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人間に自由はあるのでしょうか?
自由という言葉としては、あるのですが、自由とは、対象がわかっている時に、対象に対してあるのであって、漠然とした対象にたいしては、対比するものがないので、対象に対する自由としか言えないのではないかと考えるのですが。本質的には、自由とは、限定したなかでのものなのではないでしょうか。どう思われますか。適切な答えをお願いします。
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時間とは自我仮説=階層現象表面的定性化であり、 それによって派生する存在的確定性の相補分化として、 可能性(自由)=空間的広がり=時空仮説は生じています。 全ての存在は、量子的な不確定性(確率波動)に基づい ており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになり、 無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、 認識体の仮定断面の運動(プランク定数hの収束の時系列化)を 想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光の 向うに、自我仮説の補完としての時空仮説=宇宙を認識する のです。 量子論的世界像では、有限な存在性は観測される事によって 生じています。 量子的な相補的不確定性を介した、自我仮説と時空仮説の 相補分化と、そこにおける、無の射影としての存在性。 (無の無限の闇に対する自我の射影) 全ては、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った) 補完なのです。 「対立する外的環境」とは、そうした物理を自覚化できない 短絡的自己に対する自己矛盾に過ぎません。 社会生命としての自覚化(愛)~自己の相補としての宇宙の 自覚化によれば、無限の彼方、永遠の未来において、予め 意志は果たされている=無限の自由(生自体による充足)は 可能なのです。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.10 繋がれている犬。満足も不満足もない、とする。自由の観念も不自由の観念もない。 空飛ぶ鳥もその通りとする。 鳥や犬の意識界からの経験と判断は別にして。 蟻、個体の蟻にもそういうものがない。ただ全体がそうであって、動いている。 同様に蟻の意識界からの経験と判断は別として。 我々は人間の意識界、個別にしてなお、関係的全体たる意識界にいる。 そして時に意識が差し向けられて、自由とか不自由とかいう観念が生じる。 人間など一切を含む全創造界の中の被創造たる客体対象である人間という存在。 かかる宿命的存在に終局究極の意志性や存在性があろうか。 そういう存在においては自由とは所詮は仮想でしかない。 東洋の宗教には解脱という類縁的言語が存在する。自己と人間たるものの宿命的存在性を脱していく精進であります。 類似的なヒンドゥ哲理を行じている私たちも、ときおりリバレーションとかの用語を使う。 創造界を超える自己性の回復のことであります。 人間など一切を含む創造界を蟻社会とすれば、この創造界を蟻社会でしかない、という実現をする認識と存在の行です。 それは創造の意志という、何もない世界の意志と存在の実現です。 つまりは自己の脱却という事です。自己というものが自由と不自由という仮想の一番の手品の種ということ、創造者(自己)の仕掛けです。 http://www.srf-tokyo.org/tokyo_group.php http://www.yogananda-srf.org/ 自由と不自由は概念の遊びです。
- punnpuku
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>本質的には、自由とは、限定したなかでのものなのでは そうですね。「法律を犯さない、他人の人権などを侵害しない(されない)範囲内」に限定された「自由」ですね。 殺人や強盗等、やりたいと思った事を全てやるのは「自由」ではなく「勝手」です。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
【自由とは、限定したなかでのものなのではないでしょうか】 限定したなかでの自由であれば、それをしも自由というのは人間たるものの悲惨な存在性ですよね。 自由、これは無限邸なんでしょうね。 それは自己を限定しないということも含めているのでしょうね。 だから自己を限定している存在性には自由ってないと存じます。 to freedom or from anything。 自己が自己である内は多分自由はないのかと存じます。それは人間ではないから。 自己が自己である内は自己ではないと存じます。 自己でない存在に自由はないと存じます。 ここのご回答の全てが正しいし大変示唆に富む話です。論理や知識ではなく生きることで宇宙から切り取っていくのが自由だと存じます。 参考:Self-Realization Fellowship http://www.yogananda-srf.org/ http://www.srf-tokyo.org/tokyo_group.php
