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哲学することでは、悟りの世界には到達できないか?

哲学することでは、悟りの世界には到達できないか? 言語活動で、目に見えない世界の真実に迫ろうとする哲学。 非言語活動の、瞑想や等で心の真実に迫ろうとする座禅。 西洋で生まれた哲学。 東洋で生まれた瞑想、禅 アプローチの違う二つ。 哲学は、瞑想、禅が到達する悟りの世界には、決して到達できないのか? 主張とその理由を述べてください。  

質問者が選んだベストアンサー

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  • neil_2112
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回答No.20

※回答の続きです さて標題に戻って、「哲学によって悟りを得られるのか」という問題ですが。 悟りの定義はいろいろあって難しいのですが、とりあえずそれを、瞑想によって感得される境涯のこと、とすれば、それは本当に体験されなければわからないことで、思考の及ぶ範囲の事柄ではないと思います。 原理的に、「語られた悟り」というものはありえません。哲学とは、考える自分の根拠や自明性そのものをも考えようとする姿勢のことだと思いますが、それであってもなお、語られる以前の「生の悟り」というようなものに触れることはできないのです。 しかし、ご理解頂けると思いますが、私は、瞑想やいわゆる「悟り」が哲学の及ばないほど優れたものである、と言いたいわけではありません。ほとんどのひとは四六時中瞑想だけして死んでいくわけにはいかないのですから、それだけが絶対であるはずもありません。 重要なことは、作られたシステム上でのみ作動する「自己」を絶対視するのでなく、また逆にこの世と没交渉のまま、「あちら側」のめくるめく世界に耽溺するのでもなく、瞑想の智恵を現実に生かそうとすることです。それこそがお釈迦さん始め多くの仏教者が心を砕いたポイントなのです。ものを知らずにその営為をも軽んじる者は、そうすることで単に自身の無知と浅薄さをあらわにしているだけに過ぎません。

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回答No.12

はじめまして。 頑張れば何でもできるというものではないと思いますよ。 乙武洋匡さんをご存知でしょうか? 彼は野球の仕方を知っていますし、とても詳しいのです。 しかし、彼は野球ができません。 注)「小学生の頃「オトちゃんルール」で野球をした」の「野球」は「野球」ではありません。

回答No.11

 こんにちは。  この挨拶のことばから 世界が広がって見えたなら しめたもの。  ただ現代ということになると 人間と人間との関係がそれほど複雑になったとも思えませんが――男女の引力と斥力との力学動態は 変わっていないはずですが―― 社会のありかた・特に国家と国家との関係が 地球規模で繰り広げられているので そして民族それぞれの歴史というものが積み重ねられて来ていますから いくらさとりを得たからと言っても 一人のひとが詳細にそのすべての事情や情況を知っているというのも むつかしくなっています。  でも すべては移ろいゆく《自然の現象および社会の事象》であるということは変わっていないと見られます。いっさいは移ろいゆくものごとであると見ます。  また何がこうでかにがああだと決まったかたちの変わらざるものごととしてはなく すべては 現象や事象が互いに関係しあい影響しあいながら推移してゆくものだと考えられます。  この見方を自分の《身体と精神》の全体に沁み通らせ ひとに対してつねにその世界観を雰囲気としてあるいは香りのようなものとして伝えていること。そのような自己表現として生きること。その文体を確立していること。  この世界観は 空観と呼ばれますが(あるいは 縁起共生の理論として説かれますが) この空観をさらにどのような人が来ても その相手にまづは香りとして伝えることが出来ること。これは 無縁慈悲として――ブッダのあとに――説かれるようになりました。一人残らず・つまり無縁の人にも つねに空観をもって接する。ことが出来ていること。  この香りは 仏性(如来蔵・本覚)と呼ばれるようになりました。ブッダは直接に説かなかった見方です。  したがって言いかえると 会う人会う人に対してことごとく その人の仏性を 空観の香りをとおして・その空観の香りのことだとして 伝えることが出来ること。知らせることが出来ていること。  ここまで行けば さとりとして十分なのではないでしょうか。  これが 哲学としてのさとりです。ブッディズムは 哲学です。  アプローチはそれほどの違いはありません。  テオーリアが 観想・観照・瞑想であり テオリ(セオリ)が理論ですから。言語を超えるのと言語で推理するのと どちらでもよいでしょう。一般には テオーリアがテオリになって表現されます。  ただし一般に 瞑想がどうのこうのとその能書きだけを垂れるようなさとりは へのかっぱだとさとったほうがよいと思いますよ。   座禅をするなとは言いませんが これも一般に非言語的なさとりなどと言うのは あやしいとまづ思ったほうが安全です。  《ひらめき》なら そのひらめきの内容があるはずです。その内容について言葉で表現できないものは まゆつばものです。さもなければ そのひと本人は 神であると認めなければならなくなります。  まして我れや自我をなくすなどという解説は 迷走でしかありません。その意味での涅槃は ゴータマくんのインチキです。昔はぼろが出なかっただけのことです。《わたしがわたしである》ことでこそ さとり得るというものです。その《わたし》が 仏性を宿しているのですから。  ゴータマ・ブッダは インチキです。  

  • miko-desi
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回答No.10

>仏陀が悟ったのが、瞑想していた時だそうです。 体を河で清め一般女性から施しを受けて仏陀は「中道」の光を見出せた。 ということはご存知の方が多いでしょう。 極端を生き、最高か最悪を選び続けて、それを「見た」。 真の心の傷になって悟ることが出来たのでしょう。

