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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:輪廻と業の説は 無用ではないか)

輪廻と業の説は無用か

このQ&Aのポイント
  • 輪廻転生は同じDNAを持つ人がいなければあり得ない誤謬である
  • 意志行為が原因で縁を引き寄せ、一生涯を超えてはたらくことはあり得ない
  • 因果応報の説は人間の生まれてから死ぬまでの現実性を持つか

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noname#156094
noname#156094
回答No.36

還相についてですが・・・ 自らが受け取ったものを他者に振り向ける救済の行為か、或いは、そこにおいて生じる結果そのものを指すのか はたまた、そのどちらでも無い、作用を及ぼす働きが生じたという慈悲の具現化を指すのかどうか 或いはそれら全体を意味する事も可能性としてありましょう。 見方を変えれば、人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問にまで及ぶものです。 そして、この事に於ける論から実証への展開といったものは、果たして人の口から語られるべきものなのでしょうか。 主観的な範囲に留まる内容などは、否定的論法により一蹴されてしまうものと思われます。 また、下手な客観性といったものを持ち出せば、愚かだと決めつけられてしまうでしょう。 還相の利の面の純粋さを得る事、守る事は容易ではない感じがいたします。 私個人においての還相の行果として確かめられうるものは「祈り」です。 仏から頂いたものでありながらも、自らの能動的な慈悲心の発露としても感じ取れるものです。 この点については、ブラジェロンヌ様も既にご承知の事と存じます。 でなければ、私に書くようにとはおっしゃられなかったでしょう。 ついでながら、私が仏様にたいして逃れ得ぬ非というものを感じているものも、また還相の中にあります。 それは、受け止めているものの大きさに比しての行いというものを、常に小さく感じているからでもあります。 それでも尚、祈っている時には救われます。 信仰という主観の中に納まるものでありながらも、自らがおかれている現実の広がりを変えうる力を得られたと思い込む事ができるからです。 やはり私は弱いのでしょう。 でも祈りの本質は、祈りの度に祈る心を与えられている、ところにあるような気がしますし その新鮮さの中にあって、現実をより良く捉えてゆけるところにもあるとも思われます。 そんなところです。 あとは先生にお任せいたします。 それではお元気で。

bragelonne
質問者

お礼

 へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。ここまでおつきあいいただきまして ありがとうございます。  さて 話が――と言いますか こころがと言うべきでしょうか――噛み合わさって なかなかたのしい対話でありました。どこかボケとツッコミの漫才でもあったでしょうか。  そうですね。わたしはいつも撞かれた鐘として響いて来ていましたが 相手のほうからも鳴り響いてくる音を聞くのは 正直なところしばらくぶりでした。  ★ 還相についてですが・・・  ☆ たしかにいわゆる教学においてむつかしい教理があるように聞いております。詳しくは覚えていないという体たらくですが ぎゃくにわたしは勝手に解釈して積極的に《人間的交通への踏み出しあるいは対話の姿勢》という意味で使っています。  ★★ (回答No.29) ~~~~~~~~~  悟りを求めるほどの心が、他者に向けられないという事はないでしょう。  ましてや、悟りを得た心がどれほどのものか・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この姿勢もしくは心構え だけでじゅうぶんという捉え方です。おそらくこの意味での還相は 述懐しておられるように すなわち:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  でも祈りの本質は、祈りの度に祈る心を与えられている、ところにあるような気がしますし  その新鮮さの中にあって、現実をより良く捉えてゆけるところにもあるとも思われます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というこの《祈り》にも通じているものと思われます。  そこで問題点のひとつは:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  見方を変えれば、人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問にまで及ぶものです。  そして、この事に於ける論から実証への展開といったものは、果たして人の口から語られるべきものなのでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これにつきましては わたしの筆の力が及びませんで 誰かから引いて来ることになります。  ▲ (パウロ:コリント後書 13:7) ~~~~  わたしたちは 自分が本物の信仰者として見えるようにということではなく たとえ偽物の信仰者と見えようとも あなたたちが善を行なってくれるようにと願っているのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ま 上から目線でもあるのですが そういう役割をになう人びともいるということではないでしょうか。  ★ 人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問  ☆ をもってみづからの身をつつしみつつ――同時にそのようにしつつも―― 勇み足を辞さないボケを演じる人間もいてもいいのではないでしょうか。さもなければ 仏性がやどるという命題は撤回していただきたい。  《疑問》は 身をつつしむためのものでしょう。つつましやかであることと 相手と場合によっては・またはそのときの社会の情況によってはバカを演じることとは 両立すると胸を張って考えます。それに大きく言っても 末法なんでしょ?  これだけ鐘の音が鳴り響いてきたのであるなら わたしはバカから足を洗って さらに利口ぶりを発揮しなければならないでしょう。決定的なことをのべます。  祈りは あくまでひとの目から隠れて――つつましいというのは 身を包み思いは胸に包み込むという意味ですから――おこなうものであると同時に 祈りのことを口に出すときというのは よっぽどの時だけです。ひとつの最後のことばになりがちなところがあります。  これを言いかえると・そして逆にいぢわるく捉えるならば 祈りを口にするというのは 《還相》のための言い訳にしか過ぎなくなると考えるのです。還相のためのアリバイづくりにしか過ぎません。  自信や確信がないのであれば 信仰を持つ意味がありません。というよりは 自信があやふやなときに それでも信じるというわが存在の動態があるのならば 大いに他流試合をいどむのが ふつうの社会生活なのではないでしょうか。  いまは そういう時代でしょう。  捨て台詞のごとくなったとしても 天の岩屋戸籠りは ふるいと申し上げておきましょう。  底抜けの脳天気よりにて。

