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ここはなぜ【た】形を使ったのですか

ここはなぜ【た】形を使ったのですか 百年の後、この光の玉は八人の犬士となって甦り、里見の姫に奉じて、玉梓の呪いに打ち勝つでしょう。私はそのために生き、そのために死ぬ定めにあったのです。 末尾の【あった】は過去ではないと思います、これは【た】の特殊な使い方と思います。 この【た】の意味は下の例文と同じのはどれですか 1 (鍵を探していて)あっ、あった!あった! 2 山田さんは旅行に行くべきたった 3 そういえば、明日は休日だった

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  • ベストアンサー
  • bacaisao
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回答No.25

>という論理の展開を行なったつもりです。 それに対して「大した問題ではありません」と一蹴されるのであれば、これは、この問題に関する考察を放棄したと判断せざるを得ませんので、これに関して、これ以上追求することはやめましょう。 ・・・はい、結構です。 そしてまた、いつものように前言を翻して再開されても私はかまいません(*^^*)。 質問者さんに申し上げます。 ご質問の文体は、会話体です。会話体の文は論文のように説明的ではなく、文型もはっきりしないものが多いです。 このような場合は、しっかり全体を眺め、話者の表情まで思い浮かべながら、考えて行くことが大事です。 理屈をつけようと細部の言葉にこだわって、あれこれ原文をいじると間違えてしまいます。 新米の大工さんが張り切って、丈夫そうな家を建てようとして、必要でないところへ見せかけだけの補強材を入れてしまい、かえって強度を弱くするようなものです。 家では通し柱、人ではバックボーンがしっかりしていれば、ふらふらしたり、何度も修正工事をすることにはなりません。 どうぞ原文全体をしっかり読みなおして、間違いのない解を得てください。 質問者さんのご理解を得たいことがございます。 旧日本軍に関するお話です。 これは、ご質問の「た」の話に直接関係することではありませんが、日本人として看過できないことがございましたので、少し申し述べさせてください。 どなたかがご自分の行為、すなわち間違いと訂正を繰り返すことの弁明のために、こともあろうに旧日本軍の玉砕を引き合いに出し、軍トップが誤りを訂正しないから、兵隊が無駄死にした(させられた)、自分は必要があれば何度でも修正する、・・・と、軍トップへの悪口と兵隊さんの無駄死を踏み台にして、自分の行為を正当化されています。 このことについては、いくつかの由々しき問題が存在しています。 1.一個人の間違い訂正の是非という卑小な問題のために、こともあろうに旧交戦国の中国の方に、先の大戦のことを持ち出す必要性があるのかということです。 本人は「お詫びのしるし」として、旧日本軍の問題を持ち出しています。 「謝罪外交」のつもりか、ご機嫌をとって「ポイントが欲しい」のかよくわかりません。 いくらなんでも「ポイント」ではないと思いますが、一個人が「謝罪外交」するのも変です。 「お詫びのしるし」として、中国の方に旧日本軍のお話をされた事実は消えません。 2.先の大戦の事実誤認の問題です。 玉砕が軍のトップの体面のためというのは、事実誤認です。ごく一部にNHKのいうようなことがあったかも知れませんが、あったとしてもそれは稀な例でしょう。 そういうものを虫眼鏡で拡大してあたかも軍全体がそうであるかのようにして、外国の方に教えるなんてことはとんでもないことです。自虐史観どころの話ではありません。 玉砕戦死が「無駄死に」とされてしまった戦死者や遺族の方は、何と言ってお嘆きになるでしょうか。 先の大戦でお国のため、家族のためにささげた兵隊さんたちの尊い命の上に、今我々が生きていることを忘れてはいけません。 それを「無駄死に」とは・・・、何と心無い、酷な方なのでしょうか。 戦前の天皇と金正日には大差がないというご意見には驚きました。馬鹿馬鹿しくて反論する気も起りません。 戦前の日本は暗黒の時代だったという間違った話が、世の中に出回っているようです。 戦前に取締りに遭ったごく一部の左翼言論人が、戦後になっていろいろ喧伝しました。それが誇大に伝わっているだけのことです。 一般人には明るいいい世の中でした。戦前に大人になっている人から話を聞けばすぐわかることです。 3.間違いがあったら即座に訂正すべきです。隠したりしてはいけません。 「過ちては改むるに憚ること勿れ」と古来よりの教えもございます。 「改むるに憚ること勿れ」です。 しかし、これは過ちを奨励しているわけではありません。普段より過ちを起こさないように努め、万一起きた時には憚ることなく改めよと言っているのです。 しょっちゅう過ちを犯し、しょっちゅうしゃあしゃあと平気で訂正したり、前言を撤回したりするのは「恥ずかしいこと」です。厚顔無恥と言われる行為です。 質問者さんに申し上げます。 旧日本軍に関する話は、あなたのご質問とは全く関係がありません。 きれいさっぱりお忘れになってください。 そして、もし、このような話に興味がございましたら、歴史カテなど別のところへお尋ねください。

