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空海の帰国

テレビで空海を放送していたので、見たのですが、二つわからないところがありました。それは、① 空海が修行している際に、日本の天皇が空海の早期の帰国を望んでいるということを誰が伝えたか、ということです。当時、殆ど無かった日本と中国の交通の便を考えると不思議でした。一体、誰が伝えたんでしょうか? それと② 空海は、中国の新しい皇帝を祝うための日本からの船に便乗して帰国したらしいのですが、その中国の新しい皇帝に関する情報は、日本にどのような経路で伝わったのでしょうか?

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  • D-Gabacho
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回答No.3

①桓武天皇は最澄にはなるべく早く帰国してもらいたかったでしょうが、空海の早期帰国は望んでいなかったはずです。短期留学の還学僧として派遣された最澄と違って、留学僧の空海は20年間みっちり学ぶという前提で派遣されています。空海が遣唐使判官高階遠成に提出した帰国申請の理由も留学の滞在費が尽きたというものです。また、空海は806年10月に帰国したものの、朝廷が入京を許可したのは809年7月で、入京が許可されなかったのは帰国が早すぎたためだと考えられています。 ②徳宗皇帝の崩御と新帝(順宗)即位は805年1月に起きたことです。空海と一緒に入唐した遣唐大使の藤原葛野麻呂らが帰国の途についたのは805年5月です。新しい皇帝に関する情報は805年7月に帰国した遣唐使からもたらされ、それを受けて新帝即位を祝うための遣唐使(高階遠成)が直後に派遣されたと考えられています。 <参考> 空海 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7 遣唐使 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF

tahhzan
質問者

お礼

そういう経緯があったんですか。やはり、遣唐使だったんですね。なるほど。よくわかりました。ありがとうございました😊

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その他の回答 (3)

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2327/5177)
回答No.4

>一体、誰が伝えたんでしょうか? 誰も、伝えていないでしようね。 俗にいう「異人伝説・逸話」でしよう。 聖徳太子(今では、存在を否定る説が多い)伝説と同じです。 聖徳太子伝説・逸話も、死後120年後に誕生した日本書紀が初めてですから・・・。 ※推古大王(天皇)即位を確実にする目的(正当性)で、厩戸皇子を聖徳太子と看做したとか? ※蘇我一族の功績も、聖徳太子の功績になっています。^^; ※天皇の称号は、天武天皇が最初。それまでは、大王。 >中国の新しい皇帝に関する情報は、日本にどのような経路で伝わったのでしょうか? 遣唐使船です。 意外と、歴代中国王朝とは定期的な交流を持っていました。 唐とは、高句麗・新羅・百済との関係で一時期交流が停止しましたが。 余談ですが・・・。 遣隋使派遣の返礼として、隋の使節団(団長。ハイ・セイセイ)が日本に来ました。 この時の記録(隋史)には「倭国の王は、男だった。妃の為に後宮があった。王の前で国書を読み、王に国書を渡した」とあります。 推古大王(天皇)は「男」だったのでしようか? それとも、(最近有力視される)蘇我一族が大王だったのでしようか? 645年の変は、蘇我政権に対するクーデターとの説もあります。^^;

tahhzan
質問者

お礼

隋の使節団ですか。それは、全く知りませんでした。来たんですね…なるほど。意外でした。ありがとうございました😊

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  • eroero4649
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回答No.2

中国と日本との間で直通のルートはなくても、中国と朝鮮半島の間では交易や人の行き来は盛んだったでしょう。そして朝鮮半島と北九州の間での交易や人の行き来も盛んだったでしょう。北九州と大阪の交易や人の行き来も盛んで、大阪と京都の交易や人の行き来は盛んだったでしょう。 そういう手順を踏めば、徐々に情報は伝達していくものです。いわゆる伝言ゲームですね。 またスパイと娼婦は世界最古の職業だということですから、そういう情報網もあったということですね。これは何も日本のスパイが中国にいたというわけではなく、朝鮮王朝のスパイが中国にいれば情報は行くでしょうし、日本のスパイが朝鮮にいれば情報が手に入るでしょう。

tahhzan
質問者

お礼

朝鮮半島経由ですか。なるほど。確かに、近いので、可能性はあったでしょうね。なるほど。よくわかりました。ありがとうございました😊

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回答No.1

>一体、誰が伝えたんでしょうか? 平安時代から鎌倉時代にかけて、日本と宋(中国)の間で行われた貿易を「日宋貿易」といいます。 日宋貿易では、交易品のほか「情報」や「情勢」も遣り取りされ、お互いの国から「間諜」も派遣されていた筈です。

tahhzan
質問者

お礼

そういう経緯もあったんですね。なるほど。ありがとうございました😊

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