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noname#117439
noname#117439
回答No.34

A27についたお礼を改めて読み解きました。 おっしゃることはごもっともです。 だからこそはっきり言いましょう。 「無」すらも方便です。 仏道とは多くの方便をかき分けて真実を知るすべに非ず。 仏道の、その全てが方便である。 全てを非思考に預け自らの信仰すらも表す言葉をもたなかった。 だからこそ方便たる例え話に終始した。 入滅したはずのお釈迦様の生きた姿をゾンビの如く復活させるとそのようになります。 要するに全てがはったりです。 わたくし事ですがときわたりにおいて「無」たる死線を潜り抜けるのは困難を極めました。 そこには信仰は無い。 潜り抜けるだけのお化け屋敷が仏道です。 無は無かった。 では無く、 無はあくまでも無であった。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。今回は 一度や二度読んだだけでは読み解けないと感じています。  取り敢えずの応答です。  ★ 仏道の、その全てが方便である。  ☆ そうですね。これは 《仏道》に限定したなら その意味が特定できなくなるように思います。  ひとつに 人間の言葉は 特に非思考の場のことがらをわざわざ経験思考の言葉に翻訳するときには すべて喩えであり 方便になります。  もうひとつに ブッダの言葉の中には きわめてふつうの経験思想をあらわす表現もあります。ちょうど出て来た例があります。  ▲ (No.31お礼欄:ブッダの真理のことば )~~~~~  1. ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。  2. ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。――影がそのからだから離れないように。  ([ダンマパダ-法句経] 中村元訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これなどは 心理学であり倫理学であり ふつうの経験思考として述べていると考えます。  ですからもし《すべてが方便としての表現である》ということでしたら むしろ次の場合にもあてはまると考えるのです。  ★ 入滅したはずのお釈迦様の生きた姿をゾンビの如く復活させるとそのようになります。  ☆ 《ゾンビのごとく復活させると》と言うよりは そのままあくまで初めから《方便として述べている》として取り扱ったほうがよいというひとつの見方です。  ★ ~~~~~~~~~~~~  わたくし事ですがときわたりにおいて「無」たる死線を潜り抜けるのは困難を極めました。  ・・・  無は無かった。  では無く、  無はあくまでも無であった。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように使われた《無》は わたしには――感触としてですが―― 《闇》という意味あいにおいて聞こえます。光の届かぬところという意味あいです。  ★ ときわたりにおいて「無」たる死線を潜り抜けるのは  ☆ については やはりさらに説明が俟たれるのではないでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~  そこには信仰は無い。  潜り抜けるだけのお化け屋敷が仏道です。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ これについては飛躍して解釈するのですが わたしの感触では こうであるように思います。すなわち  ○ ~~~~~~~~~~~~  無ないし闇の中から 光が差して来る。  じっとしている。  闇の中で目がまだ慣れていない。  真っ暗だとさえ認識していない。  そこで じっとしている。  動いていても その闇の情況に自分自身を合わせている。  まだ 何も見えない。  動いていても わが心は じっとしている。  そこから どういうわけか 光の差し込むのに出会う。  あとで思うと《お化け屋敷》であったかも知れない。  わたしは じっとしていてその身を何ものかによって推し出された。  あたりが薄暗い状態になって 光がその闇のなかから光り始めた。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ひとによって いろいろであるかとも思います。取り敢えず こんな感じです。

