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私が死んだら世界はどうなるでしょうか?
私が死んだら世界はどうなるでしょうか? 自分が死んだら世界も終るという考えの方もいらっしゃるようですが どうでしょうか?私が死んだら世界はどう変わるでしょうか? 葬式が上がって 時と共に忘れられていくだけだと思うのですが・・・
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えへへ。 ちょっとだけ書かせてください。 その人に会わなければ、ちょびっとだけ違う人生になっていた。 どこがどう違うのか、と言われても、人格が変わるほどでは 無いけれど。 無数の人に会って話して関わって、いい思い出もあれば 悪い記憶もある。 会った事も無い人の著作物や遺品から 時空を超えて語りかけられることもある。 人の人格を構成するものをソフトウェアだと、例えば考えると。 その人格は一部が常に流動的で他の人の認識だの考えだの、 様々なものを取り込んで新陳代謝しています。 そして、他人、或いは社会との間に本人も殆ど意識しないけど そのソフトの部分交換を続けています。 だから、社会は動く。 あなたが死んでも、あなたの人格ソフトウェアの一部は沢山の 他人の人格の中にコピーされ、その他人の人格の中でその人の 一部として新たな経験を加えられて改変されていきます。 あなたの人格は死んで消滅するが、あなたの人格を構成する 様々な要素は、他人の、社会の中で流転を繰り返す、水の流れのように。 人格を構成するものは膨大な情報とその立体構造で、それは 例えば光ケーブルや衛星回線で送受信したりディスクにストック したりできるものです、本質的に「情報の集合体」ですから。 落ちている雨粒が、地表で砕け散っても、それが水であることに 代わりはありません。 地に浸み、大地を潤し、河になり、 やがて海に至り、また空に登る。 元の水滴の形など、水滴自体も覚えてやしないでしょうね。 肉体的には死ぬのは怖いし哀しいけど、でも自分が落下中の 水滴なんだ、ということは僕にも判ります。 晴れた日に、海をご覧になると波にキラキラと光が綺麗です。 あれが、刹那生きている、命の姿です。 それが一瞬で消えてしまい 無数に光が瞬いているとしても、その一瞬の光を無意味だと 考える人はいません。 あなたはやがて壊れてなくなりますが、元々無数の光がひと時 集まって人格を構成したに過ぎません。 また、無数の光に 還るだけです。 さあ、今日も一日頑張りましょう。 生きている間は自分として。
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- toporo
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yuniko99さん、こんにちは。 この質問をされる時、yuniko99さんは「世界」という言葉で何を指しておられるでしょうか。 たとえば見上げた青い空は「世界」の一部だと感じておられるでしょうか。 もしそうなら、yuniko99さんが亡くなるのと一緒にその青い空も失われ世界は終るのです。 その青い空は大気と太陽光の関係に対して、人類としての機能とyuniko99さんの個人としての唯一無二の感覚とによって創り出されているものだからです。 ただ、ぼくにとっての世界は終りません。ぼくの青空はぼくのものですから、どこかでyuniko99さんの青空が消えた事にすら気づかずに、ぼくの世界は続いていきます。 ある人が「世界」という言葉で指し示す事ができるのは、「その人の世界」です。 その人と無関係に存在する世界の事は、わからないし、見る事も触れる事もできないからです。 ですから、「自分が死んだら世界も終る」という言葉は、ある個人が発する分には正しいのだとぼくは思いますよ。
お礼
私が死んだら私の世界が消えるわけですね なるほど そういうことですね よく分かりました ありがとうございました。
- Alkindus
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正しい。
お礼
ありがとうございました。
- E-FB-14
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よく一般的に言われることは・・ 「お前一人死んだって天下の体制影響ないよ」
お礼
ありがとうございました。
貴方が不在の世界は貴方にとっては実質として無意味ですから、(貴方の)世界は終わると考えて差し支えないと思います。そういう意味で >自分が死んだら世界も終るという考えの方もいらっしゃるようです は間違いではないと思います。 >私が死んだら世界はどう変わるでしょうか? 貴方がいた世界から、貴方がいない世界へと変わる、ということです。 ところで、貴方は貴方がいない世界がどうあってほしいとお考えなのでしょうか? >葬式が上がって 時と共に忘れられていくだけだと と冷静に観察されておられることはわかりますが、それだけで満足されるのですね。 私見によれば人間にはいくつかのタイプがあって、(自分の)死後の世界に 1)何の関心もない 2)関心がある と分類され、更に 2)には 2-1)世界に対して客観的に関心がある。 2-2)自分のことに関して関心がある。 と分類され、更に 2-2)には 2-2-1)自分を忘れてほしくない。 2-2-2)自分を忘れてほしい(自殺?) と分類され、更に 2-2-1)には 2-2-1-1)自分以後の世界を変えたくない(自分の生前での存在を巨大な墓などを作ってそのまま残したい)。 2-2-1-2)自分以後の世界を自分の不在で変えたい(ああ、やつがいないと本当にさびしいなあ、とかいわせたい)。 と分類され、更に続きますが、貴方はお見受けするかぎり 2-1)と2-2)の中間あたりに位置され、多少あいまいな存在のようです。 そこんとこをもっと追求されるお覚悟はないのでしょうか。 補足いただければ幸いです。別に無視されても差し支えはありませんし。
お礼
私がいなくなっても 世界は変わらない 世界に変わってほしいと思っておりましたが 無理だった様です 存在性理論という考えを持っています。 ありがとうございます。
- k_kota
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あなたの世界は終りますが、私の世界は特にいつも通り時間は流れていくでしょう。 と言うか、特にイベントとしては何も無いです。 意識が一つ消えるだけです。
