと思えるのですが まだまだただの外形的な習慣だったのでしょうか。つまり消えてしまうのでしょうか? ★(回答No.38) つまり、日本国憲法は形骸化しているとの判断から(すぐにこの条文は削除すべきかと)、憲法の持つ影響力は低いものと考えております。 ☆ ODA という方法と同じ筋では考えられないのですか? ○ 悪魔・空中の権能 ☆ などについて賛同をいただきありがとうございました。 ★(同上) 最近のご質問にて、<「人の子」とは? 新約聖書> ☆ わたくしも主題として考えたことがありませんでした。 ダニエル書では《人の子》はそのままメシアとしても言っているようです。直接にはネブカドネザル王のバビロニアのその後としての歴史推移のようですが イエスの出現をほのめかしたようでもありますし あるいはさらに黙示録の最後の日のことにも触れているかに思われる表現のようです。知りませんでした。 それにしても《 son of man 》と英訳されるこの表現も 変わっていますね。 あぁ ダニエル書の上のメシア預言のくだりは ヘブル語ではなく アラム語を遣って書かれているとも知りました。そして《人の子のような者〔が天の雲に乗り・・・〕》というように《・・・のような者》と表現しているようです。覚え書き(資料)になりますが。(それ以上の知解はまだですが)。 そろそろこの主題は ひと区切りをつけて つづいてか・しばらくおいてか あらためて問い求めるかたちを採るのもよいかも知れません。どうですか?
続きからでございます。 > アウグスティヌスは パウロに従って 律法も聖であり霊であると言っており 歴史上必要であったと見ているようです。 アブラハムにおける内面の 非思考の庭 これの確立だけでは広く社会的な秩序もしくは個人どうしのきづなが あやふやなものに終わると考えられたのでしょうか? と言うのも すでにアダムからの負い目を人は誰でも背負っているわけですから アブラハムの信仰が社会的に埋もれてしまわないために必要であったのでしょうか? 贖罪がなされた後も、必要なのかどうか という点でございますが、神のご意志である(あった)以上は、誠に単純ではございますが、神聖なものかと思っております(ですが、律法のみでは、ひとは救われないし、再生もしませんが)。例えば、ご例示いただきました“殺人”でございますが、これは自然法によるものかと思われます。自然法の実質的法源を遡っていきますと、最終的には、何かしらの絶対的存在がその前提あろうかと推察してございます。この自然法の成立とともに、法の整備化がなされていったものと思っております。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95 「法源としての神」をご参照くださいませ > ひとことで言って 律法ないし法律は 言わば人が心の奥にある非思考の庭に生きるという現実のために養育係であったと見られるようだと思われます。人と人とのきづなが 目に見えないところにあるという目覚めへとみちびく道程であったかと思われます。どうでしょう? 仰られますように、”養育係”もしくは、”成長への基礎となるもの” といったものかと推察してございます。 アウグスティヌス特集をご紹介いただきまして、どうもありがとうございました。 明日にでも、感想等をお聞きいただければと思ってございます。 最後まで、お読みいただきまして、厚くお礼申し上げます。
お礼
神によって派遣された神の言葉(すなわちキリスト・イエス)は その全能によって その権力によって この悪魔を征服することができたにもかかわらず わづかのあいだ天使よりもご自分を低くされて 義によって――そしてそれはご自分の肉の死をも欲せられるに至るまでというようにして―― 征服することをえらばれたのです。ご自分の肉の死を欲せられるほどに 義〔なる史観〕によって克服するということにまさって この悪魔を征服し そのもとに捕獲されていた人びとを放免するという手段は 人間にとって有益な癒やしはなかったと言われます。 だから 神はわれわれを見棄てたまわなかったのです。だから いまもというほどに わたしにとって生きるとは このキリストを生きることなのです。このキリストを長子とする人間のともがらは 列をつくって すでに悪魔の捕捉から放免されていたと見出してのように この地上に神の国を見ます。神がこれを約束され またそう為したまうのでないなら 誰がこの悪魔の致命的な策略から免れ 永遠の生命に至ると言うのでしょう。もしすでにこの神の国が その御子の派遣によって 用意されているなら わたしたちは この道を歩み出すのに躊躇してはならない。しかも この神の国は われわれ人間の権能によってのように この地上を支配することになるでしょう。神がこれを為したまうからです。これ以上に明白な人間の歴史はないと思います。またそれは 人間の知恵・人間の理論ではなく 生きて動く史観としての人間の歴史です。そうでなければ 人間は あたかも空中を動く人形にしかすぎません。そうでしかないと思う人びとの存在に対して 笑う者はあの悪魔に与しているように思われます。しかし この悪魔のいわば残党の勝利の笑いの瞬間 そのつかのまの勝利は みごとに覆されて 復活して現在するキリストの来臨を強いることになります。義が裁きに変わるからです。これ以上に明白な神の国の歴史はないでしょう。こう語らないことによって われわれの内に生きて動くキリストの聖霊なる実体を いまだ・あるいはふたたび 十字架からこの地上に引きずり降ろしていることになることも明白です。 この言葉が正しいことであり その正しいことをもしわたしが人びとに語るとすれば それは いったいどこからわたしが聞いたことなのでしょう。 ☆ コテコテの冷や汗ものです。 《実体》ということばは避けたほうがよいと考えます。そちら(つまり実体)のほうへ観念的に連れ去られて行ってしまいがちです。 《神》を主役にして表現する形式は 上の《実体》の語と同じように 避けた方がとよいと考えます。従順というすがたが それをどのように表現したら 人びとに伝わるか。これも一考にあたいすると思います。それに イエスから友だちと呼ぼうと言ってもらったことを受け取ったすがたをも示したい。 《聖霊が宿ればもうキリストは要らない》と書きましたが むろん聖霊はキリストと同じ神です。
補足
