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贖罪において 悪魔は しりぞけられたか
1. 人びとの罪をあがなうという主題が 聖書関係に出て来ます。 2. これは 特殊な絶対性のもんだいかと思われます。それでも説明をつけようとする場合が 考えられます。では それは果たして 一般性を持つか? この問いを問います。 * 3. 例によって 悪魔を登場させての説明です。 4. 悪魔は すでに死んでいるのですが その死の制作者として 神に許されてハタラキを持ちます。 5. つまり 人間の罪をあがなうというのは この悪魔を征服するというかたちの話になります。 6. なぜなら 悪魔は 人びとに罪がある――罪を犯した経験がある――そのことを咎めて 最終的に人を死に追いやるというハタラキですから 誰かが すべての罪を引き受けたなら・そして清算できるように引き受けたなら あがなうことになります。 7. 例によって悪魔は イエスをも死にみちびきます。そのために罪へと誘います。 8. けれども ほかの人間はいざ知らずイエスとなると 悪魔にとって ちょっと趣きが違っていた。 9. イエスは 悪魔の気持ちや思い 怒りやその論理をすべて アース役よろしく その心身に受け留めてしまっていた。 10. では 死。この存在の消滅という死――つまり じつは 悪魔にとって おのれ自身のことである――をも 引き受けることが出来るか? と問いかけた。 11. つまりは 高等法院のお偉方らを促して モーセの戒律にしたがって イエスを死刑に処することになるように ことを運ばせた。 12. つまりは イエスとて おのれ自身の現実の死に追いやられたなら おれ(つまり悪魔)の心をやさしく包むことなど 出来っこあるまい。という魂胆である。 13. 果たして 磔の十字架に上がって イエスは どうしたか? 14. 降りて行かなかった。その死刑をあまんじて受けた。 15. つまりは 死そのものである存在(?)の悪魔にも 自由に対等に接していたイエスは 死そのものにも成るというわざに出てしまった。 16. へへんと思った悪魔だが そのイエスの心を自分の心に受け留めた途端 すでに身も心も溶けてしまった。 ☆ 質問者の捏造が入っていますが 果たして 一般性がありますか?
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- REX_IUDAEORUM
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No.13です。お礼のコメントをありがとうございました。 > かんたんです。パウロ書簡ではありませんが 『ヘブル書』(8章)が > …(中略)… > つまり 《贖罪》が――イエスをとおして――成った。と言っているはずです。 教義学者や一般的な教職者でしたら、ご質問者さまと同じように答えるでしょうね。確かに、ヘブライ人への手紙7章27節などは、イエスの死を「諸々の罪」をあがなうための「贖罪」としてとらえている典型的な個所です。 イエスの死に対する理解は福音書間ですら相違があります。ご存知かとは思いますが、例えば「イエスの死の日付」の問題がそれです。ヨハネ福音書ではイエスが殺害されたのは「ニサンの日の14日の午後」、すなわち、過ぎ越し祭の「生贄の仔羊」が屠られる日時です(ヨハネ19章14節)。つまり、福音書記者ヨハネはイエスの死を「犠牲」として捉えていることが分かります。 一方、マルコ、マタイ、ルカの共観福音書では、イエスが殺害されたのは「ニサンの日の15日」であり、過ぎ越しの仔羊が屠られる日時とは異なっています。また、細かくそれぞれの「最後の晩餐」の記述を見ると、マルコーマタイ系の伝承(「パン裂き」も「杯」も同じ安息日の食事の中で行われた)と、パウロールカ系の伝承(「パン裂き」は金曜日、「杯」は安息日の土曜日のできごと)に分かれています。これらの記述の中で、イエスの流した血が明確に「罪の赦し」と結合しているのはマタイ26章28節のみです。この中で最古と推定される記述はパウロの1コリント11章25節以下ですが、ここではイエスの殺害は罪の赦しとは結び付けられていません。 新約聖書、特にパウロ書簡における「罪」ですが、複数形の「罪」と単数形の「罪」があることも、よく知られています。日本語の聖書ではこの区別は明確ではありませんが、ギリシア語の原典を参照しなくても、英語などの聖書を読めば、その区別は明らかです。