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人間に自由はあるのでしょうか?

自由という言葉としては、あるのですが、自由とは、対象がわかっている時に、対象に対してあるのであって、漠然とした対象にたいしては、対比するものがないので、対象に対する自由としか言えないのではないかと考えるのですが。本質的には、自由とは、限定したなかでのものなのではないでしょうか。どう思われますか。適切な答えをお願いします。

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回答No.13

時間とは自我仮説=階層現象表面的定性化であり、 それによって派生する存在的確定性の相補分化として、 可能性(自由)=空間的広がり=時空仮説は生じています。 全ての存在は、量子的な不確定性(確率波動)に基づい ており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになり、 無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、 認識体の仮定断面の運動(プランク定数hの収束の時系列化)を 想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光の 向うに、自我仮説の補完としての時空仮説=宇宙を認識する のです。 量子論的世界像では、有限な存在性は観測される事によって 生じています。 量子的な相補的不確定性を介した、自我仮説と時空仮説の 相補分化と、そこにおける、無の射影としての存在性。 (無の無限の闇に対する自我の射影) 全ては、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った) 補完なのです。 「対立する外的環境」とは、そうした物理を自覚化できない 短絡的自己に対する自己矛盾に過ぎません。 社会生命としての自覚化(愛)~自己の相補としての宇宙の 自覚化によれば、無限の彼方、永遠の未来において、予め 意志は果たされている=無限の自由(生自体による充足)は 可能なのです。

kanto929
質問者

お礼

ありがとうございました。難解な解答ですが、自分なりに解釈したいと思います。

その他の回答 (12)

  • houduki
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.2

自由は一定のルールの上(つまりはルールを守っていれば自由という意味で、ルールの外とも言える)に成り立つとも、ルールの中のものとも言えるでしょう。 どちらを選べばアナタが楽に感じるか、ただそれだけだと思います。それと、自由とは何かしら対象がなければ成り立たないものですか? 一人でボーッとするのも自由な時間ですよ。

  • rockz
  • ベストアンサー率18% (10/53)
回答No.1

拘束する物があって、始めて、それに対しても、自由という言葉があるから… というか、何を拘束するものと考えるかで、そこに自由が生まれると思います だから、漠然とした事実だけには、自由も不自由もないと思います

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