ひどっちさん ご回答をありがとうございます。 聞いてください。 まこと 御身よ あなたは真実を愛したまう。真実を行なう者こそは 光のもとに来る。私はその真実をつくしたい。心の中では御前でこの告白 により 多くの証人の前ではこの記録によって 私は真実をつくしたい。 (アウグスティヌス:告白10・1) と言って 義を問い求め見出し なお飢え渇くといってのように問い求める人の列は たとい隠れていても 神には知られている。だから 経験的なものを超えて かれらは人間の言葉に到達する。その人びとのいま忍耐して待ち望む神の国は かしこの永遠の座に確(かた)く立っていると言われるとき それは その義が裁きに変わるまで 王がその椅子に坐るまでです。だから《国ひとは あなたの前で 王の敵の心で倒れむとす》るのです。王が 神の言葉すなわち不可視的にして 一度は死んだが復活してなお生きるキリストのことであることは 明白です。この実体は 人間の真実というように このように語るのがふさわしいということになります。 だからわたしたちは けれどもいまや 私のためいきは 私が自分自身に不満を感じている証 拠ですから あなたこそは私にとって輝きであり満足であり 愛され熱望 されるものであり そのため私はわが身を恥ぢ 自己を投げすて かわり にあなたをえらび ただあなたによってのみ あなたにも自分自身にも満 足のゆく者になろうとしている。 (告白10・2) と知るのです。この《ためいき》は もはや神の似像である我れを確立した以後と言ってのように 《阿片》とはならないでしょう。しかしこのような内的な主観形成(《日から日へ変えられる》)は 必要であり これを理性的に知解することがまづ 史観とその理論を形成しているとわたしたちは見るのでした。むろん これに付随するといってのように さまざまな分野での理論・科学は 職業として必要であり現実であります。したがって職業(つまりむろん 召命)とかいわゆる労働・仕事とかが ふたたびあらためて 問い直されることになるでしょう。その義が裁きに変わるまで 王がその椅子に着くまでと言ってのように。 光の子らに 失望はなく つまづくこともないでしょう。神は その能力以上に試したまうことはなく つねに避け所となるかのように 糸口を与えてくださいます。しかし 《私の威厳が通り過ぎるやいなや あなたは岩の上に立つであろう》と語られた。 もしわたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば その復活の姿にもあやかれるでしょう。 (パウロ:ローマ書 6:5) わたしは キリストと一緒に十字架につけられています。生きているの は もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられ るのです。わたしが今この世に生きているのは わたしを愛し わたしの ために身をささげられた《神の子》に対する信仰によるものです。 (パウロ:ガラテア書2:19-20) しかしながら 神は 悪魔が死の仲介者であるのに対して かれは生命の制作者であり仲介者です。かれは わたしたちが存在しないように存在させたまう方ではありません。 悪魔は 初めから真理の中にいなかったごとく 本心から――人間の真実の言葉として――嘘をつくのです。この嘘が 光の天使に擬装したもの だから容易に欺かれるもの だからこの悪魔に仕える人は あたかも空気のような身体をもって義に仕えていると見せかけるというほどに しんきろうの中にいる だからこれが虚偽であることは すべての人に承知されていることです。 悪魔は 初めから真理の中にいなかったというその《初めから》は 創造者である神に創られたその初めからという意味ではありません。神によってそれへと造られた人間(もしくは天使)の本性 これからの墜落というときの 何か悪いことを為したということによって この罪の制作者となったのではなく その本性からの墜落じたいが 神に背く罪すなわち人間の死となる。しかも 人間はその一たんの死が死ぬことができるのに対して 悪魔はこの一たんの死が死ぬことから無縁となるというほどに 初めの墜落という人間(もしくは天使)の死が死なない。つまりそのような第二の死をもって 人びとを自分の力の支配の下に捕獲して(毒を食らわば皿まで) 罪と死を制作するのです。この空中の権能が あまりにも甘美な 嘆かわしくも甘美なこの世の饗応なるしんきろうをかたち作って 人びとを眠りに陥らせるのです。
続きでございます。 > ( ε ) ところでこの原罪とその世代ごとの受け継ぎが超えられたというのは 死が克服されその死の棘としての罪が揚棄されたことではないか? つまりは 悪魔に対するキリストの勝利ではないのか? 悪魔は このイエスの死の淵にまではよう来なかった。来ることはなかった。 おそらく、”来れなかった”と考えられます。上述致しました( α‐2)での愚見通り、付入る隙はなかったものと考えております。 なお、「罪の購い」につきましては、愚生も苦手としているところでございます。この問題につきましては、後程、ご返答できればと思っております。 nuetral様におかれましても、以下に参考となるサイトを掲げてございます。よろしければ、ご意見いただければ幸甚に存じます。 参考 http://www.yukinoshita.or.jp/tsuushin/k9908.htm http://www.ijournal.org/world/christ.htm 最後の方にございます「三、贖罪論の歴史的変遷」 をご参照ください 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
峠の茶屋にて憩うように昔のわたしをふり返ってみていましたが そのときには 今では考えられないほどコテコテの議論をしていたようです。 悪魔という言葉を案外多く出していますし ときには黙示録にも触れていました。 もともと アウグスティヌスが その口調としては――聖職者ゆえにも手伝って・またあるいはアフリカに住むとは言えローマ人として明晰な論理性と断定性など 神学のカチカチだと見える大上段に振りかぶる姿勢も見え――コテコテなのですが そしてわたしはこれを 現代人および日本人として表現し直そうと思っただけなのですが その影も響きも大きく受けています。と分かりました。 でも それらを書いていたのはもう二十年ほど前までですから それからは表現じたいもさらに変わって来ていると思います。 それで いまの主題は もはやすでにクリスチアニズムは いかなる《存在》論を持つや? という大きな尋究になりつつあります。 この先どうすすめるのがよいか? この課題もあってこれは模索しつつあゆむということになるでしょうが ひとつ副次的な主題を思い浮かべました。 イエスが第二のアダムだと見る見方をめぐっては やはり律法をどう扱うのか これを捉えておくという補助線です。簡潔に取り上げたいと思います。 ( a ) 律法というのは イエスによるあたらしい契約を受け取るときまでの《養育係》であったと聞くが それならすでにモーセを登場させずに その前からのアブラハムの信仰 この信仰の一本道であゆんでいたらよかったではないか? ( b ) 日本人にとって《律法》は 何に当たるか? ・ブディズムの戒律か? ・論語の箴言か? ・お上か? ・世間の目か? ・〔《空気》は 二次的な小癪な倫理指標であろう。