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輪廻と業の説は無用か
- 輪廻転生は同じDNAを持つ人がいなければあり得ない誤謬である
- 意志行為が原因で縁を引き寄せ、一生涯を超えてはたらくことはあり得ない
- 因果応報の説は人間の生まれてから死ぬまでの現実性を持つか
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還相についてですが・・・ 自らが受け取ったものを他者に振り向ける救済の行為か、或いは、そこにおいて生じる結果そのものを指すのか はたまた、そのどちらでも無い、作用を及ぼす働きが生じたという慈悲の具現化を指すのかどうか 或いはそれら全体を意味する事も可能性としてありましょう。 見方を変えれば、人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問にまで及ぶものです。 そして、この事に於ける論から実証への展開といったものは、果たして人の口から語られるべきものなのでしょうか。 主観的な範囲に留まる内容などは、否定的論法により一蹴されてしまうものと思われます。 また、下手な客観性といったものを持ち出せば、愚かだと決めつけられてしまうでしょう。 還相の利の面の純粋さを得る事、守る事は容易ではない感じがいたします。 私個人においての還相の行果として確かめられうるものは「祈り」です。 仏から頂いたものでありながらも、自らの能動的な慈悲心の発露としても感じ取れるものです。 この点については、ブラジェロンヌ様も既にご承知の事と存じます。 でなければ、私に書くようにとはおっしゃられなかったでしょう。 ついでながら、私が仏様にたいして逃れ得ぬ非というものを感じているものも、また還相の中にあります。 それは、受け止めているものの大きさに比しての行いというものを、常に小さく感じているからでもあります。 それでも尚、祈っている時には救われます。 信仰という主観の中に納まるものでありながらも、自らがおかれている現実の広がりを変えうる力を得られたと思い込む事ができるからです。 やはり私は弱いのでしょう。 でも祈りの本質は、祈りの度に祈る心を与えられている、ところにあるような気がしますし その新鮮さの中にあって、現実をより良く捉えてゆけるところにもあるとも思われます。 そんなところです。 あとは先生にお任せいたします。 それではお元気で。
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>わたしは 無用と考える。みなさんは どうですか? このような単純な問いです。 知らないもの同士で多数決でもするおつもりか。 「輪廻と業。それを知るものはいなかった。」 有用? 無用? 知りません。単純に。
お礼
つづいてですが 残念ながらよく読みとれません。 ☆☆ わたし(質問者)は 無用と考える。その理由は 趣旨説明にある。 ☆ と言っています。むろん知っている範囲で判断しています。そして みなさんは どうですか? です。 あぁ 《知るものはいない》つまり おまえたちは分かっていると思って論じているようだが 分かってなどいないのだということでしょうか? なら どう間違って知っていると言っているかを 明らかにしてくれればよいわけです。
>知る人などはいない。ということでしょうか? いいえ。でも、それは事実であり、現時点での結果なのでしょう。 光を知らない人が、赤の説明を聞いても、赤を知ることはできません。 でも、有用か無用かだけなら知ることができるかもしれない。 しかし、それは光を知る人に直接聞かなければならないと言うことです。 輪廻と業を知る人がいるかどうか私は知りません。 今までは一人もいませんでした。 そういうことです。
お礼
ううーん。余計にむつかしくなりました。 わたしは 無用と考える。みなさんは どうですか? このような単純な問いです。
- AXIS_
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>業とは仏教の基本的概念である梵:karman を意訳したもの。 >サンスクリットの動詞の「クリ」(kR)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。 ではなぜ 行為 と 業 を使い分けているのか? >☆ 《別にする》だけでは なりませんね。No.23お礼欄では 次のように書いています。 それぞれのかかわりを論じるのと、それぞれを理解するのは別の話です。 >☆ 投げ遣りですか? 自分で理解する力をつけましょう。
お礼
