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因果応報は本当のことですか
因果応報( 善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす)は本当のことですか。 例外は沢山あるのではないですか。
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- abc2008
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因果応報を信じる信じないは確かに自由ですが、現世にしろ過去世からのものにしろ、原因結果、これは不可分のもので、原因なくして結果もないし、結果を伴わない原因もない。ただ、例外というか、細かく見れば、現在の状況の全部が全部、それによるものでもないことも確かですが、いずれにしろ、その種を蒔くのも、刈り取るのも自分以外の何者でもないと言うことは確かかと思われます。 また、その原因が結果として現れる時期や状況も種々様々であり、いわゆる定業(じょうごう)、不定業というものがあり、我々には如何ともし難いものかと思われます。たとえば植物の種子などは、それぞれに最適な水分や気温等の縁に触れて発芽しますが、それらの縁がなければ、いつまでも発芽せず、有名な大賀ハスのように2000年後に発芽する場合もあり、それに似たようなものかと思われます。 ところで、『人間は考える葦である』という言葉で有名なパスカルが、ある賭けの理論を展開していますが、それは『死後の世界』についてのものですが、簡単に言うと死後の世界が『ある』か『ない』かに賭けるものですが、まず、『ある』方に賭けて、それに備えた生き方、つまりは善行を積んで死んだとします。もし、あればそれなりの善行を積んだので何ら心配はない。もし、なかったとしてその善行は無駄だったかも知れないが、別に問題ではない。では、その逆だったらどうか。ない方に賭けて、好き勝手に悪行をしまくり死んだとして、もし、あったとすればその時は「しまった!!」と思っても、もう遅い。 つまり、死後がある方に賭けて勝てば幸福だし、負けたとしても何も失わない。逆にその反対の方に賭けて負ければ取り返しがつかないことになる。であるなら、一体どちらに賭ける方が得なのかを問いかけているものなのですが、これを因果応報に置き換えたとしても成立するかとは思われます。 ともかく、因果応報が『ある』とも『ない』とも証明されていないという点では、両者は同列である以上、どちらを選択した方が賢明かはパスカルに聞くまでもないかとは思われます。
因果応報は地球的規模、社会的規模で見れば本当のことだと思います。 一人の人間に的を絞ろうと思うから判りにくくなるのでしょう。あえて誤解を恐れずに言えば、人間一人が幸せであるかどうか、というのは、客観的な意味で、誰にも測ることはできないでしょう。人一人の人生は、まあ、そんなに幸せでもないし、不幸でもない、って言うのが一般的ではないですか。 国家的規模で、例えば、日本が戦争中にしたことが原因で、現在のアメリカとの関係があり、中国や、韓国、他の東南アジアの国々とのちょっとぎこちない関係があるのは、明らかな因果応報でしょう。CIAのやり方が無体なので、アメリカ政府は信用されないとか、因果応報ですよね。 あんまり、自分、自分、って言うのは、どうも性に合いません。
お礼
なるほどね。 ありがとうございました。
- hakobulu
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幸福とは何か、不幸とは何か、という定義によると思います。 「本人が幸福と思うこと」と「人間としての幸福」が必ずしも同じであるとは限らないからです。 悪い行いをしても、本人が「幸福だ」と思い込んでいる人はいます。 この事実を、「悪い行いでも幸福をもたらすことがある」と捉えることはできます。 しかし、それが「人間としての幸福」と同義であるとは限りません。 この視点から見れば、その人は幸福だと勘違いしているだけで、実は不幸です。 人間の本質的な気持ちとして、「悪い行いをして幸福がもたらされること」はありません。 「悪いことをした」という記憶が、たとえ無意識的にでも、その人に罪悪感をもたらすからです。 これが人間の心の仕組みです。 ただ、「悪い行いをしても幸福がもたらされた」と勘違いする人はいるでしょう。 そのように勘違いしている人は、一見すると幸せそうに見えるかもしれませんが、決して本当の意味での心の平安、幸せを得ることはありません。 もし、幸福そうに見えるとすれば、それは見る側が、本当の幸福とは何か、を知らないだけです。 >例外は沢山あるのではないですか。 : 例外のように見えるだけで、どんな場合でも、 因果応報( 善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす)は本当のことです。 因果応報を断ち切るには、「悪い行いをして幸福がもたらされることは無い」ことに気づき、自らの幸福に対する概念を変えることから始める必要があります。