ただし お上を律法とするうえでは 補助の役割をしうるのではないか〕。 ・あとは 憲法およびそのもとの法律であろう。 ☆ アウグスティヌスは パウロに従って 律法も聖であり霊であると言っており 歴史上必要であったと見ているようです。 アブラハムにおける内面の 非思考の庭 これの確立だけでは広く社会的な秩序もしくは個人どうしのきづなが あやふやなものに終わると考えられたのでしょうか? と言うのも すでにアダムからの負い目を人は誰でも背負っているわけですから アブラハムの信仰が社会的に埋もれてしまわないために必要であったのでしょうか? 人はやわらがしめられた非思考の庭において生きるならば ひとをころすことはなく むさぼることもない。アダムの子孫であるという制約条件をのぞけば そう言える。しかも アダムの後裔であることは誰もまぬかれぬからには ひとつにその負い目の重さに耐えられるようにと戒律が与えられた。いわく 《ころすなかれ》。いわく 《むさぼるなかれ》。 この哲学カテで《なぜ人をころしてはならないのか》という質問がしばしば出ます。この頃には 理屈ではないという回答も現われて来ています。かつては みなが勝手に生きては秩序が乱れるゆえ人殺しの禁止をうたう法律をもうけるのだという答案もありました。 世間の目があるからだというのは さすがになかったと思いますが 主題が殺人というのでなければ そういう律法役としての《世間体》もまだ持たれているかも知れません。 ひとことで言って 律法ないし法律は 言わば人が心の奥にある非思考の庭に生きるという現実のために養育係であったと見られるようだと思われます。人と人とのきづなが 目に見えないところにあるという目覚めへとみちびく道程であったかと思われます。どうでしょう? アブラハムもモーセも イエスの出現を待っていたかと考えられます。 なぜなら 律法によって生きるということは律法によって――誰もその戒律のすべてを守ることは出来ないゆえ――死ぬ。これでは アダムからの負い目は やわらげられていますが 結果はあまり変わらない。その意味では たとえでしょうが この世は死の制作者である悪魔の君臨する涙の谷でしかないとなります。 アブラハムの子孫をつくると約束したとおりに神は 〔その独り子とされる〕キリストをこの世に送りイエスという肉につくった。人びとが自分たちの父が ほんとうに悪魔かそれとも神かこれが分かるようになるためには このイエスという人間が人びとの意向を受けてのように死を死ぬというコトが必要であった。 そうでなければ 人びとは目覚め得なかった。 そうであったから 人びとはイエスを迫害しようとした。神の子だと じつはおそるおそる思っていた。 そうでなければ 人びとはイエスをほうっておけばよかった。 おそらくこれは物語なので 聖霊が非思考の庭に宿ればもうキリストも要らない。
補足
アウグスティヌス特集です。《天使》の位置づけについてです。 ◆ (ヒラメキとそれのしるしとしての現象) ~~~~ しかし・・・同じ物体的質料から成るのであるが 私たちの感覚に或る神的なことを告知するためにもたらされる他の種類の現象がある。それらは固有な意味で不思議な業(わざ) 徴(しる)しと言われる。 しかし主なる神によって私たちに告知されるこのすべての現象においても神ご自身の名が知られるのではない。神ご自身の名が知られるとき それは或るときには御使い(* =天使;純粋アマテラス概念か?)において示され 或るときには御使いによって備えられ奉仕されるが御使いではない姿において示されるのである。 また御使いではない姿において神ご自身の御名が知らされるときも その姿は或るときには すでに物体として存在していて このことを示すために或る変化が与えられて用いられ 或るときには この必要なことのために出現し そのことが成し遂げられるやいなや再び取り去られる。 (三位一体論 3・10〔19〕) ◆(人間が告知者であるときもある) ~~~~~~ 人間が告知者であるときも あるときには《主は語られる》とか 《主はこう言われる》(エレミヤ書31:1-2)と前置きされるように 自分の人格から神の言葉を語る。また 或るときには このような前置きなくして 《私はあなたに会得を与え あなたの行くべき道にあなたを置くであろう》(詩編31:8)とあるように 神の御名そのものを受け取る。・・・ しかしこれらのことは 人間をとおしてなされたゆえに 人間に知られている。だから 人間はこれらのことを敬虔なもののように崇めることは出来るが 不思議な現象のように驚異することは出来ない。したがって 天使たちによってなされる(告知される)ものは より困難なことであり より知られていないから 私たちにとってより不思議である。 ・・・天使の行為と人間の行為の間には大きな相違がある。前者は驚異すべきことであると共に知解すべきことであるが 後者はただ知解すべきことである。しかしこの両者から知解されるのはおそらく一つのことであろう。そこから知解されることは ちょうど主の名が金やインクで書かれたように異なるのである。前者はより高価であり 後者は価値がより少ない。しかも両者において意味表示されるものは同一のことである。 (三位一体論3・10〔19-20〕) ◆(むしろ現象ないし質料をとおして告知される) ~~~~~ また 主あるいは聖霊があの物体的なかたちで示されたとしても 御使いたちは告知したものを意味表示するためあの雲や火を どのように作り また採用したのであろうかということを 人間の中で誰が知り得ようか。・・・御使いたちが この不思議なことをどのようになすのか いな むしろ神がこれらのことをその御使いたちをとおしてどのようになしたまうのか 神は悪しき天使をとおしてさえ なされることをどこまで欲したまうのか 許可によってであろうか 命令によってであろうか 強制によってであろうか かれのいと高き至権の隠れた御座からであろうか。このような事柄を 私は眼の尖端によって見分けることも 理性の確信によって明らかにすることも 精神の前進によって把握することも出来ないのである。・・・ だから 私たちは天にあるものを探索しない。・・・ それだから 神の実体 あるいはもっとよく言われるなら 神の本質は――そこに私たちの分限によってほんのわずかながらも御父と御子と聖霊を知解するのである―― 決して可変的ではないので また決してご自身において可視的ではありえない。 したがって 神が時に適しいかれの計画によって示現されたとき 〔旧約の〕父祖たちに見えたすべてのことが被造物(* ないし質料)をとおして為されたことは明らかである。・・・ (三位一体論3・10-11〔21-22〕) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どうでしょう?