回答No.9

 悟りは『情』の世界の事柄。  それを『理』によって解ろうとしている。  哲学は思考の世界。  それは理性の働きを活用すること。  感情を分析するのも理性の働き。  でも感情そのものではない。  感情を働かせているわけではない。  情を働かせるのに人との交流がある。  人との交流によって感情は刺激を受ける。  悟りとは心の世界。  迷いのない世界とされている。  その世界を望んで、人は得体の知れない「何か」と交流しようと、禅や念仏を行う。  この行為は『情』をよりどころにしている。  でも、  禅は理性的、念仏は情的とされている。  その心は、  禅は心を静めて理解(言葉にならなくても)しようとするから。  念仏は心そのままに、母のみ胸にい抱かれよう(安心しよう)とするから。      

  • miko-desi
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回答No.8

あらゆる欲望の灯火?が消えることが「悟り」というのならば 一般的には病気、絶望、疲労時。 特別なものとして感動、使命感、達成感などに満ち溢れる時。 自由を得るには耐え難い不自由との戦いも必要となるのですね。

noname#136007
質問者

お礼

  仏陀が悟ったのが、瞑想していた時だそうです。  

  • juyjuy
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回答No.7

No.3です。お礼を読ませていただきました。 >なぜ、悟りに信仰心が必要なのでしょうか?< これは禅宗の坊さんが言った言葉です。私ではありません。 回答の趣旨は「悟り」「信仰」といったものは共に脳内ホルモンの分泌の仕方なので、意志の力でこの脳内ホルモンをコントロール出来れば、押尾や横浜なんとかの連中みたいに「クスリ」を使わずにいい仕事が出来る・・という事が言いたかったのです。 中途半端な書き方で質問者様に誤解を与えたのかもしれません。お詫びします。

noname#136007
質問者

お礼

  再書き込みありがとうございます。 上げ足を取るつもりじゃないのですが、興味深い内容なので、突き詰めさせて下さい。 >意志の力でこの脳内ホルモンをコントロール出来れば、 悟りとは、意志の力でしょうか? 禅の本を読むと、悟りに至るには、様々な迷いの中を彷徨うようなつらい時期が続くが、 悟ると、クリアーな安楽な世界である。 と言うような事が書いてあります。 悟った後、特に意志の力を要しているような感じを受けません。 意志の力で脳内ホルモンをコントロールする。と言う表現は違う印象を受けます。 それに対し、書き込んでもらうと嬉しいです。  

  • ausfeper
  • ベストアンサー率33% (46/138)
回答No.6

できないと思います。 やり方を知っててもできないことってたくさんあります。 哲学で悟る方法が分かっても実際にその人ができるかは?。

noname#136007
質問者

お礼

  やり方を知ってて、出来ないことってどんな事ですかね? ちょっと、具体例が思い浮かびませんが・・・ 出来ないなら、それは、やり方じゃないんじゃないですか?   具体例を挙げてもらえると嬉しいです。 今回のテーマとは、別に考えてみたいですね。 興味深いです。  

  • miko-desi
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回答No.5

哲学は学問ではなく態度とか手段です。 そして哲学に何かを求めるのではなく「存在が哲学になる」です。

回答No.4

 考えてみました。  たましい=『情』あるいは『念』。  悟り=たましいの浄化。  哲学は『理』の世界。  悟りの世界が解った、としても心が浄化されたわけではない。  『理』に頼らずとも心の浄化は可能。  解らなくても悟りの世界に入ることは出来る。  心の本質は『情』。  こんなふうに。

noname#136007
質問者

お礼

  「理」でいくら突き詰めても、「情」に影響を及ぼしえないという事ですかね・・  

  • juyjuy
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回答No.3

禅の悟りに限定しますと: 私の知っている禅宗の僧侶は「悟りには信仰がなくてはならない」と言います。 最近の西洋哲学はほとんど「神」の呪縛から離れようとする考え方が強いので、このアプロ-チから悟りに至るのは難しいでしょう。 私は悟りも信仰も、人間の脳の中のホルモンの作用だと思っています。 深いところで「クスリ」なしで快感が得られる「能力」が悟りの本性だと思っています。信仰も実は同じですね。 現代医学は「悟り」の脳波は解析できていますが、今後脳内ホルモンの解析からも何かわかるかもしれません。 マルクス(確か?)が「宗教はアヘンだ」と言ったのはけだし名言です。 宗教にせよ悟りにせよスーフィズムにせよ、「クスリ」なしで快感が味わえる能力は、まともな人間にとっては必要な事ではないでしょうか。 私は昔座禅をして板の「節」が大きく見えたり小さく見えたりした体験があります。そのもっと先に「悟り」があるそうですが、私のような不信心者には到達できないようです。

noname#136007
質問者

お礼

  >悟りには信仰がなくてはならない 信仰とは何でしょうか? 具体的な、人格神のような存在を必要とするものでしょうか? 人知を超えた存在に対する、畏怖の念で十分なのでしょうか? どこからが信仰で、どこからが未知のものに対する畏怖で信仰で無いとの境は存在するのでしょうか? なぜ、悟りに信仰心が必要なのでしょうか? 疑問だらでです・・・  

noname#136007
質問者

補足

修正 疑問だらでです。 → 疑問だらけです。 すみません・・・  

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