noname#117439
noname#117439
回答No.33

「かろうじて」であったとしても良識を体現しようとする方が退散してしまっては全てが闇の呑み込まれる故、助け合い運動です。 このカテでは他方で「精神汚染」について論議されています。 バカが移る現象でして有りえそうなところが怖いです。 あるのでもなく、ないのでもない http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_7_23.html 魂の所在について 「あるのでもなく、ないのでもない」 魂と言う観念上の規定はそれを想定するという発見が示すようにあるとも言いうる。 しかし全てが無常とする信教の上では、それはうかがい知りようも無いと言う意味で無いとも言いうる。 すなわち魂とは全ての拠り所を示す表現であり、それは絶対に属する事柄であり「無」の信教、すなわち無常とは相いれない。 このようにお釈迦様の曖昧な業罪について弁明します。 無の観想には明白な欠点があり、それは生きることについてすらも語らなかった事です。 お釈迦様は現代ではお笑い芸人のお師匠様です。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  ★ 仏教青年 Q & A 魂という概念 / あるのでもなく、ないのでもない  ☆ これは 浄土真宗からの回答ですが 一歩踏み込んでいるかと考えます。  ▲ (魂という概念)~~~~~~~~~~~~   http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_7_23.html  ここでいう「魂」とは、輪廻(生まれ変わり)する主体、つまり肉体が滅びてもなくならないもののことで、そのようなものがあるかないかについて、当時の古代インドでは真剣な議論がされていたそうです。  これに対する、お釈迦さまの答えは一風変わったもので、「あるのでもなく、ないのでもない」と答えたわけですから、質問者をおちょくってると考えてもいいぐらいですが、重要なのは、お釈迦さまは「魂」があるといわなかったと同様に、ないともいわなかったということです。いわば、「魂」があるとかないとか、「そんなことはどうでもいい」といったわけです。  なぜかというと、そういった議論は「輪廻」を前提にしているわけで、そういうありもしないものを前提にした議論はすべて駄目だからです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。この説くところを超えて減らず口をたたきますが ブッダは ひとつに 主宰神で実質的に唯一神であるブラフマン(そのアートマンとの対応)を否定したわけですから ゼロ思想を打ち出しました。 経験世界において ものごとは縁起として現象しているけれども 諸行無常で ゼロである。と同時に 神学において唯一神を否定したとするなら 非思考の場においても ゼロ信仰を打ちたてた。  上の文章の中の《魂》は 神ないしゼロという神(無神)と 《わたし》との関係を言っていると考えます。神が永遠であるならば この魂もその永遠という場に与かっているとなります。  そこで 有神論は 一たん生を受けたのなら 神との関係(愛)において《わたし》は永遠であると 言ってみることになる。  無神論(ゼロ信仰)は そんなものは無い。あるいは かかずらう必要はない。ゼロ信仰およびゼロ思想をつらぬけばよいと言ってみることになる。  ちなみに バラモンの宗教では 生まれる前からこの神と《わたし》との関係はつづいているのであって いづれかの人間の生においてわるいことをしたなら その後生まれ変わったときには わるい人生や境遇に遭うと言ってみる。つまりこの所謂る前世のことをも物語に採り入れれば それによっていま現世での人生における境遇の良し悪しを説明してやることができると踏んだのでしょう。  いわゆる体制維持には持って来いの思想だったようです。いや 今でもでしょうか。  つまり この輪廻思想は 《神と〈わたし〉との関係》が 《〈わたし〉たちのこの世の社会的な行為関係》と自由自在につながっていると 神学としてではなく 経験思想として主張しているようなのです。業による影響あるいはもっときちんと言えば 業に対する神のさばき これが つねにこの目に見える現実に反映すると唱えている模様なのです。現実的なるものは理性的であり 理性的なるものは現実的であると。つなり 結果がすべてだと。だから たぶん拉致されたのなら されたおまえがわるいというさばき(因果応報)なのではないでしょうか?  ★ あるのでもなく ないのでもない  ☆ これは もっと簡単にまとめることができます。  ○ 非経験の領域(つまり早く言って 神)については 経験世界の《有る・無い》という概念が当てはまらない。なぜなら 経験世界を超えているから。ちなみに 経験行為にまつわる善か悪かをも むろん 超えている。  ☆ つまり あるでもなく無いでもないとか 善でも悪でもないとか説明するのではなく 有無や善悪を超えているという説明です。それが 非経験ないし非思考の場ですから。  ○ ぎゃくに言って 経験的なことがらとしての《有る・無い》で 神のことを呼ぶという習慣が 人それぞれに自由に持たれることになる。有神論と無神論とである。  ○ 神については 有るもしくは無いと仮りに想定したなら それらをそれぞれつらぬくのがよい。無い神を信じると言ったあと 有る神(聖霊)に属すると考えられる仏性を持ち出すのは 論理上の矛盾になる。  ★ お釈迦様は現代ではお笑い芸人のお師匠様です。  ☆ これは わたしはどうでもよいものとします。言ったからどう意味がひろがるか見通せません。

noname#117439
noname#117439
回答No.32

基本的事柄を踏まえないで輪廻説を提唱する方への処方箋です。 猿回し形式思索法でもあります。 過去世、現世、来世、全ては読んで字のごとく問うているのは「世」です。 しかし文献の類は「世」では無く実質的に過去生、現生、来生、について記述されています。 世についてならば、私が生きている間以外にも世は存在した。 これは当たり前の事です。 そして輪廻説でといているのは「世」では無く「生」です。 生は全てが今生で収まり、私の過去はこうであった、現状はかようである、未来はかようであろう、単純にその範囲で限定されるのが輪廻です。 そこにはすなわち、死に隔てられたならばそれはすなわち自らでは無い。 このような考え方になります。 ところがその、死による隔ては、超克が可能です。 それは、私の言葉では「時わたり」に含まれますが、過去の文献では死を克服して不死を得た覚者として語り継がれています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 生は全てが今生で収まり、私の過去はこうであった、現状はかようである、未来はかようであろう、単純にその範囲で限定されるのが輪廻です。  ☆ この意味での《輪廻》でしたら ちょうど直前にひどっちさんが 《輪廻=経験世界の迷い》という表現で説明してくれています。と思います。この輪廻説をも超える話を展開しましたので その点も留意していただけるならさいわいです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  ところがその、死による隔ては、超克が可能です。  それは、私の言葉では「時わたり」に含まれますが、過去の文献では死を克服して不死を得た覚者として語り継がれています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この主題は 通りすがりに処理しておけるといったものではなく 大問題だと思いますので 軽々とわたしも評言を与えるわけには行きません。