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > そちらも特別な被害はなかったようですね。よかったです。と同時に そうとも言えないほどの大きな地震でしたし まだ余震があるようでもあります。このたびは何だか警告が発せられたかのように 感じてしまいました。 お気遣いいただきまして、どうもありがとうございます。ちょうどその時、気になった箇所があり、愚生が黙示録を読んでおりました(会社のPCでこっそりと)ときの大きな地震でしたので、小心者のHidocchと致しましては、それなりのリアル感がございました。 > ☆ そうですねぇ。ひとつ考えたことは 表現の問題だという見方です。人間の側にそのような気持ちや思いや意志があるのを 天使やあるいは神の側にその動きがあるように表現するという捉え方です。 ちょうどいま読んでいるアウグスティヌスによる詩篇の講解では次のようなくだりが出て来ます。 ▲(創世記22:12) <中略> (詩篇注解 43編)。 非常にインパクトのあるご意見アイデアかと存じます。そもそも神のことなどは到底擬人化できないはずなのですが、それを敢えてひとにも理解しうるような形での表現として用いることは、愚生にも理解出来ます。 > エレミヤ書の《罪を忘れる》について: ☆ これは イエスの死によるアダムからの原罪(または そこからの派生するもろもろの罪)のあがないの問題とつながっているようです。 原罪のつぐないを果たしたのだと見る見解を持ちます。 モーゼとの契約のみならず、さらに遡っての失楽園での原罪の両方を指しておられるとのことで、 納得致しました。 > 「その再生をあかしする言わば手付け金として 聖霊を送ると言われた。霊による洗礼を受け 非思考の庭が心に現われる。つまり 復活が成るまでは 無根拠を根拠とする信仰によって人びとは歩むというかたちを与えた。」 すばらしいですね。簡潔でありながらも、的を得ている文章かと存じます。 以前の論点に移らせていただきます。 ( α ) イエス・キリストの十字架上の死とは何を意味するか? > ( α‐1) 神がいわゆる原罪を犯したというじんるいをそこからすくうためには いろんな方法があったであろうが この・罪無しでの磔刑という方便がいちばんふさわしかった。 これは、残念ながら、愚生にはわかりません。 > ( α‐2) もしイエスがキリストとしてのみ・すなわち神の子であり神である存在としてのみ振る舞って たとえばその十字架から降りて来たとしたら どうか? 以下の福音書のように奇跡を行うことを拒否しております。ですが、 もし奇跡等を用いて降りたとしますと、悪魔の付け入る隙を与えてしまいかねません。また、モーゼのときのように、奇跡を以てご自分を助けたならば、律法の時代に逆戻りしてしまいます。従いまして、十字架から降りることは到底できない とそう考えております。 ルカ 4章9から12節 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』 また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 > ( α‐3) もしキリストであるのに 人間イエスとしてのみ振る舞ったなら どうか? つまりキリストなる神として自分からこの盃を飲むという方便を用いるということでなかったなら どうか? もし、人間として”のみ”振る舞ってしまいますと、神のことなど考えなくなってしまいます。その結果、「わたしが神だ」という輩達が出現してしまいます。 > ( β ) この磔による死でもしアダムらからの原罪があがなわれたとすれば 人間に根本的な誰もが避けられない《前科》は 消えた。か? 「原罪があがなわれた」との前提に立ちますと、 もちろん、 消えたと解します。 > ( γ ) モーセに与えられた律法そして人がこれに拠って神の子らとして生きることという生き方は 揚棄された。人間の心や意志や努力によって 律法にかなう人生を送るという生き方は止揚された。 これは、先のエレミヤ書の預言にもございますように、律法に従う”僕”から、愛に従う(生きる)”父・子”の関係への移行によって、モーゼのときの律法中心の時代から飛躍をとげていることは事実かと考えられます。 続きを述べさせていただきます。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ほかにもお応えする欄があるのをよいことに いま夕食前に取り急ぎお礼を述べます。 おおむね見解が一致して来たように思われて ありがたいことと思います。 ★ これは、先のエレミヤ書の預言にもございますように、律法に従う”僕”から、愛に従う(生きる)”父・子”の関係への移行によって、モーゼのときの律法中心の時代から飛躍をとげていることは事実かと考えられます。 ☆ なるほど。こういう観点をお持ちでしたか。(すでに受け取っていましたが)。つまりわたくしは 罪を忘れるという点だけを推し出していましたが それに加えて身内や家族の間柄になるといった観点ですね。 そう言えば イエスも どこかの時点で 弟子たちに対して もはや師匠と弟子の関係ではなく友だちと呼ぼうと言っていませんでしたか? 〔それに わたし(イエス)よりも大きな仕事をするようになるだろうとも確か言っていましたね。もっともその務めを成し遂げることが出来るのも キリストなる神の力だということのようですが〕。 そうしてふと思ったのですが 《人間イエスは 神の子であり神であるキリストである》と見る物語は どうも思うに かつて質疑応答のやり取りをした《ザビーヌ事件》を想い起こさせました。 ザビーヌにとってその事件が 《蚊が差しただけ》であると見る見方に通じるようだと。 アダムとエワが楽園を追われたあとの人間の世界には もうかれらが原罪を犯す前の人間の状態で生まれてくる者はいないと決めつけられていた。親の因果が子に報いの世界ですね それこそ。 アブラハムあるいはダヰ゛デあるいはイザヤそのほかの預言者たちやヨブやにとっては 原罪は《蚊が差しただけ》と声を張り上げて言い募りたい。少なくともそののぞみを持った。その夢を失おうとは思わなかった。それが イエスの出現につながった。 このイエスという男は のぞみや夢を持つなどというお上品な態度には終わらなかった。われがその夢であり夢の原動力であると言い張った。 そのことが現実であると――少なくとも物語において非思考の庭において現実であると――ユダヤ人やローマ人やほかのすべての人びとが分かるためには ユダヤ人たちがイエスにその発言はウソだと白状させようとして磔の死刑をもって迫らなくてはならなかった。ところが この十字架刑は――つまり要するに イエスが死を死ぬという手段を採ることは―― 神のそして同時にキリストの(つまり 父と子との)はからひによるものであったと。 人間イエスは 大泣きに泣いて盃を取り除いてくださいと願い 神の子であり神であるキリストは みづからのぞんでその死地に就いた。イエスも最期まで神に従順であった。 途中でローマ兵が足を折ってイエスを楽に死なせてやろうとしたとき〔でしたか〕 すでにイエスは息を引き取っていた。 このあと《復活》のうわさまで出て来たわけですが こうしてこの第二のアダムのあとの人間世界では 《そんなことは 蚊が差しただけだよ》と堂々と言えるようになったのだと思います。 もし人間はみな悪魔を父として生きているのだとすれば もうこの主張やザビーヌ発言は金輪際通らないだろうと思われます。いまでもあたかもアクマのようになって うたがいのプロとして《活躍》する人たちが存命中であるのが ちらほら見られるようです。ミスター・猜疑心だとか ミズ・検察官ないしミズ・誹謗中傷人だとか。・・・ にゅうとらるさんのご回答へも 各論は残していますし ひどっちさんへもこのあと各論を考えてまいります。
