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なぜ人を殺してはいけないの?

子供に「なぜ人を殺してはいけないの?」と聞かれたとき、 どう答えるのが最良でしょうか。 なおその子供は義務教育(中学校卒業)程度の知識は持っているとします。

みんなの回答

  • pupurr
  • ベストアンサー率18% (129/704)
回答No.39

 どうしてそんなこともわからないのかわかりません。  一度死んだら、生き返らないから  自分がもっと生きて楽しみたいというなら、ほかの人も同じ思いです。  自分が殺されたくなければ、ほかの人も同じ思いを持ってます。  されたくないことをしてはいけません。  これに反抗するのは、心無い詭弁です。心にうそをつくのは自己欺瞞です。  一度死んだら、生き返らないから  取り返しがつきません。  だから大事にするんです。大事にしても、やがて寿命があり、生きてる時間は、限りがあるからです。  大事にしましょう。  そんな事、言えないんですか?  

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  • larme001
  • ベストアンサー率44% (271/608)
回答No.38

すでに回答したものです。 論理的根拠がほしいのであれば、私の回答は少し異なるのかも知れませんが、「子供に」という部分がポイントだとするならばこの問いにたいする考え方は異なると思います。 質問者さんは義務教育程度の知識を持つ、と述べてますが義務教育程度の子供であるからこそ、「殺していい理由はなにか?」ということがいかに曖昧か、独善的かということに感じてくるのだと思います。 結局、世の中の善悪というものは根源をたどれば絶対的な基準というものは存在しなくなってしまう。仮に、私の両親が株で一生懸命戦略をかんがえて儲けたお金で私をそだててくれたとしたならば私にとって「善」かもしれませんが、株で破産して路頭にまよった親に育つ子供にとっては、株というマネーゲーム上での「悪人」となるのかもしれません。一般的に殺人という行為も「法律で禁止されているから」といいますが、それなら「死刑制度」は「善」なのか?という議論もあるわけです。結局、善悪の概念というのは究極的には一部の民族、人民、極端には個人にたいする主観的なものとになってしまう可能性もあるわけです。前提をかえせば「殺人=悪」という社会を作ったのもまたその時代の人間の価値観に依存しているにすぎないのです。 それでは、「いけないことなのではないのか?」と言えば必ずしもyesではありません。人類数千年の歴史のなかで、かつては人殺しが行われていた。それがいつか「人権」という共通概念がうまれ、人殺しそのものがいけないのではないか、とかんがえるようになった。論理的根拠はともかく、また個人の考えはともかく「人が人の命を奪うこと=そのような権利はない」ということを「美徳」とする概念が生まれたのだと思います。その概念というのは、実はもろいものだったりもするのでしょう。だから、宗教や信念などという超人的なものとしてある意味神格化することで、「いけないものと」と信じ込ませているのかもしれません。方法や理由はどうであれ、ぞれらは「より良い社会を造ろう」という人類の努力の末の結果のように思います。 話が少し飛躍してすみませんが、要するに「殺人が是か非か」という問いに正解はありません。ただ、人間の長い歴史のなかで、「多数決で決められるもの」「たとえ少数でも越えられない価値のあるのもがあるのではないか」という議論が生じてきたのだと言えるでしょう。それが、あるいみ「命」だったりするわけで、そういうものを敬うこと、「人権」を守るという方向に世の中は動いているように感じます。それは、ほかでもなくその時代を作っている一人一人がどのような社会を望むか、どのような社会であってほしいかというものが根底にあるわけです。つまり「ひとをなぜころしてはいけないか?」という問いの答えは、誰かに言われるものではなくてその人自身がどのようにあってほしいかというものが答えそのものだと思うのです。それが、子供にとっては自分の未来の社会の在り方につながりますよね。 中学生が質問する=つまり社会の決められたルールに反発する年頃なので、ただ漠然と存在するルールに反発するだけでなく、それが生まれた理由を自分で考えた上で、将来的に変わらなくてはいけないものかどうか自分の住む未来を考えていくこととが重要なのではないかと思います。究極的にはそれが答えではないかと。

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回答No.37

 なぜ人を殺してはいけないと、思うのでしょうか。  なぜそう思ってしまうのでしょうか。  なぜ?  執拗に我慢できないような嫌がらせをされたら、殺してしまいたいと思うようなことがあっても、それでも通常は、人を殺すようなことをしてはいけないと思っているものです。  なぜ?  理屈を学んでから?  学んだから、そう思うようになったんですか?  

