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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:川越街道に宿が置かれたのは正確にいつでしょうか?)
川越街道に宿が置かれたのはいつ?
このQ&Aのポイント
- 川越街道は太田道灌により道が開かれ、家康の時代に江戸と川越の往来が多くなったために整備され、宿が置かれたとされています。
- 江戸時代に入って寛永16年(1639年)に川越藩主になった松平信綱と嫡男の松平輝綱が、中山道の脇往還としてさらに整備したのが川越街道である。
- 具体的な宿の設置時期に関する文書は残っていないため、正確な設置時期を特定することは難しい。
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ご提示されたWIKIPEDIA「川越街道」に、 「街道には、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の6ヵ宿が設置され、」とあります。 この中の「膝折宿」について、同じWIKIPEDIAから「朝霞市」を見ると、 「当市中心部はかつて、膝折村という川越街道の宿場町であった。 ・・ 膝折宿という名称は、文明10年(1478年)に太田道灌が膝折宿に着陣した所として、「太田道灌書状写」松平文庫所蔵文書に記述がある。」 とのこと。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%9C%9E%E5%B8%82 先の「川越街道」によると、 「室町時代の長禄元年(1457年)、上杉持朝の家臣・太田道灌が江戸城(千代田城)と川越城(河越城)を築き、部分的にあった古道を繋ぎ2つの城を結ぶ道を作った。」とのことですから、太田道灌が街道を開いて、20年ほど後にはすでに宿が置かれていたことがわかります。 考えてみれば「街道を整備する」とは、単に道を造るだけでなく、やはり途中に休憩・宿泊できるポイントを設置しなければ、「街道」と呼べるような物にならない訳で、川越街道のように短距離の街道であれば、まずは真ん中あたり(江戸・川越から20kmほどの)「膝折宿」が設置(または自然発生?)し、後日に残りの5宿も整備された、というような状況ではないでしょうか。