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輪廻と業の説は無用か
- 輪廻転生は同じDNAを持つ人がいなければあり得ない誤謬である
- 意志行為が原因で縁を引き寄せ、一生涯を超えてはたらくことはあり得ない
- 因果応報の説は人間の生まれてから死ぬまでの現実性を持つか
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還相についてですが・・・ 自らが受け取ったものを他者に振り向ける救済の行為か、或いは、そこにおいて生じる結果そのものを指すのか はたまた、そのどちらでも無い、作用を及ぼす働きが生じたという慈悲の具現化を指すのかどうか 或いはそれら全体を意味する事も可能性としてありましょう。 見方を変えれば、人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問にまで及ぶものです。 そして、この事に於ける論から実証への展開といったものは、果たして人の口から語られるべきものなのでしょうか。 主観的な範囲に留まる内容などは、否定的論法により一蹴されてしまうものと思われます。 また、下手な客観性といったものを持ち出せば、愚かだと決めつけられてしまうでしょう。 還相の利の面の純粋さを得る事、守る事は容易ではない感じがいたします。 私個人においての還相の行果として確かめられうるものは「祈り」です。 仏から頂いたものでありながらも、自らの能動的な慈悲心の発露としても感じ取れるものです。 この点については、ブラジェロンヌ様も既にご承知の事と存じます。 でなければ、私に書くようにとはおっしゃられなかったでしょう。 ついでながら、私が仏様にたいして逃れ得ぬ非というものを感じているものも、また還相の中にあります。 それは、受け止めているものの大きさに比しての行いというものを、常に小さく感じているからでもあります。 それでも尚、祈っている時には救われます。 信仰という主観の中に納まるものでありながらも、自らがおかれている現実の広がりを変えうる力を得られたと思い込む事ができるからです。 やはり私は弱いのでしょう。 でも祈りの本質は、祈りの度に祈る心を与えられている、ところにあるような気がしますし その新鮮さの中にあって、現実をより良く捉えてゆけるところにもあるとも思われます。 そんなところです。 あとは先生にお任せいたします。 それではお元気で。
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- yuimakozi
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お答えします。 (1)輪廻転生という概念は、古代インドの思想ですが、DNA(物質)が生まれ変わると言う意味ではありません。もしそうだとしても同じDNAを持っているかなんて、確認できませんよね。過去現在の全ての人間のDNAを調べる事なんてできませんから。 当時の人々は、人間の実体である「我」(アートマン)=魂のようなもの=が輪廻転生するのだと考えたのです。それが、物質なのかエネルギーのような物なのか不明なので、完全には否定できません。 ちなみに、仏陀は、「諸法無我」と言う立場をとっています。つまり、この世に存在する全てには、実体としての「我」なるものは存在しないといっています。輪廻転生には、否定的です。 (2)(3)(3-1)(4)同感です。仏陀も「善因善果」、「悪因悪果」を否定しています。 人間の行為は、何かの原因の1つとなる事は現実だと思いますが、因果関係の全てではないと思います。 原因と結果には因果関係はあっても、善とか悪とかの概念とは別物です。 (4-1)輪廻とか業などと言う考え方は、2千数百年前の科学も未発達な時代の概念であり、無用であると思います。 輪廻転生とか業とかの思想は、仏教と一緒に日本に入ってきましたが、仏陀の考えが正しく伝わらず仏教を信じさせるために悪用されている現実に怒りを感じています。 この機会に、ベーダ、ウパニシャド、原始仏教等のインド思想を勉強する事をお勧めします。
お礼
唯摩居士さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ううーん。そうなのですか。基本的に言って ○ 輪廻も業による因果応報説も どちらも間違って解釈されたのだし 間違ったそのままが伝えられている。 ☆ ですね? すなわち ○ 輪廻転生は 同じ人間がそのまま《生まれ変わる》ことではない。 ★ 当時の人々は、人間の実体である「我」(アートマン)=魂のようなもの=が輪廻転生するのだと考えたのです。それが、物質なのかエネルギーのような物なのか不明なので、完全には否定できません。 ★ ちなみに、仏陀は、「諸法無我」と言う立場をとっています。つまり、この世に存在する全てには、実体としての「我」なるものは存在しないといっています。輪廻転生には、否定的です。 ☆ としますと 《ブッダにと成った》者は 二度と生まれて来ないという言い方 これもヱ゛-ダ宗教の中身を用いて単なる方便として言ったのみだということでしょうか。 ○ 因果応報説 これも ひとりの人間の一生のあいだですら 成り立たない。成り立つと言ってはいない。 ☆ ということでしょうか? ★ ~~~~~~~~~~~~~ 仏陀も「善因善果」、「悪因悪果」を否定しています。 人間の行為は、何かの原因の1つとなる事は現実だと思いますが、因果関係の全てではないと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ううーん。そうなんですか。たぶんみなさんは ええっ? と聞き返すだろうと思いますねぇ まづは。 取り敢えずいまは 次のようなヰキぺの記事をここに載せて 或る程度はさらに考えていくことにしましょう。 ▲ (ヰキぺ:業) ~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD § はじめに(あらまし) 業とは仏教の基本的概念である梵:karman を意訳したもの。 サンスクリットの動詞の「クリ」(kR)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。 業はその善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。 アートマンを認めない無我の立場をとる思想では、心の流れ(心相続)に付随するものとされた。中国、日本の思想にも影響を与える。 「ウパニシャッド」にもその思想は現れ、のちに一種の運命論となった。 § バラモン教の業 △ (『ブリハド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』) ~~~~~~~~~~~ あたかも金細工人が一つの黄金の小部分を資料とし、さらに新しくかつ美しい他の形像を造るように、この我も身体と無明とを脱して、新しく美しい他の形像を造る。それは、あるいは祖先であり、あるいは乾闥婆(けんだつば)であり、あるいは諸神であり、生生であり、梵天であり、もしくは他の有情である。…… 人は言動するによって、いろいろの地位をうる。そのように言動によって未来の生をうる。まことに善業の人は善となり、悪業の人は悪となり、福業によって福人となり、罪業によって罪人となる。 故に、世の人はいう。人は欲よりなる。欲にしたがって意志を形成し、意志の向かうところにしたがって業を実現する。その業にしたがって、その相応する結果がある ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ § 仏教における業 釈迦は自ら「比丘たちよ。あらゆる過去乃至未来乃至現在の応供等正覚者は業論者、業果論者、精進論者であった」といわれたといわれるように、因果論の主張者であった。 しかし、業を物質的なものであると考えたニガンタ・ナータプッタとは異なり、心のエネルギーとして、物質的形態をとらないものとして考えた。 比丘たちよ、意思(cetanaa)が業(kamma)である、と私は説く。 『中部経典』 (Majjhima-Nikaaya) §§ 三業 ・身業(しんごう、Kaaya) - 身体の上に現る総ての動作・所作のこと。 悪業では偸盗・邪淫・殺生など。 ・口業(くごう、Vaaca) - 語業ともいう。口の作業、すなわち言語をいう。 悪業では妄語・両舌・悪口・綺語(二枚舌・飾った言葉)など。 ・意業(いごう、Cetanaa) - 意識・心のはたらきで起こすこと。 悪業では貪欲・瞋恚・邪見など。 仏教では、これら身口意の3つの悪業を離れ、善業を努めることが大事とされる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 掲げますが よく分かりません。
すでに答えは出ているように思われますが・・・ 仏典によれば 釈迦が悟りを開く直前に、瞑想の中において、自らの過去の生涯を繰り返し観た・・・とされています。 この記述を否定しない限り、無用とは言えないでしょう。 釈迦の悟りが、輪廻の実相を体験した上でのものであった事は確定しています。 また、その事を疑う仏教徒はいません。 ただ私達が及ばないだけの事です。 釈迦に等しい追体験をされた方は、ごく稀な聖人だけであって、私達凡人は信じるより他にないのですが 信じる事ができなければ、無用という事にもなるのでしょう。 無用という言葉は悲しいですね。
お礼
へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ すでに答えは出ているように思われますが・・・ ☆ そうですね。ほとんど確認のみを要求しているかにも自分ながら思えます。以前に同じ質問をしたときには DNA のことをいっさい出すことを思いつかなかったのです。そして回答者の中からもそれに触れることはありませんでした。その結果〔かどうかは分かりませんが〕 因果応報は 文字どおりにそのとおりだという回答も得られました。 ご紹介するとしますと けっきょく――ブッダのように涅槃に入って もう人間に生まれることもないようになるのではなく そうでないとしたら けっきょくまだ修行が足りんということになりますから―― いまの現世に生まれて来ているわれわれは みな前科者だということになります。なら すべての行為や社会現象との出会いは 自業自得なのである。というものです。 じっさいのその中身を分析して知ることも ほとんど無理なのでしょうが 世界は因果応報によって成り立っているというわけでした。 ところが――新説として受け取りましたが―― ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 仏典によれば 釈迦が悟りを開く直前に、瞑想の中において、自らの過去の生涯を繰り返し観た・・・とされています。 この記述を否定しない限り、無用とは言えないでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですか。内容としては ほんの少し頭をめぐらせば分かるように思ってしまう材料かとは思いますが なるほどそういう問題がありましたか。 ただ でしたら ここでこそ DNA の問題が効力を発揮するのではないですか? どうでしょう? つまり 釈迦のそのような《過去世における輪廻》は あくまで方便として物語として語っている。こうはなりませんか? ★ その事を疑う仏教徒はいません。 ☆ と言われると 何だか気の毒なように思ってしまいますが でも どうなのでしょう? ほかに判断のしようがないように思うのですが?