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回答No.36

 No、19です。  そうですね。殺し合いは動物界では、獲物、天敵で当たり前のように起きていますし、未熟な社会でも、戦争、虐殺、テロなど、よく起きています。そういった社会ではもしかすると、「なぜ人を殺してはいけないの」という疑問すら出てこないかもしれません。人間も動物の一部なので、家畜は殺すし、窮地に陥った時や、正当防衛ではある程度社会的に容認されることもあります。  そんな中で「定型的」な答えとしては、そういう殺し合いが普通にあると、(近所にそういう人が一人まぎれこんでいるらしいという情報だけでも)とても安心、信頼の中で生活できなくなるので、何とかみんなで知恵をしぼって、そういう「バトルロワイヤル」的世界から脱却しようとするのが、人間の人間たる特徴であり、自分がどうなってもいいから殺したいという人は、もはや人間性が破たんした状態である、という認識、説明でいいような気がします。  が、よくよく考えると、こんな質問が頻繁に出てくる理由は、日本が、戦後、憲法9条でひとりも戦争で人を殺していない、まさに理想主義的に生きざろうえないことへの、素朴な疑問かもしれないと思い始めています。(普通の人殺しはさまざま起きてしまっているのに)  これがもし普通に軍隊を持ち、普通に国連での任務などで戦争に参加とかしていれば、国民的認識として当たり前のように「殺し合いも時と場合によるんじゃないの」で終わる話かもしれません。だとすると「人を殺してはいけない」はまさにこの国に戦後課せられた重い「理想主義的な十字架」としてのテーマかもしれません。  

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  • freulein
  • ベストアンサー率39% (94/237)
回答No.35

殺してはいけないとの「うすうすの申し合わせ」だけが根拠です。全ての徳目の根拠が「うすうすの申し合わせ」で出来ています。明瞭な理由はありません。根拠がないものだから良いとされる行為と悪いとされる行為との境界線もあやふやであることにお気づきでしょう。「うすうすの申し合わせ」の背景には「それなりの理由」がるだけです。そして確実ではないけれども「それなりの反撃」を食らいます。  これら徳目すなわち価値基準が必要とされる理由を考えます。社会と隔絶して暮らす場合には、人には徳目は不要です。人が社会生活を送りたいと決めたときには、自分が皆と共通の価値基準を持っているとの態度を示す必要があります。そうでない人を社会が受け容れてくれそうにないことはお判りでしょう。このような理由から社会生活を送る基盤としていくつかの徳目がうすうす採用されているわけです。  お子さんへの回答は「皆に嫌われるから。またその結果自分が苦しむから。また決して尊敬されなくなるから。」ではいかがでしょうか。  

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noname#131233
noname#131233
回答No.34

くっさいひとがいます。臭くない人もいます。 その人がなぜ臭くないかと議論しても、その人の「くさっ」さは、治まりません。 臭い人に近づくと自分も臭くなります。大事なのは、臭い人は自分を清めること。臭くない人は、臭いもの・ひとに近づかないことです。 なぜなら、臭さは、腐敗微粒子の実体です。その腐敗が自分の中に吸入・吸引され、自分も「くっさ」さに取り込まれることになるのです。とりこまれた人は、自分の臭さに気づきません。意識を高めることが、自分の臭さに気づくための第一歩です。 心地観経によると仏教では、「殺すも殺されるも地獄の業(趣意)」といって、臭さ(殺害の関係性)に縁しないことが、臭くならない秘訣であることを説いています。(さらに臭さの原因は、忘恩であるとのこと)

