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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《ひとり》は 独立個人を意味し得るか?)
日本語においての「ひとり」と「われ」の意味
このQ&Aのポイント
- 日本語において、「ひとり」とは独立個人を意味し得るのか疑問です。
- また、「われ」とは、「おれとおまえ」という内側の関係性個人を意味するのかも疑問です。
- さらに、孤独でありながらも独立した個人が「ひとり」という言葉で表現されるかどうかも考えるべきです。
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質問者が選んだベストアンサー
難しいご質問ですが、自分なりに、できる範囲で、回答してみます。 現代の日常用語で一番使うのは「独り暮らし」だと思います。 またニュースなどで「孤独死」などで、意味的に「独り」が出てきますね。 「落ちこぼれ」や「仲間はずれ」は、無縁死した「3万2千人」も含まれるのかな。 >これらの人たちにしか 歴史知性としての個人は いないか? この意味がよく理解できませんでした。 「歴史知性としての個人」は「歴史上の有名人」という意味かな。 現代の学問において「アカデミックな認証」は「様々な説」「その個人の説」のように表現されます。 しかし、「アカデミックな認証」を目標として生きていない「天才」も存在します。 例えば、私は「サヴァン症候群」の一種で「途中計算ぬきで正解を見つけ出せる」と自覚しております。 (私の場合は、思想哲学的分野での話ですが。。。) よって、私は、ある意味、天才であり、かつ、精神病なのです(能力偏向の大きな個性=自閉症圏)。 独断的推測ですみませんが、次代の歴史を切り開くのは、その時代の「アカデミックな認証」から 外れた個人である場合が多く、50年後に、やっと「アカデミックな認証」がなされたりします。 また、最近の例では、親元にひきこもり個人でプラネタリウム機器を開発したら、 知らない間に、世界一の機器を製造していた、という例が日本でありました。 その人の場合は、急に有名人になりNHKにも出演しましたが、ご本人は、いくら世間から褒められても、 嬉しいとは感じないようです。 なぜなら「自分の可能性への欲望」で生きているので、他律的評価に全く興味が無いのです。 さて、回答は、こんなところでよろしいでしょうか。。。
お礼
ご回答をありがとうございます。 まづおぎない直します。趣旨説明の最後の最後において ・ただしい:いても そうあり続けがたいか? ・まちがい:いても そうありがたいか? ☆ さて世の中の内側の真ん中にいる人びとにとっては 歴史をとおして――ただつぎの局面に何が起こるかといったあたらしさではなく 人間にとっての生活と真実がたしかなものとなるような民主主義としての趨勢における――あたらしい時代を見とおす力は のぞみがたい。つまりその意味で 覚醒した知性――そういう意味で使いました――は 居がたい。居つづけがたい。 こういったご回答内容として受け取ってよろしいでしょうか? 次の用語に舌足らずがありましたので それをも見なおします。 ○ 歴史知性 ☆ すでに上に触れましたが つぎの事情で唐突に用いました。それは 近代人の理性に目覚めた個人と言いたいところですが あまりにも語弊があるだろうと見たので 別の語として用いたというものです。 自由意志の持ち主として ふつうの人間を指します。 さて質問者からの反応とお応えです。 ★ 「アカデミックな認証」 ☆ これは――つまり 学問において既成の定説に挑むようにして提出された新説が あらたに定説として認められるようになることは―― それほど特異な現象ではないと思います。言いかえると いまここでの主題である《歴史知性としての〈ひとり〉》と《歴史知性ではありながら その姿勢をつらぬきがたくなった〈われわれ〉の中の一人の〈われ〉》との違いや如何?とは 微妙に視点がちがうように思えます。 つまりは 後者の《世間のならわしにどっぷりと浸かった関係性のみから成るような個人》も いちおうあたらしい定説になるような学問上の業績を残すことがあるとは思えるのです。 つまり――口はばったい言い方になりますが―― ★ しかし、「アカデミックな認証」を目標として生きていない「天才」も存在します。 ☆ というような言い回しをなさるなら むしろほんとうは独立個人としての歴史知性を保ち続けている《ひとり》であるのに・それにもかかわらず じつは《世の中の・あたかも互いにもたれ合うかのような〈われわれ〉の中に・その世間相場としての認証をむしろ自分から要求している》ように聞こえます。 そういう欲求は誰しもまぬかれないとは思いますが そういう場合には わが新説があたらしい定説たることをのぞむ・いやいやそこにとどまらず世の中の常識になるという自負がある と言ってしまえばよいのではないでしょうか? ★ その人の場合は、急に有名人になりNHKにも出演しましたが、ご本人は、いくら世間から褒められても、 / 嬉しいとは感じないようです。 ☆ そういう特殊な人は もう放っておきますが ふつうなら堂々とわが考えはあたらしい常識なりと言っていればよいのではないでしょうか。 ★ なぜなら「自分の可能性への欲望」で生きているので、他律的評価に全く興味が無いのです。 ☆ 自己表現というのは しばしば自分の向き合っている相手(あるいは世間一般)の考えや慣わしを自分ではそれに対して批判し否定していると思っていても しばしば自分の中にまだなお残っているということがあり得ます。 というよりも ふつうの人間ならけっきょくは自分がかわいいのです。自律・独立は 他律ないし人びととの関係性の側面を排除しません。意地きたないところもあります。あたらしい社会の創造にとって排除しなくてよいのではないですか? 少なくともそのことを無理に否定しようとすることはないと考えます。 ★☆ 他律的評価にも興味がある ☆ と言っていいのです。それでこそ 独立個人の《ひとり》であるのではないでしょうか? われわれは神ではないのです。神でないから あたらしい世界を築くことが出来るのではないでしょうか? 神でないから 神からそのような力をさづかることが出来るのでは?