noname#135843
noname#135843
回答No.31

 申し訳ございません。2回に分けて投稿させていただきます。 > ☆ いったいどういうことかと いぶかしみます。因果応報なんて言っていないのでしょうかね。  ある現象を前にしますと、その各人におけます表象もしくは感じ方は異なるものかと思われます。人によっては、また仮に同じ人でありましても、状況次第では、“良い”と感じたりや“不愉快”だと感じたりするものと思われます。  ですが、その“不愉快”と抱いて、心安まらないのであれば、それは、自分自身がそのように(勝手に)受け止めている(“受”・“想” 等でございます)に過ぎないということかと存じます。つまり、自分を苦しく思わせているのは、勝手に自分がそのように解釈してしまっている(対象を受け取ってしまっている)ため生じてしまうと解しております。  つきましては、“自業”=“勝手に悪く解釈する”、“自得”=“悪い・心の平安を乱す”と考えております。 ブッダの真理のことば [ダンマパダ-法句経] (中村元訳) 1. ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。??車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 2. ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。??影がそのからだから離れないように。 > ☆ けっきょく定まりません。か それとも そもそも無用であると見るかだと受け取ります。  「心に安らぎに寄与しない」のであれば、無用かと考えております。 > どうも後味がわるいようにも感じています。すっきりしているのに さとりの境地にあっては 過去世や未来世が分かるようになるとか そこに神通力をも含ませて けっきょく輪廻も業の展開も 残しておこうという動きがあるように見えます。  当初は、“方便”として、(ある意味仕方なく)“死後の世界”等を認めていたのでしょうが、今度は、かえってそれに“悩まされる”、“不要な争いが生じる”というのは、釈尊の意図に反するものと思っております。  お役に立つところがございましたら、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 非経験のナゾの領域に向かいあうことによってこそ人びとは この社会が自分たちの共同自治する世界そのものであると自覚します。神に向き合うときひとは それぞれ一人ひとり互いに平等であり対等であり自由だと信じられるからです。神は そんな子供だましのような《自由と平等を演出するからくり装置》であるかも知れません。その神は独裁ではないことを――人びとがそれぞれの自由意志をつうじて社会をいとなむことを――知らしめるために 神の子イエスが はりつけの死の最後まで従順であるようになさしめたとも考えられます。これも 人間の勝手な作り話に限りなく近いものでありながらです。  ちょっと脱線しました。  ★ つきましては、“自業”=“勝手に悪く解釈する”、“自得”=“悪い・心の平安を乱す”と考えております。  ☆ この経験世界の縁起(一つひとつの行為の連鎖および循環)を超える領域を模索しなかったのかどうか ブッダはです。善悪の彼岸を模索しなかったのかどうか。  ★▲ (ブッダの真理のことば )~~~~~~~~~  1. ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。  2. ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。――影がそのからだから離れないように。  ([ダンマパダ-法句経] 中村元訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この縁起の法則は 倫理学でしょうが おそらくいちいち他人にそんなことを言われたくないという答えも返って来かねない。ともかく人間理性は ブッダのことばによって満足するように単純には出来ていない。こう帰結していますが どうでしょう?  * 清らかな心でいるにはどうすればよいか? ――さとりを得ればよい。――さとりを得るにはどうすれば? ――清らかな心でいればよい。