補足
すみません。にゅうとらるさんへのお応えをここに書かせてくださいませんか。お願いします。 ●(回答No.33)~~~ それから 「わが子よ、賢くあって、わたしの心を歓ばせよ。 わたしを嘲弄している者に わたしが返答するためである」 (箴言27:11) この辺はどのように解釈しますか。 ヨブが死んでから数百年後の言葉です。 ~~~~~~~~~~ ☆ あぁ 神は人間に要求しているのですか。《わたしが返答するため》というのが 実際に何らかの返答をおこなうのであれば わが子が賢くあることは ただ神にのみ分かるように賢くなることでよいのでしょうか? そうすれば 神は《嘲弄者に返答する》ことが出来る。 あるいはそうではなく わが子は 賢くあって《神を嘲弄する者》に何らかの姿を見せよということでしょうか? そうすれば 《神が返答した》ことになるであろうと。 いやぁ あるいはもっと別のことなのでしょうか? ● ~~~~~~~~~ 毒麦についてですが、 神が何を「しないか」考えたんですが、 1.毒麦が育つのをとどめない 2.毒麦が育つのを手伝わない こうで、よいですか。 ~~~~~~~~~ ☆ たぶんですね 麦である人と毒麦役の人とのあいだで ときが満ちるまで何らかのいざこざが起きている。ときが満ちるなら 収穫のときになることだとも考えられますから――そのときには 毒麦は麦とははっきりと違う姿になるのだそうで―― おのづから区別もされるでしょうし いわゆる批判も成されるということではないでしょうか? その間たしかに何をしないかと言えば それら二点は 言わば中立でもあり そのようであると思えますね。つまり 毒麦役の人が あくまでおのづから成るように成らせるのだし 為すように為させるのだと。好きなようにさせつつ ときを俟っている。 ★ ~~~~~~~ ところで毒麦はもう消えたのですか。 これから先、現れないのですか。 よく分かりません。 ~~~~~~~~~ ☆ たぶんですが わたしがもっときたえて欲しいと思えば わたしは自分に毒麦役が与えられるでしょうね。――でも これまで つねに決して欲していないのに 周りにその役の人がいたようにも感じます。 ★ ~~~~~~~~~ どのように悪魔になるのかについては、 やっぱりよく分かりませんが、ここでしょうか。 「心はほかの何物にも勝って 不実であり、≫必死になる≪。 だれがこれを知りえようか。」 (エレミア17:9) ~~~~~~~~~~~ ☆ 《必死になる》の箇所ですが。《 desperately wicked (KJV)》。 ▲ (エレミヤ書 17:9 新共同訳) 人の心は何にもまして、とらえ難く≫病んでいる≪。誰がそれを知りえようか。 ▲ (口語訳) 心はよろずの物よりも偽るもので、≫はなはだしく悪に染まっている≪。だれがこれを、よく知ることができようか。 ☆ わたしの手元にある辞書では ○ ’anash : ひと(人); to become quite ill ○ ⇒(ギリシャ語訳(= Septuagint ) ἄνθρωπός( anthroopos ):つまり 《ひと》である。 ☆ テクストの問題があるのでしょうか? よく分かりません。 いやぁ 悪魔の生成する過程も分かりませんが ちょっと思うところでは むしろきわめて人間的な最高の徳を目指していた人が 或る日突然 《必死になり・悪に染まり・病んでしまう》のかも分かりません。 ひどっちさん すみませんでした。ありがとうございました。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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ぶらじゅろーぬさん、おはようございます。 宙ぶらりんです。 ご返信ありがとうございます。 わたしには本当に分からないので 24番以降ずっと眺めておりました。 ちっともまとまりませんが、 気になったことをパツッパツッと書きます。 24番の回答に間違いがありました。 誤:「わたしの像に、わたしと似た様に・・・」 正:「わたしたちの像に、わたしたちと似た様に・・・」 (創世記1:26) ひどっちさんもどこかで書かれていましたが、 ここでも複数形でした。 わたしの認識がおかしいのかもしれませんが、 存在するようになった順番は、 1:神(初めも終わりもない) 2:独り子イエス 3:神の言霊からみ使いが誕生 4:神とイエスとみ使いで天と地を創造 5:神とイエスとみ使いでその他を創造 だと思っていました。 いえ、間違ってるかもしれません。 神の目的は 「子を生んで多くなり地に満ちてそれを従わせよ」 (創世記1:28) 「義なる者たちは地を所有しそこに 永久に住むであろう」 (詩編37:29) で、 「わたしの口から出て行くわたしの言葉も それと全く同じようになる。」 (イザヤ55:11) なので(どんな場合でもご自分の目的を果たす)、 「わるくなったみ使い(中傷する者)」が たしかに存在するような気がするのですよ。 ぶらじゅろーぬさんはときどき、 試練も「神が」与えているとおっしゃっていますが、 「神が」ではないのではないかい? とわたしは思ってしまうのですよ。 この辺はどのように解釈していますか。 「全世界が邪悪な者の配下にある」 (ヨハネの第一の手紙5:19) 「磔による死でアダムらからの原罪があがなわれた」 という部分はわたしにもピンときません。 ヨブ記の中で、悪魔が、 神に「異議を唱える」ところがありますね。 ひとの「動機」についてです。 「動機」についてです。 たとえば 「人は魂のためなら、 持っているすべてのものを与えます」とか。 (ヨブ記1:9~2:6あたり) ヨブも(苦難の)原因は神にあるのだと考えますが 悪魔の主張が誤りだと証明する様子が 書かれています(ように思えます)。 それから 「わが子よ、賢くあって、わたしの心を歓ばせよ。 わたしを嘲弄している者に わたしが返答するためである」 (箴言27:11) この辺はどのように解釈しますか。 ヨブが死んでから数百年後の言葉です。 毒麦についてですが、 神が何を「しないか」考えたんですが、 1.毒麦が育つのをとどめない 2.毒麦が育つのを手伝わない こうで、よいですか。 ところで毒麦はもう消えたのですか。 これから先、現れないのですか。 よく分かりません。 どのように悪魔になるのかについては、 やっぱりよく分かりませんが、ここでしょうか。 「心はほかの何物にも勝って 不実であり、必死になる。 だれがこれを知りえようか。」 (エレミア17:9) ちっとも回答になっていませんが、 またしばらく消えます。 いつも書きっぱなしですみません。
お礼
にゅうとらるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。まづわたしは アクマ学は知りません。天使については 思想ないし観念と見て済ませて来ました。 いくらか悪魔について触れられていた内容を記憶の限りで寄せ集めて 手さぐりでアクマ論を始めています。天使に到っては 初心者です。 こういう話を思い出しました。すでにここでも回答として寄せたことのあるものです。イエスが歴史的にどういう系譜にあるのかの議論です。それによっていまのやり取りの始まりについて説明します。 そもそもの初めにはアブラハムが来ます。《その父祖の土地を離れ去って 行け》という声を聞いた。ぢゃあ どこへかとも定まらずに そうしようかと成りますね。《神がかり》と言われても仕方のないように。 次に(モーセは飛ばしますが)この《神がかり》が昂じてと言いますか ダヰ゛デは こう表現した。 《きょう わたしは おまえを生んだ》と神が言った。 と。何らかのかたちでその内面に 《なぞの何ものか》がおのれの父であり 存在の根元だとでも受け取ったのでしょう。そして言うとすれば すでにアブラハムの初めから 無根拠を根拠とする生き方が始まっています。その系譜がつくられています。 さらにイザヤが 神がかりに遭った。つまり《無根拠の何ものか(ヤハヱー。存在せしめる者。主の霊)が わたしに臨んだ》とまで表現した。 あるいは われは《目覚めた》というようなことでしょうか。そのような自己表現も あるでしょうね。アブラハムは 《行けと言われたから 行った》という自己表現であり――そうとすれば―― ここから尾を引いているのだと思います。おのれの存在はこうだとまで言っているとも捉えられますから いわゆる存在論であるとも考えられます。 イザヤは 社会的な弱者をそのまま自分のこととして受けとめたようで こう表現した。 これは 《なぞの何ものか》がわたしに油を注いで 貧しい者に良き知らせを宣べ伝えることをゆだね わたしを遣わして心の傷める者をいやし 捕らわれ人に放免を告げるためである。 (イザヤ書 61:1-3) さらに時は飛んで イエスが来ます。かれが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り これらアブラハムやダヰ゛デの詩編やイザヤを書いた書物を朗読しようとして立ち上がった》時のこと。 すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い てある箇所が目に留まった。 《存在せしめる者の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。 存在せしめる者がわたしを遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え 捕らわれ人に解放を 告げ知らせるためである。》 (=つまりイザヤ書 61:1-2) イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人 びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは ――この書物のことばは 今日 耳を傾けているあなたたち に実現した。 と話し始めた。 (ルカ4:17-21) という《存在》をめぐる歴史物語なのではないでしょうか? わたしは この究極のお節介版としての存在関係論が――むろん 虚構としてですが―― 《存在》にかんする人類最大・最高の思想であると考えます。 すなわち アダムとエワの歴史的なあやまちを もういっぺん元に戻した。つまり これらの神がかりの系譜では アダムとエワの・そのまちがいより前の存在を取り戻したかった。ニ千年かけて何世代をも受け継いで この物語をつづりつむぎ編んだ。編み切った。イエスの活動と磔の死とさらにそのあとの世界までもにわたって。人間が復活したとさえ悪びれずに言うまでに。 わたくしは脳天気ですので 単純にこの話〔の伝えるなぞの何ものか〕のことを信じたのです。 その非思考の庭を持ってこの世を渡ることになりましたし そうすることにしました。 わたしは単純に自由を所望いたしますので 自由でない思想や自由にさからう思想に対して 真っ向から批判し対決に出ます。 そうしているうちに どうも聖書関係の書物が《あくま》と呼んでいるハタラキがこの世にははたらいているようだと受け取るようになった。その経験のあと――その対決がそろそろ収束に向かうであろうと思った頃から―― アクマ学をまとめておこうという欲求を持ちました。 それから このようなやり取りがつづいている。 このようです。 まづは事情説明です。
補足
★ ~~~~~~~ 正:「わたしたちの像に、わたしたちと似た様に・・・」 (創世記1:26) ひどっちさんもどこかで書かれていましたが、 ここでも複数形でした。 ~~~~~~~~~~ ☆ この複数形は (1) 尊敬の複数 (2) あとづけとして三位一体の三つの位格ゆえ だと言われています。 この場合 主語は 神の複数形(エローヒーム)で 述語動詞は 三人称単数形というふうになっています。《わたしたちは つくろう / わたしたちの像に わたしたちの似た様に》の《わたしたち》は そのようです。 次の節では 《自分の像に 神(エローヒーム)の像に》と書いています。《自分》は単数形です。 ◆ (創世記1:27) 神(エローヒーム)はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 ☆ この内容を図式において示したのが ありますので参考にしてください。あるいは批判をしてください。 ○ (ひとと社会の成り立ちについての図式) ~~~~~~ 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ) 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神) ___________________________ スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A ) ___________________________ 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志) ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓) [S者/S圏] 個体・・・・・・・・・・・・家 族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛) 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治) 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 ) 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 ) 〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 ) ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということは このままでは わたしは天使をどこにどう位置づければよいかは分かりません。 なお三位一体ですので 《光の源(父)とかがやき(子)とそれらの明るさやあたたかさ(聖霊)》は 互いに位格を別にしつつも 互いに一体であり それらの間に時間的な差はありません。光のたとえでは 時空間のひろがりがあるように見えてしまいますが。 ★ 神の目的は ☆ 分かりませんが 人間にとっては神を知ることでしょうね。真理を知れば きみは自由になると その損得勘定のようにでも イエスは言っていたかと思います。 ★ 「わるくなったみ使い(中傷する者)」が / たしかに存在するような気がするのですよ。 ★ 試練も・・・「神が」〔与える〕ではないのではないかい? / とわたしは思ってしまうのですよ。 ☆ これは 感覚において直接的な相手なりその情況なりのことを言っているように思うのですが? ★ ~~~~~~~~~ この辺はどのように解釈していますか。 「全世界が邪悪な者の配下にある」 (ヨハネの第一の手紙5:19) ~~~~~~~~~ ☆ ですからこれが アダムからの罪の受け継ぎのもとにあるとしたら人類は あたかもアダムらをそそのかした悪魔を父として生まれて来ている。というように見える。