その他の回答 (24)

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.24

#21です。 > a.神様のお告げ・・・。 b.姫にほれ込んで・・・。 どちらがどうでも大した問題ではありません。 文章全体すなわち、「百年の後・・・・死ぬ定めにあった」の「た」が、「3.そういえば、明日は休日だった」の「た」と同じかどうかです。 : とのことですが、私としては、 『文章全体すなわち、「百年の後・・・・死ぬ定めにあった」の「た」が、「3.そういえば、明日は休日だった」の「た」と同じかどうか』という問題に関して、 aの場合は「あった」が確認の用法であることは明白である。 bの場合は「あった」は意志と誤解されやすいが、冷静に考えれば、これもやはり確認の用法である。 という論理の展開を行なったつもりです。 それに対して「大した問題ではありません」と一蹴されるのであれば、これは、この問題に関する考察を放棄したと判断せざるを得ませんので、これに関して、これ以上追求することはやめましょう。 >ご自分の行為(「過ちては改めるに憚ること勿れ」の誤解)の弁護のために、前の戦争の話を持ち出してきました。 :まず、私は「過ちては改めるに憚ること勿れ」を誤解しているわけではありません。 それぞれの個人的見解を理解していただくよう勤めるのが礼儀だろうと思えばこそ、言葉を尽くすだけです。 一旦、述べたことが間違ったと気づけば、ああ、勉強になった、と訂正を表明すればよいのです。 回答者は神ではありません。 間違いや思い込みも大いにあり得ます。 回答者は正しいこと以外言ってはならない、という無理な思い込みが真理から遠ざけます。 社会に敷衍すると、権力者は常に正しくあらねばならない、というのも無理な思い込みです。 そのように努力する必要はありますが、実態がそうではないという事実も常に考慮しておく必要があります。 警官も殺人を犯しますし、校長もストリップを見ます。 完璧な人間はいません。 そうであるに越したことはありませんが、ないものねだりで、権力者に頼ろうとするのは、自らの「個」を放棄することでもあります。 つまり、そこに「私」という存在はありません。 しかし、こういった思想は、独裁的な権力者にとってはなくてはならない道具となります。 当時の日本は、そのためだけに教育が行なわれていたはずです。 現在の北朝鮮と60年ほど前の日本が、驚くほど似ていることに目をつぶることはできません。 北朝鮮の金正日は当時の日本の天皇と大差ないのです。 色々述べてきたのは、「訂正する」ということが重要であるにも拘わらず、このような教育をされていると、それを恥だと思い込んでしまう、という構図があるからです。 >戦死された人の家族も大勢知っています。 その人たちが一番嘆き悲しむのは、何も知らない人が、簡単に「兵隊が無駄死にした」と切って捨てることです。 :まず、「切って捨てている」わけではありません。 また、重要な点ですが、「無駄死にした」ではなく「無駄死にさせられた」と言っているのです。 ここで、質問者の方にご了解を得たいと思います。 ご質問とは関係ない話のように思われますが、本質疑に関連して浮上した「訂正」の重要性に関して述べていますのでどうかご了承ください。 >>兵隊さんたちは、お国のために、郷土のために、家族のために死んでいったんです。命を投げ出したのです。 玉砕が軍のトップの体面のためというような姑息で単純な理由で行われたものではありません。 : ただ、「軍参謀連中」の「男子に二言無し」とか「訂正は恥」といった単純な思い込みのために、無駄な戦を強いられた兵士が多数いたことは動かしがたい事実です。 「兵士たちの証言」というNHKドキュメンタリーシリーズで多くの兵士がそのように述懐しています。 誠におぞましいというか、愚かしい内容ですが、大本営の参謀たちが語る録音テープも登場します。 自らの体面を保つためだけに、作戦内容の訂正や修正を拒否・否定し食料も弾薬も補給せずに、しかも投降や自死すらも禁じた。 「生きて虜囚の辱めを受けず」という、たしか戦陣訓でしたっけ、これが、これが戦前の「恥の文化」だったのではないでしょうか。 >えりにもえって旧交戦国の中国の方に、自分の行為の弁護のために、あるいは「お詫びのしるし」として、旧軍人の死を「無駄死に」とおっしゃいました。 :これは著しい曲解ですね。 訂正しないことが美徳であるかのような見解の誤りを糾す単純な例として挙げただけです。 言われてみて、なるほど、そのような捉え方もあるのか、と感心したぐらいです。 私はそれほど姑息な人間ではありません。 >これを読めば、旧軍人や遺族の方は何と言って嘆かれるでしょうか! ;そうでしょうか? よくぞ言ってくれた、とおっしゃる方のほうが圧倒的に多いと私は思います。  