お礼
どうもありがとうございます 失望的な気持ちになったので書いてみました 私がフェイドアウトするだけですねえ。
- 来生 自然(@k_jinen)
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「質問者:yuniko99様」は、他の誰でもない存在です。 そこには、「交換【不】可能性」という概念がぴったりと当てはまることでしょう。 交換不可能なものが生という概念から死という概念へと、すなわち「不可逆な」状態へと変化するわけです。 さて、では、なぜ「交換不可能」だといえるのでしょうか? yuniko99として発言し行動されておられる、あらゆる事柄が、yuniko99以外の何人たりとも「全く同じに」行い得ない、というより、周囲に「全く同じに影響を与え得ない」ということにあると思います。 まさに柄谷氏の「この」私(単独性)という概念に相当することでしょう。 「この」私といった認識を為し得るありとあらゆるものが「交換不可能性」を有しています。そうして「不可逆な」取り返しのつかない変化をきたすわけです。 変わらないはずがないわけです。 「変わらない」かのように見えるのは、「この」私が、「誰でもいい他者と交換可能な部分」のみに着目するからに他ならないでしょう。 それは、たとえば、一人、二人・・・と数えられる数のような存在として扱う場合とかです。 逆説的に言えば、「交換不可能かつ不可逆」故に、残された人々は「交換可能かつ可逆」な側面で捉えることで、ぽっかりと空いた穴を「あたかも塞いだ」かのような錯覚に陥っているだけなのでしょう。。。そうでもしなければ、残された人々が生きていこうとすることすら、不可能に陥ってしまうからでしょう。。。 「変わらない」のではなく「変えたくない・変えていこう」という残された人々の意志の強さが、「交換不可能かつ不可逆」で失われたものを凌駕していくのでしょう。。。
お礼
交換不可能で不可逆の私が消えて 親や兄妹等が悲しむのでしょうねえ そういう訳には行かないですねえ 頑張って生きて行きます どうもありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
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あなたは、「自分が生きている(感じる)」と「世界が存在する (外的先入性)」が比例することを前提として、「もし死んだら 世界も消えるか?」と問うているようですが、その実、そうした 「世界=外的先入性」を殺す(=不完全な認識)ことによって、 意識は成り立っているのです=「無いとは分からない事が有」。 試しに「それ」を確定しようとしてごらんなさい、不確定性原理 によって無限不確定性に発散(=無)してしまうのです。
お礼
なかなか難しいお話ですが 私は自分が消えたら世界も消える的な感覚の人がいるので それがどういうことかを知ってもらいたくて質問しました 人間は不完全な認識で生きています 自分が居なくても 困る人も居るんだと言う事 例えば海辺を散らかして 自分が街に戻っても 海辺にはゴミが残ってるという事に気付いてほしいと思います どうもありがとうございました。
- ymmasayan
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宗教論になりますと、きりがありませんので。 無宗教で。 大海にボールがびっしり敷き詰められているとします。 1個取り除いてもそのうち、周りのボールが隙間を生めて元通り。 重要人物の場合「巨星墜つ」とか言いますがこれもボールの大きさが違うだけですね。 結局は周りが埋めて元通りです。
お礼
なるほど分かり易い説明ありがとうございます。 誰が死んでも大丈夫という感じですねえ 若い人が死ぬのはなんだか悲惨な気もしますが どうもありがとうございます。
- cincinnati
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プロテスタントのクリスチャンです。 聖書では人は「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と述べられています。聞くところによりますと仏教でもそのようにいっているようです。いずれにせよ、キリストを自分の罪からの救い主として信じますと、イエスが私どもの罪を身代わり負ってくださったので、死んで裁きのときにもイエスが弁護してくれる事になっています。十字架上で罪を悔い改めた死刑囚に対して、「私とともにパラダイスにいるであろう」と約束していますので、死後は天国に行きます。 一方私が死んだ後の世界は相も変わらず何事もなかったかのようにすぎてゆくと思います。 >>私が死んだら世界はどうなるでしょうか? あなたの世界は聖書によれば「火と硫黄の燃える永遠の苦しみの場所」が死んだ後のあなたの世界となります。すなわち「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」 お時間がありましたらプロテスタント教会の牧師を訪ねてみるか、聖書をお読みいただければこの世に生きてなおかつ天国の予感をもって幸いな人生を送る事ができます。
お礼
ありがたいような 逆に怖ろしいような回答ありがとうございます。 多分私はクリスチャンにはなれないでしょうね 私は無宗教を旨としています 洗礼の時には水にもぐって一度死んで新たな命を得るという 意味があるようですね どうもありがとうございます<m(__)m>
- tasupo01
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普通に考えると 何時もどうりに時間は進む その時間の中に自分が居ないだけです。 世界は変わりません。 人が死んで世界が変わるとしたら・・・・ 歴史は大変な事になりますからね。
お礼
全くその通りですねえ 世界は殆ど変わらずに進んでいくでしょう ありがとうございます。
お礼
その無数の光の事を 無数の性質と考えています 無数の性質が集まって意識・精神を構成していると思います。 水の様だとも書かれていますね 僕は存在性(性質の一種)という言葉で考えています 存在性理論 です どうもありがとうございました(*^^)v