ううーん。ご投稿をありがとうございます。 ☆☆ (No.40お礼欄) ~~~~~~~ ★ あとは自分で好きなように考えよう。 ☆ 投げ遣りですか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは その文の意味を問うただけのものです。それを こんどは どういうわけか 回答全体が投げ遣りの傾向を帯びて来ましたね。 ☆☆ (No.40お礼欄) ~~~~~~~~ ★ 因 と 縁 と 果 は別にして考えましょう。実際、ここでも別にして論じていますね。 ☆ 《別にする》だけでは なりませんね。No.23お礼欄では 次のように書いています。 ○ 自分の為した行為を因として 他者の行為を縁とし 自分の 犯した因によって 自業自得の果を得る。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これに対して 次の応答のみがあります。 ★ それぞれのかかわりを論じるのと、それぞれを理解するのは別の話です。 ☆ だからどうなのか。それを言わずにです。 ★ ではなぜ 行為 と 業 を使い分けているのか? ☆ いえいえそういうたぐいの問題ではなく ただ昔は 漢訳を使っていたというだけのことです。漢訳では 《業》と訳していたというだけのことです。最近は 原文から直接に和訳する場合が増えて来ています。
>要するにこたえをうながすための文章を書き込みました。 光を知る人に赤い絨毯は赤い。 光を知らぬ人に赤はない。赤は有用か無用か。真に知る人に聞きたまえ。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 真に知る人に聞きたまえ。 ☆ 知る人などはいない。ということでしょうか?
先生から、またまた他流試合の申し入れが・・・ 落ち武者の余力を奪ってしまおうとは、薄情な・・・ 壇ノ浦の決着ではまだ納得できないらしい・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~ 祈りの話しを持ってきて、焦点を少しボカしてしまったのには訳があります。 (これが本当の言い訳というやつ・・・失礼) 終りにしてしまいたいという気持ちも正直ありました。 この辺で先生を煙にまいてしまおうという、ずるさですね。 (また怒られそうだ・・・) 祈りの話の裏側は、裏側としてお話すべきではないものです。 それは、主観客観を含めて、私が持っている信仰の土台を明かすべきではないという気持ちがあるからです。 でも、ほんの少しぐらいはお伝えしなければ失礼に当たるような気がします。 (もったいぶっているか・・・) ・・・・・・・・・・・・・ もう30年近く前の事になります。 祈ったのではなく、祈られたのです。 その時に頂いたものは、今も私の中に生きています。 それは私の人生において決定的なものでした。 初対面の出会いにおいて、求めずして、私の事を祈ってくださった方がいたのです。 そこから拙い信仰がはじまりました。 還相の利の面の純粋さを得る事と守る事・・・と書きましたが そうした体験があったからこそです。 仏の徳の直接の受持という事でもありました。 その内容についてはお話すべきではないように思われます。 直接の世界の内容は、その当事者のみに与えられた真実だからです。 言葉だけでは、祈りの本質的な面を伝えられないとも思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 失礼や悪ふざけの段、ご容赦ください。 お付き合いくださいましてありがとうございました。 また、お会いしたく存じます。 お元気で。
お礼
分かりました。――お早うございます へたのすけさん。ご回答をありがとうございます。 こういう区切りのつけ方になるのだと思います。 お言葉に甘えた言い方をすれば 前回のかたちでわたしが了解しましたと言ってしまっていれば 確かに《煙に巻かれてしまっていた》ところでしょう。 それにしても 輪廻や業が人びとの話題にのぼることは 現代でもふつうのことなのでしょうか。と愚痴を述べつつ。
- AXIS_
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>☆ これは詭弁です。その《状態》をまねいたのは 因となった《行為=業》です。 これこそ詭弁ですね。行為=業 ではありません。 >状態だけを別とするのはおかしいと言っています。 因 と 縁 と 果 は別にして考えましょう。実際、ここでも別にして論じていますね。 あとは自分で好きなように考えよう。
お礼
アクシスさん ちょっと強引ではないでしょうか。 まづは ご回答をありがとうございます。 ★ 行為=業 ではありません。 ☆ No.4のお礼欄で次を引いておきました。 ▲ (ヰキぺ:業) ~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD 業とは仏教の基本的概念である梵:karman を意訳したもの。 サンスクリットの動詞の「クリ」(kR)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。 業はその善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《果報》には 因となる業(行為)に対応した業(行為)が基本的にあたります。そしてその果報としての行為にまつわる状態が生じるはずです。 ですから ☆☆ 状態だけを別とするのはおかしいと言っています。 ★ 因 と 縁 と 果 は別にして考えましょう。実際、ここでも別にして論じていますね。 ☆ 《別にする》だけでは なりませんね。No.23お礼欄では 次のように書いています。 ○ 自分の為した行為を因として 他者の行為を縁とし 自分の 犯した因によって 自業自得の果を得る。 ★ あとは自分で好きなように考えよう。 ☆ 投げ遣りですか?
