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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:思い込みから、逃れることはできないか?)

思い込みから逃れる方法は?

このQ&Aのポイント
  • 人間は思い込みに囚われている。
  • 事実を正面から見つめることが解放への道。
  • 哲学は思い込みから逃れるための強力な武器。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.49

 No、23の方に近いのですが、たぶんものの見方には2種類あって、思索的に見るか、感性感情的にとらえるか、そのうち、感情には絶対性があると思っています。「痛くない、痛くない」と言われても、「痛い!」と感じたら、それはもう「痛い!」が正解です。感じたことは疑いようはありません。みんなが「あの映画はおもしろかったね」と言ってても、自分が「つまんない」と感じたら、「あの映画はつまんない」で当人はいいと思います。(「つまんない」と叫ぶかどうかは別問題ですが・・・)  それに対して、ものの考え方には確かに、思い込み、すりこみがあると思います。そしておっしゃるように、狭い思い込みを訂正して広い視野にたとうとすることが重要で、「相対化」といわれています。  ただたぶん人間はしょせん思い込みから逃れることは無理で、最初の典型的思い込みは、親の価値観をそのまま真に受けるということだと思いますが、ある時期、親離れの頃、本当にその価値観でいいのかと疑問を持ち始めると、今度は違う価値観を求めて、原点探しや、哲学者に求めたりすると思うのですが、やはりいずれにしても今度は今までの狭い親の価値観とは違う、広い視野を持った人の考え方を信じたり、必要とせざろうを得ないのではないでしょうか?(他力ですね)「自分が信じるのはこの哲学者の考え方だ」と本気で思える思想に出会えない限り、いわゆる根拠のない、堂々巡りと、エネルギー消費を繰り返すだけの不毛な作業に終始すると思われます。  個人的には、まとまった考え方を持っている人達に、その思想的根拠、原点があるのかないのか、それを求めたこと、求める必要性があるのかないのかを質問したいくらいです。

その他の回答 (49)

noname#132831
noname#132831
回答No.19

 ♯4です。お礼コメントありがとうございます。  僕の文章は、僕が知らないということもありますが、哲学の一般的な言葉の使用法ではありません。二元論的と書いたのも、両極端の線分上のどこかに位置するように状態を認知するという人のクセをあらわしたもので、デカルトの二元論とは関係ありません。  デカルトの視点は、当時のスコラ哲学に対する不満足とか、ルネッサンス期の自然科学の進展とか、そういうキリスト教と科学の狭間で生まれたものだと思います。単にその言葉だけでは読み取れません。方法的懐疑によって偏見をそぎ落とせば真理に近づけるという発想は、今日の科学的思考法として定着しています。結局、デカルトは「人のやり方が良さそうだからと言って、飛びついてはいけません」、「自分の頭で吟味しなさい」と言っているのです。     ただ、それだけでは不十分だという批判も可能です。この世は不確実な情報ばかりです。自殺者増加の原因もそうですが、他人の心の中も、自分の心でさえ「こうだ!」と断言できないのです。人が思い込みを持つには、メリットがあるからだと思います。たとえば、誰かから嫌われたり恨まれたりした時、『何故なんだ?』と原因を考えずにはいられないでしょう。それは、外界に対処しようとする人間の持つ本能的な反応だと思います。些細とも思える他人の思い込みを是正しようとしても、なかなか上手くいかないのは、その思い込みが、その人の心的現実を構成していて、それを崩せば連鎖的に他の心的現実も訂正しないといけなくなるからです。   http://homepage1.nifty.com/gatagoto/1BanHome/Sc/1banhom005.html   http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/deai/013kizoku.html  マインドコントロールされている人は、自分が操られているということに気付きません。自分は理性を持って、主体的に判断していると思っています。しかし、これは私たちにも一部言えることで、お正月には初詣をし、クリスマスにはケーキを買って祝います。葬儀のしきたりにも従います。なぜそうするのかと問われても困ります。一から十まで自分で考えて行動し、世界観を構築している訳ではないのです。それが普通です。西洋の哲学では、人間は他の動物と違って、理性を持ち、神から選ばれた存在です。たいして、仏教では人間も動物の一種であす。しょせんは御釈迦様の手のひらの中で飛び回る孫悟空です。完全なる主体性は持ちえないとされます。

noname#136007
質問者

お礼

  回答ありがとうございます。 色々検証した結果、僕も思い込みから逃れられないという結論に達しています。 だから、その意見に反論はありません。 ただ、思い込みを減らすことはできると思っています。 じゃ、どうすればいいのか? それが、今回の質問スレッドを立ち上げた最大の理由です。 >お正月には初詣をし、クリスマスにはケーキを買って祝います。葬儀のしきたりにも従います。 これは、思い込みとは違うと思います。 葬儀のしきたりは(仮定の)きまりの様なもので、ある一定の文化の上にある社会のルールの様なものだと思います。 そのルールに従う事で、社会を潤滑に過ごす事が出来るものだと思います。 思い込みとは、ルールの様なものではなく、自分の言っている事は正しいする、根拠の怪しい信念の様なものだと思います。 繰り返しますが、思い込みを減らす方法はあるのか。 あるなら、どうしたらいいか? と、聞いています。  

