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哲学することでは、悟りの世界には到達できないか?
哲学することでは、悟りの世界には到達できないか? 言語活動で、目に見えない世界の真実に迫ろうとする哲学。 非言語活動の、瞑想や等で心の真実に迫ろうとする座禅。 西洋で生まれた哲学。 東洋で生まれた瞑想、禅 アプローチの違う二つ。 哲学は、瞑想、禅が到達する悟りの世界には、決して到達できないのか? 主張とその理由を述べてください。
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※回答の続きです さて標題に戻って、「哲学によって悟りを得られるのか」という問題ですが。 悟りの定義はいろいろあって難しいのですが、とりあえずそれを、瞑想によって感得される境涯のこと、とすれば、それは本当に体験されなければわからないことで、思考の及ぶ範囲の事柄ではないと思います。 原理的に、「語られた悟り」というものはありえません。哲学とは、考える自分の根拠や自明性そのものをも考えようとする姿勢のことだと思いますが、それであってもなお、語られる以前の「生の悟り」というようなものに触れることはできないのです。 しかし、ご理解頂けると思いますが、私は、瞑想やいわゆる「悟り」が哲学の及ばないほど優れたものである、と言いたいわけではありません。ほとんどのひとは四六時中瞑想だけして死んでいくわけにはいかないのですから、それだけが絶対であるはずもありません。 重要なことは、作られたシステム上でのみ作動する「自己」を絶対視するのでなく、また逆にこの世と没交渉のまま、「あちら側」のめくるめく世界に耽溺するのでもなく、瞑想の智恵を現実に生かそうとすることです。それこそがお釈迦さん始め多くの仏教者が心を砕いたポイントなのです。ものを知らずにその営為をも軽んじる者は、そうすることで単に自身の無知と浅薄さをあらわにしているだけに過ぎません。
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- shubal
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哲学はあくまでも論理的にさまざまな人間の命題に迫ろうとする学問です。ですから、いくら掘り下げても根拠が明確でないものを採用することはなく、その不完全な結論までが哲学の領域です。 悟りというのは仏教思想のひとつですが、哲学のテリトリーにも仏教哲学は含まれます。ただ現代の哲学的考察では、悟りを論理的に説明することができません。悟りそのものには根拠となる中心がなく、かなり非科学的な理屈を容認しなければなりません。つまり哲学的思考から悟りははみ出てしまうんです。だからといって悟りはないか、と問われれば僕はあると思います。存在するかしないかわからない神や仏を手放しで信じるには根拠がありませんが、歴史的に見ると人間社会にはつねに神や仏が寄り添っていました。その歴史の中である心の状態を悟りといったのだろうと思います。
- バグース(@bagus3)
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まるで方向が違うでしょうね。 知識や知恵を身につけようとする哲学。 すべてを捨てようとする禅。 すべてを捨たいという意欲も捨てようとする禅。 山に登り頂上を目指す哲学 川の流れに身をまかせ、大いなる海に至る禅