- yamuha
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そんなに難しく考えなくてもいいんじゃないですか? 楽しければ自由。そうでなければ自由ではない。 これで十分だと思います。 初めての回答なので、お力になれなくてすいません。
- cincinnati
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>人間に自由はあるのでしょうか? まず、私ども人間が自由であるという時にしばしば自分がしたいことができることが自由であるとのべる傾向があります。しかしここで自由という言葉の定義を確定しておきましょう。 1)自分がしなければならないことが出来るときその人は自由を持っていると言えます。 2)自分の計画や欲望の奴隷となって自分のしたいことをのみを行っているときその人は不自由だと言えます。 例えば麻薬などの虜になっている人はしばしば心ではそのような悪癖から逃れたいと思っていますが、自分の欲望にまけて薬を手に入れてのんでしまうということが多々あると思います。この人はどこから見てみ自由を獲得していません。つまり薬を飲もうとして飲めるのが自由ではなく、飲めるけれども飲まないその力があるときに自由があるといえると思います。 >本質的には、自由とは、限定したなかでのものなのではないでしょうか。 対象が漠然としている場合の自由は検討の対象にするほどの問題ではないでしょう。それはエチケットとでも言える計らいごとに帰すると思います。また対象が明確な場合は対象が同様に自由を要求するものかそうでないかにより大いに変わりうるものだと思います。つまり限定されるものだと思います。 再び >人間に自由はあるのでしょうか? 私はプロテスタントのクリスチャンで、モルモン教、統一協会、エホバの証人とは関係ございません。またこの先は一クリスチャンの見解ですので、好まれない方は以下をお読みいただく必要はございません。 聖書には「真理はあなたを自由にする。」という言葉があります。また「私は道であり、真理であり、命である」とのべて十字架にて死んだイエスキリストの活動が記されています。イエスキリストは人々のために十字架で死ぬことを選ばれたというのが聖書の記述ですが、死を乗り越えることができるというのが聖書の語る自由なんだと私は思います。教育や経済や哲学などの追求だけではなかなか自由は手に入らないと思いますが、世界の歴史がこの方の誕生日と思われる日を西暦の最初の開始日としたことを持ってしても、イエスキリストの生涯とその死によって世界にインパクトを与えてきたイエスのなかには自由の手がかりがあります。
- ふじ-さん おたま-さん(@OtamaFJWR)
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>自由は自律的(自発的)と言われますが、自発的に自分が判断するには、そこに選択するべき状況があるわけですね。選択する状況も他から教え学んだものである以上は、自発的とは言えないではありませんか。言葉の概念の選択と言えませんか。 議論はひかえたいですが、回答として読んでください。 「他から教え学んだもの」であっても、ヒトという種族は、個体において、 「意志」を持ちます。これを「意識的」と言います。 ヒト型進化において、意志がある=意識的、であり、 意識があるからこそ「認識」できる。 つまり人は認識体であり、その相対として宇宙を持つのは、 量子論から明らかになっています。 つまり、この時代は、ヒト型進化からアリ型進化へと 移行しつつあるのです。 逆に「無意識」を考えてごらん。 アリやハチには個体に意識はなく遺伝子プログラムによって、 「反射的」に動いているに過ぎません。 さらに言えば、あなたがこの文字を見ている眼球の細胞単体は、 その自律性を犠牲にして、あなたの脳からの指示に従い、 反射的に動いているでしょう? つまり、我々多細胞生物は、全体としては他律的社会化として 存在しているのです。 アメーバ単細胞は、自律的だよね。あなたの眼球の細胞とは違う。 さて。階層現象性を人間個体に戻して考えよう。 全員が自律的社会行動をとる社会において、例えば、 明文化された法律など無くても犯罪は起きない。グローバルに 思考された脳が、己の欲望として犯罪は「損」と認識するからだ。 真に欲望の強い「強欲な世界」こそヒト型進化であり、 やりたい事が、仕事になり、遊びとの境界さえない。 