回答No.18

思い込みは単一方向からの着眼ではないでしょうか? 例えば 1)リンゴを書いてみてください・・ 2)違うリンゴを書いてください、と言われたらどうですか? しかも、3つ以上と言われたらどうですか? もし書くこと出来れば思い込みは解消できるでしょうね 色々な見方が出来るか否かに関係があるのではないでしょうか? 見方が変われば世界が変わる 生き方も変わるし自然と考え方も変わるのでは? でも自分で変わる意識をしないと変えられないかも・・・・。

noname#136007
質問者

お礼

  回答ありがとうございます。 りんごの絵を3枚以上描く話では、思い込みから解放される所まで持って行くのはつらい感じがします。 りんごのたとえではなく、実際の、「政治は国民のために行われている。」等の思い込みの例を用いて検証されてはいかがでしょうか? >でも自分で変わる意識をしないと変えられないかも・・・・。 ここを考えると、問題の解決に強く近づく感じがします。 詰めて考えられては、いかがでしょうか? 勝手な事を言ってすみません。  

  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.17

「思い込み」=「感情移入しているもの」ですね。 単に快不快とした感情移入している価値を 採用した根拠を示せるならば もはや疑う必要もない(=哲学者)です。 しかし、哲学者は常々執着(探求の反語)しないよう訓練しています。

noname#136007
質問者

お礼

  可能な限り、思い込みから逃れるにはどうすればいいでしょうか? の解を求めています。 >哲学者は常々執着(探求の反語)しないよう訓練しています。 が、答えでしょうか? 具体的に、どう訓練しているでしょうか? 教えてくれると、嬉しいです。    

回答No.16

 ◆諮問文:   通常、人間は思いこみに縛られています。  ◇投稿者:“通常”ということば表現はずるいと思いました   通常”ではない事態があるのですか?それをご存じなのですか?  ◆諮問文:   政府や警察が国民や正義の為に動くというのも思い込みです。  ◇投稿者:これは思い込みですか。私はそんなことを思っても居ませんよ。だれが思っているのですか?それや法律的、国家的当為命題として存在することでしょう。  事実がこの命題に反する事は誰しも予測しているから、法と国家そして社会の当為としているのでしょう?  ◆諮問文:   自らの組織の利益のために動く場合もあります。   「人に迷惑をかけてはいけない」という、価値観が善というのも、思いこみかもしれません。  ◇投稿者:善なる価値観とは自己にも善なのではないですか。   無論“自己”って何だの問題がありますが、そのことを措いて、自己に善なることに反することを禁ずることはどうして思い込みかもしれないのでしょうね。  自己の思いや存在意識に思い込みという思い込みから、不安を抱く観念は古来多くの方がお持ちでしょう。  人間と自己のそういう存在性の中で、人生と歴史が歩まれてきて居ますね。  逃れられるかとい訊かれれば、それができないのが人間であると思います。  そして意外とその思い込みが人や人々と合致していたり、させたりしていますね。  そしてそれがどうかという真理性などの評価は別とならざるを得ないのが、事実というより、宿命であろと存じます。  だからといって、開き直ることも決して許されない存在形式が人間でしょう。  つまりは質問は古来万人が抱いてきているが、成立はむろん、回答もありえないことだと存じます。  でもそこを何とかしたいと思って古来、万人が努力してきていることでしょう。  個性と個性的意識、そしてその紡ぎ構成する認識経験世界のヴァラェティを創造主は自己の中に知覚経験しながら、永遠の至福の、永遠の存在にいるのでしょう。  それは同時に私達なんですね。  ご不満ですか。それなら、自己自身の存在根源にいって、クレームを申述してみたらいかがですか。  というのが私達、Self-Realization Fellowship(http://www.yogananda-srf.org/)or(http://www.srf-tokyo.org/tokyo_group.php)が説いているところです。  まぁ宗教的探求の教えですが。  そんなのいやだっていうなら、いつまでもみなさんと議論したり、ご自分でご勉強をすることになりますかな。