bragelonne
質問者

補足

 つづきましてです。  ★★(回答No.30) ~~~~~~~~~~~  元来はむしろ“葬式”なるものには、否定的であったと察せられます。ここでも、死後の世界なるものについて、否定的側面が見られるかと推察されます。  以上から、釈尊は、「非経験の世界」についての言及は一切しておらず、“輪廻”=(経験世界の)“迷い”と解すべきかと考えられます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これについて ひとつには《死後の世界》がそのまま経験から自由な《非経験の世界》であるのかが問題になるのではないかとわたしは考えました。ひとつには おそらくブッダの後世において 別の解釈が現われました。  ▲ (法華経)~~~~~~~~~~~~~~~  考えられないほどの幾千万億劫の昔・・・  そのとき余は最勝の《さとり》に達し それ以来いつも余は教えを説いている。  ・・・  人々は理性が転倒して愚かであり  余がそこに立っているにもかかわらず  余を見ることはない。  かれらは余の肉身が完全に滅したと考え 遺骨にさまざまの供養をする。  余を見ることなく 渇望を生じ かくてかれらに正しい心が生じる。  この世の人々が心ただしく おだやかで 愛欲を離れた者となったとき  そこで余は弟子の集団を集め ここグリドゥラ=クータ(霊鷲山)に余は姿を現わす。  そして そののちに 余はかれらに このように話すのだ。  《あのとき この世で余は入滅したのではない。僧たちよ。  あれは余の巧妙な手段なのだ。余は繰り返し繰り返し人間の世界にいるのだ。》  他の国土の人々から崇め尊ばれたときには 余はかれらにも余の最勝の教えを弘めるのだ。   (《正しい教えの白蓮 》十五 〈如来の寿命の長さ〉 岩本裕訳 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ただこのようなおとぎ話であっても もし非経験の領域を想定し前提にして比喩で語っているのだと説明すれば 通らない話ではありません。つまりその場合には 《生まれる前→生身で生きている時空間→死後》という経験世界の系譜のほかに その次元を超えて《非経験の領域》が立てられるという意味になります。  そうしてそのときには 《死後の世界を信じる》という表現が《経験行為として安心を得る》ためのものであったのに対して 別の様相を持ちます。別の様相を持つ前の情況においては  ★ “輪廻”=(経験世界の)“迷い”と解すべきか  ☆ という思想(生活態度)の問題だと考えます。  別の様相というのは こうです。《非経験の領域を――考えるのではなく またその思考や感情に伴なう安心や不安の問題としてではなく さらにあるいはいわゆるこの世の善悪の問題を超えて――想定上 心の窓とする(その意味で信じる)》というじんるいの事件です。(たしかにこれは わたしの知る限りで アブラハムに起こったのではないかと考えます。ということは 誰にでも起こり得ます。主題として 善悪の彼岸というのも大いにかかわっているのだと 触れておいたほうがよいようです)。  法華経は 総じて言って 単なる文学世界にあそぶといった話であるかとも思います。(《生命》を打ち出したといった解釈があるかも知れません。この生命は ふつうの経験現象を言うのか それともそれを超えた非経験のナゾを言うのか)。同じくメルヘン世界にあそぶのですが 浄土系のブッダの物語は 《非経験の領域》を・したがってそれを《信じる》という人間にとっては動態を暗示するまでには飛躍し発展したと考えます。  ちなみに――空想をあえて展開すれば―― 《信じる》ということは 非経験のナゾを受け容れるという経験的な意志行為であり その後の持続としての動態です。という意味は もしこのナゾを全部知ってしまったとしたら 《信じる》は要らなくなります。そこでは 存在と存在どうしの関係という意味での《愛》は 残るとも言われていますが 《信仰》はもう要りません。  死後の世界を信じるといった表現を得ている段階では けっきょく何度も生まれ変わって 生まれて来て生身でいるときには 何度も《死後の世界を信じる》と言って安心をそのつど得る。こういうことを繰り返す人生です。輪廻が実際のことでなくても そういう思想の構造があります。  つまりはっきり言って 非経験の領域を知らずにいます。知らないかぎり思想(生活態度)の構造は 次元が浅いと言われても仕方がないでしょう。山あり谷あり いいときもあれば わるいときもある。人生あざなえる縄のごとし。面白おかしく暮らしましょう。それにしても税金を負けろ。お上は威張り腐りやがって。の世界です。  

