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プラトンの国家論から
プラトンのDramatic poetry の議論では、プラトンが、どのようにDramatic poetry が危険であるという結論を出しているのかわかりません。 誰か教えてください。
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そこには、論理性がなく、根拠もなく、ただただ、人を情動的に動かすからです。 簡潔に言えば、プラトンの考えはこのようなものだったと思います。 ギリシャ時代の詩は、それを書いた者ですら、その意味を理解していない場合も多く、不確実。(私はそうは思いません。ギリシャの詩人を、ギリシャ的な論理的立場で問えばそうなりますが、詩人の立場は、それを理解することというよりも、根拠が詩であるのだという、全認の立場でもありえるからです。実際には、自分の詩を、詩人は全認もしていなければ、誤認もしていない、詩に対して中間的でかつ、俯瞰的な立場、詩のありかに詩人もある。そういう立場であると推測します。) また、当時の詩がもっていた社会的地位というようなものは高く、何故それがそうなのか?を、問う意味すら受け付けないこともしばしば。 その無条件性を揶揄したのではないでしょうか。 しかし、論理性ですら、それを理解する人は、当時は少なかったはずであり、現代も、地域により、論理教育のないところには、論理は生きていません。 結局、論理的意味を持つか、詩的意味を持つのか、またその両方+αか、そのどれでもないのか、人の納得が伴うのは、人それぞれだといってしまえばそれまでですが、少なくとも、プラトンの批判は、「論理性を重視した立場からの詩性批判」であり、詩人は、根拠のないことを言いまくる、無責任な才能だけでモノをいう人間ということであり、詩性を重視する立場からすれば、プラトンは、歩みの遅い、細かいこと、それだけ切り抜けば全く機能しない言葉ばかり言う、ただのプラモデル熱中家(無論、なんのプラモかといえば、目標は真理のプラモデルを組み立てること)という風にも、見えないこともないでしょう。 結局は、どちらも、論理の能、また詩の能というものを得ているだけであり、詩性が主流を占めていた(そうである理由を問わない無条件の受け入れ)ギリシャ時代、哲学者達が論理性を捲き熾した事は、歴史的には非常に重大な意味を持つでしょう。 祭事や儀式で、精神的な充足はあれど、病は治らないのです。 必要とされるべくして、哲学者(論理派)達は現れたとも見れます。 もちろん、詩人が消えたわけではありませんが、政治などの表舞台からは消えていきました。 しかし、同時に神殿などの建築物は、ギリシャ以降、芸術性からは遠ざかっていきます。(当時の神殿、政治の場は、詩性により成り立っていたからです。) 詩と論理の関係をついでに少し語るなら、 詩は、時に論理の稼動範囲を飛躍的に伸ばします。 論理ではすぐに見えないものを目前に提示することで、発想の飛躍を行います。論理が活動する土地を与えます。 論理は、時に、詩の誤解を大幅に軽減します。 もともと、当時の詩は、一般的には理解するものではなく、それを知ることであり、既に完結しているという姿勢を持っていたと思われます。 デルフォイの神殿の信託、「汝自身を知れ」 これは詩性の言葉ですが、ソクラテスの知性を飛躍させたもので、非常に意味深いものです。論理は、(当時における)真なる知へのとっかかりを、詩性で得たのです。 しかし、詩性は、嘘に対して無防備であり、逆に、論理は嘘を見抜けます。 詩性に、嘘というものは前提にないからです。 それはそれ。論理でもって、詩性に言えることはこれしかありません。 全ては詩であり、詩の語る意味も、その詩そのものであるのです。 (詩を、只の論理で語ると↑のようになります。) 論理は真実に到達するまでに、階段を作りながら上っていくという姿勢、むしろ、何処に真実があるか分からないので、とりあえず歩いて地図をつくろう。という感じなので、いつまでも歩いていなければならないし、その視野は非常に近いものです。論理が発展するまでに、数千年かかった理由はこれです。 近代、やっと、地図が使い物になる程度まで来たということです。 それに対し真性の詩は、無時間性による完成形を持っているのであり、それはそのままで、論理性の最終到達地点を具現します(それが真実であるという根拠はその詩以外に提示できない。詩という現実があるだけ)。それは地図ではなく地点、その場所そのものであり、非常に現実的です。ただし、それを外部から見ることはなりません。その詩性が捕らえた風景を、写真に収めることはできないのです。 そこに、二点はないのです。 それに対し、論理は架空です(地図だから)。 ようは、両方使えればいいという事で、両者は対立するものではなく、補い合うものであるという見方が、投げ遣りで意味薄に感じられるかもしれませんが、一般的で、蛇足もない、一つの見方ではあるでしょう。 また、論理性、詩性以外にも、全く別で、かつ言葉である重要な知性のモードはあってもおかしくなく、それは何かというと、、なんなんでしょう。ちょっとすぐには答えれそうにないですね。 論理と詩性のMIXというのは既に実現しているでしょうが、一般的ではないでしょう。
お礼
丁寧な回答ありがとうございます