回答No.15

>思い込みから逃れる方法 「自分は思い込みしていない」と思わない事です。 世界を構成する存在(確率的有限性)が、階層現象表面的な定性化 =思い込みによって生ずるものである以上、「思い込みから逃れる」 事などできない、と言えます。 ただ「思い込み」が、「思い込みで錯覚する」というニュアンスなら、 それが錯覚であると自覚し、錯覚のメカニズムを把握すれば、それで 穴に落ちることはないのです。

noname#136007
質問者

お礼

  素朴な疑問です。 >思い込みから逃れる方法 >「自分は思い込みしていない」と思わない事です。 と、具体的な方法に言及しています。2行後、 >「思い込みから逃れる」事などできない、と言えます。 と書いています。 最初出来るといい、次に出来ないと言って言う様に受け取れるのですが、どっちでしょうか? それから、以前psytexさんは、質問には回答しないとの書き込みがありました。 これは、思い込みから発生する、考えではないかと思うのですが。それはどう思いますか? これも、回答しないという思い込みから、無視するのかな~?  

noname#123390
noname#123390
回答No.14

ずっと実利の世界で過ごしてきた私などは、一般的に人間がどんな動機でどんな行動をとるかということにかなり熟知してきたという自負がありますが、結局限定された世界の内での経験であれば、それもすべてに通用する見方にはなりえないのでしょう。彼らは欲得づくの動機以上に、主として個々のプライドで動いていると鷹をくくってきましたが、そういったことも広く解釈すれば「思い込み」の一種なのでしょう。世の中には非常に研ぎ澄まされた純粋の原理だけで動くひとたちも存在するのかもしれません。 ごく常識的に考えれば、ひとつの事象に「客観的に」対処するには、つねにそういった2面性からあたってみるという態度が必要なのだと思います。 長い間、高名な著作家に心酔していましたが、そのひとつの反常識的(で魅力的な)主張にも、更にまた別の見方があって、それを支持するひとびともまた少なくないという事実を最近知り、混乱しているこのごろです。偶像が墜ちるのを数知れず見てきた私ですが、要諦は、やはり常に何かを固定的に信じるということでなく、いつも多角的に物事を見、考えてていく、面倒がらずに好奇心を絶やさずいろんなことにバイアスのかからない(と自覚できる)視線をひからせていくという態度を継続していくしかないのではないでしょうか。一人の人間がとれる立場は限られていますし、隠されて見えないものもまた多いのです。完璧ということはありえないのですから。 まったく哲学的ではない常識的で平凡な意見です。

noname#136007
質問者

お礼

  >要諦は、やはり常に何かを固定的に信じるということでなく、いつも多角的に物事を見、考えてていく、面倒がらずに好奇心を絶やさずいろんなことにバイアスのかからない(と自覚できる)視線をひからせていくという態度を継続していくしかないのではないでしょうか。 それは、そうだと思います。 問題は、具体的作業が難しい。 どこから、手を付けていいか分からない。 という点だと思います。 実際、 >いつも多角的に物事を見、考えてていく、 と言う事が出来るでしょうか。 何しろ、多角的と自分で思っていても、それも、独りよがりの思い込みかも知れないわけで、 偏った方向の数点から見ている場合もあるわけですよね・・・・ もっと、具体的な作業に帰着で来る様な、方法はないだろうか? それは、哲学することなんだろうか? と、悩んでいる所です。  

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.13

思い込みから逃れられれば何かを手に入れられると考えているなら それも思い込みの一部なのではないかと思ったのでちょっと質問してみました。 自殺に関しては雇用・経済環境が主因とは考えにくいと思えるのです。 なぜなら、景気の良かった1980年ごろでさえ年間2万人の自殺者が出ています。 確かに自殺のトリガーは病気や失業でしょうが、銃口を常に自分のこめかみに向けているという事が問題だと私は考えます。だから日本人はなぜ銃口を自分に向けたがるのだろうかと思うのです。 >色のついた言葉は、それだけで、思考を誘導し、思い込みに至らせる危険があると思います。 これは私のいつもの手法ではあるのですが、ここは哲学のカテゴリですので私は哲学好きの人たちに質問を投げています。だからこのくらいのバイアスは屁とも思わない人たちであってほしいです。 まぁこれも私の思い込みで、中には本当に哲学に興味あるのかしらと思える回答者さんもいらっしゃるわけですが。