パウロ自身が問題としたのは「単数形の罪」だと言われています。律法違反のように数えることができる「諸々の罪」ではなく、根本的な「罪」です。聖書学者は「単数形の罪」という事実そのものは指摘していますが、残念ながらその内実については指摘していません。おそらく、この「根本的な罪」が、ご質問者さまが問題としておられる事柄に関連するのではないかと拝察いたします。 申し上げましたことは、聖書学の立場からの意見であり、これが絶対的な真理であると主張するつもりは毛頭ございません。聖書は全体で矛盾なく唯一の事柄を言い表している、というのも一つの立場でしょうし、個別の文書の「神学」を一つ一つ共通点も緊張関係も含めて理解するというのも一つの立場です。単にわたし自身は後者の立場である、というだけのことであり、他の立場を排除はしません。 少なくとも、聖書文書の個別の神学を検討する限りにおいては、文書間にイエスの死の理解についても緊張関係があるので、ご質問者さまの問いは「一般性がある」とは言えない、という点だけ、ご理解いただければと思う次第です。 ご参考になりましたら幸いです。
- REX_IUDAEORUM
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ご質問者さまの問いは「贖罪において 悪魔は しりぞけられた」という命題が「一般性を持つか?」と理解してよろしいのでしょうか?キリスト教の神学研究者にも色々な立場がありまして、教義学者や一部の聖書学者は「一般性を持つ」と答えるでしょう。わたしは新約聖書学の立場(一応、新約学の修士)ですが、「一般性を持たない」と考えています。 ドイツの神学者A. v. ハルナックは20世紀初頭に「キリスト教こそ宗教そのものであるとして、他の諸宗教の研究は神学にとって必要なし」として、大学の神学部が諸宗教を研究することに反対しました。その後、宗教史学派のE. トレルチが『キリスト教の絶対性と宗教史』で、これまでキリスト教の絶対妥当性の根拠とされてきた論拠が、歴史的宗教としてのキリスト教には適用できないことを論証しました。それに対して、「いや、キリスト教は絶対だ」と主張したのがK. バルトです。概ね、現在のキリスト教の主流派はバルトの主張に組していると言えるでしょう。これが『聖書』を統一的な思想として読む教義学者、組織神学者の立場です。 一方、聖書学では聖書の各文書の個別の神学を重視します。現代の聖書学者の多数は、罪の贖い、つまり、「贖罪信仰」は、キリスト教信仰の一要素でしかないと考えています。事実、新約文書の7つを占める文書の著者であるパウロは、イエスの死を「贖罪信仰」という側面から理解していません。日本の新約聖書学者の中では青野太潮がこのことを詳しく論じており、また大貫隆も『イエスという経験』の中で、このことを取りあげています。パウロはイエスの十字架の死を徹頭徹尾、贖罪論と切り離して、十字架によって呪われた死を神が肯定した出来事として描いています(「十字架の神学」)。 「イエスの死が贖罪だったのか?」という、ご質問者さまの問いは2000年前から既に存在していましたが、『新約聖書』そのものの中でも統一的な見解が存在していません。あくまで新約聖書学の立場からという保留が付きますが、ご質問者さまの立てた問いに「一般性はない」と結論付けられると思われます。 『贖罪信仰』における「罪」は可算名詞であり、ここにおける「罪」はひとつふたつと数えることができる「律法違反」と言えるかもしれません。ある意味で「贖罪信仰」はユダヤ教への逆戻りです。「逆戻り」が良いか悪いかの価値判断は別として、『新約聖書』そのものの中に、すでに「贖罪論」と「十字架の神学」の対立が存在しているのです。 まあ、「贖罪信仰」と「十字架の神学」のどちらが正しいのか、科学の命題のように客観的に証明しうる問題ではありませんので、最終的にはどちらを信じるか個人の自由にゆだねられています。「内的絶対性」の問題ですね。 ご参考になりましたら幸いです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ・・・教義学者や一部の聖書学者は「一般性を持つ」と答えるでしょう。わたしは新約聖書学の立場(一応、新約学の修士)ですが、「一般性を持たない」と考えています。 ☆ なるほど。見解は 分かれるのですね。 ★ ドイツの神学者A. v. ハルナック / 宗教史学派のE. トレルチ / K. バルト。