回答No.23

dyttさん。こんばんは。 回答番号11番のneutralです。 これだけの回答を読むのは さぞかし大変なことでしょうね。 大変であろうところ、 まことに申し訳ないのですが、 11番の回答は不適切であった、 当方の失敗であった、と、 つい先ほど思いましたので、 回答11番は、お詫びして撤回します。 _____________ 改めて考え直しました結果、 「感嘆」・「歓喜」を表現するための、 ・・・もとい、 感嘆・歓喜、が、「表現された結果」の、 【た】、ではないかと、 ふと思ったのでございます。 (本当に「特殊」だなあと思います。) >私はそのために生き、   そのために死ぬ定めにあったのです。 :この、泉が湧き出るように情熱的な文の  「重大な部分」を、  冷静に、(大雑把ですが)書き換えると、   「わたしは、自分にとって重大なことに、   【今】、ようやく、気付きました。   それは、とても【衝撃的なこと】でした。」 ということになるのではないかと思うのです。  ______________ 「感嘆」↓ http://dic.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E6%84%9F%E5%98%86 「歓喜」↓ http://dic.search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%AD%93%E5%96%9C&r_dtype=all&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 _______________ よって、2.は除外されると思います。 2.以外の、 1.と、3.は、 どちらもOKだと思います。 いや、もしかしたら、最も原文に近いのは、 1.なのかもしれません。 【今】見つけたのに、 【ある、ある】ではなく、 【あった、あった】と言ってしまっている1.こそが、 最も原文に近いのかもしれません。 すみません、時間がないので 今回はこれで失礼します。 時間ができたら例文などを持参しますが、 他の回答者様のご意見をお待ちします。 追記. 11番の回答における、 spellingと文法に間違いがありましたので、 訂正します。 ×I notice that.......now ! → ○I've noticed that........now(at last) ! ×I realize that..... now ! → ○I've realized that..........now ! ×I assure that.......now ! → ○I've assured that.........now ! このように、日本人の口から出る日本語は、 実に大雑把であり、実に複雑でございますが、 納得できる回答を得られることを祈ります。 勉強、頑張ってください。

