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プラトンらは 哲学を分かりやすく書いたか?
たたき台は 次のパスカルの議論だけになり しかもそれが断片的になるかも分からないのですが 表題について考え 問います。どうでしょう。 ▲ (プラトンらの哲学とは) ~~~~~~~~~ (あ) プラトンやアリストテレスといえば 学問というたいそうな服を着せてでなければ 人は考えつかない。 (い) もちろん かれらは ふつうのまじめな人間であった。友と笑いながら話をかわす ほかの人びとと変わりない。 (う) 気が向いて『法律』や『政治学』をものしたというのは わざわざ そう楽しんだのである。それは 生活の一部であって 哲学がもっともお留守になった時間 どちらかといえば ふざけに近い行為なのだ。 (え) かれらの流儀で哲学の時間とは ただ静かに過ごし 生きるときである。 (お) 政治について書いたというのは ちょうど気ちがいの病院に規律をあたえようとしてであり むずかしいことを語っているように書いたのは その気ちがいの人たちというのが 自分たちを王であり皇帝であると思い込んでいるそのことを知っていてなのである。 (か) かれらのあたえた原則は これらの人の狂気をやわらげ 最小限度の悪にとどめようとするためであった。 (パスカル:『パンセ』 断章331) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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『パンセ』の日本語訳は、bragelonneさんのものですか。文脈に合はない表現を一点。プラトン『国家』、アリストテレス『政治学』は、遊びで書かれた、とパスカルは見てゐますから、「むずかしいことを語っているように書いた」といふのは奇妙です。 「重大なことのようにそれについて語った」 (前田陽一・由木康訳 中公文庫 218ページ) 「重要事についてでも語るような」 (津田穣訳 新潮文庫 上212ページ) フランス語では「une grande chose」ですから、この2冊の翻訳が適切に思へます。
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回答番号3,4のplapotaです。コメントありがたうございました。いづれにしても、原文は「大きなこと」といふ意味であつて、「わかりやすい」とか「むづかしい」とかいつた、このたびの質問とは無関係に思へます。話し相手が王や皇帝を気取るなら、それに合はせて「大きなこと」のやうに書いた、といふことで私は何の不都合も感じません。この質問文では回答不能ではないかと考へましたので、投稿いたしました。あとは閲覧者のみなさんが各自で判断なさればよろしいことです。おそらく回答番号1のtrytobeさんもそのあたりの不自然さを感じとつたからこそ、そのやうな投稿をなさつたのでせう。 引用は、アリストテレスの蛸壺についての文章のやうな適切なものを選ぶべきです。
お礼
ご回答をありがとうございます くどいかも知れませんが なお次のように意図のありかをしめしたいと思います。 ★ 話し相手が王や皇帝を気取るなら、それに合はせて「大きなこと」のやうに書いた ☆ 《「大きなこと」の や う に 書いた》のではないと思います。まさに《大きなこととして・大問題だとして》書いたのだと考えます。 ただしその姿勢としては お遊びのごとくであった。 その語り口としては? ――どうなのでしょう? 《気むづかしさ》を醸し出すようにして ではないかという見方です。成り立ちませんか? ★ 引用は、アリストテレスの蛸壺についての文章のやうな適切なものを選ぶべきです。 ☆ これは 問題が違います。そういう問題点を捉えたということでしたら このパスカルのプラトン観やアリストテレス観について 批判を述べていただければよいわけです。 ★ 話し相手が王や皇帝を気取るなら、それに合はせて「大きなこと」のやうに書いた、といふことで私は何の不都合も感じません。 ☆ ということでしたら・つまりその見方が妥当であるとしたなら それでもそのときにも プラトンらが哲学を《みなに分かりやすく書いた》という結論にみちびかれるというわけではない。となります。 その背景を考慮しなければならないとしたなら その文章は決して《分かりやすい》ものとは言い難いことになるでしょう。 どうでしょう。
回答番号3のgesplatapoです。訂正。 [誤] プラトン『国家』、アリストテレス『政治学』 [正] プラトン『法律』、アリストテレス『政治学』
お礼
承知しました。
- kazamidori365
