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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:松平定永は田安徳川家とは何の関係もないはずなので)
松平定永と田安徳川家の関係について
このQ&Aのポイント
- 松平定永は田安徳川家とは何の関係もない人物です。
- 徳川治察の死亡により、田安徳川家の血筋は途絶えました。
- 後に一橋徳川家の徳川治済の相続によって田安徳川家は再興されましたが、それは始めの田安徳川家の血筋ではありません。
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質問者が選んだベストアンサー
同様の質問に以前回答したように、「血筋が途絶えた」は、血筋を継ぐ者がこの世に一人もいなくなったという意味になります。 松平定信の嫡男・松平定永が、田安徳川家と無関係の人間と思われていたかどうかは知りませんが、田安徳川家との関係を人々が意識していたかどうかと、田安徳川家の血筋の人間かどうかは何の関係もありません。周囲の人間がみんな奴隷の子と認識していたとしても、事実が国王の子であるなら、それは王家の血筋を継いでいるということです。 まして徳川治察が亡くなった時点では、質問文に引用されているWikipediaの文章にも書かれているように、弟で当時17歳の松平定信は、すでに養子縁組していたものの田安邸に居住しており、治察の正室宝蓮院は養子縁組を解消して定信に田安徳川家を継がせようとしていました。定信が田安徳川家の血筋の人間であり、田安家を継ぐにふさわしいと認識していたからです。 治察が亡くなったことをもって「始めの田安徳川家の血筋は途絶えた」ととらえるのは、あまりにも無理がありすぎます。
お礼
側衆稲葉正明から御三卿の創立者である将軍徳川吉宗の意向、すなわち御三卿の当主に子供のいない場合は相続は認められないことを伝えられた。 そうなので、 松平定信の嫡男・松平定永 以降は、田安徳川家の血筋とは関係ないのですよね