noname#135843
noname#135843
回答No.30

こんばんは、ご返答いただいまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > ☆ 《完全な者 / 渡りおわって彼岸に達し》からすると 《非経験の世界》をも視野に入れていた。もしくは 実際に非経験の世界を指し示している。のでしょうか?  釈尊自身は、「非経験の世界」には否定的であったと考えております。以下にパーリ語経典を列記させてもらっております。 中部経典 63経 「毒矢のたとえ」から  「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのように説くことを要求し、そのようの説くことをしないわたしを拒もうとしている。<中略> マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないという考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。 マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは説くと了解せよ。」 以上のことを世尊は語られた。尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を受け入れた。  なお、一方釈尊は“方便”をよく用いるお方で 死に行く人に対しては 「死後極楽に行けるから安心しなさい」と説いたといわれています。もしそうしなければ、かえって不安をいだく方々が多かったためと言われています。 大パリニバーナ経  中村元 訳 第五章 [十八、病重し] 10 「アーナンダよ。お前たちは修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ。」 訳者注: 正しい目的のために努力せよ。 → 仏教の修行僧は、自分の修養につとめることだけをせよ。葬儀などやるな、という思想は原始仏教聖典にまま散見されるが、ここにも現れているのである。 p.280  日本では、“葬式仏教”のように揶揄されたりしてはおりますが、元来はむしろ“葬式”なるものには、否定的であったと察せられます。ここでも、死後の世界なるものについて、否定的側面が見られるかと推察されます。  以上から、釈尊は、「非経験の世界」についての言及は一切しておらず、“輪廻”=(経験世界の)“迷い”と解すべきかと考えられます。 > そして この表現には 或る種の違和感を感じます。ブッダという割りにはという意味です。たとえば  ▲ 一切の悪を斥け  ☆ いったい何のためにそういうことをするのか? あるいはそういうふうな境地にならねばならないのか? です。  釈尊が目指したのは、「“苦”からの脱却」、換言致しますと、「心安らかな。平安な境地」だったと解しております。 > 同じような主題ですが 《こだわることのない人》と言っても 生活共同の場(社会)において何らかの仕事をするわけですから 仕事をしつつも何らこだわることもない。こう言ってもらわないと 何だか《執着やら汚れやら》を無理にでもむやみやたらに失くそうとしているというように映ります。  上述の内容と重複してしまいますが、「人が苦しく感じ、そして、その苦しみから脱却したいと思った」場合に、いったん、自己が持つ執着心・迷いなるものを分析し、考え方を変えればよろしい と仰っておられるのかと思っております。  逆に申しますと、日常の出来事に喜びを覚え、不安等がなければ、特に何もする必要はないと考えております。  以下、勝手ながら、続きを述べさせていただきます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ (要約) 非経験の世界=死後の世界  ☆ これには 賛成できません。非経験の領域は あくまで想定ですが まったく経験から自由という意味を持ちます。  死後の世界は 死にゆく本人には《経験できていない》と思われますが 周りの人びとにとっては 或る程度どういうかたちであるかが分かります。つまり 本人以外の周りの人びとには経験される部分があります。したがってこの見送り経験から類推して しかばねになるということなどについては本人もそう推測します。  言いかえると 死後の世界は 大雑把に言って経験世界の――想像としての――延長ではないでしょうか。  非経験の領域は たとえ想像してもその内容が当たっているのかどうかまったく分かりません。経験からまったく自由な世界です。つまり そのように想定するものです。  経験から自由な世界については したがって その隔絶性ゆえに絶対という名づけにもなるはずです。そしてそのとき その絶対ということによって 非経験の領域は 相対世界つまり経験世界を包むというふうにも 派生的な想定が得られます。  そうではありますが 基本的に《経験から自由な世界》を非経験の領域と呼びます。そして 死後の世界は 経験世界の延長という見方のもとに 非経験の領域とは別だと見なします。  この点どうでしょう?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  釈尊が目指したのは、「“苦”からの脱却」、換言致しますと、「心安らかな。平安な境地」だったと解しております。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  「人が苦しく感じ、そして、その苦しみから脱却したいと思った」場合に、いったん、自己が持つ執着心・迷いなるものを分析し、考え方を変えればよろしい と仰っておられるのかと思っております。  逆に申しますと、日常の出来事に喜びを覚え、不安等がなければ、特に何もする必要はないと考えております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まづ第一に  ★ 日常の出来事に喜びを覚え、不安等がなければ、特に何もする必要はないと考えております。  ☆ という生は 自然本性のまま生きることと捉えますが そこでは《非経験の領域》は 知らないものと考えます。じつは生活の中でじっさいには超自然的な現象であるとか超現実的な人びとの芸術であるとかをとおして 或る種の《非経験》体験をしているかも知れません。ただそれでも 《非経験》なる概念は知らない。とまづ見ます。言いかえると 《非思考の場》を想定して受けとめる必要がなく したがって《信じる》という経験はまだなかったと見られます。  しかるに《信じる》という言葉は使われていたと おおむね考えられます。  つまりはこのことは 上の死後の世界の取り扱いともつながっています。仮りに死後の世界を《信じる》というふうにこの言葉を使った場合 それは何を意味するか。おそらくすべてを端折って言えば 気休めとしてそのように言っているのだと思います。  ★ 日常の出来事に喜びを覚え、不安等がなければ、特に何もする必要はない  ☆ という生活であれば この死後の世界について あらたな不安をおぼえたとした場合に おそらくそのように《信じる》という言葉を使うのではないか。  ここで もし死後の世界が《非経験の領域》であるとすれば その不安をおぼえた人びとは 一方で《死後の世界を信じる》と言う場合もあれば 他方ではこれも自由に《死後の世界を信じない》と言っている場合もあるという情況が生まれると考えるのです。  言いかえると 《死後の世界を信じる》という言い方だけが使われるとすれば それは まづ単純に気休めのためであり 基本的に言って 死後の世界が経験世界の延長と見なしているからだと考えるのです。そうではなく 非経験の領域だと捉えたのならば 《死後の世界を 信じる》とも《信じない》ともどちらをも自由に使えるものと思います。  同じく言いかえますと  ★ 「“苦”からの脱却」、換言致しますと、「心安らかな。平安な境地」  ☆ この境地が それでは 非経験の領域とどういう関係にあるか これが問題になると思います。  単純に永遠に変わらざる境地であるのならば 絶対なる非経験を指し示すかたちであったでしょう。  涅槃と言い 仏性と言い 絶対の境地に近いことをも言っているように見える部分もあります。  こういった主題が なお未解決のまま残っているように思います。    次のご回答のほうへ このままですが 移りたいと考えます。