  • bacaisao
  • ベストアンサー率48% (37/76)
回答No.22

日本人として聞き捨てにできないことがありますので、最初の方は簡単に・・・。 1. a.神様のお告げ・・・。 b.姫にほれ込んで・・・。 どちらがどうでも大した問題ではありません。 文章全体すなわち、「百年の後・・・・死ぬ定めにあった」の「た」が、「3.そういえば、明日は休日だった」の「た」と同じかどうかです。 「百年の後・・・死ぬ定めにあった」は「3.そういえば、明日は休日だった」のような、単純な気楽な、忘れていたことの思い出しではありません。 強い意志が存在していることで「2 山田さんは旅行に行くべきたった」と同質です。 2. >話者のセリフです。 >:などを根拠の一部にあげられる方がいらっしゃるかもしれませんが、これは、3つの例文、どれにも共通する要素であることは明らかでしょう。 >つまり、何かひとつを選択する根拠とはなり得ていません。また、 ・・・当たり前のことです。私は作文をしてもダメですよと言っているのです。 3. >おっと、予定をオーバーしての回答がつづいてしまい、質問者さんには大変失礼しました。 お詫びのしるしといっては何ですが、先日テレビで見た旧日本軍のお話を少し。 いわゆる玉砕戦術によって多数の兵士が無駄死にした第二次大戦。・・・・。 ・・・何ということを言ってくれるのですか! ご自分の行為(「過ちては改めるに憚ること勿れ」の誤解)の弁護のために、前の戦争の話を持ち出してきました。 質問者は中国の方です。その方に【お詫びのしるし】として、旧軍人の悪口を書かれました。 私は、旧軍人の人を何人も知っています。みんな下級将校や兵隊です。 戦死された人の家族も大勢知っています。 その人たちが一番嘆き悲しむのは、何も知らない人が、簡単に「兵隊が無駄死にした」と切って捨てることです。 兵隊さんたちは、お国のために、郷土のために、家族のために死んでいったんです。命を投げ出したのです。 玉砕が軍のトップの体面のためというような姑息で単純な理由で行われたものではありません。 私の知っている旧軍人は、みな等しくそう断言します。 ◎えりにもえって旧交戦国の中国の方に、自分の行為の弁護のために、あるいは「お詫びのしるし」として、旧軍人の死を「無駄死に」とおっしゃいました。 「X国奴」という言葉が当てはまると思いますが、サイトが目をつけるかも知れませんので差し控えます。 これを読めば、旧軍人や遺族の方は何と言って嘆かれるでしょうか! 戦友が無駄死にだったのか! 父母や兄弟が無駄死にだったのか! 残酷です! むごいです!