noname#136007
質問者

お礼

  >思い込みから逃れられれば何かを手に入れられると考えているなら >それも思い込みの一部なのではないかと思ったのでちょっと質問してみました。 その疑問は解消されたでしょうか? 思い込みから逃れれば、何か手に入れられるか?は、 哲学で何か手に入れられるか?と同じ問いだと理解しています。 哲学で何か手に入れられるか?と問われれば、次の様に答えます。 哲学で何か得られるかも知れないが、何か手に入れるために哲学するのではない。・・・と (また、この様にも考えます。 哲学は何かを得るためにするのではない。多くを失わない為にする。・・・と) たとえて言うと、 子供が、父に向かって、 「空は、なぜ青いのの?」と聞きます。 子供は、何かに役立てるため、そう聞いたのではないと思います。 ただ、疑問に思ったから、知りたかったから、純粋に知的疑問として聞いたと思います。 数学にしてもそうです。 難しい数式を解明、証明したその数学者に、 その証明は、何の役に立ちますか?と、聞くシーンが本を読むとよく出てきます。 僕が、印象に残っているのは、 「分からない。数100年後に役に立つかも知れない。」と答えた点です 同じように、答えた例を多く知っています。 数学者も、何かに役に立つと言うより、証明されていない問題を純粋に知的対象として解きたいという衝動から、解いていると思います。 >これは私のいつもの手法ではあるのですが、ここは哲学のカテゴリですので私は哲学好きの人たちに質問を投げています。だからこのくらいのバイアスは屁とも思わない人たちであってほしいです。 これは、違うのかな・・という感じがします。 色の付いている言葉の問題は、受け取る側の問題ではなく、shift-2007さんの問題だと思うのです。 色の付いた言葉を使うのは、使う人の思考を誘導し、思い込みに至らせる危険があると思うのです。 (受け取る側の思考を誘導する作用もあると思いますが、使う側の影響に比べると、小さいと思います。) >銃口を常に自分のこめかみに向けているという事が問題だと私は考えます。 これもそうです。何故、銃口という刺激的な言葉を使うのでしょうか? 刺激的な言葉は、それだけで、思考を左右する力があります。 何かを問い、答えを求めたいなら、思考を左右する言葉を避けた法がいいと思います。 銃口を向けるのは、「常」ではないと思います。「行き詰まったと感じた時」だと思うのです。 この様な「思い込み」も、色の付いた言葉が、作用して作り出す可能性があると言いたいのです。   また、書き込んでもらうと嬉しいです。  

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.12

人それぞれに思い込みがあり、それが皆違っている。その人の持っているその思い込みの集合のことをその人の世界観、あるいは価値観と言い、その人の個性と言うんですね。あるいは、人間のの多様性と言っても良いかも知れません。価値観のことを文化と呼ぶことも出来ます。だから、貴方のとは違った文化を持った集団に貴方が入り込むと、貴方にとって大切なことが彼等にはどうでもよく、彼等に取って大切なことが貴方に取ってはどうでもようといことに気付き、その価値観の違いに愕然として、自分が除け者のような疎外感を感じてしまう。 だからと言って、人々はその疎外感を克服するために価値観の違いを摺り合わせて、共通の価値観を共有出来るように努力するべきなのか。そんなことはありません。価値観の違いが個性を作り、多様性を作り出しているのですから、そんなことをしてしまったら、個性の否定であり、多様性の否定になってしまいます。生物の進化を見ても、始めに形も性質も均質で統一化された単純な存在であったものが、時の流れや環境の変化と共に、次々と分岐してより不均一化された複雑さを手に入れ、より多様になり、種としてのそれぞれの個性を手に入れて来たのです。その反対の統一化は、進化とは逆行くした退化です。 学問の世界も同じです。人間が本気で学問を考えるようになり始めたずっと古い昔では、学問と言えば哲学しかなかった。しかし、人々はその学問を次々の分岐させ進化させて、今では、多種多様な学問を持つようになった。そして、各学問ではそれに固有な文化を持ち、それぞれ皆その価値観も方法論も違っている。この学問の種類は今後ますますその数を増して来ることでしょう。そして、その価値観が違い、従って、一方の物の見方を相手に押し付ける訳にはいかないという、従って、学問の価値観を序列化して一つの統一体に組み込んでしまうわけにはいかないと言う認識が学問の世界を多様で豊かなものして来たのです。トンボがチョウチョウよりも優れているのいないのって言う議論は何の意味もありませんからね。 思い込むとは、その人固有な色眼鏡を手に入れてその色眼鏡で世界を見ることができるようになったと言うことです。そのような多様な色眼鏡や価値観が遭遇して互いに打つかり合い、一見一つに見えるような事象にも、見方によっては全く違った側面があることを互いに気付かせ、それを契機に、またそれぞれの個性が自分の今までの生き様に何かを付け加えて、その遭遇と言う偶然を契機にしてまた新たな分岐を起こし、ますます、互いに価値観の違った個性を生み出して、そして、ますます多様で面白い世界を作り出して来る。 だから、思い込みはこの世界をますます複雑で多様で豊なものにして行く本質的な原動力なのですね。その反対に、思い込みを排除して、この世界に価値観の優劣を持ち込んで序列化しようと言う試みは、この世界を退化させ、多様性が欠如した面白みのない貧弱な世界へと導いてしまいます。最近では、アメリカに震源地を持つ消費文化が世界中を飲み込みはじめて、各地方各国の価値観を併呑し統一化して、明らかな退化の方向に向いているようにも見えます。思い込みの排除、すなわち個性の排除は、そんな恐ろしい方向へと私達を導いてしまう可能性があります。 あんたにはあんたの思い込みがある。あたしにはあたしの思い込みがある。我々が成すべきことは、その思い込みを排除して意識を統一化することではなく、偶然の遭遇や打つかり合いで、それぞれに固有な思い込みをより洗練させて行くことではないでしょうか。それはネットの上でも同じことだと思いますよ。皆さん大いにご自分の思い込みを磨いて、個性的な存在になることに努力して欲しいです。