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.33

「どう答えるのが最良か」は後ほど考えることにして、まず、 「なぜ人を殺してはいけないのか」について私見を述べてみたいと思います。 端的に言うと、 「殺すという行為は、殺す人間に不利益をもたらすものだから」です。 しかし、殺さなければ、それ以上の不利益を蒙ることが確実であるような場合もあります。 この場合は、「殺してはいけない」という論理は(基本的には)適用されません。 主に、正当防衛などの場合です。 こういった場合を除き、なぜ不利益をもたらすのかについて、以下に述べます。 まず、人は経験を記憶する動物である、ということがあります。 さらに、記憶した経験を元に思考、思惟する動物です。 野生動物も記憶するでしょうが、彼らの場合は、あくまで本能的な欲求、必要性のみに関連して記憶します。 個体における本能的欲求の領域は「エス」と呼ばれることがあります。 野生動物は、このエスに生じる、言ってみれば快感原則のみによって行動しています。 このエスという快感原則を抑圧する勢力としての超自我、及び、それら両者のバランスをとって統合する役割を持つ自我と称されるもの。 これらを持つようになったのが人という種です。 これらを持つようになったからこそ人という種が誕生した、とも言えるかもしれません。 人は、その形態として、「~したい」という快感欲求だけで全て満足できるようにはできていません。 むろん、それだけで満足することもありますが、「殺したい」という欲求の場合は当てはまらないだろう、ということです。 殺すという行為・経験は、当然ですが記憶されます。 「私は人間を殺した」という記憶です。 それは、単に記憶されるだけではなく、精神的作用の土台の一部として活用されるべく、常に脳内に待機する状態が継続することになります。 思惟・思考に伴ない、想像力という機能も人は持ち合わせています。 「わたしは人間というものを殺した」という記憶は、 →「わたしも人間である」→「わたしも殺されることが可能な生き物である」という(おそらく無意識的な)連想につながるはずです。 殺したわけではなくとも他者の死を忌む傾向が強いのは、これと同じような理由からでしょう。 快感原則としてのエスは、「殺したい」と主張し、 それを抑制する役割の超自我は、「快感原則のままに走ってはいけない」と主張します。 調整役としての自我は、エスの主張を一方的に認めるか、あるいは「やむを得ない」という判断を下して殺すという行動方針を決定したとします。 自我はとりあえず何らかの選択を迫られます。(この選択ができないと神経症につながります) この場合、先に述べたような、 「わたしも殺されることが可能な生き物である」という連想が可能になること、及び、それがどのような影響を自らの精神に及ぼすのか、ということについて、自我は、つまり、わたしたちはあまりにも無知だと言えるでしょう。 他者を殺すということは、想像力を持ってしまったわたしたちにとっては、自分自身も殺される可能性があるということを明確に、自己認識させる行為以外のなにものでもない、とわたしは思います。 それは、まさに、自分の存在が拠って立つ基盤が、如何に危ういものであるかを強調する行為となるはずです。 また、人は、ある部分においては、本能からの脱却を指向する存在であるということがあります。 誤解を怖れずに言ってみれば、快感原則を超克するということを、必須の命題として人間は背負わされているように思うわけです。 「殺したい人間を殺すのは何のためか」と言えば、究極は、「すっきりしたい」ということに尽きるはずです。 つまり、殺したいという快感原則を全うするために殺すわけです。 超克できなかった、という後悔は、超自我を持つ人間にとっては、少なくとも無意識領域に深く印象づけられることになるでしょう。 先に述べた、 「自分自身も殺される可能性があるということを明確にしてしまう」ということと合わせて、この2点が殺してはいけない大きな理由になるとわたしは考えます。 これらは、言ってみれば負の記憶として、その後の精神に作用せざるを得ないからです。 冒頭に述べましたが、正当防衛のように「不利益をこうむっても良いから殺さざるを得ない場合」はあると思います。 また、「(社会的制裁などの意味とは別に)不利益をこうむっても良いから殺したい」という考えに至る場合もあることでしょう。 これは、正当防衛の判断が難しいのと同様で、その是非は一般論で述べることは難しいと思われます。 しかし、「他者を殺すと自らの不利益になる」という基本的事実は、人という精神的生態を考えると否定できないように思われます。 「殺したという記憶があなたの将来を歪めてしまうから」といった感じでしょうか。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.32

