すでに回答したものです。
論理的根拠がほしいのであれば、私の回答は少し異なるのかも知れませんが、「子供に」という部分がポイントだとするならばこの問いにたいする考え方は異なると思います。
質問者さんは義務教育程度の知識を持つ、と述べてますが義務教育程度の子供であるからこそ、「殺していい理由はなにか?」ということがいかに曖昧か、独善的かということに感じてくるのだと思います。
結局、世の中の善悪というものは根源をたどれば絶対的な基準というものは存在しなくなってしまう。仮に、私の両親が株で一生懸命戦略をかんがえて儲けたお金で私をそだててくれたとしたならば私にとって「善」かもしれませんが、株で破産して路頭にまよった親に育つ子供にとっては、株というマネーゲーム上での「悪人」となるのかもしれません。一般的に殺人という行為も「法律で禁止されているから」といいますが、それなら「死刑制度」は「善」なのか?という議論もあるわけです。結局、善悪の概念というのは究極的には一部の民族、人民、極端には個人にたいする主観的なものとになってしまう可能性もあるわけです。前提をかえせば「殺人=悪」という社会を作ったのもまたその時代の人間の価値観に依存しているにすぎないのです。
それでは、「いけないことなのではないのか?」と言えば必ずしもyesではありません。人類数千年の歴史のなかで、かつては人殺しが行われていた。それがいつか「人権」という共通概念がうまれ、人殺しそのものがいけないのではないか、とかんがえるようになった。論理的根拠はともかく、また個人の考えはともかく「人が人の命を奪うこと=そのような権利はない」ということを「美徳」とする概念が生まれたのだと思います。その概念というのは、実はもろいものだったりもするのでしょう。だから、宗教や信念などという超人的なものとしてある意味神格化することで、「いけないものと」と信じ込ませているのかもしれません。方法や理由はどうであれ、ぞれらは「より良い社会を造ろう」という人類の努力の末の結果のように思います。
話が少し飛躍してすみませんが、要するに「殺人が是か非か」という問いに正解はありません。ただ、人間の長い歴史のなかで、「多数決で決められるもの」「たとえ少数でも越えられない価値のあるのもがあるのではないか」という議論が生じてきたのだと言えるでしょう。それが、あるいみ「命」だったりするわけで、そういうものを敬うこと、「人権」を守るという方向に世の中は動いているように感じます。それは、ほかでもなくその時代を作っている一人一人がどのような社会を望むか、どのような社会であってほしいかというものが根底にあるわけです。つまり「ひとをなぜころしてはいけないか?」という問いの答えは、誰かに言われるものではなくてその人自身がどのようにあってほしいかというものが答えそのものだと思うのです。それが、子供にとっては自分の未来の社会の在り方につながりますよね。
中学生が質問する=つまり社会の決められたルールに反発する年頃なので、ただ漠然と存在するルールに反発するだけでなく、それが生まれた理由を自分で考えた上で、将来的に変わらなくてはいけないものかどうか自分の住む未来を考えていくこととが重要なのではないかと思います。究極的にはそれが答えではないかと。