概ね、現在のキリスト教の主流派はバルトの主張に組していると言えるでしょう。これが『聖書』を統一的な思想として読む教義学者、組織神学者の立場です。 ☆ 『ローマ書講解』しか読んでいません。それは 基本的に言って 経験合理性を超えて信仰内容としての整合性を問い求めるという姿勢がつらぬかれていると受け取りました。 わるくはないと思った一方で これでは哲学としての理論〔による解明〕にはならないとも思いました。 ★ 現代の聖書学者の多数は、罪の贖い、つまり、「贖罪信仰」は、キリスト教信仰の一要素でしかないと考えています。 ☆ ん? これは おどろきました。つまり 原罪説は 初めからなかった(原罪という概念は もともとはなかった)という見方に わたしは 違和感を感じない立ち場にいますが とは言え それを持ちだすときには きちんと処理しなければならないとも思っています。 ですから 《贖罪》説が それほど軽く扱われるようになったとは 知りませんでしたし おどろきです。 ★ 事実、新約文書の7つを占める文書の著者であるパウロは、イエスの死を「贖罪信仰」という側面から理解していません。日本の新約聖書学者の中では青野太潮がこのことを詳しく論じており、また大貫隆も『イエスという経験』の中で、このことを取りあげています。パウロはイエスの十字架の死を徹頭徹尾、贖罪論と切り離して、十字架によって呪われた死を神が肯定した出来事として描いています(「十字架の神学」)。 ☆ 大貫隆の著書は だいたい読んでいます。賛同とも反発ともどちらともはっきりしない受け留め方というのが いまの見方ですが それよりも パウロです。 ずばり ここでは 専門の方に反論します。 かんたんです。パウロ書簡ではありませんが 『ヘブル書』(8章)が 例の『エレミヤ書』(31:31以下)に書かれた《あたらしい契約》を取り上げているその内容を 反証に挙げます。 つまり そこでは 《もう人びとは 主を知れと言っておしえることはなくなる》という命題とともに 明らかに《もう人びとの罪は おぼえない。わすれる〔と主が言った〕》ことが 推し出されています。 つまり 《贖罪》が――イエスをとおして――成った。と言っているはずです。イエスが《まこと と めぐみ》を実現させたことは ひととおりの基礎として 《罪が消えた》問題をともなっていると考えるからです。 ★ 「イエスの死が贖罪だったのか?」という、ご質問者さまの問いは2000年前から既に存在していましたが、『新約聖書』そのものの中でも統一的な見解が存在していません。あくまで新約聖書学の立場からという保留が付きますが、ご質問者さまの立てた問いに「一般性はない」と結論付けられると思われます。 ☆ いえ。まだよく飲み込めません。さきほど《十字架の神学》のことを保留していましたが その点と関係するようには思いますが。次にご説明があるようです。 ★ 『贖罪信仰』における「罪」は可算名詞であり、ここにおける「罪」はひとつふたつと数えることができる「律法違反」と言えるかもしれません。ある意味で「贖罪信仰」はユダヤ教への逆戻りです。「逆戻り」が良いか悪いかの価値判断は別として、『新約聖書』そのものの中に、すでに「贖罪論」と「十字架の神学」の対立が存在しているのです。 ☆ そうですね。たとえば: ▲ (アウグスティヌス:神は人の罪をほろぼしている) ~~~ かの全能者は 最初の人(アダムとエワ)からであれ その後に加えられたわたしたちの意志からであれ わたしたちに起こっている悪を その満ちあふれる恩恵によって 滅ぼしている。 (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここで 《悪》は 神に対してなら《罪》です。原罪を創設したといって批判されることのあるアウグスティヌスですが ふつうに小さなものをふくめて人間の罪について けっきょく《イエスによって――そしてそれは 十字架じょうの死をとおしてと言ってよいかと思いますが―― あがなわれた》ことが 基本となっている。ように思われます。 つまり 十字架の神学と贖罪説とは 別に対立しているとは――と言っても わたしが 十字架の神学をきちんと把握していないかとおそれますが 両説が対立しているとは――思えないでいます。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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のたうちまわるのを知らぬまま。 足元の虫けらが、まっすぐ前を見る私の足元にはいつばっていても、きつきもしないで踏むつぶす。 それでこそ仏陀だ。 釈迦を守ったインドの風土で、時渡とかの私の資質はともかく、釈迦と比べると私は闇の仏陀だよ。 人間が悪そのものに化身した象徴ともいえようか。 私が悪への愛を語ると、君たちが理解するのは絶対悪だ。 まだ失敗の途上で、私はあきらめていない。 このかわいいアニキなツンデレ。