- cincinnati
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プロテスタントのクリスチャンとして、 1)輪廻という考え方を受け入れておりません。聖書ではイエスキリストを信じるものは「永遠の命」をもつと記載されています。 2)人は行いにより救われるのでははないとも述べられています。 3)1および2を否定しておりますので、3、および3-1は検討の対象外となります。 4)イエスと弟子があるとき障害者に出会った、その時弟子がこの者がこのような障害を持っているのは何か彼が罪を犯したのですかとの質問に、イエスはそれは神の栄光が現れるためであると述べてその障害を直したという記載があります。 5)人がなにを信じるかはそれぞれの自由な意志に基づいておりますし、神はエバがエデンの園で自分の意志で食べてはいけない木の実を食べる自由を与えておりました。失楽園のはじまりでした。 他の方々の考え方や信仰を尊重します。ただ聖書にある通り、「聞く耳のある方は聞いてください。」というのが一人のクリスチャンの感想です。少しばかりキリストに関する書き込みが増えればと願って回答してみました。
お礼
シンシナティさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ 3)1および2を否定しておりますので、3、および3-1は検討の対象外となります。 ☆ (1)および(2)を否定なさることはそのまま分かるのですが ゆえに(3)が論外になるかと言えば ただちにそうとは限らないのではないでしょうか。 生きているあいだにおいて 善行ゆえに善き結果が得られるといった考え方は 決して無いとも言えないと思います。どうでしょう? すなわち ★ 2)人は行いにより救われるのでははないとも述べられています。 ☆ この命題の意味は: ( a ) 悪行ゆえに 我れに還り自分が自分である境地が得られないかと言えばそれは そうではない。つまり 悪行の《前科》ゆえに救われないとは 言えない。 ( b ) 善行ゆえに わたしがわたしであるその境地が得られ保たれつづけるかと言えば そのまま言いきることは人間には出来ない。 ( c ) ただし 神の力による佑助を得るなら 善行をかさねて生きるようにしたい。つまり善行が善行や救いという結果を運ぶというのではなく そうではなく 《ひとは走るけれども 目的地に到達するのは 恩恵による》。ならば 善因善果という因果応報の説から自由である。 これでよろしいでしょうか。 ★ 聖書ではイエスキリストを信じるものは「永遠の命」をもつと記載されています。 ★ 4)イエスと弟子があるとき障害者に出会った、その時弟子がこの者がこのような障害を持っているのは何か彼が罪を犯したのですかとの質問に、イエスはそれは神の栄光が現れるためであると述べてその障害を直したという記載があります。 ★ 5)人がなにを信じるかはそれぞれの自由な意志に基づいておりますし、神はエバがエデンの園で自分の意志で食べてはいけない木の実を食べる自由を与えておりました。失楽園のはじまりでした。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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いい景色ですね。 朝夕の空気もおいしいでしょうね。 仰せのことは誰も反駁はできないかも知れません。 このお話はブラジェロンヌさんは前にもご質問されていましたね。 このご質問に対し、ブラジェロンヌさんにご納得いただける回答はあの世と此の世を意識を以って行き来し、且つ、あの魂、この魂は今度はあんな衣装、こんな衣装を身にまとい、出て行ったということをみている存在しかできないのではないでしょうか。 そういう存在って、実はあの魂であり、この魂でもある意識存在でしょうね。 ですから、疑問符のままずぅっと続いているのが、個々の只只出入りさせられている魂たちの境涯なんでしょうね。
お礼
景色をほめてもらっておそれいります。ありがとう。 ★ このお話はブラジェロンヌさんは前にもご質問されていましたね。 ☆ DNA を加味してあたらしくなっています。簡潔にけりがつくとさえ思っています。ですから 次のご判断は 果たしてそうなのでしょうか。 ★ このご質問に対し、ブラジェロンヌさんにご納得いただける回答はあの世と此の世を意識を以って行き来し、且つ、あの魂、この魂は今度はあんな衣装、こんな衣装を身にまとい、出て行ったということをみている存在しかできないのではないでしょうか。 ☆ 中学生程度の判断力(いわゆる常識)で 分かるものと考えますが それほど見方がちがっているのでしょうか。