お礼
「悪い行いをして幸福がもたらされることは無い」ことに気づき、自らの幸福に対する概念を変えることから始める必要があります。 あなた自身も含んで自己改革する必要あります。 ありがとうございました。 悪い行いを善い行いと勘違いしている人多いですね。 こういう人善い行い(本当は悪い行い)を一生続け幸福ですね。 ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
xianchingさん、ANo.23ですが。 ちょいと違う言い回しですが、中国にも同じ言い回しがあるのでしょうね、多分。 “身から出た錆び”とか。 これって、類似のことをいっているのでしょうかね。 その程度で、昔の素朴な方に伝導か伝道かする上ではある程度インパクトあったのでしょうね。 その程度のこと、つまり言い回しの一種にすぎないと思いますが。 中国にはこんな思想や言い回しはないですか?
お礼
#22のお礼に同じ。
No.7,8です。 輪廻転生、因果応報の両方が成り立つと仮定します。 現世は苦です。 これは仏陀が悟ったからではなくほとんどの人はそう思っているはずです。 実際に現世ではほとんどの人は地獄の様に苦しんでいるかと思います。 それはいつの時代も同じです。 ほとんどの人が苦しむ現世ならば、ほとんどの人は前世で悪人ということになってしまいます。 輪廻転生、因果応報の両方が成り立つのならば。 この事実は何となくおかしいとは思いませんか? いつの時代も一般庶民はいたぶられてきました。 と、なるといつの時代も人間全体では前世では悪人が大多数を占めていたことになります。 そう考えると全てが悪人の時代はあったのでしょうか? これだけ人間が苦しむ因とは一体なんでしょうか? これに対する見解を知りたくてなりません。
お礼
ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.14&19です。 ★(No.19お礼欄) 社会現象ではない個人の行為でも例外あるように思いました。 ☆ わたしの回答は 《例外であるどころかあるいは例外があるどころか いっさい成り立ちません。すべてはその人の思い込みです》という内容です。 ●(回答No.18)~~~~~~~ 遺伝的な要因や国家犯罪というのは、個人でコントロールできる因果関係ではありませんから 自業自得は成り立ちません。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これについて説明します。 ○ 《遺伝的な要因によって病気になるという悪の結果をこうむる》のも(つまり そういう星のもとに生まれること自体も)あるいは 《国家犯罪によって拉致されるという悪の結果をこうむる》のも すべては 過去におけるおのれの行為(業=カルマ)に応じた報いである。どういう要因によって どういう結果が生じたということに関係なく 自分が悪だと思う結果についてその原因は 過去の自分の悪としての行為にある。つまり自業自得である。 ☆ と考えるのが 因果応報説です。 そう考えるのは勝手だけれど 何の根拠もありませんと言っています。 根拠をあらそうのではなく こちらからの問いかけとしては 別様に次のように言っています。 ☆☆(回答No.14) ~~~~~ 《おまえが病気になったのは 自業自得だ。》 《あんたが――あるいはあんたのお子さんらが――拉致されたのは 自業自得だ。》 ――誰に対しても こうはっきり言ってみろってんだ。因果応報教徒らよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このことが言えて 皆が納得いくようでしたら まづその仮説についてこちらも考えて見なければならないでしょうね。という回答内容です。 どうも伝わっていないようでしたので。 * くどいように: 全面的に百二十パーセント 阿呆な考えであると回答しています。 その悪の思惟のあと そのマチガイに目覚め ふつうの思想に立ち戻るとしたら 悪因善果になります。