というその風景を言っているのだと見ます。 ★「磔による死でアダムらからの原罪があがなわれた」 / という部分はわたしにもピンときません。 ☆ 善悪を知らなかった状態にあるアダムらが原罪を犯した。死の棘が刺さった。そして死へとみちびかれる。 生命が人間となってこの世に来た。罪のない存在〔という想定〕。その自死ではない死。これで一人の人間の生涯が終わったのでその性格ないし人格ないし境地が決まった。アダムらの原罪を犯す前の人間という状態(存在)があると宣言された。 もし原罪から人を自由にするのに 代償が必要なのなら イエスはそのみづからの死であがなった。 悪魔のもとに人類はさらわれていたとするなら あたかも身代金をその死で払って救い出した。 ★ ヨブ記:悪魔の主張が誤りだと証明する様子 ☆ 損得勘定で神を畏れているのではない(もしくは 真理がもたらす自由のためという損得勘定のみ)というのでは? (ニ千字)。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > ☆ ルカのこのくだりは 考えさせられます。《悪霊が屈服する / サタンが落ちる》という事柄です。 以下愚見を述べさせていただきます。 > ☆ しかるべき時には 神の国の外交官に対しては悪霊も服従し その元締めというべきサタンも 力を落とすものだと知られましょうか? 「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた」 このことにより、サタン(悪霊)をも服従させうる力をこの72人が得た と解釈してございます。 ただ、興味深いのは、悪魔を屈服させる力を持つことよりも、「名が天に書き記されていること」ことの方を重要視していることでございます。 > つまりこのように弟子たちがイエスから力を与えられ 悪霊に向かい合う場合にそのサタンが《天から落ちた》という必要はないように思われるからです。 仰るとおりかと存じます。理由は以下のとおりでございます。 ・まず、「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」 つまり、これはイエスが直近の話のことを述べられているということ。 ・ですが、堕天使とは、既に(少なくとも数百年前には)天使から堕していたこと。 > 《傲慢・嫉妬・自由意志》というように擬人化して捉えるなら 《人間の能力と努力を超えたハタラキ》という認識から逸れます。(または 人間のものとは別種のそれらだという定義になるように思われます)。 確かに、これは難しい問題かと思われます。ただ、ヨブ記におきましては(福音書におけます主イエスに対してもそうなのですが)、サタンが、挑発してみせる等、“自由意志”を持っているかのように察せられるのですが…….. > ☆☆ イエスは天使にまさる / 人間は天使にまさる ☆ についてです。ヘブル書のみになりましたが。 ご教示いただきまして、厚くお礼申し上げます。 > 天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。 確かに、仰られるとおりかと存じます。ただ、若干の例外もあるようにも思えるのですが(以下をご参照くださいませ)。 ユダの手紙 6、7節 (共同訳) 一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。 > エレミヤ書については 次のように《神を父とする子どもたちという境遇》に注目していただいたかたちですが その次のように 《すでに神は人びとの罪を覚えていない》と言うまでになっていることにも注目していただきたいとは思うのですが。 ご忠告どうもありがとうございます。 そうでございますね。ただ、この「人びとの罪」の“罪”とは何を指すのかでございますが、おそらく、文脈から致しますと、シナイ契約後の様々な罪(偶像崇拝等です)と思われるのですが……原罪まで含まれるものなのでしょうか。 > ☆留意しますし おおむね妥当だとは思います。思いますが なにせ黙示録は全体としてわたしにははっきりしません。ですから腑に落ちたという感覚がありません。と率直にお伝えいたします。 そもそも、「黙示録」は、“正典”に加えられるかどうかにつきまして、非常に議論されてきたかと記憶してございます。従いまして、解釈には注意が必要かとも推察されます。 誠に、心苦しいのですが、「磔による死でアダムらからの原罪があがなわれた」という理論がございますが(ほぼ定説かと推察されます)、この部分が愚生には、今ひとつ理解できないところでございます。もしよろしければ、ご教授の程賜れば幸甚に存じます。 話がかわるのですが、N市の方では、地震の程はいかがだったでしょうか?愚生が調べた限りですと、余り問題はなかったように聞いてございますが、何事もなければ、いいのですが.... それでは、よろしくお願い申し上げます。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そちらも特別な被害はなかったようですね。よかったです。と同時に そうとも言えないほどの大きな地震でしたし まだ余震があるようでもあります。このたびは何だか警告が発せられたかのように 感じてしまいました。 ★ ただ、興味深いのは、悪魔を屈服させる力を持つことよりも、「名が天に書き記されていること」ことの方を重要視していることでございます。 ☆ ルカ10:18につきましては このことを肝に銘じつつ おおむね見解が合ったようですね。 ★ 確かに、これは難しい問題かと思われます。ただ、ヨブ記におきましては(福音書におけます主イエスに対してもそうなのですが)、サタンが、挑発してみせる等、“自由意志”を持っているかのように察せられるのですが…….. ☆ そうですねぇ。ひとつ考えたことは 表現の問題だという見方です。人間の側にそのような気持ちや思いや意志があるのを 天使やあるいは神の側にその動きがあるように表現するという捉え方です。 ちょうどいま読んでいるアウグスティヌスによる詩篇の講解では次のようなくだりが出て来ます。 ▲(創世記22:12) あなたが神を畏れることをわたしは今知った。 ☆ これは神がアブラハムの信じる心を試したあと言っているわけですが これを文字どおりにとれば《以前には神は知っていなかったのか》と問わなければならなくなる。だからそうではなく アブラハムのほうがみづからの内面のことを知らなかったのだ。だからその試みのあと アブラハム自身が 自分は神を畏れる者であると知ったのだと。(詩篇注解 43編)。 もしこの表現形式を当てはめるなら サタンがヨブやあるいはイエスを挑発したり試したりするというとき 人間としてのイエスやヨブが まだ――まだなお人間としては――完全ではなくきたえられるためであったと。あるいはもっと単純に周りの人びとが イエスやヨブについて ただしい人だがまだ疑われるところがあると思っていた。そのことを サタンの思わくといったかたちで表現しているのだと。 ひとつの見方だと考えます。 〔そもそも 《ねたむ神 / 怒る神》というのも 表現の問題だという見方を提出しています。つまりは 雪の降る夜はたのしいペチカというとき ペチカがたのしいのではなく ペチカの周りにいる人びとがである。ならば ねたむ神というとき 神がねたむのではほんとうにはなく 神のもとにいる人びとがであるのだと〕。 エレミヤ書の《罪を忘れる》について: ★ そうでございますね。ただ、この「人びとの罪」の“罪”とは何を指すのかでございますが、おそらく、文脈から致しますと、シナイ契約後の様々な罪(偶像崇拝等です)と思われるのですが……原罪まで含まれるものなのでしょうか。 ☆ これは イエスの死によるアダムからの原罪(または そこからの派生するもろもろの罪)のあがないの問題とつながっているようです。 原罪のつぐないを果たしたのだと見る見解を持ちます。 それは イエスには罪がなかったという捉え方にもとづくものです。そんなばかなことはないと見るユダヤ人たちを初めとしてすべての人びとの疑いにイエスはおつき合いをしたからです。無実の罪で死刑の裁きを受けるというかたちを採ったわけですが 無罪の人間を死なしめたというとき 原罪を犯さない人間がいたと人びとは知らなければならなかった。 この筋に関するかぎり イエスは第二のアダムとなったのだと。第一のアダムからの世代を超えての原罪の言わば連綿と続く相続を断ち切った。その死であがなった。 言いかえると それまで人びとは原罪をひきずって死の棘がささった状態であって 死ぬさだめにあり つねに死が終着駅であった。そのように言わば悪魔が地上には君臨していた。この原罪をひきずらない人間としてのイエスの十字架上の死によって このじんるいの死〔の状態〕が死んだ。イマヌエル(神われらとともにあり)なる存在が死を死ぬという手段をとおして それまでの・あたかも悪魔を父とするような人生を送るといういわば死の状態が 避けられないさだめだと見る必要がなくなった。 イエスの十字架上の死にわれわれもあやかって 悪魔による監禁状態をまぬかれ得ると知った。 また そのようにエデンの園〔よりもさらによい状態〕へと再生しうるというメッセージをもらった。 《めぐみの上に めぐみを》。 ただし確かに このいまただちに《復活》がかなうわけではないようです。したがってその再生をあかしする言わば手付け金として 聖霊を送ると言われた。霊による洗礼を受け 非思考の庭が心に現われる。つまり 復活が成るまでは 無根拠を根拠とする信仰によって人びとは歩むというかたちを与えた。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > 軌道修正とまでは行きませんし そうであってもなくてもよいという考えでいますが 別の角度から話を整理してみたいと考えました。 了解致しました。今後とも、愚見お聞きいただければさいわいでございます。 > ( ζ ) ならば 悪魔はもう要らない。一世代ごとのアッキたちがいるのみ。というようにも考えられて来るが どうか? 実を申しまして、”悪魔”たるものは(霊的存在の可能性もあるため)分からない。この実像を迫っていきましても、また仮に仮説が成立致しましても、検証が不可能。 これらの点から、少し別の観点から攻めてみられるのもよろしいかと存じます。 > かの全能者は 最初の人(アダム)からであれ その後に加えられたわたしたちの意志からであれ わたしたちに起こっている悪をその満ちあふれる(神による)恩恵によって滅ぼしている。 まさしく至言かと存じます。 明日にでも、各論につきまして、また回答をお寄せしたいと思っております。 それでは、よろしく願い申し上げます。
お礼
ありがとうございます。 こちらも了解しました。 またこちらも各論でお応えできるところにお応えしてまいりたいと思います。直前のご回答にです。
お礼
たとえばひとのを借りて来て (b^-゜)(*^-^)b♪(*^ ・^)ノ⌒☆ ヾ( ´ー`)(*^_^*)三 (/ ^^)/ :*:・( ̄∀ ̄)・:*: (|||_|||) ┐(´ー`)┌ (//▽//)… … …φ(.. ) こう書けば ちょっとは情緒があって ニンゲンがかわいいと思われるだろうか? にしなさん ご回答をありがとうございます。 そう言えば あの回答も取っておくとよかったかも知れなくて ただし あれは 情緒にうったえる部分がつよすぎるおもむきが濃いのであって。 つなぎは つなぎであるようなのだけれど。 そうですな。 でも やわらがしめるちからになったところもあったかも知れず。 ただしそれが よかったか むしろわるかったか これも分からないのであって。 そうですな。 じつは わたしの直感では――という意味は 勘違いや おそれ多い間違いをもおかしているかも知れないということですが―― みづからを死なしめる振る舞いに到るということを それがあっても かまわんという腹を決めたかたちで想定したのでした。 主語をはぶきましたが あなたは知っているかどうか ほかにダイスの名の人間がいたでしょう? この人間に到っては 読み違いでした。自死を考えるとは思わなかった。あるいは考えた末に――第二の死を避けて―― 戻って来ると思っていました。そうではなく 自死は思いとどまったかも知れないけれど むしろ第二の死のほうへより近くすすんだという感じを受け取っています。 このゾンビ倶楽部では エロぢぢいは もう幽霊のごとくであって かえってゾンビ界と現実界とを自由自在に行き来することができると思って よろこんでいるだろうし むしろそれを誇っているかも知れないと推し測ります。 ですから あなたとわたしとの差は あなたがまだのぞみを持っているというところにあります。 人間とその自然本性について のぞみを持つことは わたしとてつねに外しませんが その大前提の上で 特定の人間についてその人たちが この常なるのぞみを砕く結果になるということをすでに想定したというのが わたしです。 ★ おんなを怒らせるとうまくいかないんだと思いました ☆ 百年の不作と 昔の人は言いました。一生ものだと思います。 でもそのアッキの動きとしては かえって神からの試練になりえます。われをきたえてくれます。大いに美酒への道を彩ってくれもします。 もんだいは アクマです。問題があるとしたら アクマです。 ★ A/S思想の自動思考でとらえ ☆ スサノヲ庶民に さすがアクマはいないと思われますが つまりはいたとしてもアマアガリをして行くでしょうから なのですが ただしアマテラス公民であるからみなアッキであったりアクマの要素があると断定するのは早いと思います。 つまり 普段はそういった判定をしないものです。たぶん アッキはけっこう日常茶飯事であるとも言えるので――これはさすが自分をも含めて―― アッキの動きだわいと判定したりするでしょうが さすがアクマは よほどおのれの腹の底にそのヒラメキを得た場合にしか考えることもないのではないでしょうか? それに 仮りに人間そのものがアクマであったとしても 同時代に・また一定の地域や場に 何人もいることはないと思われます。そのときには 貴重な存在になるはずです。神のごとく如何なるものの下にも立つまいと心に決めた場合であるようです。 ★ ~~~~~~~~~~~~ ブラジュロンヌさんの逆さ政治思想やびっくり歴史観がアマガッパさんなんかの協力により美学方面にも射程をのばす良い機会だったかも知れないのに けんかに少し水をさして申し訳なく ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは ましゅさんも言っていたなぁ。そういう見方をするのは それこそアクマですよと言ったら おどろきですか? 十字架の道がおのれの前にない・見えなくなるとすれば それは アクマの方面だとわたしは思います。というよりも わたしたちはすでに身も心も張りつけになったところから歩み始めているのです。 その張りつけによる第一の死が死なしめられたところから 起き上がらしめられました。と知らなければいけません。もし ★ 寂しいですね。 ☆ というぼやきを吐くのならば。 ただ 九十九匹ではなく そこから何らかの事情ではみ出てしまったというのであれば その一匹について最後の最後まで探し出さなければならない。声をかけつづけなければいけない。 ★ 私の言葉が少しでもおじさんの心に作用すれば、このくたばった心も少しはおどるはずでしたのに。 ☆ いづれにしても あのときはグルだと疑われてはダメ。