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第二の死とは?死が死なくなった状態について
- 第二の死とは、《死が死ななくなった状態》を指します。つまり、第一の死が死ななくなり、固定化される状態です。
- 第一の死は、認識し自己を失った状態であり、死から再生する循環を表します。しかし、第二の死では、再生しなくなり、第一の死が固まってしまいます。
- 第二の死は、心のたかぶりによって引き起こされる可能性があります。自身の考えに無謬性の神話を築くか、外への情報の受け入れを拒否すると、第二の死が発生する可能性があります。
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こんばんは。 人生哲学でしょうか? >ひとつに みづからの考えに無謬性の神話を醸し出しこれを自認したとき。 >ひとつに みづからの思想を外へ発信はするが 外からの受信も輸入もしないという蛸壺哲学に落ち入ったとき。 人は 自己の思想の正しさは認識できないし 他人と対話しないことなどあり得ないので 自殺しなければ 誰でも復活するでしょうね。^^ 山登りと同じようなもので 険しい山程一瞬の喜びは大きいけれど 下山出来ない時が死と云うものらしいですが。幸せだとか不幸だとか人間の判断が鈍った時(安心した時)神のお迎えはくるようですよ。 永遠に苦しみ(何事も自分の思うようにならないからしなければいけないことがたくさんある)こそが生きる糧の人は 神のお迎えは それはそれは遅いような気がします。^^ まぁ 「人を生(活)かしたければ無理難題を問い続けろ」=「貴方は必要とされているよ」と云うことかもしれません。 ブラジュロンヌさんのおっしゃっている対話による記憶かな?(笑)
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- 阿加井 凛悟(@neutral)
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こんばんわ、ぶらじゅろんぬさん。 おいらからは、もうしゃべることがないので、 他の方の良回答を期待(笑)しつつ、 ひとこと置いて消えますわ。 「 どうしても誇る必要があるなら、 私は自分の弱さを誇ろう。」 by パウロ ではでは。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ▲ ~~~~ 「 どうしても誇る必要があるなら、 私は自分の弱さを誇ろう。」 by パウロ ~~~~~~ ☆ そうですね。そのとおりだと思います。 つまりは 第一の死すなわち 自己のアヤマチについて その《弱さをほころう》でもよいとさえ考えられます。むろん そこで我れに立ち帰るということだとなると思いますが。 質問枠は 五件まであると思うと まだ放っておいてもよいかなと思いがちになります。というわけでもなかったのですが そのままにしてありました。 この質問は 好きな時に閉じることとします。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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ぶらじゅろんぬさん、こんばんわ。 ご返信ありがとうございます、 分かりやすかったです。 >はじめから手をつないでいる。 手をつないだ状態にすでに成っている。 何もしない段階ですでに――いちいち手をつながなくても―― つないだ状態になっている。と心に知っている。 :ああ言われてみればそうだわ、 わざわざ手をつなぐとか変なこと言っちゃったなあ。 いつも ふつうにお世話になりますです、 ぶらじゅろんぬさんにも、近所のおばちゃんにも スタヂオで会う人にも、学校で会う子どもたちにも。 ニンゲンは宇宙のみなしごを続ける能力持ちません。 高ぶりっ放しおごりっ放し、 己に欺きっ放し(アヤマチっぱなし・死・死・死・・・) でもいられません、 みんな自分かわいい、自己中だからの。 あまり頭に血がのぼったままだと熱中症?ですわ。 子どもだって自分で頭冷やしに行きますよ。 数分 タコツボに入ってケロっと戻ってきますよ。 19番様のご回答の後で申し訳ないのですが、 人は 人を裁く という能力も持ちません。 おいらも第二の死は ない と思いますが、もし、もし、 人と交わる中でタコツボに入ってしまったのなら、 人と交わる中で海面に出られるっしょ。 ↑人と交わるのを拒否しているように見える人、 タコツボから一方的に発信している人も、 「交わりを求めない」という能力はありません、 確実に交わりを求めています。 ところで、第二の死はあるか、ということですが、 そのような状態に見える人がいたとして、 どのようにしてそうなるのか、 どのようにしてアクマが生まれるのか、と 考えてみたいような気もします。 重複するんだけど、 人との関係の中でタコツボに入った人は 人との関係で海面か地上に還りますから、 元気なヤツが海底にもぐって タコツボに向かって話しかけるしかないかな。 で、その元気なヤツってのが オレぢゃ!アタシぢゃ!と言って 動いてくれるといいね。 あまり回答になってないんだけど、 ほぢゃ、お邪魔しました。 あ、時間のことしゃべるの忘れてた、 せいぜい90年か100年の命だから、 死にっぱなしはいやだね。