>これまでにかなりやり取りを経て来ていますので どうお応えしてよいやら控えてしまいました。 そうでしょうとも。私も同じでした。
お礼
あくる朝ですが つづいてです。 無用・有用についてあきらかではないと受け取ったところから その前の段階(無用・有用を決める前の段階)として わるく言えばお茶をにごしたかたちですが 要するにこたえをうながすための文章を書き込みました。
自由 ことに表現の自由は大切なことです。お好きなように。お気のめすままに。 だからこそ、私のようなものさえも回答できる。 輪廻や業の思想についてに限らずです。
お礼
つづいてです。 ★★ (回答No.37) ~~~~~~~~~~~~~ 「私は、太平洋戦争で米軍の兵士として、日本兵の自爆の巻き添えにあって硫黄島で死亡して、今は、日本人として教員をしている。」 なんて記載はないものでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おもしろいのですが さすが――文学としておもしろいと思いますが――哲学としては どうでしょうか。その記載ないし記憶をどう哲学として生かすかは いまひとつ分かりませんでした。そういう感想でした。 それと これまでにかなりやり取りを経て来ていますので どうお応えしてよいやら控えてしまいました。つまり 上の物語のおもしろさをどう生かすか わたしはいま鈍くなっているかも知れません。 そんなところでした。
「私は、太平洋戦争で米軍の兵士として、日本兵の自爆の巻き添えにあって硫黄島で死亡して、今は、日本人として教員をしている。」 なんて記載はないものでしょうか。 この種の記憶がないのに輪廻と業の説を流布する人間の気が知れない。 逆に、記憶があると言う人を否定するなんて事ができる理由は見あたりませんけど。 無用?有用? 私には、そういった記憶はないし。単にそれだけ。それでいい。
お礼
地勢ペンさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 個人の主観として内面にいろんなことを思っても ちょうど信教・良心の自由のように 自由なのだと思います。 その上で そのことが言葉で表わされたなら その文章について――特にその判断の妥当性いかんを――考えるというのも 社会における交通というそのおこない自体として ふつうに実行されるものと考えます。 わたしはこれこれこう思う――わたしなら そこのところをあれそれそう思う。・・・こういったやり取りは きわめてふつうに自由におこなってよいのではないでしょうか。この輪廻や業の思想についてに限らずです。 どうでしょう?