「生きる」=「やりたい事をやれる」であり、自由(任意)である。 「任意な助け合い」こそ自律的社会化であり自由が保証される。 あなたは「任意な」状況に直面して、どうしますか? 反射的に動く場合もあれば、模索して考える場合もあるでしょう? 実は、反射的=任意でない=無意識的=宇宙を認識できない という意味です。 先生に叱られるから、掃除をサボらない、なんてのは、 まさしく、他律的だよね。 自発的(自律的)ならば、規則(他律的)など無くても、 掃除はマジメに行うでしょう。 自然界には「ヒト型進化(自律的社会化)」と「アリ型進化(他律的社会化)」 の2つがあり、どちらかが優秀ということはない。 ただ、精神的な充足を得たいならば、自律的社会化を選ぶべきでしょう。 意志の達成とその充足感の感受。 これらはアカデミック認証されていないけど、真実です。 「金のために働く」という現代社会において、それは、 金(他)に釣られて(困って)活動してるでしょう? この貨幣制度が4000年続いているおかげで、 実は、我々は、アリ型に移行しているんです。 だから、あなたのような「対象(他)」を語るのです。 そして自由を定義したがる。
お礼
ありがとうございます。まだ何かシックリこないのですが、参考にさせてもらいます。
- hyuuma8579
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本当の自由獲得したならば、束縛するものがなくならないとね。 不自由だからこそ垣根が存在するのです。 束縛や呪縛や拘束や垣根や限定や境界線がいっさいない世界を「自由」と呼ぶのです。 ただ、その自由を勝ち取るまでは、そういうものが存在するのです。 実際は存在しないのですが、不自由な段階で自由なことやろうとすると、それが障壁に感じてしまうのです。 たとえば、法やルールも決まりと考えるから限定された枠のように感じるだけのはなしで、自由を獲得した者からすれば、法やルールを破れと言われても、自らの自由意志で守ってしまうことでしょう。それが一番最高に楽で嬉しいことだから・・・それを苦痛や義務感で守ってるうちは、不自由でしょうね。
- ふじ-さん おたま-さん(@OtamaFJWR)
- ベストアンサー率11% (26/222)
自由を保証される、唯一の方法は、自律的社会化を実現すること。 「自律」とは後天的に経験から得たもので、未来を予測可能にすること。 しかし、皮肉にも、お金という矯正具で、人類は安易に人を 動かす道を4000年前に選んだのだ。 この道は「他律的社会化」といい、アリ型進化への移行を意味する。 「他律」とは、お金に困るから働く、人気があるから買う、 権威があるから従う、など他律的動機で活動し、自分から 自分の意志で「助け合いたい」(自律的)と思う気持ちは無い。 こうした社会進化の移行期に、あなたは生まれたのであり、 己を振り返ってごらん。 社会とは「助け合うために集まったもの」が定義として、 あなたは、自発的(自律的)に生きているか? それとも、他律的に生きているか?(ほとんどの人はコレ) 要するに、金のために、汗水たらして労働するか?or 人助けのために、汗水たらして労働するか?てこと。 山登りを趣味とする人を考えてごらん。(頼まれもしないのに行く人々) あれはね、自律的に登るという苦難を選んでいて、自由といえる。 自由には、達成感の感受というものが必須である。 「自由」は自律的(自発的)動機により、意志が達成する方向のことです。
補足
自由は自律的(自発的)と言われますが、自発的に自分が判断するには、そこに選択するべき状況があるわけですね。選択する状況も他から教え学んだものである以上は、自発的とは言えないではありませんか。言葉の概念の選択と言えませんか。
>本質的には、自由とは、限定したなかでのものなのではないでしょうか。 確かに行動の自由に関してはその通りだと思いますね。 強制や拘束や妨害といった概念がなかったとしたら、自由という概念もまたありえない。 また必然とか因果律といった概念がなかったとしたら、自由意志という概念もあり得ないでしょう。
「自由」ということを考えた瞬間に、自由と不自由が生まれるのではないでしょうか? 犬は繋がれていても「不自由」とは感じていないでしょう。 ただ、現状が嫌だとしか考えていないはずです。 空を飛ぶ鳥も、大空を舞いながら自由だとは感じていないはず。 魚も、猫も、虫も、精一杯生きているだけです。 生きる行為の中に「自由」と「不自由」を見出せるのは人間だけ。 「対象とするものに対して感じる自由」 「限定されたなかだけのも」 も、人間だから対象を選び、限定するのだと思います。 つまり、人間である以上永久に自由の中で不自由を感じるのではないでしょうか?
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お礼
ありがとうございました。難解な解答ですが、自分なりに解釈したいと思います。