お礼
にゅうとらるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ 人との関係の中でタコツボに入った人は 人との関係で海面か地上に還りますから、 元気なヤツが海底にもぐって タコツボに向かって話しかけるしかないかな。 ~~~~~~ ☆ このような前向きの未来志向でいたい。と言いますか つねにいるつもりなのですが いまは どういうわけか その心つもりを切り裂くような思考の実験をやっているのだと思います。 ★ ~~~~ 人と交わるのを拒否しているように見える人、 タコツボから一方的に発信している人も、 「交わりを求めない」という能力はありません、 確実に交わりを求めています。 ~~~~~~ ☆ どう考えても このようだと思うのです。人間の心や意志のあり方として この理論よりほかにはないのではないか。と。 しかもいまは この理論に反する事態を わざと想像してみようとしています。 さらには ひょっとして《例外》なる事態があるかも知れないかなと。 ただしその例外の事態があるのではないかというのは じつは 事態が存在すると言おうとしているのではなく 必ずしもそうではなく この例外事項を仮りに想像してみて そうすることによってじっさいの人間の心の状態や意志の向き加減を出来るだけ精確に捉えてみたい。こういう意図と狙いがあるのだと思います。 No.19では 割りと安易だと見られかねないかたちで 《現在の韓国人が日本人に対して採る態度》にかんして それは第二の死の状態にあるのではないか。などと言っています。言いました。そういうふうにして 応用する思考実験なのですが。(この事例の場合は すでに初めから 一時的・局所的だと条件づけてはいますが)。 ★ ~~~~ どのようにしてそうなるのか、 どのようにしてアクマが生まれるのか、と 考えてみたいような気もします。 ~~~~~ ☆ ということなんです 早く言えば。アクマという言葉は使いたくないので いまのように回りくどい言い方をしています。 またアクマという言葉を出すと むしろこの思惟の流れがすでに止まってしまうような感じを 自分にか・もしくは聞く人にあたえるというふうにも思います。ので 使いたくないと考えました。 きわめて微妙できわめてそれこそ思い上がり心の高ぶった調子での議論に受け取られてしまうかも知れないのですが 問題提起してみました。 もう少しひらいています。
- NemurinekoNya
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こんにちはです。 第二の死? ハテ?? どこかで聞いたことのある言葉だけれど、え~と、エ~ト......... 出典は『ヨハネの黙示録』か。。。 ハルマゲドンとか起こった後、死んだ人間は、《カミの裁き》を受けるために一度、復活する。そして、裁きを受けて、ワルい奴はゲヘナとかに投げ込まれる。これが《第二の死》の意味だったような。。。 『ヨハネの黙示録』 第二十章 ───────── 20:12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一 つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。 20:13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。 20:14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 20:15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。 ───────── であるので、 《第二の死》とは、《タマシイの死》、つまり、永遠の《無存在》を意味するということになるのか。。。 ☆☆☆ bragelonneさんの《第二の死》は、いわゆるキリスト教でいうところの《第二の死》と意味が違いませんか? どちらかというと、仏教的。 〔輪廻における〕生物学的な個体の死を《第一の死》ととらえ、《第二の死》をニルヴァーナ・nirvana、涅槃ととらえるような考え方に近い気が。。。。。。 というか、 bragelonne理論では、 《第一の死》と《第二の死》の区別はなかったのではなかったですか。 bragelonne理論には、 死後の世界である《パラダイス・天国》は存在しない。 カミによる万人の救済は、決定されている───という言い方もおかしいですか。決まっているのではなく、端からカミによって救われているのですから───。 《死》はカミに還る、現象的な通過儀礼にしかすぎない。 わたしはそのように理解していましたけれども、誤解していた??? なので、 bragelonneさんの《第二の死》とは、《「カミの裁き」の死》という概念、ドグマ・教義の死であらねばならないのでは。 と思ったのですが、 ~~~~~ ほんとうにそうか? それだけで 第二の死が起こるか? いやそもそも・果たして 第二の死は あるのか? ~~~~~~ と質問中にあるから、首尾一貫しているのか。 なるほど、なるほど。。。