  • hakobulu
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回答No.21

#19です。 「おあとがよろしいようで」と書きましたが、どうもよろしくないようなので再び補足させていただきたいと思います。 1. まず、 >文全体から発せられる雰囲気をよく感じ取り、そこから最後の締めくくりの助動詞「た」の用法を考えないといけません。 :というのはごもっともです。 それで、私が言っているのは、 「百年の後、この光の玉は八人の犬士となって甦り、里見の姫に奉じて、玉梓の呪いに打ち勝つでしょう。私はそのために生き、そのために死ぬ定めにあったのです。」 という文全体から、 「話者が断言しています。強い意志や自信の表現」という解釈を導き出すのは無理があるだろう、ということです。 この話者が、 a.神様のお告げがあったり、あるいは、先祖代々、そのような定めの家系に生まれてきた人物であるのか、 b.姫に惚れ込んで、そのような定めにあると、強い意志で思い込んでいる人物であるのか、 どちらかは分からないはずです。 aの場合は、確認用法の「た」であることはお分かりになるでしょう。 bの場合が勘違いしやすいですね。 一見すると、強い意志や自信の表現であるかのように見えるかもしれません。 たしかに、 『「定め」は、本人の強い思いから生じたもの』であるに違いはないので、そのように解釈してしまう気持ちもわかります。 しかし、肝心なのは「定め」の所以、つまり、「どのような理由で、そのような定めにある、と認識するようになったのか」ではなく、「た」の用法です。 仮に、その「定め」が「本人の強い思いから生じたもの」だとしても、【原文で実際に話している時点】においては、つまり、「定めにあった」と発話した段階においては、 話者が「自分自身の強い思いから生じた、そのような定めに自身があるのだ」ということ【自体】を確認しながら述べているわけです。 このように、a,b,いずれの場合も、「あった」は確認の用法であることが導かれることになります。 2. >話者のセリフです。 :などを根拠の一部にあげられる方がいらっしゃるかもしれませんが、これは、3つの例文、どれにも共通する要素であることは明らかでしょう。 つまり、何かひとつを選択する根拠とはなり得ていません。また、 >話者が断言しています。 >強い意志や自信の表現 :にしても、 1 (鍵を探していて)あっ、あった!あった! ・・・鍵を探していた人は、鍵を見つけ、「あった、あった」と、鍵があることを自信を持って断言しています。 2 山田さんは旅行に行くべきたった ・・・山田さんは旅行にいきませんでした。しかし、それは間違いで、やはり行くべきであったと今改めて自信を持って断言している状態です。 3 そういえば、明日は休日だった ・・・そういえば、明日は休日だった ・・・と自信を持って断言しています。 などという解釈が可能なわけで、根拠としては薄弱であると言わざるを得ません。 無論、以上は、 『原文に手を加えたら、何でも「確認」になってしまいます。』 という論理の脆弱性を指摘するために、あえて述べたものです。 他にもいくらでもありますが、本来、このように重箱の隅をつつくように「あげつらう」ことは、(小学生の口げんかのように)不毛な結果より招来しませんから、極力避けてきたわけです。 しかし、あまりにくどくど繰り返されると、質問者さんを混乱させないためにも、あえて触れざるを得ませんでした。 このようなアプローチは、繰り返しますが、「論理の展開」に資することの全く無い、単なる不毛な「あげつらい」に過ぎません。 このことをご理解いただくためで、他意(悪意)は全くありませんので悪しからずご了承ください。 3. おっと、予定をオーバーしての回答がつづいてしまい、質問者さんには大変失礼しました。 お詫びのしるしといっては何ですが、先日テレビで見た旧日本軍のお話を少し。 いわゆる玉砕戦術によって多数の兵士が無駄死にした第二次大戦。 この玉砕方針というのは、軍のトップが最初に立てた戦術にあくまで固執し続け、その訂正や変更を潔しとしなかったためであることが今や歴史的な事実として明かされています。 撤退も自殺も許されず、「最後の一兵までひたすら戦い抜く」という「当初の方針」に変更や訂正が加えられることは一切ありませんでした。 「人間としての真理」が「一度言ったことを訂正するのは恥ずかしい」という「個人の美意識」の犠牲になったのです。 訂正や修正は、必要であれば何度でも行なうのが人の道です。 不恰好ではありますが、それが本当の美意識でしょう。 真理を覆い隠すことによって成立する美などあり得ません。 戦後を生きる日本人としては、「何が本当の恥か」を薄っぺらな感覚を超越して判断する必要がある、と自戒する次第です。   

  • bacaisao
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回答No.20

おっと、#15でお止めになると伺っていましたのに、時を置かず再登場されました。 前回「定め」という単語の解釈は良かったのですが、その解釈の運用の間違いを指摘され、今回また訂正されました。 「過ちては改むるに憚ること勿れ」を誤解するとこういうことが起こります。 「過ちては改むるに憚ること勿れ」は、その前段に「過ちはめったに起こすものではない」という常識が存在しているはずです。 そうでないとこの格言は生きてきません。 はばかることなく前言を簡単に翻したり、訂正したりすることは、恥の文化が崩壊した戦後の日本社会においても、まだ受け入れられ難いことです。 何度も言っていることですが、文章はその全体を読まないと理解できません。 「た」の直前の単語の解釈、言葉の入れ替え、原文の修正は、みな先入観念から我田引水、牽強付会を引き起こし、間違えてしまいます。 原文に手を加えたら、何でも「確認」になってしまいます。 以下のように。 1 (鍵を探していて)あっ、あった!あった! ・・・鍵を探していた人は、鍵を見つけ、「あった、あった」と、鍵があることを確認しています。 2 山田さんは旅行に行くべきたった ・・・山田さんは旅行にいきませんでした。しかし、それは間違いで、やはり行くべきであったと今改めて確認している状態です。 3 そういえば、明日は休日だった ・・・そういえば、明日は休日だった ・・・と確認しています。 ここに掲げられている問題例文は、論文や小説の情景描写ではありません。話者のセリフです。 文全体から発せられる雰囲気をよく感じ取り、そこから最後の締めくくりの助動詞「た」の用法を考えないといけません。 >「百年の後、この光の玉は八人の犬士となって甦り、里見の姫に奉じて、玉梓の呪いに打ち勝つでしょう。私はそのために生き、そのために死ぬ定めにあったのです。」 これは、「(鍵が)あった!あった!」や「そういえば、明日は休日だった 」のような、お気楽なセリフではありません。 ★話者が断言しています。強い意志や自信の表現で「2 山田さんは旅行に行くべきたった」が正解。 「2 山田さんは旅行に行くべきたった」これは、単純な過去用法ではありません。

