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空海

空海は具体的に何を説いたのでしょうかよくわかりません 興味があります よろしくお願いします

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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>空海は具体的に何を説いたのでしょうかよくわかりません 回答から述べますと 「真言宗密教」で「南無阿弥陀仏」を唱えれば、誰でも死ねば「仏」になれる・・・と説きました。 804年、空海31歳のとき、遣唐使船で中国に渡った。その船団で最澄も入唐。最澄は国家公認の僧であったのに対して、空海の身分は定かではない。留学生(るがくしょう)と言って20年にわたる長期留学を命じられていたが、空海は806年には、早々に帰国をした。しかし、この短期留学の間に、膨大な密教の経典や仏像、仏具類を集めて持ち帰っている。 空海は、唐の都「長安」の青龍寺(しょうりゅうじ)で恵果(けいか)から密教の伝授を受けた。それは、伝法で秘匿されてきた仏の真理が明かされ、特定の修行者に限って伝授される秘法であった。 密教はインドの大乗仏教の後期、本格的には7世紀に、「空」(くう)の瞑想を軸にしヒンズー教の「神秘主義」の影響を強く受けて誕生したもので、壮大な儀礼の体系をもつ仏教であった。 空海はその根本経典の「大日経」(だいにちきょう)を修行時代に奈良で読んで感銘を受けたと言われるが、儀軌(ぎき=儀礼の定め)や法具類が整わず、日本にはまだ密教が伝わっていなかった。空海はそれを唐に求めた。 834年、空海は「吾(わ)れ永(なが)く山に帰らん」と弟子たちに告げて、翌年、高野山で入寂、62歳であった。 空海の「密教」は、護国の修法を旨としながらも、即身成仏(そくしんじょうぶつ)という独自性を持っている。 つまり、人々の祈りを基本とし、死ねば誰でも「仏」になれる・・・と説いたのです。 それは、人間と仏は合一(ごういつ=一体化)しうるという確信のもとに生まれた思想であり、その後の日本仏教の底流となった。 人は誰でも仏心(ぶっしん)を持つとか、死ねば誰でもが「仏」になれるという考え方の大きな原点が、空海の即身成仏の思想である。 (よもやま話) 809年、空海は京都の高雄山寺(たかおさんじ、神護寺・じんごじ)に入る。翌年、平成上皇(へいぜいじょうこう)と嵯峨天皇の一大抗争事件(薬子の乱・くすこのらん)が起こり、空海は高雄寺で国家鎮護の修法を行う。以後、空海は嵯峨天皇や貴族たちから支持されるようになった。 812年、最澄ほか比叡山の僧、貴族らに灌頂(かんちょう=密教伝授の儀礼)を授ける。 819年、金剛峰寺と名づける伽藍建立に着手した。 823年、嵯峨天皇から東寺(とうじ、教土護国寺・きょうどごこくじ)を与えられ、そこを都における真言密教の根本道場に定めた。 828年、東寺の隣に綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開設する。それまで日本には都の大学、地方の国学のほか、藤原氏の勧学院など、貴族の学校はあったが、綜芸種智院は日本最初の庶民のための学校であった。

souichi02094
質問者

お礼

「真言宗密教」で「南無阿弥陀仏」を唱えればを含めたうえで 死ねば仏になれる と説いたということでしょうか。。。あてずっぽうですいませんm--m 密教ということは規模ではなく範囲にといたのでしょうか なんかとても興味深いです。^^