お礼
そうですね。聖書を出されたなら くわしい定義論にも触れなければならないような。 まづは ご回答をありがとうございます。 いま現在の立ち場としては こう思っております。: (あ) ヨハネ黙示録にしるされたような《第二の死》はない。 あるいはあったとしても そのことが人間には分からない。 (い) ただし そのように《死――いっさいの存在を否定する精神とでもいうような死――そのものとしての存在ないし意志》という捉え方は 必ずしも人間に感じられないものでもない。そういったイメージを持つことさえあるかも知れない。 (う) そのツテで考えるなら 《第一の死》は それがすでに自然本性の自然治癒力によって死ぬものとして 《わが心にさからうアヤマチとしての意志行為》であると捉えることを〔勝手に〕おこなっています。 (え) そしてのその第一の死が 自然治癒力が無くなって・またはむしろこれのハタラキをみづから拒んで 死ななくなった状態。これを 第二の死として想定して見る。 (お) この想定は 人間の心的現象を捉えようとするときの作業仮説であり ひとつの手法だという意味になります。 (か) この前提に立って もしただの主観としてでもこの《第二の死》が 自分についてにしろ相手についてにしろ 知覚されいちおう確信をもって認識されたとするなら 対話において実際に話題としてみてもよいのではないか? (き) すなわち ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~ 基本的に言って それは 心のたかぶりによって起こると思われる。 のではないか? ひとつに みづからの考えに無謬性の神話を醸し出しこれを自認したとき。 ひとつに みづからの思想を外へ発信はするが 外からの受信も輸入もしないという蛸壺哲学に落ち入ったとき。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ これは 《心のたかぶり》は 《思い上がり》と言ったほうがよかったようです。 アマアガリ志向です。単独分立としてのそれです。普遍化としてのアマアガリなる思考およびその志向は ふつうのこととしておこなわれますから。 つまりはただし 科学万能主義。ローマ法王の――かつての――無謬性神話など。《神聖にして侵すべからざる存在》を打ち立てる思想だとか。 《すくい》に関係していますが それとは別箇に議論することができる主題ではないかとは思います。 現在 韓国人は 日本人に対する態度として 聴く耳をいっさい持たないといった姿勢に凝り固まっています。国策としてそうしていると言えると思います。これは 一時的・局地的な《第二の死》の状態にあるのではないか。こういうふうな議論の仕方です。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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こんばんわ、ぶらじゅろんぬさん。 ご返事ありがとう、 ほかっぱなしになっちゃって失敬。 宇宙のみなしごとは何かって? 生きてる人はみんな 例外なくそうなんぢゃないの? 宇宙全体のの管理人や指導員 がいるわけぢゃないからのー。 結局 考えて判断して動くのは オレとかアタシとか。 オレもひとりアタシもひとり。 ↑と分かってるから ときどきオレとかアタシ手をつなぐ。 高ぶっているときは (新鮮な怒りやおごりがあるときは) たぶんしゃべることができると思いますよ、 デカい声でさ。 どうなんだろ、怒りやおごりが 腐っちまって、たとえば恨みになったときや 無関心になっちまったときや 考えるのをやめちまったとき、 素直さ(自然?)を奪われて 身動きが取れなくなるんぢゃないかな。 ああそうだ、 学校は疲れるだけのところだし、 家庭は傷付くだけのところだし、 おいらは生きるために、 いったん学校に行くのをやめてたね。 朝、制服を着て家を出て、 公園に行って知らない人としゃべってた。 今、醜いこころを持っている人は、 「なんでアタシが 復讐心とか支配欲とか 持たされなくちゃならんの?」 とおのれとしゃべってみるといいかな、 素直に。 ほぢゃ、お邪魔しました。
お礼