  • hakobulu
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回答No.19

#17です。 >「定め」とは、意志に関係なく定められているものだから、「た」は決意や断言の用法ではないというのはいくらなんでも牽強付会にすぎましょう。 :認めます。 不完全な表現でしたね。 次のように修正します。 『「定め」とは、意志に関係なく定められているものだから、「た」は決意の用法ではない』 思い込みも含めてですが、断言することは確かに可能ですよね。 >「定め」は、本人の強い思いから生じたものであります。 :とおっしゃるとおりでしょう。 ただ、ここが今回の投稿で一番重要な点なのですが、「あった」は、仮におっしゃるところの「特段神様のお告げがあった」場合にも使えるはずだ、ということです。 八犬伝の内容を知らないのでどちらかはわかりませんし、また、わからなくても良いのですが、どちらの場合であっても(意志が関与していようがいまいが)、 「私は、そのようば定めとして生まれついている人間だ」という「確認の意図」を表現するのが、「あった」の「た」の役割なわけです。 「定めにある。」と言っても不自然ではない場面のはずですが、そうではなく「定めにあった」とした理由は、そこにあるのでしょう。 因みに、蛇足かもしれませんが、 「2 山田さんは旅行に行くべきたった」 は単純な過去用法だと思います。 >それから、間違いを指摘してもらいながら居直って、訂正を自慢するようなものの言い方は感心しません。何とか猛々しいというような感じがします。 :なるほど。 訂正の重要性というか、訂正する勇気は必要だということを述べたかったのですが、結果として訂正を自慢するような形になっていましたね。 盗人が部屋の掃除をして威張るようなものでしょうか。^^; 意図はどうあれ、結果的にそのような印象を与える表現になっていたのは、まあ、なんというか、未熟さの現れですかね。 一応、反省することにしましょう。 おあとがよろしいようで・・・。        

  • bacaisao
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回答No.18

「定め」の解釈について。 「定め」とは、意志に関係なくそれこそ定められているものです。 ・・・・ハイ、これは「定め」といっても、人間が取り決めた「定め」ではなく、神様が決めた「運命」と同義です。だから、自分の意志とは無関係というのは大正解です。 いつものことですが、単語の解釈は間違っていません。 しかし、問題となるのは「た」の直前の単語の解釈ではありません。「た」という助動詞の用法です。 以前にも「た」の直前の「ある」という語の解釈を細々と行い、その解釈自体は辞書に載っている通りのものですから間違いはなかったのですが、「た」の用法との関連において北朝鮮的エラーを犯した回答がありました。 問題は「た」の直前の単語の解釈ではありません。「た」という助動詞の用法です。 「た」という締めくくりの助動詞の用法は、直前の単語の解釈で決められるものではありません。 問題の文を掲げますと、次のように長いものです。 >「百年の後、この光の玉は八人の犬士となって甦り、里見の姫に奉じて、玉梓の呪いに打ち勝つでしょう。私はそのために生き、そのために死ぬ定めにあったのです。」 この文の一カ所を取り上げて勝手読みをしたり、或いは文章を付けたして改変したりしてはいけません。 「定め」とは、意志に関係なく定められているものだから、「た」は決意や断言の用法ではないというのはいくらなんでも牽強付会にすぎましょう。 「た」の用法は文章全体からみないと、わかるものではありません。 >3 そういえば、明日は休日だった・・・この文は「確認」だということで、大多数の回答は一致していますが、「休日だった」だけでは何もわかりません。「そういえば」から読んで行って、初めて確認とわかるものです。 問題の文章を最初から(「百年の後」から)読んでいきますと、話者の強い意志や思いが伝わってきます。 「定め」も、本人の決めたことではないと言いながら、特段神様のお告げがあったわけではなく、「定め」は、本人の強い思いから生じたものであります。 この文は「(鍵が)あった!あった!」や「そういえば、明日は休日だった」のようなお気楽なセリフではありません。 ★話者が断言しています。強い意志や自信の表現で「2山田さんは旅行に行くべきだった」が同質の「た」の用法です。 それから、間違いを指摘してもらいながら居直って、訂正を自慢するようなものの言い方は感心しません。何とか猛々しいというような感じがします。 この次の回答を期待していたのですがもうありませんか。そうですか、残念です。 私の回答の主旨は首尾一貫しています。まだまだ書きたい気持ちです。

