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公の意識・義務の意識を強調しない教育による社会の影響
- 現在我が国の教育では権利ばかりを教えて義務の意識が強調されていないという意見は随分前からあるようですが、これにものの原因を安易に求める人っていませんか?
- 公の意識・義務の意識を強調すること自体は個人的には反対ではありません(ある程度までは)。
- しかし、根拠のない主張や関連性のない話を出されることは信じがたいものです。
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質問者が選んだベストアンサー
ご質問のことよりもっと幅広い回答となりますが、 「人間はステレオタイプで物事を判断することを好むようだ」と常々感じていました。 「美人は小さい頃からちやほやされて、わがままな性格になる」「美人は小さい頃から周りから優しくされるから、ひねくれない。性格が良くなる」 どちらも、なんとなくもっともらしいですよね。 「金持ちと貧乏人ではどちらの心が美しいか」という命題でも、同じようなことがあります。 政治に対して「国民の目線で」と言うときは、「貧乏人は善良である」というステレオタイプを使って主張します。 一方、派遣村の騒動のようなときは「ダメな奴が自己責任で貧乏になったのだ」と決め付けます。 要するに、自分の都合や気分で使い分けているのだと思います。 ではなぜステレオタイプで判断することに、人々は走るのかということですが、 ひとつには「楽だから」ではないかと思います。 ステレオタイプで判断するときに「悪者探し」がよく行われるように感じます。 「こいつが怠慢で強欲で馬鹿だからこんな問題が起こるのだ」と決め付けると、そのキャラクター設定に基づいて「物語化」され、 歴史的な背景や関わる組織・人物の背景や性格などを知らなくても、「分かったような気分・満足感」に浸れるからではないでしょうか。 また一つには、「自分に都合が良いから」。 自分の都合に合わせて、どうとでも話をこじつけられます。 このことを無意識のうちにわかっていて、思考を選択しているのではないかと思います。 もう一つ、これが案外大きい理由ではないかと思うのですが、「他者批判が快感だから」。 ご質問にある例のような主張は、言ったからといって別に、言った人にメリットがあるわけではないですよね。 となると、ただただ「気分がいいから」言ってると思います。 例のような主張している人は、日教組を叩きたい気持ちの人が多いのではないでしょうか。 人間は「仮想敵」に対して気分が高揚する性質があるようです。 たぶん生存競争のための本能で、他者より優位であると感じることに快感を得られるとか、 敵を倒すことに快感を覚える仕組みが、脳にあるのではないでしょうか。 政治家や公務員、あるいは特定の国の人などを決め付けて叩く行為、 あるいは生意気な芸能人などのニュースに高揚する様子などは、こういった本能が潜んでいると思います。
お礼
ありがとうございます。 ステレオタイプによる批判だったわけですね。 いつかステレオタイプや”敵”が変わる事もあるのかもしれませんね。