noname#156094
noname#156094
回答No.29

う、うっ、う~~ 先生の放った矢が刺さって瀕死の重傷・・・ 怒りの矢は怖い・・・ ここは遺言を一つ書いておかなければ・・・ でないと、先生から、名前の通り歯ごたえのない奴だったと言われそうだ・・・ >人びとの交通に入らなければ仏性はウソです 先生はうまい事をおっしゃる。 これは同感です。 悟りを求めるほどの心が、他者に向けられないという事はないでしょう。 ましてや、悟りを得た心がどれほどのものか・・・ お釈迦様の言葉だと、また先生にしかられそうなので、別な方を呼んでみましょう。 え~と、日本あたりでいないかな? 輪廻と業のことも話してくれる方は・・・ 誰か名文の書ける人で・・・ いた、いた、いました、スーパースターが・・・ 日本の宗教のスーパースターに登場していただきましょう。 (また先生に怒られなければいいが、でもこの人は景教も知っていたみたいだし、何とかしてくれるかもしれない) ・・・・・・・・・・・・・ 「生まれ、生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く 死に、死に、死に、死に、死んで、死の終りに冥し」 あ~あ、これじゃダメだ、暗すぎる~ 輪廻の苦界に溺れそうだ・・・ でも、ここまで見た人は、そうはいないかもしれない。 「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きむ」 困った、涅槃も尽きてしまっては話しが終わってしまう・・・えっ・・読み方が違う? 虚空尽きざり、衆生尽きざり、涅槃尽きざり、我が願いも尽きざり・・と読むのか、う~ん ちょっとスケールが大きすぎて、分かりずらいな~ 我が願い、ってなんだろうな? どんな願いなんだろうな 尽きるって言っているのは、何か一つに包み込む事を言っているのかな~ え~い、ここは思いきって、へたのすけ流に解読してみよう。 「すべてが真理にい抱かれるまで、私の願いは終わらない」 お~なんとか格好よくできた。 この願う心に頼れば、輪廻あるがままに救われそうな気もするし、いいんじゃないかな。 さっきの暗い輪廻の夜道も歩いて行けそうな感じがする。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ あっ、と、スーパースターの名前を書くのを忘れた。 大丈夫だ、先生は何でも知っているから・・・ 先生ここにおいとくよ。 破かずに読んでくださいね。 何度読んでくださっても結構です。 よろしく。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーん。平家の落ち武者ぢゃああるまいに。  《スーパースター》の名は はづかしながらご存じありません。訪問者のみなさんのためにもそこは文章責任を果たしてくださらんか。  へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   >人びととの交通に入らなければ仏性はウソです  先生はうまい事をおっしゃる。  これは同感です。  悟りを求めるほどの心が、他者に向けられないという事はないでしょう。  ましてや、悟りを得た心がどれほどのものか・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ よろしいのですが ひとつには 《慈悲》とても――ここでの質問に挙げて落ち着いた結論は―― 存在論であるということです。ひとりの人間の成仏という基本線からどうもむしろわざと出ようとしない。なぜなら その彼岸に到るならばそのこと自体によって感化できるのだからと。  あるいは 《四方サンガ》という理念をおそわったことがあるのですが どうもこれも そしてこれは 出家した人間たちに限られてさえいるのではないか。  どうも 内向きというよりは 涅槃行きの銀河鉄道になっているように思えてしかたがありません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「すべてが真理にい抱かれるまで、私の願いは終わらない」  お~なんとか格好よくできた。  この願う心に頼れば、輪廻あるがままに救われそうな気もするし、いいんじゃないかな。  さっきの暗い輪廻の夜道も歩いて行けそうな感じがする。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから そこまで或る種の見方で言って啖呵を切ったのでしたら 銀河鉄道についても復路(還相)をもつくってください。  これって 四十八願のうちのあれと同じようぢゃないですか。最後の一人が成仏するまで自分は往路を行きっぱなしになることなく・したがって成仏しきることなく 復路をたどって此の岸に戻って来ているというところでしょ。還相について触れていないところだけ 違っている。       *  はづかしがったなら 自分で調べねばならぬと思いなおし・・・。  ▲ (空海『秘蔵宝鑰』) ~~~~~~~~~~  http://blog.goo.ne.jp/komorebinosato/e/f3c7803ef9b179ad4554137dc2caf19b  牛頭(ごづ) 草をなめて病者を悲しみ  断し( sic )車をあやつって迷方をあわれむ  三界の狂人は狂せることを知らず  四生の盲者は盲なることをしらず  生まれ生まれ生まれ生まれ生の始めに暗く  死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し」 (古代の神農は、薬草を見出して病気の者を思いやり、  荀子ジュンシは車を作って迷える人々を導いた。  迷える世界の人々は、自分たちが迷っていることをしらない。  あらゆる生き物たちは、自分たちが正しい目を持っていない  ということをしらない。  そんななかで、何度も何度も色んな世界で生まれ変わったとしても、  その原因が分からず、  何度も何度も色んな世界で死んでいっても、それから後のことは全  くわからないのである。)  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 達観しているのか 皆を地獄に落とす役目を引き受けたよとまづは名乗りを挙げたのか どうとでも。だって 輪廻を前提にして話をしている。  もし輪廻がウソだったなら どうなるか。見て来たようなウソを言ったことになる。世界史的なペテン師になってしまう。  だって バラモンのもとで苦しんだ人びとにとっては せめて生まれ変わりの思想にでもしがみつくしかなかった。あくまで現実だった。それを克服したというのなら 全部 揚棄してしまって欲しいものです。自分だけ成ったと言ったって 上のように阿弥陀如来なら すべての人のことを気にかけたというのにそれが ブディズム全体に行きわたっていないというのなら これも詐欺だ。  つまり このペテンの系譜は 亜流やふつうの解釈の違いなり新しい発展なりの問題ではなく どこか根本に弱いところがあるように思えてなりません。  輪廻がほんとうにあったとしたなら。答えは決まっています。仏国土をそのつどつくり続けるのみです。  ならば 輪廻はあってもなくてもどうでもよい。  遺言を書いてるばやいぢゃない。  それとも おしゃかさんと心中するとでも?  以上 縁起共生の空観の実践編でした。