お礼
何を: ★ あきらめていない ☆ のか。 仕返しか。それとも 理論立てた認識による哲学的解決か。 ★ ブッダ ☆ は――《目が覚めた》と言っているのだから―― 誰についても理論上は 当てはまる。これを持ち出すのは もうふるい。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
私の熱情にうなされた物言いに批判したね。 まあ、こんなのが任天堂と同じ落とし前の付け方だ。 君のガミガミはしらけるんだよ。 うるさいだけで内容が無い。 > 情報工作が行われた。 少年の家庭事情に問題があったらしいと報道は修正されていき、任天堂とは無関係に誘導されていったよ。 これは要するに罪人を人が作ることだろ。 それに何も言わない、夢見る神学者が神を語っても、神様もおなかいっぱいに満ちたれないんだよ。 で。俺様が戦場に落下傘降下することをかわいらしくおねだりするんだ。 まあ、景気づけに死人が花を添えるのがちょうどいい。 人を語るとおおむね君はガミガミだ。 私もそれは理解できていて、趣味性はオカマ相手の痴話げんかを選択したが、やはり同様だよ。 なんなんだろーなー。自称人間と教育された生徒さんたちは。
お礼
もうこれ以上は 説得力をつける気がない。――と言っていますか?
- 畑 茂夫(@Flareon)
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> 人は死ぬことに、神に悪心を抱いた。 人は神を罪人のごとく揶揄する。 このお互いの険悪な関係で、殺し合いだ。 君がこの見地に驚くことを期待するよ。 初耳だといえるかどうかだ。 これは、まるっきり当たり前の普通の人間の考え方だよ。 注釈すると、自己に信仰心が無い故に、他者の信仰心に便乗する、ごく普通の人間同士の世間付き合いの延長で起こることだ。 でも、他者の純粋な信仰心すら、悪魔の仕業としたらどうなるかな。 この最後の言葉については、君の方が雄弁だろう。 そうさな、殺し合いルールでは、他者を殺すとき、同時に他者の神を殺すことがいかなることかということだね。 私が任天堂にやっているのはね、神を生かし人を殺すだ。 看板がどぶ板任天なんでね、その社風の忠実な理想を教育しているんだ。 彼ら自体が実質的に、無自覚のままアマテラスを悪魔扱いしている。 そのアマテラスを復活させる私に働きで彼らは死ぬだろう。 神と関わらない、人と人どちらの悪が正義か問いただす、最速の臆病者バトルだ。 死の企業体で、資本関係が多方に波及している。 仲良く殺し合いだ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 〔神と人との〕お互いの険悪な関係 ☆ というのは 神にとっては あり得ません。人間が何を言ってもやっても 屁の河童です。 ★ これは、まるっきり当たり前の普通の人間の考え方だよ。 ☆ 人間のわがまま・自分勝手さは 分かり切ったことです。 ★ 自己に信仰心が無い ☆ 神については 有る神も無い神も 同じひとつの普遍神です。信仰がないというのは 無いと自己表現する信仰です。無い神を信じている(無条件に無根拠においてわが心に受け容れている)という状態であるはずです。 ★ 無自覚のままアマテラスを悪魔扱いしている。 ☆ このように用いたアマテラスは 一般性がありません。伝わらないでしょう。 ★ そのアマテラスを復活させる私に働きで彼らは死ぬだろう。 ☆ そうでなくとも 人はうつろいゆき やがて朽ちます。 なおまだ あなたの物言いには ただ内に沸き起こる意識を排泄しているだけのように映る部分があります。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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君島への死の宣告には、彼自身の裁量による選択肢を与えている。 ユーチューブでV字開脚の上放尿。(パンツ着用不可)(国別にモザイクで合法化工作あり) モザイク工作でこそ合法! 実に似合っている。 そのVの刻印で社会的な死を迎え、儀式とするか? それとも生命の死を儀式とするか? こういう、金と命で商売はどちらを優先して仕事するかで、ねこひまわり(詳細は今後)商売をしているよ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 一般性をもとめます。 元は 一般性にもとづいているのでしょうが 現われた対策は 趣味の域をほとんど出ていないように見受けられます。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
