- ベストアンサー
因果応報と偶然、両方存在する?
- 因果応報と偶然が同時に存在しているのかについて考えられる。
- 因果応報を肯定する立場にとって、これらが同時に存在することは困難である。
- 皆さまのご意見をお聞かせください。
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
これは後から論理付加なんです。 普段悪いことばかりしている人間がいた。 この人が転んで骨を折った。 そのとき、この二つの間には別に関係はありません。いい人だって転びますから。だけど、あああの悪者が因果応報だな、と理屈をつけたらほっとしませんか。強制的な論理付加です。 こういうのに迷信がからまるのです。 たとえばがんセンターに務めると癌で死ぬというような都市伝説があります。 がんセンターの所長なんかをしている人でも死因が癌というのはありうることで、良く調べてみれば、別に癌になっていない所長もたくさんいるのです。 だけどその都市伝説が正しいというと世間を騒がせられますからそういう噂が高まるわけです。逆に「ハゲに癌なし」なんていう無意味な都市伝説もあります。 柳屋金語楼なんてあの頭で癌で死んだんですけどね。 要するに、そう思いたい、と思うともっともらしくなるのです。 因果応報というのはひとを苦しめたらばちが当たるぞと言う話ですから、支持を受けやすいし楽しいんですね。
その他の回答 (5)
- nijjin
- ベストアンサー率27% (4811/17774)
因果応報とは悪いことをすればそれが返ってくるし良いことをすればそれが返ってくると言う意味です。 しかし、世の中、良いことをしている人全てが必ずしもそれが返ってきてお金や運で恵まれることはありませんし 悪いことをしている全てが逮捕されたり破滅したりする事はありません。 死後、天国に行ける地獄に落ちるとも言いますが 結局は人生教訓や宗教精神における倫理です。
お礼
回答ありがとうございます。 ご指摘の通りです。 「人生教訓や宗教精神における倫理」 これに尽きると思います。
- 山田 太郎(@f_a_007)
- ベストアンサー率20% (955/4574)
【補足】 >《必然と偶然との関係をもって宿命論の破綻》を論ずる必要はさらさらない訳ですが・・・ この一文は、ちょっと舌足らずでした。 《因果応報という必然は、実際には存在しない。それは、人間のある種の想い、願いが作り上げた空想的な法則である。》という本質的な考察を抜きに、《必然と偶然との関係をもって宿命論の破綻》を論ずるのは如何なものかな? ということです。
お礼
>因果応報という必然は、実際には存在しない。それは、人間のある種の想い、願いが作り上げた空想的な法則である 私もそうではないかと考えます。
- 山田 太郎(@f_a_007)
- ベストアンサー率20% (955/4574)
Q、皆さまはどのように思われますでしょうか? A、言っていること中途半端ですよ。 【因果応報】 >前世における行為の結果として現在における幸不幸があり、 >現世における行為の結果として来世における幸不幸が生じること。 と、《因果応報》の理解が今一つ。 【必然と偶然との関係】 《因果応報=必然》だとすれば、その《必然と偶然との関係》についての認識も今一つ。 >必然は《必ず》偶然を媒介にして出現する。 ということ。加えて、 >現実の世の中は、偶然の連鎖という事象に満ち溢れている。 という事実を知るべし。 つまり、「前世の行いで我々の幸不幸が無条件・絶対的に決まるという宿命論は、《必然と偶然との関係》からして成立しない!」のは明らか。このような論理で考察すべきかな。 >同時に存在している場合には、(宿命論は)収拾がつかなくな(破綻す)る! この論理は、いいところを突いているが未熟。まあ、いずれにしろ、《因果応報<>必然》ですから、《必然と偶然との関係をもって宿命論の破綻》を論ずる必要はさらさらない訳ですが・・・。強いて拘って論ずるということは暇人のやること。あー、今日も、夕方までは暇だなー。
お礼
回答ありがとうございます。
- tanatosu1986
- ベストアンサー率18% (3/16)
議題における因果応報については、ないと思います。 ですが私は偶然とは本質的には必然であると考えています。 要は偶然とはいうものの、それは人にとって予想出来ない、なぜそうなったか理解できない事を指しているだけだからです。 人が偶然であると感じるものも、そのすべてを詳らかに出来れば、あらゆる事象は予想の範囲になり、それが極まれば必然でしかなくなります。 天気予報は未だ100%あてるのは無理ですが、すでに起こった結果に対して分析すれば何故そうなったのか理解する事くらいは出来るのではないでしょうか? つまり、その時の天候は「偶然」ではなく「必然」であったと言えるわけです。 ただし、気象学を収めていない人にとってはどこまでいっても偶然です。少なくとも必然ではありません。 人は自らの知る限りしか予想も理解も出来ず、だから偶然というものが存在してしまうだけで、全てを知り、予想できるのであれば世界は必然のみでできていると私は考えます。 ですので結論は「因果応報も偶然も両立する」です。 ここからは私の理屈が納得できない、偶然は存在するという立場の方に向けてです。 因果応報が「自分のしたことは、巡り巡って自分に必ず帰ってくる(しかも、同じ量が)」であれば、それとは別に良い運悪い運が人にはあると考えればいいのではないでしょうか? 別段議題の因果応報では、ざっくりいえば100すれば100返り、-100すれば-100返り「+-0」になるだけですので、それとは別に因果の関係なく、50貰えたり、50払ったりする部分を偶然だと考えれば両立するように思えますね。 この場合の因果応報は、やったことが返ってくるだけですから、自分とは全く関係ない災難が降りかかったり、予期せぬ幸運が降りかかったりしても矛盾しないように思えます。 因果応報が「+-0になる」というだけなら、それとは関係ない要因で超過しようが不足しようが因果応報は成立するからです。 この場合の結論は「やったことは自分に返ってくる(因果応報はある)けど、個々人の運次第で良いことも悪いことも別枠で起こる」でしょうか。 長文失礼しました。
お礼
丁寧な回答、ありがとうございます。 全てを知ることができれば、偶然は必然になる。 なるほどと思いました。
- agehage
- ベストアンサー率22% (2752/12073)
精神論ですので「ある/なし」の意味はないのです ではなぜんこんな言葉あるかというと、生きる方針を決める際の指針の一つと言いますか、生き方の教科書の一つと言いますかそんな感じではないでしょうか 「因果応報」の話を聞いて、そういう考え方いいな、そういう生き方いいな、と思える人が信じてる人、ということでいかがでしょうか 私個人は「ある/なし」はどうでもよいのですが、悪いことをしない戒めとして「信じている」派です
お礼
回答ありがとうございます。 確かに、悪いことをしないという戒めは大切です。 その行為に対して、報いが無かったとしても、やはり大切です。
お礼
回答ありがとうございます。 >そう思いたい、と思うともっともらしくなる その通りだと思います。