お礼
>☆ わたしの回答は 《例外であるどころかあるいは例外があるどころか いっさい成り立ちません。すべてはその人の思い込みです》という内容です ここだけでよくわかりました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
ANo.23補足: 一定の存在者の意識と意志の創造か、出来てきたのか、それともあるのか。それは別にしても、言っての社会と歴史の存在である人という者を中心にしては創造もされてはきていない。 無論できてもきていないし、あってきてもいない。ということはいいうるだろうか。 仮にそういえるとしたら、因果の因も果その価値的善悪はどの次元の因果律も左右してはいない。 悪い因となるべき邪悪な行為が、ところ変わって良い因であって、良い果となることもありうる。 因果応報とはあまり説得性の高くない、タームだと現代人が思うのは尤ものように思えます。
お礼
#22のお礼に同じ。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
因果応報の報は、語としては善悪両義ですね。 でも因果応報という語列では悪いむくいの方を伝える語感となっているのが日本語でしょうか。 悪いといい。どちらも一定の歴史と社会の中の存在と意識にとっての、都合からの良いと悪いでしょうね。 宗教伝道の仕方として、それぞれに能弁の説教者が民衆を揺さぶるタームとして使っていた事はわかりますね。 数ある日本語では生誕から余りに手垢のついた、語列ですね。 まぁ一応、カルマ思想の論理と思考を活用しての説法ですよね。 いまどきどこの宗教者もこの語列をあからさまに使っては説かないでしょうし、だれも説得されないし、信じる人はいないでしょうね。 この因果応報という語列自体は今は死語に近いでしょうが、あぁいう悪い奴には罰(ばち)が当たって欲しい、そうあるべきだ。 とかどうか報いが来ないようにという願いとしては、人の心の根っこに残っているのでしょうね。 多くの皆さんには関係ないですが、私はヒンドゥ的思想の哲理で勉強し、精進してきました。まだ40年ちょっとで。 でも非常に自分にマッチしていて、五歳頃に思っていたとおりのことをいわれています。 この思想では因果応報のことはあまりいいませんが、因があれば果があるといいます。果は因の果だと。 この物象的世界に限る因果律もありましょうし、存在しないという方も多い世界での因果律もありましょう。 存在しないという人の多い次元での因果律をカルマというなら、そういう意味での結果を因果応報というのかもしれません。 そういう場合、悪い因が必ずしも都合の悪い果にも為りえないでしょう。 都合は一定の歴史と社会での存在と意識のことではないでしょうか。そしてその人の取りようと対処の仕方ですしね。 ただ、その因の記憶があるとかないかは殆ど嘘か錯覚ですよね。 第一、一定の記号的保存になりましょうし、一定のスクリーンを通しての再現でしょうから。 そして詳細、或いは具体性のある記憶を持たして地上再来はさせないと存じます。 そういう過去を一切抹消的にして、記号化して再来させるという新生こそが恵みではないでしょうか。 そうでないとすれば、命は新しくないし辛くない(つらくない)人はいないと存じます。 単なる未だ途中でしかない個人の個人的認識に過ぎませんが。
お礼
私の質問は単純に次の通りです。 >因果応報( 善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす)は本当のことですか。 >例外は沢山あるのではないですか。 因果応報の定義は(かっこの中に書いています)。
- pupurr
- ベストアンサー率18% (129/704)