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プラトンとかもしかして新プラトン主義とか書いたからわかりにくいといっているのですか? アウグスティヌスをよく引用するブラジュロンヌさんなら新プラトン主義とかわかるのでは? ~~~~~~~~~~~ 西欧・西方教会[編集] アウグスティヌスの思想的影響は西欧のキリスト教(西方教会)にとどまらず、西洋思想全体に及んでいるといっても過言ではない。 アウグスティヌス自身はプラトン・新プラトン主義(プロティノスなど)・ストア思想(ことにキケロ)に影響を受けていた。すでにギリシア教父はギリシア思想とキリスト教の統合に進んでいたが、アウグスティヌスにおいて新プラトン主義とキリスト教思想が統合されたことは、西洋思想史を語る上で外すことができないほど重要な業績である。またラテン教父の間にあったストア派ことにそれとともにマニ教のでもある禁欲主義への共感を促進したことも、キリスト教倫理思想への影響が大きい。 アウグスティヌス https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B9 ~~~~~~~~~~~ >この「ネオプラトニズム」という言葉は、19世紀の シュライアーマッハー以降、文献学により、プラトン自身のオリジナルの教説と後世の追随者の思想とが区別して捉えられるようになって初めて生まれたものである。 ネオプラトニズム https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%AA%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0 ~~~~~~~~~~~~ まぁ、これなどは、日蓮の言葉を切り貼りして、禅宗の問題点のみを記載したものといえる。だが、問題はその日蓮本人が「禅宗」として批判している対象は、現在の曹洞宗や黄檗宗を指さない。そもそも、日蓮は当時の曹洞宗(正確には道元禅師)を知らなかったと思われるし、江戸時代に来た黄檗宗についてはなにをかいわんや、日蓮が知るはずもない。 日蓮正宗法華講に要注意 http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/bf87be26fad06dce17cc286712f8bfab ~~~~~~~~~~~~ 新プラトン主義協会 http://www.las.osakafu-u.ac.jp/~yosyam/JSNS.html ~~~~~~~~~~~~~ お金がないというあまりに現実的な理由により シャンカラの不二一元論をいつになったら研究できる日が来るだろう。 ただしシャンカラならば仏教の影響から禁欲ではなく智慧なのだろうが。 それからやはり新プラトン主義である。 三位一体の聖霊の問題である。 私はいつまでもこんなところで馬鹿げた話をしているわけにはいかない。 仏教でかなり時間を無駄にしてしまった。
- trytobe
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「相手に分かってもらえるように配慮した上で書いた」 というほうが適切でしょう。 わかりにくい概念でも、論理構造も含めて読み返せばかみ砕いて分かってもらえる、という「推敲」を繰り返して磨き上げた論理の粋を記そう、という「読む人への配慮」はしている。
お礼
ご回答をありがとうございます。 パスカルの見たように: ▲ (う) [・・・]哲学がもっともお留守になった時間 どちらかといえば ふざけに近い行為 ☆ であったとしても ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 「相手に分かってもらえるように配慮した上で書いた」 というほうが適切でしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という見解ですね。 ★ 「推敲」を繰り返し[・・・]「読む人への配慮」はしている。 ☆ のだと。 まぁ それはそうでしょうね。独り言や他人に見せない日記や手記ではないでしょうから。 と 冷たい見方をされても まだ仕方がないように結論づけていませんか? つまり 例証もないとなると まだ そのとおりだとも何とも判断がつかないのですが それではちょっと片寄りすぎた応答になりましょうか どうでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 翻訳の問題についてですね。 ▲ (お) 政治について書いたというのは ちょうど気ちがいの病院に規律をあたえようとしてであり ≫むずかしいことを語っているように書いた≪ のは その気ちがいの人たちというのが 自分たちを王であり皇帝であると思い込んでいるそのことを知っていてなのである。 △ (前田陽一訳) (お) 彼らが政治論を書いたのは 気違いの病院を規整するためのようなものであった。 そして 彼らが ≫いかにも重大なことのようにそれについて語った≪ のは 彼らの話し相手の気違いどもが 自分たちは王や皇帝であると思い込んでいるのを知っていたからである。 ☆ 意図を説明します。 《気違いの病院を規整するためのようなもの》としての政治論の語り口が 《いかにも重大なことのようにそれについて語った》というのは 奇妙ではないでしょうか? もし《話の対象としてねらわれた人物たちが 精神錯乱に落ち入っている》としたら 《「重要事についてでも語るような」》語り口では 合わない。まさに《重要事として語っている》のでしょうし しかもそれは《(う) 気が向いて[・・・]わざわざ そう楽しんだのである》と知られます。 だとすれば 《むずかしいことを語っているように書いた》という読み方は ひとつの可能性としてあり得る。と思ったのです。 ――これが 意図です。 どうでしょう。