おじゃまします。 最近読んだ本で、それに類似した議論がありました。 <大勢の命を救うために1人が犠牲になるのはいいのか。> 実際の例があげられた。 ・船で漂流していて食べ物が無くなり、一番弱った人の命を奪ってその人を食べて生き延びた人達が救助され本国に戻った。 ・アフガニスタンでタリバンの潜伏先を奇襲するために軍隊が山を移動していたら、ヤギ使いの少年と出くわし、その場で殺すか開放するか考えたあげく開放した。 何故開放しないほうがいいと考えたかというと、少年にタリバンに通報される可能性があったから。 その後、タリバンの奇襲にあい部隊の多くの兵隊は死んだ。 あなたならどうするか というこういう議論がハーバード大学の哲学の講義で行われた。 面白いのは、命に価値について天秤で量ろうとする行為。 例えば船で漂流した時に1人を殺して生き延びた事件について。 殺された少年の家族より、少年を食べて生き残った人の家族の方が多いので、不幸の数でいけば少年1人が死んだ方が嘆く人が少ない とか 少年が将来社会の貢献したであろう価値より、少年を食べて生き残った人達が後に社会の貢献する価値の方が大きい。  とか 同意があったのであれば殺してよかった とか。 あげくに多数決で殺すことが可決されたのだから、多数決の民主主義では正当だった とか。 論理で人の命を決められるというのか と思った。 論理で言い負かして多数の人にぐーの音が出ない論法を用いれば、殺人は正当化されるのか と。 殺人が正当化されることがある。 例えば死刑制度のある国。 例えば戦争で民間人ではなく、兵士だった場合、殺人の罪に問われない。 例えば爆弾犯が人質をとって立てこもり、爆弾を押しかねない状況だった場合、狙撃者が犯人を射殺する。 日本の平和ボケした3人組みがイラクで人質になり、日本政府は日本の将来と引き換えを迫られ、両方を救出してみせた。 韓国の平和ボケした牧師がイラクでキリスト教を布教しようと行ってテロリストに拘束され、命乞いするビデオが全世界に流れ、韓国政府は要求を呑まず、牧師は首を切断された。 家族は政府からのお悔やみの花束を破壊してテロリストにではなく韓国政府に怒りを爆発させた。 韓国政府は平和ボケした身勝手な1人の韓国人より、身勝手ではない韓国国民の命の方が尊い という判断だったのかも。 (日本政府のように裏ルートで救出するというパイプを持っていなかったのかもしれませんが) 和辻 哲郎氏は何故人殺しをしてはいけないのか というと、共同体に対する最大の裏切りが殺人だから と言っています。 考えてみればそうです。 人は1人で生きているわけじゃない。 共同体という中で生きており、商品に毒を入れて売る店じゃないと信用するから買うし、信用するからダイヤに合わせて電車に乗るため家を出る。 時には毒餃子を販売されたこともありますが、中国の製造者が毒を入れたと知らず、中国人を信用して日本の企業は買い取ったわけで。 我々は意識 あるいは無意識に、相手を信頼し、他人の信頼にこたえようとしている。 信用社会の構成員なわけです。 小さな裏切りは頻繁に起こる。 例えば学校に行きたくなくて、「行きたくない」と正直に言わず仮病を使って親をあざむき学校をサボったり。 親と交渉せず、親の財布からちょろまかし、知らない と言ったり。 校則を破ったり、遅刻したり。 こういうのは信頼の裏切りで、発覚した場合 小さな制裁を受けるが、信頼で成り立つ共同体から追放されることは無い。 信頼の最大の裏切りは、通りがかりの人を殺すなどの行為。 お互いを信頼しているから安心して共同体内で暮らしているわけです。 その信頼を裏切る行為が通り魔殺人。 盗みをされたからといって、人は外に出なくなりはしない。 だけど、毎日通り魔が行われていたら、他人を信頼できなくなる。 家庭内でだって、包丁を持って追い掛け回す家族がいたら、もう家庭にいられないでしょ? 翌日も朝が来ると実際体験していなくてもわかるように、家族は自分を殺さないと信頼しているから暮らせる。 自分の所属する日本という共同体内では、他の国のように人を殺さないと信頼している。 中国のようにいつ公安がやってきて、強制収容所にいれるかわからないという不信の共同体では日本は無いわけです。 お互い保障しあうことで成り立っている共同体に対する最大の裏切り、破壊行為が殺人。 ということを考えると、死刑制度や戦争による殺人は、共同体に対する裏切ではないので、罪だとされないのではないかと。 とはいっても穢れですけどね。 ふぃー。