死の娯楽企業の中で、先代のイワタ怨霊は、生贄じみて哀れを誘い手厚い供養の対象のようだね。 現役のキミジマをいかように予見し、予言として授けようかな。 私は気が短いんでね、死についての人体実験は早ければ早いほど効率がいい。 私は死の当事者ではないし、単に知らせるだけだ。 贖罪も何も、殺しても無罪だよ。 そうして稼ぐ成長するウインチェスターハウスだ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 理論立てた一般性のあるご議論にお付き合いするかも分かりません。 (それですでに 一般性のある内容であるのかも知れませんが なおまだよくわたしには――ざんねんながら――飲み込めません。あしからず)。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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贖罪において 悪魔は しりぞけられたか これを転じて、 贖罪によって 悪魔は 浄化されたか。 私には関係が薄いが、天界の住人から個人的に願い事を預かっているよ。 浄化も何も、私は初めから幼馴染を悪魔扱いしていない。 イエスが証明したのは部分的なことだ。 そして証明したと彼自身が納得していても、誰にでも理解できる代物ではないだろう。 私はそれらにとらわれず、「ときわたり」これで永遠を証明することに取り組むよ。 なに、自己が観念化できていると、死というのは自己が変化するだけの、大げさに取り組む命題ではないからね。 この仕事の過程は、ときわたりで商売している企業体に、永遠の安らぎを与えるおもちゃ屋の業務の一環だ。 便乗したスクエアとかも虐殺リストだ。 ときわたり発案の私には、どの企業も資本関係が無いからね。 金の商売ではなくて、命の商売だよ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ イエスが証明したのは部分的なことだ。 ☆ 物語りにかんする限り 《証明》ではありません。その・雲をつかむような物語の中で イエスは 悪魔とたたかった。負けて 勝った。――というお話です。 ★ 部分的 ☆ ではなく じんるい全体だということになっています。 ★ 誰にでも理解できる代物ではないだろう。 ☆ そんなことは やる(たたかう)前から 分かり切ったことです。 ★ なに、自己が観念化できていると、死というのは自己が変化するだけの、大げさに取り組む命題ではないからね。 ☆ 死がこわくないという自己表現は 例外なくただの作文であると 誰でも知っています。 聖なる甘えから抜け出て きよらかなおそれに到っても ものごころが着いた(善と悪とを知った)なら 死の棘なる悪とその棘が患部を朽ちさせて行くその先である死を だれでも知っているし おそれている。 ★ 涅槃:ニルヴァーナ ☆ というのは ろうそくの炎が消えて行くかのように じつは実際に呼吸が停止する状態にまでなるというそんなヨーガなどの修行をすることを言います。 つまり 死の問題です。つまり 生の問題です。 この問題について ユダヤ民族の伝統にしたがって――つまりその神ヤハヱ―への信仰にしたがって――イエスは 解き明かしたということです。 そのとき神は ただユダヤの民族神としてのふるい姿を脱ぎ捨てて 外に開かれ 普遍神と成りました。 どんな名で神を呼ぼうが・あるいは 神などは無いと言い張ろうが 普遍神が普遍神であると表現されたわけです。 ★ この仕事の過程は、ときわたりで商売している企業体に、永遠の安らぎを与えるおもちゃ屋の業務の一環だ。 ☆ これは 理論のあとの――しかも 個人としての――実践に属することだと見ます。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