noname#136007
質問者

お礼

  回答ありがとうございます。 とても考えさせられました。 この内容は、突き詰めたい気持ちが強いです。 その先に、確認したいのですが、cyototuさんは、哲学とは何だと思いますか? どういう立ち位置で考えるかにのもよると思いますが、僕は他でも、コメントしている様に、 思い込みという点で考えるならば、 「哲学するとは、思いこみを排除しようとする作業である。」・・と、感じています。 思い込みと言う点で、哲学とは何か、をコメントいただきませんか? 付き詰めたいと思っています。 お付き合いいただければ、幸いです。 (補足、また、思い込みが間違った判断を招く点はどう思いますか?)  

noname#118322
noname#118322
回答No.11

プラトンのアカデミアの入り口は 幾何を学ばざるものこの門をくぐるべからず という言葉が掲げてあったと言われる 幾何解法には行間もしくは紙背を読む素養が必要と言われる また幾何学に王道なしともいう 君とのやりとりではそのものを突き詰めて知ろうとする純粋性が感じられない それが何らかの意図を含む恣意性からなのか その幾何解法に必要とされる行間を読むという素養の欠如なのか 単に学びとろうという謙虚さがないだけなのか そのすべてなのか 精神が不純物だらけ みたいな                   ´

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.10

>「我思う、ゆえに我あり」これには、”意味”はないのでしょうか? はい、意味がないと思います。この言葉は、モンテーニュによって極限まで押し進められた懐疑論的方法論を凝縮した言葉、すなわち「我、何おか知る」の問いへの解答のつもりで、デカルトが述べた言葉ですね。しかし、デカルトのその解答は、その後の人類の巨大な知的活動、すなわち、科学と芸術に対して、モンテーニュと比べて桁違いに生産的な役割を演じなかったですね。デカルトの解は、どう考えても屁理屈の域を出ず、従って、本当に無から有を創りだす生産的な営みに対して何の役にも立っておりません。それが屁理屈と言うのが気に食わなかったら、その解答は、誰にでも思い付きそうな陳腐な解答であるといっても良いかも知れません。 デカルトの引き出した結論は、この宇宙や世界が本質的に決定論的に出来ており、従って、永遠にそこに在る、すなわち「在る」世界であると言うことでした。しかし、創造的営みや進化の過程は、「在る」ではなくて「成る」、すなわち、「永遠」ではなくて「変化」がその本質です。「成る」世界は、「今」の中にまだ「未来」が与えられていない、従って本質的に非決定論的世界です。そのような非決定論的な世界でのみ、我々は我々の未来を構築する創造的営みに参加出来るのです。 それに反して、デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という言葉によって決定論的な世界観を導き出し、従って「創造的営み」を否定するという、自らの創造的営みとは自己撞着してしまう世界観を導き出してしまいました。そのことが、デカルトの世界観が哲学者にはいざ知らず、科学者達には何故受け入れられなかったかの、本当の理由だと思います。 その点、「我、何をか知る」の問いを問い続け、安易に思い付きの答えもどきに飛びつかなかったモンテーニュの態度は、創造の世界で日々生産的な活動を続けれいる科学者や芸術家に営々と引き継がれており、デカルトの決めつけでは決して生み出せなかったような新しい世界を次々と創り出して来たと言うのが、近代の科学史と芸術史の歴史的事実のようです。

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