お早うございます にゅうとらるさん。ご回答をありがとうございます。 あぁ なるほど。ひとはみな 宇宙のみなしごとして生まれて来る つまりは ものごころが着くときには その孤児として出発することになる。ということですね。 ★ ~~~~ 宇宙のみなしごとは何かって? 生きてる人はみんな 例外なくそうなんぢゃないの? 宇宙全体のの管理人や指導員 がいるわけぢゃないからのー。 ~~~~~~ ただしわたしの場合 そのあとの見方に変化が生じるとは思っています。 つまりこういうことです。 その《宇宙全体の管理人や指導員の不在・欠如》 これが《無根拠》として受け留められます。 つまり《無根拠》によって 宇宙のみなしごなるわれわれはそれぞれ 生きている。というわけです。 そのような見方の変化によれば: つまり こんな自由でやすらかな世界はない。のではないか? と。 命綱がなくてもだいじょうぶだというのが 無根拠です。 ぎゃくに考えるなら もしそのような《変化》がないならば: ★ ~~~~~~ 結局 考えて判断して動くのは オレとかアタシとか。 オレもひとりアタシもひとり。 ↑と分かってるから ときどきオレとかアタシ手をつなぐ。 ~~~~~~~~ ☆ となるとは思います。 口幅ったい言い分ですが もし変化が生じるなら はじめから手をつないでいる。 手をつないだ状態にすでに成っている。 何もしない段階ですでに――いちいち手をつながなくても―― つないだ状態になっている。と心に知っている。 のだと思うのです。 ★ ~~~~ どうなんだろ、怒りやおごりが 腐っちまって、たとえば恨みになったときや 無関心になっちまったときや 考えるのをやめちまったとき、 素直さ(自然?)を奪われて 身動きが取れなくなるんぢゃないかな。 ~~~~~~~ ☆ これについては ぎゃくに《思い上がり》がさらに昂じて行く場合を想定していました。 それは 《宇宙のみなしご》であることに自信を持った場合であり さきほどの《無根拠にもとづく自由でやすらかなだいじょうぶさ》と意外と同じように あたかも独りで満ち足りている――そういう状態を発見し開発したというような場合です。 みなしごであることに不足を感じない。そういう思い上がりです。いかようにも《身動きが取れ》るわけです。 これが――まだ説明不足ですが―― 第二の死です。(その方向性としてです)。 ★ ~~~~ 今、醜いこころを持っている人は、 「なんでアタシが 復讐心とか支配欲とか 持たされなくちゃならんの?」 とおのれとしゃべってみるといいかな、 素直に。 ~~~~~~~ ☆ こういった考え方がきっかになるといったことは 大事だと思いました。 ありがとうございました。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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こんばんわ、ぶらじゅろんぬさん。 宇宙のみなしごではいられないから ときどき手をつなぐんぢゃないか。 助けが必要なときは なるべく大きな声で助けを求めないと 生きていられませんわ。 眠っている人は こちょこちょっとくすぐってやれば起きますよ。 先週 学校で6年生との親子活動がありましてね。 内容は消防士さんによる救急救命法の説明と 児童・保護者による実践でした。 倒れている人を見かけたら? 寝ているだけかもしれないから まづ肩をトントンとして声をかけ、 念の為 大声で呼びかけて 激しめに体を揺すってみるのだそうです。 それで反応がなかったら 人を呼んで119番してもらい、 AEDを持ってきてもらい、 胸骨圧迫と人工呼吸をしながら 救急車の到着を待つのだそうです。 早くしないと生き返るのは無理だそうです。 呼吸と心臓が止まっている人に 他人がそれ以上の害を加えることは まづできませんが、 助けることができるかもしれないだけですが、 早くしないと。 意識がない人は 自分に意識がないことに気付けないし。 頓珍漢かもですが、とりあえず、えい。 あ、しゃべりっぱなしになるかもです。
お礼
にゅうとらるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 宇宙のみなしごではいられないから ☆ この《宇宙のみなしご》になるというのは どういうことか? どういうふうになるのか? ふと あらためて考えてみました。 まづ: ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~ あやまちをなぜ《第一の死》と言うか? それは わが心にさからうあやまちの一瞬に わが存在としての時空間が 相対的な経験存在であるそのままのかたちを映して 実際に《果て》によって限られて来るからである。 物ごころのつく前のわが広大な宇宙が 時間を見出しこの時間によってわが存在の歴史として《果て》が限られることは 実際の死によって限られることだからである。 ~~~~~~~~~~~ ☆ わが時空間なる〔小〕宇宙が《果て》をおぼえて限られて来る。つまり ひとが時間的存在となる。(つまり もともとそうであることを自覚するようになる)。 このことは 必ずしも《孤児》ではないですよね。むしろ 人と人とのカカワリ(関係)つまり社会性を見い出すことになっているとさえ思われます。 でも ☆☆ 物ごころのつく前のわが広大な宇宙が〔――聖なる甘えのもとにあった時間つまり無時間が――〕 時間を見出しこの時間によってわが存在の歴史として《果て》が限られる〔。そして この〕ことは 実際の死によって限られることだからである ☆ というときには どうか? いえ。たぶんそのことも この《人生の時空間が限りあると知ること》によってこそ 人間の自然本性としての心や境地や能力は かがやきを発揮することになる。かも知れない。 