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.31

>この質問で子供の知識を中学校卒業程度と明記したのは、皆さんにこの理論だった説明を考えていただきたいという意図があります。 そんな無茶な。現在の人間の程度で考え付くような論理や理屈では、この世界のことも、また人間のことも、ほとんど何も解ってはないとを皆も百も承知しているからこそ、大発見だ、ノーベル賞だ、何とか賞だと言って毎年皆が大騒ぎしているんでしょう。この世の中、理論だった説明で理解出来るほど簡単には出来ていないことはことは、大人になりゃ誰だって知っているはずだ。実際、理屈や論理なんて、経験に比べたら足の爪の垢ほども当てにならないって言うことは、中学生や高校生程度の未熟者以外は皆知っているはずですよね。大人になるとは、そもそもそう言う現実の世界を知るようになると言うことなんだから。だからこそ、目から鱗が落ちるっていう言葉に説得力があるんだ。 戦争で、自分の同胞を守るため、自分の身を守るためと言いながらイラク人やアフガニスタン人を殺している今のアメリカの兵隊さんのどれだけ多くが、毎日自殺したり、精神的におかしくなっているか、ご自分で調べてご覧なさい。貴方が、本当にその答えを知りたいのなら、いくら論理だ理論だと述べ立てても無駄だと思います。殺す側か殺される側か、孰れにしてもその当事者になって経験をなされば、そのとき目から鱗が落ちて、きっとご自分でその答えがどこにあるか解るかも知れませんよ。 だから、子供には、人を殺すことは、嘘をついたり、物を盗むのがいけないように、いけないことだとだけ言って置きなさい。そしてその子供が、殺したり殺されたりする当事者になって、貴方の質問の答えを本当に体で解るようにならないことを祈っておいて下さい。

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回答No.30

自分のサイトに書いたものですが、それが一般的に通じるものか確かめてみたいので書き込みます。 なぜ人を殺してはいけないのか? それは『後悔するから』。 後悔したとき、許しを与えてくれる者はもう存在しないのだから、人を生き返らせることができるようになるまでは殺人はしないほうが良いだろう。 (たとえ死んだ者の身内や恐山のイタコや神への懺悔によって許しが得られたとしても、それは完全な許しとは言えず、どこかで自分で自分を肯定しなければならなくなる。その我執は自由を損なうことになる) もし後悔しなかったら、それは自己に固執しているということで、それは狂気に陥る。 精神の狂いとは、知ることの、精神の成長の拒否だと思う。 (一つのこと(例えば自己の思想)にこだわるのが狂気であり、逆に知ること・聞くこと(つまり「他者」)は選択肢(自由)を広げることになる。ゆえに他者は有益) つまり、人を殺した場合、後悔するか、狂気に陥るかの二択になる。 根本にあるのは「自分こそ最も大切だ」という考えではないでしょうか。 さらに「自分」を「肉体」と「精神」に分けた場合、たとえ刑罰を受けるとしても自分の感情こそ(肉体よりも精神)が最も大切なのでしょう。 それなら、後悔するか狂気に陥るか、そんな勝ちのない二択へ自分(精神)を追い込むのは愚かです。 また、戦争における殺人やテロリストを殺すこと、または正当防衛の場合、後悔することがないのだから、この場合は「殺してはいけない」とはなっていません。 そもそも「法」とは、古代からの叡智で、転ばぬ先の杖だと思う。 これまでも幾多の人が「しないほうが良かった」と言っていることを、わざわざやってみるというのは子供じみた行為です。

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