科学では因果論として、取り入れてますね。 原因があれば、けっかがある。 しかし、いい行いなどは、道理という問題ではないでしょうか? 衣服や食べ物を盗むと餓鬼に生まれ変わるといわれる事がありますが、これは基本的なことらしいですよ。 主婦のスーパーでの万引きが多くなってきたり、農家での作物の盗難事件などニュースで見てると、当然バチがあたると思います。 まぁ、犯罪ですから、捕まりますね。 逮捕という結果が不幸な状態でしょう。 つまり、刑務所に行かないための原因は、ただひとつ、犯罪を犯さないことです。 結果がすぐ出るとも限りませんから、わからないだけです。 よく使われるたとえで言えば、昨日作った借金を返さないと、今日も残ってる。つまりは、死んでも来世に引き継がれるといわれますね。 ですから、そういう状況で苦しんでる人生があるわけです。 結局、自己完結ではないでしょうか。やったこと自分が受ける。決して自分がやったことからは逃げることが出来ないということでしょう。 科学の因果はわかりやすいですね。原因があるから化学変化が起こるわけで、その原因を変えれば結果も変わる。 つまり、幸福も不幸も、あなた次第で、不幸も行いを変えれば結果が変わり、幸福にかえていけるということがわかればいいと思いますよ。 例外があるといってる事態、信じない心があるんでしょうね。 信じようが信じなかろうが、そうなってるということです。 まぁ因果をわきまえないというのは、赤ん坊のようなものという事を聞いたことあります。 道理に反しても不幸になるだけでしょう。 まぁ、会社の金を横領すれば、会社首どころか、逮捕されます。それが因果です。原因は自分が作ります。 毎日ニュースでやってる事件などが 道理に反した事件だったり、そこにある原因と結果です。 ですから、会社などは、いい原因を作るために、お客などの対応を教育してたりするわけです。 教育で字や計算を教えないと、それすら出来ないのは当然です。ドイツ語だろうが、スペイン語だろうが、知るという原因がなければ話せないでしょう。多くの日本人がそれが話せないのは、逆に言えば原因がないからでしょう。まぁ、当たり前のことですね。 精神がおかしい考えがありますが、そういうことで反論したところで、正しいものは正しいし間違いは間違いです。 最近、おかしい考えや、事件がありますが、そうした基本になる部分を壊してることが原因だと思います。 まぁ、いい事をしていきましょうね。ということが、その人の人生を作るということです。 逆に、白を黒という考えは、逆に不幸をつくるとんでもない間違いで信じてもいけません。 白はしろで、黒は黒、悪いことは悪いことです。 社会の通念はそういうものです。 おかしい人は、それを信じようとはせず、逆に見えるんでしょう。 しかし社会の大半はまともな考え方のほうが多いです。基本的にそれを基準に、社会は回って維持されてると思います。
お礼
私の質問は単純に次の通りです。 >因果応報( 善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす)は本当のことですか。 >例外は沢山あるのではないですか。 因果応報の定義は(かっこの中に書いています)。 ご苦労様でした。
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
因果応報と云う言葉にすると少し話がややこしいので、その元に存在する言葉『因果をくらませない』と言う事で話をします。 普通人間は『自分は自分の全てを知っている』と思い込んでいます。ところが人間は脳の機能から言うならば、自分の事を半分以上判らないと云う言い方になると思います。 この意味は『自我意識が』身体も心も全て知っていて、更に、自我意識は全てをコントロール出来ると云う錯覚です。 自我意識が眠る能力を持っていると云う錯覚が『不眠症』の土台を作っています。自我意識には眠る能力はありません。その無い能力が在ると思って眠る事の努力する事が『不眠症』が治らない基礎になっています。自我意識には眠る能力が無かったと知る事が、不眠症の完治です。 神経症でも、鬱等でも全ての原因は今云った事によっています。つまり『因果をくらませている事』に相当します。 この問題の出所は『禅問答』です。 悟りを開いた人は『因果の世界に落ちるか如何か?』と云う問題の答えを、『悟りを開いた人は、不落因果と答えたために、何回生まれ変わっても、野孤に生まれる事しか出来なかった狐が、百丈と云う師匠に『如何答えれば,又人間に生まれ変わる事が出来ますか』と質問した事に拠ります。 百丈は『不昧因果』と答えます。『不落因果』との違いが分かる時、因果応報の本当の意味が判ります。自分の頭で考えないと解けない問題です。
お礼
私の質問は単純に次の通りです。 >因果応報( 善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす)は本当のことですか。 >例外は沢山あるのではないですか。 因果応報の定義は(かっこの中に書いています)。 ご苦労様でした。
お礼
ありがとうございました。