要らぬ事かも知れません。 >無はあくまでも無であった。 そのような無を知り、まずは無をもってこそ人間たらしめる知性は広がる。 そのように薦めたのがお釈迦様です。 それには中途半端で迷信を含む有神論は困惑するでしょう。
お礼
そうですね。 ブッダの見解については 次のように捉えています。 ★ ~~~~~~~~~~~ >無はあくまでも無であった。 そのような無を知り、まずは無をもってこそ人間たらしめる知性は広がる。 そのように薦めたのがお釈迦様です。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ たとえば《無我:アン‐アートマン(非・霊)》というときの《無》は アートマン(我)を否定するという意味だと考えます。 変わり得ないものは無い こういう否定の意味を表わすと。 ですから もし ★ 何々をもってこそ人間たらしめる知性は広がる。 ☆ というのでしたら それは すでに提出していただいたところの ★ あるのでもなく ないのでない ☆ をもってこそ人間たらしめる知性は広がるというかたちを ひとつに考えます。思い浮かべます。 ★ それには中途半端で迷信を含む有神論は困惑するでしょう。 ☆ これは基本的にはありません。なぜなら 《あるのでもなく ないのでもない》という非経験の場は 有神論にとっても同じ非思考の場ですから。 神ないし無い神についての物語が《迷信を含む》かどうかは 物語の出来不出来によるのでしょう。有神論および無神論が 信仰として成立していることと いづれの場合にもその物語の中に迷信を含み得ることとは 分けて捉えるほうがよいと考えます。
お礼
へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。ここまでおつきあいいただきまして ありがとうございます。 さて 話が――と言いますか こころがと言うべきでしょうか――噛み合わさって なかなかたのしい対話でありました。どこかボケとツッコミの漫才でもあったでしょうか。 そうですね。わたしはいつも撞かれた鐘として響いて来ていましたが 相手のほうからも鳴り響いてくる音を聞くのは 正直なところしばらくぶりでした。 ★ 還相についてですが・・・ ☆ たしかにいわゆる教学においてむつかしい教理があるように聞いております。詳しくは覚えていないという体たらくですが ぎゃくにわたしは勝手に解釈して積極的に《人間的交通への踏み出しあるいは対話の姿勢》という意味で使っています。 ★★ (回答No.29) ~~~~~~~~~ 悟りを求めるほどの心が、他者に向けられないという事はないでしょう。 ましてや、悟りを得た心がどれほどのものか・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この姿勢もしくは心構え だけでじゅうぶんという捉え方です。おそらくこの意味での還相は 述懐しておられるように すなわち: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ でも祈りの本質は、祈りの度に祈る心を与えられている、ところにあるような気がしますし その新鮮さの中にあって、現実をより良く捉えてゆけるところにもあるとも思われます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というこの《祈り》にも通じているものと思われます。 そこで問題点のひとつは: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 見方を変えれば、人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問にまで及ぶものです。 そして、この事に於ける論から実証への展開といったものは、果たして人の口から語られるべきものなのでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これにつきましては わたしの筆の力が及びませんで 誰かから引いて来ることになります。 ▲ (パウロ:コリント後書 13:7) ~~~~ わたしたちは 自分が本物の信仰者として見えるようにということではなく たとえ偽物の信仰者と見えようとも あなたたちが善を行なってくれるようにと願っているのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ま 上から目線でもあるのですが そういう役割をになう人びともいるということではないでしょうか。 ★ 人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問 ☆ をもってみづからの身をつつしみつつ――同時にそのようにしつつも―― 勇み足を辞さないボケを演じる人間もいてもいいのではないでしょうか。さもなければ 仏性がやどるという命題は撤回していただきたい。 《疑問》は 身をつつしむためのものでしょう。つつましやかであることと 相手と場合によっては・またはそのときの社会の情況によってはバカを演じることとは 両立すると胸を張って考えます。それに大きく言っても 末法なんでしょ? これだけ鐘の音が鳴り響いてきたのであるなら わたしはバカから足を洗って さらに利口ぶりを発揮しなければならないでしょう。決定的なことをのべます。 祈りは あくまでひとの目から隠れて――つつましいというのは 身を包み思いは胸に包み込むという意味ですから――おこなうものであると同時に 祈りのことを口に出すときというのは よっぽどの時だけです。ひとつの最後のことばになりがちなところがあります。 これを言いかえると・そして逆にいぢわるく捉えるならば 祈りを口にするというのは 《還相》のための言い訳にしか過ぎなくなると考えるのです。還相のためのアリバイづくりにしか過ぎません。 自信や確信がないのであれば 信仰を持つ意味がありません。というよりは 自信があやふやなときに それでも信じるというわが存在の動態があるのならば 大いに他流試合をいどむのが ふつうの社会生活なのではないでしょうか。 いまは そういう時代でしょう。 捨て台詞のごとくなったとしても 天の岩屋戸籠りは ふるいと申し上げておきましょう。 底抜けの脳天気よりにて。