  • hakobulu
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回答No.17

#15です。 何度も申し訳ありません。 何回目かの補足になりますが、要点のみ述べます。 一素人の見解なので、何を言っても【学問的根拠に乏しい】という事実は否めません。 その意味で、よほど自信がある場合以外は、専門家ではない、個人的見解(感覚)である、などというお断りをしてきました。 ご了承ください。 「私はそのために生き、そのために死ぬ定めにあったのです」の用法は何か、です。 これは、「確認」以外のなにものでもない、と思います。 「確認でない表現」と比較するとわかりやすくなるでしょう。 では、「確認でない表現」とは何かと言えば、 「私はそのために生き、そのために死ぬ定めにあるのです」でしょう。 この「ある」は断言の用法と言ってよいと思います。 このように断言の用法を使っても不思議ではない場面でしょうが、そうではなく、「死ぬ定めにあった」と言ったのは、 「私は、死ぬ定めにある。そういうことだったのだ」という「確認のニュアンス」を込めたかったからに違いありません。 「確認することによって、その思い入れを自ら高めていく」という効果があるのだと思います。 そのために「強い意志や自信の表現」と捉えてしまうこともありそうですが、本質はやはり「確認の用法」が妥当でしょう。 「た」には、「決意をあらわす」という用法があるにはありますが、「定めにあること」を決意したり断言したりするのは不自然です。 「定め」とは、意志に関係なくそれこそ定められているものだからです。 「一族の血統として、(個人の意志とは関係なく)そのような位置付けをされていたのか」または、「本人だけが、そう思い込んでいたのか」は、どちらにでも解釈できます。 「た」の用法とは関係ありません。 いずれにしても、話者が、そういった内容について「確認したい意図」があったればこそ、「あった」という表現が(無意識的に)選択されたわけです。 以上のことをご理解いただければ、正解が 「3 そういえば、明日は休日だった 」 であることは自ずと導かれるはずです。 因みに、前回「べき(べし)」の用法についてこまごまと述べたのは、今回のご質問で問題にしているのは「た」の前の「べし」の用法ではないにも拘わらず、「べし」の用法に惑わされて「た」の用法と混同する場合がたまにあるからです。 しかし、一度混同してしまうと、なかなか修正が難しいようです。 特に、自分は絶対に間違うことはないという妄想をいだいている方などは、そうかもしれません。 おそらく自らの非を認めるのが「恥ずかしい」からだと思うのですが、非を非として認めることのできない傲慢さこそを恥ずべきでしょうね。 誰にとっても、訂正する必要が生じる場合はあるはずです。 今回の正解が何かは別にして、訂正を揶揄するような言動は慎むべきです。 自分がその立場になったら、ほとぼりが醒めるまでだんまりを決め込めばよい、などと考える方であれば別でしょうけどね。 通常の場合、美意識だけを錦の御旗にするとろくなことにはならない、ということでしょう。 ま、これも個人的見解にすぎませんが。 (私のみに限らず)語るべきことは語りつくしたようですので、このへんで失礼するのが礼儀かもしれませんね。 どうも、ながながと大変失礼しました。      