とすれば ひとが《宇宙のみなしご》になるとは どういうことか? どうしてそうなることがあるのか? まぁ 質問者としては 趣旨説明欄に書いたように 《心の高ぶり・思い上がり》によると見たのでしたが 果たしてどうなのか? つまり――話をわざとややこしくしていると思われるかも知れませんが―― そういう《思い上がり》にあるときひとは ★ ~~~~ 宇宙のみなしごではいられないから ときどき手をつなぐんぢゃないか。 ~~~~~~ ☆ というように 《ほかの人と手をつなぐ》でしょうか? つなごうとするでしょうか? つなぎたい気持ちはあるかも知れません。ですが 自分からつなごうとはしないかも知れません。なぜって それだけの《高ぶり》の状態にあるのではないかと思ったのです。 ★ ~~~~ 助けが必要なときは なるべく大きな声で助けを求めないと 生きていられませんわ。 ~~~~~~ ☆ というのは ふつうのひとの普通の状態であろうかと思います。ですが 高ぶりの状態にある《宇宙のみなしご》となっているひとは むしろその思い上がりにおいて 《みなしご》状態にあるとは思わないかも知れない。 あるいは思っても むしろぎゃくにその孤児状態を脱するのではなくそうではなくかえってその状態を深くしまた広げるかも分かりません。 そしてあるいは ひょっとすると そのようにみづからの孤児状態をわざと色濃くして見せること これが ★ 助けが必要なとき ☆ なのであり じっさい助けを求めている。ことなのかも分かりません。 というような情況が思い描かれ そのように捉えられたのですが どうでしょう? ★ ~~~~ 眠っている人は こちょこちょっとくすぐってやれば起きますよ。 ~~~~~ ☆ これは おそらく《こちょこちょとくすぐる》ことが出来る間柄にあるかどうかが 先に問われる。ということかも分かりません。《くすぐることができれば 起きます》から。 そして そのあとには 《くすぐる》ことのできる間柄ではないけれど すでにそのような信頼関係を築く以前の状態にある場合・すなわち緊急の処置を要する状態の場合について 触れられています。 ★ ~~~~ 早くしないと。 意識がない人は 自分に意識がないことに気付けないし。 ~~~~~~ ☆ というような喫緊の情況においてです。 たぶんこの例示の場合との違いは ★ ~~~~~ それで反応がなかったら 人を呼んで119番してもらい、 AEDを持ってきてもらい、 胸骨圧迫と人工呼吸をしながら 救急車の到着を待つのだそうです。 ~~~~~~~~ ☆ というとき 実際問題として宇宙のみなしごに対する専門家は必ずしもおらず 《ほかの人》や《救急車》や《AED》といった助け手はいないし ないと思ったほうがよいと考えられることです。 《胸骨圧迫と人工呼吸》 これは 自分ひとりで緊急避難としてのごとく 出来る・つまりその孤児に対して処置してあげることが出来るかも知れない。 でも でも でもですね。 宇宙のみなしごは その意識がないのですが その意識がないことに必ずしも緊急事態だとの意識も自覚もない。かも分からない。・・・ わるいほうへ かなしいほうへ わざと持って行ってしまったようですが いちどここまでは考えておきたいと――このように書いたあとにですが――思いました。 すでに書いたように 《第二の死》なる状態は ない。または あっても人間が感知することはできない。つまりわづかに その予感がしたりその状態になる手前で 感覚的に捉えて その状態ではいけないですよと 当人に声をかける。そこまでは できる。――このような前提に立ちつつ 上のようにあたかも為すすべがないといったような話をしてみました。 これは したがって 聞かなかったことにしてもよいのではないかと思う思索でした。
あ~あ ・ ・ ・ 公言と私言 どっちも 針の穴だ どう 通すんだろ? って聞いている 議場のやり取りなんか 完全なショーだ・・ (言ってしまった・・ついで だ ) 強行採決の乱闘シーンなんかだって 役割分担が決まっている TV局が引き揚げると さあ 終了だよって合図が出る・・ そういう馬鹿馬鹿しさに耐えるのも 妖怪の務めだ また 逆パフォーマンスを与える発言なんて論外だ アドリブだって スイスイと針の穴を通すように出さなくちゃいけない どれほどの妖怪なんだろう って みんな見ている なかなかだな っていう妖怪だけが永田町に残る そんな感じだ おばあちゃんのことは そっとしておいてあげるべきだろう 誰もが そう思っていることを知っているから 妖怪はしゃべらない 当たり前だ この件については どう発言しても批判されるからだ 針の穴を知らないやつだけが ぺらぺらやっている あ~ また つまんない話になっちゃった もう止めようよ 疲れた んで いっぷく 山の彼方の 空遠く 幸い住むと 人のいう ・ ・ かわいい妹は そこからやってきた ありがとう はぐれたお兄ちゃんのために 落しものを 届けにきてくれた あっ ・ ・ 小鳥が 鳴いている 今日も 元気で と ・ ・ ・ Bさん お先に失礼するよ 悪いけど また。