お礼
へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。ここまでおつきあいいただきまして ありがとうございます。 さて 話が――と言いますか こころがと言うべきでしょうか――噛み合わさって なかなかたのしい対話でありました。どこかボケとツッコミの漫才でもあったでしょうか。 そうですね。わたしはいつも撞かれた鐘として響いて来ていましたが 相手のほうからも鳴り響いてくる音を聞くのは 正直なところしばらくぶりでした。 ★ 還相についてですが・・・ ☆ たしかにいわゆる教学においてむつかしい教理があるように聞いております。詳しくは覚えていないという体たらくですが ぎゃくにわたしは勝手に解釈して積極的に《人間的交通への踏み出しあるいは対話の姿勢》という意味で使っています。 ★★ (回答No.29) ~~~~~~~~~ 悟りを求めるほどの心が、他者に向けられないという事はないでしょう。 ましてや、悟りを得た心がどれほどのものか・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この姿勢もしくは心構え だけでじゅうぶんという捉え方です。おそらくこの意味での還相は 述懐しておられるように すなわち: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ でも祈りの本質は、祈りの度に祈る心を与えられている、ところにあるような気がしますし その新鮮さの中にあって、現実をより良く捉えてゆけるところにもあるとも思われます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というこの《祈り》にも通じているものと思われます。 そこで問題点のひとつは: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 見方を変えれば、人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問にまで及ぶものです。 そして、この事に於ける論から実証への展開といったものは、果たして人の口から語られるべきものなのでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これにつきましては わたしの筆の力が及びませんで 誰かから引いて来ることになります。 ▲ (パウロ:コリント後書 13:7) ~~~~ わたしたちは 自分が本物の信仰者として見えるようにということではなく たとえ偽物の信仰者と見えようとも あなたたちが善を行なってくれるようにと願っているのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ま 上から目線でもあるのですが そういう役割をになう人びともいるということではないでしょうか。 ★ 人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問 ☆ をもってみづからの身をつつしみつつ――同時にそのようにしつつも―― 勇み足を辞さないボケを演じる人間もいてもいいのではないでしょうか。さもなければ 仏性がやどるという命題は撤回していただきたい。 《疑問》は 身をつつしむためのものでしょう。つつましやかであることと 相手と場合によっては・またはそのときの社会の情況によってはバカを演じることとは 両立すると胸を張って考えます。それに大きく言っても 末法なんでしょ? これだけ鐘の音が鳴り響いてきたのであるなら わたしはバカから足を洗って さらに利口ぶりを発揮しなければならないでしょう。決定的なことをのべます。 祈りは あくまでひとの目から隠れて――つつましいというのは 身を包み思いは胸に包み込むという意味ですから――おこなうものであると同時に 祈りのことを口に出すときというのは よっぽどの時だけです。ひとつの最後のことばになりがちなところがあります。 これを言いかえると・そして逆にいぢわるく捉えるならば 祈りを口にするというのは 《還相》のための言い訳にしか過ぎなくなると考えるのです。還相のためのアリバイづくりにしか過ぎません。 自信や確信がないのであれば 信仰を持つ意味がありません。というよりは 自信があやふやなときに それでも信じるというわが存在の動態があるのならば 大いに他流試合をいどむのが ふつうの社会生活なのではないでしょうか。 いまは そういう時代でしょう。 捨て台詞のごとくなったとしても 天の岩屋戸籠りは ふるいと申し上げておきましょう。 底抜けの脳天気よりにて。