  • bacaisao
  • ベストアンサー率48% (37/76)
回答No.16

ある方の前の回答で、「た」の質問であるのに、「ある」について辞書を引き、コマゴマと説明されましたが、北朝鮮の例に基づいた他の回答により見事に論破されました。 今度も懲りずに「た」の問題であるのに「べき(べし)」の用法について辞書を引き、コマゴマと説明されています。 「べし」なんてものは、辞書を引くまでもなく、小学生でも「決意や意志・・・」ということを知っています。 質問は「た」の用法なのです。問題にしているのは「た」の前の「ある」や「べし」の用法ではありません! 「た」という最後の締めくくりの助動詞は、「た」に至るまでの文章全体の流れから生まれ出てくるものです。 その大事な文章について、見当違いの所をピックアップして北朝鮮的エラーを犯したり、問題の原文に手を加えて勝手読みをすることは、してはならないことです。 『「私はそのために生き、そのために死ぬ定めにある、と認められる状態にあった」ということを、今再確認できている状態です』 そんなに原文に手を加えたら、何でも「確認」になってしまいます。 以下のように。 1 (鍵を探していて)あっ、あった!あった! ・・・鍵を探していた人は、鍵を見つけ、「あった、あった」と、鍵があることを確認しています。 2 山田さんは旅行に行くべきたった ・・・山田さんは旅行にいきませんでした。しかし、それは間違いで、やはり行くべきであったと今改めて確認している状態です。 3 そういえば、明日は休日だった ・・・そういえば、明日は休日だった ・・・と確認しています。 作文すれば何だって確認になります。 >「私はそのために生き、そのために死ぬ定めにあったのです。」 これは、「(鍵が)あった!あった!」や「そういえば、明日は休日だった 」のような、お気楽なセリフではありません。 ★話者が断言しています。強い意志や自信の表現で「2 山田さんは旅行に行くべきたった」が正解。 しかし「個人的見解です」は便利です。朝令暮改的訂正をさっさとできるのは大したものです。エライと思います。卑怯なマネという概念を頭から取り除けるのは大した芸当です。 それと>「傲慢さをお持ちの方は・・・・・」などと、私をあたかもそのような人間と思わせるテクニックは大したものです。狡知に長けた才能をお持ちでさすがですね。感心しました(*^^*)。

  • hakobulu
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回答No.15

#13です。 ご質問されている内容に直接的に関係すると思うので、さらに補足を重ねます。 選択肢に 「2 山田さんは旅行に行くべきたった」が含まれているのは、 おそらく「ひっかけ」ではないでしょうかね。 個人的見解としては、この2は「行くべきだ」の単なる過去形だと思います。 ま、専門家ではないので自信はありませんが。 ここで問われているのは「た」の用法なのですが、中には、 「断言」とか「強い意志や自信の表現」などと、つい勘違いされる方もいらっしゃるかもしれません。 しかし、それは、「べき」の用法が、そのような錯覚をさせているだけでしょう。 べき(べし)に関しては、 http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/20215316563700/ の 7 決意や意志を表す が該当すると思います。 冷静にお考えになれば、 「3 そういえば、明日は休日だった 」 が正解であることがおわかりになるでしょう。 これも、みなさんの様々なご指摘があったればこそです。 おお!何という謙虚さ。^^; 私は訂正も修正もよくします。 申し訳ないことだとは思いますが、恥ずかしいことだとは思いません。 日本人であるからと言って日本語の仕組みを全て理解しているという傲慢さをお持ちの方は、万が一間違ったりすると、 ・間違った場合には知らぬ顔をして口をつぐむ。 ・退会して別IDで知らぬ顔して回答再開する。 こういったパターンが多いようです。 いえ、責めているわけではないのですが、そういう卑屈な姿勢こそ、恥ずべきことだ、と私は考えているということです。 いずれにせよ、価値観の違いでしょうな・・・。 ま、いいんじゃないかな、人それぞれで。 本題から逃げさえしなければね。^^;   

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