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ▼ (江川 紹子: 日本が誇るべきこと、省みること、そして内外に伝えるべきこと~「慰安婦」問題の理解のために) ~~~~~ 2013年5月25日 12時35分 http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20130525-00025178/ § 日本が誇るべきこと発信すべきことは何か ーー◆(江川) 最近、日本の主張をもっと発信すべきだという声をよく聞きます。安倍首相も、橋下大阪市長もそう言っています。でも、力づくで強制的に連れ去って売春を強要した証拠はないとか、日本だけじゃなく他の国もやってたじゃないのかとか、発信すべきは、そういうことではないように思うのですが…。力ずくの強制はなくて、別の仕事に就くような騙しで連れて行き、そこから自由に離脱できない状況であれば、十分強制的ではないでしょうか。よく聞く「強制はなかった」という主張は、有形力の行使はなかったが、欺罔はあった、と言っているように聞こえます。 ◇(大久保保昭) 強制を示す文書がないから強制もなかったというのは、実にナンセンスです。文書は証拠の1つであって、あれだけ地域も年齢も境遇も違う人たちが、細部では異なる点はあっても、大筋のところで話は一致しているわけです。これは証拠がない、というのとは違う。文書がないから事実がないことにはなりません。そもそも、そんな文書を作るはずもない。 ーー◆ なのに、そういうことを認めるのは、自虐的だとか…。 ◇ 日本の民族、日本の国に誇りを持つことは大事なことです。誇りを持つに足る国だと思います。まず、そこははっきりさせましょう。特に、戦後の焼け野原から立ちあがり、豊かで安全で、自国より貧しい国には多額の経済援助、技術援助をする国を作り上げてきた。このことは、世界に胸を張って誇るべきことであり、もっと語られていいと思います。若い人たちにもぜひ誇りを持たせて欲しい。 ただ、だからといってかつてやった戦争まで、自衛のためであって侵略ではなかったとか、南京大虐殺はなかったとか、それは違うでしょう。南京の被害者は30万人というのは嘘だとーー嘘だと私も思いますがーーそれをギャーギャー言うことで誇りを持たせようというのは違うと思います。 日本が誇るべきは何か、を考えないといけないのではないですか。 ◆ 私たちが誇るべきこと、省みること、内外に伝えるべきことは、それぞれ何なのか。 それを1人ひとりがじっくり考えていくことが大切だと、大沼氏の話を聞きながらつくづく思った。 ~~~~~~~~~~
Bさん・・ それは想像だよ 実際の言葉を聞けば分かるよ 面白いもんで こうやって Bさんと やり取りをしているのと 実際に Bさんと向かい合って会話をするのとでは、たぶん感触や印象が違ってくるだろ それと同なじだ また、言葉って 同じ言葉でも、話方で意味の取り方、ニュアンスが変わってくる そのへんの微妙な扱いが、実際の言葉として出てくるところが面白い だから あの妖怪の話なら聞いてもいい・・ ということで、みんな出向いていくわけだ すこしだけど・・ 立板に水を流すような話方だけじゃ だめなんだ サラサラと定型文を途切れなく話すだけじゃ、妖怪として失格だ たとえ、それが人の何倍も上手くできてもだめだ 中には、そういうのもいるが、やはり魅力を感じない 言葉の魔術っていうのかな いつも新鮮味がある話方のほうがいい 進行形というのか、一歩先に進むような話方じゃないと、人を惹きつけられないことを知っている・・ そんな感じだ 針の穴に、言葉という糸を平然と通すことができて・・妖怪だ そんな凄い演技が オモチャに出来ると思うかい・・ 死んだ人間にできるはずがない 議事録に残るものは、前もってシナリオが全部できているから そう見えるだけのことだ 妖怪の本領は、それ以外のところで発揮されているはずだ・・ つまんない話になっちゃった・・ そろそろ終わりにしよう Bさん お兄ちゃ~ん! っていう掛け声が Bさんの心に残ってくれればいいと思う 顔無しになった時 遠い過去からの呼びかけ や・・ 他にもあるかもしれない 顔無しのまま そのまま っていうのは たぶん無いと思う 自分を取り戻せる何かを 誰でも 必死になって探そうとするんじゃないだろうか いのちの声 って言ったけど それを聞くのは、偶然じゃないと思う 意志が失われたものを、感性が補おうとするんじゃないだろうか 感性が、意志を蘇らそうと与えるものが いのちの声なのかもしれない まったく姿を表さないまま 内なる神はいる ということになりそうだ ものの・・影 は あなたは今こうですよ と感性が示した意志の状態のような気もする それを示す感性の余裕が、まだ残っている 化け物さえ見えなくなった時が・・ Bさんのいう 本物の 死が死なない なんだろう でもね 生きて生きない っていうか 顔だけ っていうのもあるんだよね こっちも暗い こっちも あっちも 暗い・・ あ~ Bさん なんでこんな質問したの? っていう おれも 暗い のか・・ 右も 左も 真っ暗闇で・・ 寝る時間だ おやすみ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ 同じ言葉でも、話方で意味の取り方、ニュアンスが変わってくる そのへんの微妙な扱いが、実際の言葉として出てくるところが面白い だから あの妖怪の話なら聞いてもいい・・ ということで、みんな出向いていくわけだ ~~~~~~ ☆ けれども ★★(回答No.14) 百も言いたい事を言わずにいた ってことですよ ☆ というのなら 《実際の言葉として出て》来ないのでは? 