任天堂にかかわって、無差別殺人という言い回しもしたよね。 まあ、まさに人間悪を証明する滅びの金字塔、記憶の墓標、滅びの宴、私はおもちゃ屋なので、業務とかかわって、学んだんだ、教えを受けないで身をもってかみしめた。 その私は闇の仏陀黒き明星だが、人間悪そのものと 悪対悪の最速の臆病者バトルもこなしている。
お礼
ご回答をありがとうございます。 何がしたいのか。まだ これが 必ずしもあきらかなかたちで 語っていないように思われます。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
> 死に対する不満は、神が人に嫌悪する根拠。 死に対する不満は、人が神に嫌悪する根拠。 これをケラケラと私が笑っているのは、古典的表現で涅槃への到達が出来ているからだ。 幼いころ神様を友達にして遊んだ記憶がある人はそう珍しくない。 その私の幼馴染は、他人は悪魔と呼ぶ性質の神だった。 任天堂はアマテラスを奉っていないよ。 私の一番の幼馴染はアマテラスだからだ。 じゃあやつらがどんな任天をしているか、日本人は勘違いしているよ。 私は見通せるから、今後も面白いよもやま話を語ろう。 シビトを生産活動にして大儲けする会社だ。 世の中ではゲーム産業のトップとされている。
お礼
ご回答をありがとうございます。 事実認識が出来たら あとは その内容をあらためて 理論づけが出来るようなほどに一般性において表現しておく。 そのあと そこではすでに 理論じょう間違いが明らかになっているであろうから どうすればよかったか。これを 考えておく。 その上で: ★ ケラケラと 笑っている ☆ のがよいと思います。
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お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 聖書は全体で矛盾なく唯一の事柄を言い表している、というのも一つの立場でしょうし、個別の文書の「神学」を一つ一つ共通点も緊張関係も含めて理解するというのも一つの立場です。 ☆ お立ち場が分かりましたし その事情も納得します。 ということは そのあと どうなりましょうか? つまり 《聖書記事のあいだの共通点やまた相違点どうしの緊張関係やを理解した》あと どうお考えになりましょうか。 つまり そのような最終的な受け留め方としても 個別の記事内容どうしの相違点を重視する立ち場をつらぬかざるを得ないとのお考えでしょうか? つまり 聖書学者であることを超えて ひとりの人間としての――今度は 哲学としての〔と言えるとしたら その〕――姿勢をお取りになることはない・・・でしょうか。 この質問じたいは 言わばすでに もし《贖罪》説を採ったならば そのときの説明は どうなるか? ――この前提で問うているものではあります。 つまり 趣旨説明の内容は 贖罪についてのよい説明には成っていないと見るか。そして その場合は 聖書神学としての見解の相違を見るまでもなく 取り上げるにあたいしない。と成りますし もし何がしかの説明になっているなら その理解を踏まえて いやいや それでも《贖罪》は イエスのわざに関して 重きを置かれることはないんだといった議論になるかだと思います。 素人丸出しでお尋ねしてももしよろしかったならば けっきょく《十字架の神学》とは何か? 贖罪説と何ら内容も変わりないのではないか? と思えて仕方ないのですが どうですか? というよりも イエスはすでに ヤハヱーを民族の外にひらき 普遍神の次元に揚げて棄てた(エレミヤ書31:31以下 および ヘブル書8章)のではないですか? イエスが出たから 原罪説も現われたのだと理解しますが それも 理論建てが出来たなら すべてもうその時点で 要らなくなる。 つまり イエスのあとは 原罪にしても一般の罪にしても 罪論は要らないのですし しかも神を知れとか それは間違った神学だぞとかわたしたちが議論することは やはり不要になった。・・・とわたしは理解しています。 神は――イエスの指し示した神は―― 普遍神ひとつでしょう。その信仰としては 一人ひとりの《心の明け》 これだけだと捉えています。 学問は 受け継がれますが 宗教は 文字通り要らなくなり 世界のどの神も・どんな名の神も・そして《無い神》にしても すべて普遍神のもとに主観共同されますから あとは 経験世界における哲学等もろもろの科学が活躍すればよい。・・・このように思っております。