何もしゃべらないのなら 生きていても生きていなくても同じになるのでは? ★★ 細い針の穴を通すように言葉を選ぶ ってことは大変な事に違いない ★★ 耐えて 耐えて 耐え抜いた ★ 針の穴に、言葉という糸を平然と通すことができて・・妖怪だ ☆ しゃべるのか しゃべらないのか。 しゃべったとしても 意味のない言葉だと言っているように聞こえます。 ★ そんな凄い演技が オモチャに出来ると思うかい・・ ☆ このオモチャは おばあさん方のほうについて言ったものです。 でもおなじことかも知れません。 《針の穴を通す》言葉しかしゃべらないとすれば。 すでにかたちとしては レコードが出来ているわけだ。 針の穴を通すというかたちへと条件反射することになる。 それにしても 橋下発言が出てからは 自民党の政治家は 何も言わなくなった。針の穴が見えなくなった。 ★ ~~~~~ ものの・・影 は あなたは今こうですよ と感性が示した意志の状態のような気もする それを示す感性の余裕が、まだ残っている 化け物さえ見えなくなった時が・・ Bさんのいう 本物の 死が死なない なんだろう ~~~~~~~~ ☆ わたしは 《第二の死》なる状態は ないと思う。現われないと思う。もしくは 人間には それが現われたとしても 分からないと思う。 ただし・しかも その一歩手前で ひとはたぶん互いに その気配を感じて指摘し合うのだと思う。 ★ 感性の余裕が、まだ残っている ☆ ときに・その段階において しかも人から見れば もうその余裕も あなたは 見られないようですよと言ってやるのだと思う。そういう呼びかけは 言わなくてはならない。《針の穴》うんぬんは関係ないはずなのです。 そういう呼びかけは 言わなければ 何にもならない。言わないとしたら 第二の死の手前にある人と同じ状態にあることになる。・・・ 要するに 話に答えない。話をズラす。これが 昂じると 第二の死に到る。という話です。ということだと思います。
>哲学があるんですか。控えめにしているということですか。 だから それは前に言ったでしょ・・ 妖怪の親分は・・耐えた んだと 耐えて 耐えて 耐え抜いた 百も言いたい事を言わずにいた ってことですよ 細い針の穴を通すように言葉を選ぶ ってことは大変な事に違いない そんな真剣勝負の緊張の連続にも平然と耐えなければならない 自己哲学をそこへ持ち込む余裕もなければ、ゆるされる事でもない・・ でも そうした反面 そういった緊張感をきっと楽しんでいるんでしょうね、生きがいみたいに 永田町にずっといられる妖怪は、みんなそういう連中だ くだけた話をしても、地方の妖怪のくだけた話とは、どこそこ違う そんな感じなんですよ・・ タコ壺の内のほうが、よっぽど楽しい 言いたい放題だ 死が死なない いやちがう 生きて生きない だ 顔無し だ いやちがう 化粧が台無し だ (台・・無し) と まあ そんなところで・・
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~ 耐えて 耐えて 耐え抜いた 百も言いたい事を言わずにいた ってことですよ ~~~~~ ☆ ぢゃあ 生きているにあたいしないってことでは? ちょうちん持ちとか 生きていても生きていなくても どっちでも同じになっちゃう。 要するに相手の話を聞いていないということです。 聞く耳がないということです。 条件反射としてのみ生きて(うごいて)いる。 条件が現われれば 無条件に同じ反応を繰り返す。 スイッチを入れたら ただわめくだけのオモチャになりさがっている。
☆ これは そうではなく ただただ 哲学が無いからに過ぎません。 Bさん これは違うよ・・ ボロを出さない っていう解釈なんだろうけど 一匹オオカミ じゃないんで 出来ないんだ また 公の顔の振る舞い という妖怪の常識を守っているだけだ で ・ ・ ・ レクイエム 死が死なない 死なない死が 生きつづける 生きつづける 死が死なない 彼の遠くの 離れ人 此処に はぐれて来た一人 お兄ちゃ~ん ! 神様のような声 まだ 生きろ といっている もうすこし お兄ちゃんの顔で 生きてみよう いのちの声を 聞くかぎり いのちの声の あるかぎり ・ ・
お礼
ご回答をありがとうございます。 哲学があるんですか。控えめにしているということですか。 たぶん 顔無しであって ほかの人の顔も見えていないのではないか。 見〔ようとし〕てもいないのかも知れない。 兄ちゃんという言葉が どのようにひびくか。これにかかっている。と言えるでしょうか。
>哲学が沈黙を決め込む謂われもなければ そうしてもいけないというものです。 じゃ どうするの? どうすればいいの? 藪から 蛇が出てきちゃった・・ という言い方もできないし 言っちゃ いけないし 解説不要という事態だ さ あ もう ね お互いにさ 顔がないんだからさ 口だってない 口がないから 話せません って ことにして だんまり戦術でいいのか 戦術か 優しさ か 人の見分けは難しいけど 見事だったのは 永田町の妖怪連中の挨拶だった けなせば けなされる という事を知っている 一言も この 時の話題に触れたりはしない やはり 人道的配慮に欠けた発言を 公の場でするような者は 永田町の妖怪にはなれない と思う まつりごと をする妖怪は 余計なことを言わない・・言っちゃいけない これでいいんだ 先生も おれも タコ壺の中で 勝手にブーブー言っているけど もう そろそろ っていう感じもする 実のある沈黙に言葉はかなわない・・っていうか そういう間のある言葉使いをされると 何となく面白いんだけど 心が重くなってくる おしゃべりな言葉の軽さも 重さも自由に使い分ける術 永田町の妖怪にはそんな魔術師がすこしはいる いて いいんだろう・・な タコ壺の中から そんなふうに見えた・・
お礼
ご回答をありがとうございます。 特にこれといった反応はありません。 ★ ~~~~ けなせば けなされる という事を知っている 一言も この 時の話題に触れたりはしない ~~~~~~ ☆ これは そうではなく ただただ 哲学が無いからに過ぎません。 ★ どうすればいいの? ☆ ったって 自分で考えてそのとおりにふるまえば(または 何もしないようにすれば)いいんでないの? ★ タコ壺の中で 勝手にブーブー言っているけど ☆ これは 人間に対する冒涜です。 または 権力に対するおもねりです。 自分は自分でありましょう。
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お礼
てふ_てふさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 人は 自己の思想の正しさは認識できないし 他人と対話しないことなどあり得ないので 自殺しなければ 誰でも復活するでしょうね。^^ ☆ うむ。だいじょうぶですか。・・・かも知れないですね。 とは言うものの ☆☆ みづからの思想を外へ発信はするが 外からの受信も輸入もしないという蛸壺哲学に落ち入 ☆ り続けているばあいは あるように見られますが。これは 《独我論》という思想です。 あるいは ☆☆ みづからの考えに無謬性の神話を醸し出しこれを自認したとき ☆ というのは 《お上》とよばれるお二階さんが その公民圏の全体として この不可謬性なる神話を誰もかれもがおのが身に羽織り 歴史の度重なるにつれ硬い甲羅で凝り固まったかたちになっていたのは つい最近まで――つまりたとえば社会年金の仕組みの崩壊が目に見えて来たときあたりまでというように最近まで――見られました。 このことが 次のような事例に相当しませんか? ★ 山登りと同じようなもので 険しい山程一瞬の喜びは大きいけれど 下山出来ない時が死と云うものらしいですが。 ☆ そのむかし 学力優秀・品行方正で人間的な人間である人たちが 志高く《アマアガリ》を目指しました。この《ますます人間的になってアマテラス公民圏の住民となったお二階さん》たちは むろん下山つまりアマクダリも出来ますが 長年のクセ(エートス)の積み重ねをつうじて 《おれは あやまたない。神聖にして侵すべからざる人格者なり》というふうにそのキントン雲に乗っかって 往来を闊歩していませんでしたか? ★ 幸せだとか不幸だとか人間の判断が鈍った時(安心した時)神のお迎えはくるようですよ。 ☆ これは・つまりこの《神のお迎え》は 趣旨説明欄に規定した《第一の死》が死を迎えて 《われがわれである自然本性なるわれに立ち帰った》ことを意味していましょうか? それとも この第一の死がもはや死ななくなって とうとう第二の死に到ったということをでしょうか? 次の場合は 前者のようですね。 ★ 永遠に苦しみ(何事も自分の思うようにならないからしなければいけないことがたくさんある)こそが生きる糧の人は 神のお迎えは それはそれは遅いような気がします。^^ ☆ 《あやまつ―→第一の死―→われに還る・ゆえに第一の死が死ぬ―→またあやまつ―→・・・》の繰り返しであったとしても そのつど第一の死は死んでいます。つまり その人は生き返っています。から。 ★ まぁ 「人を生(活)かしたければ無理難題を問い続けろ」=「貴方は必要とされているよ」と云うことかもしれません。 ☆ 単純に言って 《反省がある》ということでしょうか。 つまり この質問は 《反省をまったく決してしないという人間は 果たしてこの世にいるでしょうか?》という問いです。 ただし おのが内面においてだけ反省していても ダメです。それは タコツボになります。存在という抽象的な理論上の《人間と人間とのカカワリ(関係性)》だけではダメで 《じっさいに話し合うというマジワリ(交通)》においてその反省を自己表現する場合でなくては 反省をしたとは言いません。そういう定義です。 つまり ★ 対話 ☆ を忘れ もはやまったく無くしてしまった状態にある人間 こういうひとは いますか? という問いになっています。