回答No.28

No.13です >>> No.13 お礼欄 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   >>>   (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?   (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?   <<<  については、「そうである場合もあるし」「そうでない事もある」となります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ほんとうにそんなことを思っているのですか? めぐみさんやその家族・要するに拉致被害者の関係者のみなさんの前で そして市民一般の前で そんなことが言えるのですか?  少なくとも そう言うのなら 先に論証してからでしょう。そのくらいの配慮すらしない言論について いったい何をか言わんやですよ。 <<< 何度もくり返しますが、因果という概念を想定するときには、部分的に切り離して考えるべきものではありませんし、切り離すことで誤った観点からの「善悪」概念が生まれ「誤認」を誘発します。 そういった批判に拉致被害者の方々を引用なさるということは、拉致被害者の方々に対する一種の冒涜になりかねないと思っております。 上述の思索の根底には「善・悪の評価・価値判断に関係なく、広い意味での因果関係の有無とを考えた場合に」という前提条件がつきます。(切り離して考えるときに「善・悪」といった価値判断がなされます。切り離さないで考えるなら「善・悪」といった概念すら意味をなさなくなります。) したがって >>>   (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか? <<< は、正確には >>>   (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの原因となる行為をおこなったからか? <<< となります。 ※そういった表現に書き換えて引用すべきでした。お詫びいたします。 ●「そうである場合もあるし」について 「拉致された」という現実は、拉致される人と拉致する人と、現場と環境と時間と状況と・・・全てのものごと(原因)のなかで生じたもの(結果)として捉えることができます。それぞれの因子(原因)が結果に関与する程度には、それぞれ違いがあるでしょう。 ところで、質問者様は、拉致現場を「夜に」ごらんになったことがありますでしょうか? めぐみさん拉致現場と海岸との間には広い護国神社があり、遊歩道を有する防砂林(松林)と一体化しています。護国神社から海岸までの範囲は、夜は真っ暗で、遊歩道には外灯はありません。隠密行動をとるには絶好の場所になっています。海岸側から見ると、少し高台に設置された四角く巨大な上水道施設の上にある円形の展望台(日本海タワー)が、まるで囚人の脱走を見張る監視塔のごとくに見えています。 あらゆるものを因果関係として捉えようとすると、護国神社には「国」を護って下さった方々への思いと「国」を護って欲しいという思いが込められているにもかかわらず、一人の国民を護る事もできなかったとも言えます。 全ての因子の内、決定的な因子は、拉致する人・される人・時間・場所でしょう。他の因子はどうであれ、これらの内の一つでも欠けたり、合わなかったりすれば、「拉致は生じなかった」となります。 個人の些細な行動の違いが一人の人生の行く末に影響することは当然のことです。「もし○○をしていれば」、とか「もし○○をしなかったなら」といったことは、いくらでも考えることができるでしょう。そういった意味での「原因」を本人は有していたということになりうるわけです。(←この部分のみを切り離して強調することは決して行わないで下さい) ●「そうでない事もある」について 「偶有性」という概念になります。 あらゆる出来事は、因果関係と偶有性などの重ね合わせとして捉えることができるでしょう。そうして、視点の異なる人々からすれば、自身に都合のいい分かりやすい仮説を選択するということです。 <<<  ★ 既に原始仏教当初から問題視されていたのだろうということを言っています。  ☆ この《問題視されていたのだろう》というのは ブッダが 《拉致被害は 〈非因果的連関〉をも加味して業による因果応報を見てみるならば 自業自得だ》と言ったということではないでしょうね? <<< どうこねくり回しても、「非因果」からは因果応報は出てきません。 因果が成立しない関係(関連)だからこそ「非因果的」だということです

bragelonne
質問者

お礼

 さじを投げました。  この質疑応答を見守っておられる方々 どうか じんるいの連帯責任の感をおぼえ人道的なお節介役を買って出ていただけませんか。  わたしでは らちが開かないようです。  じねんさんは どうも決してふざけてこのように言っているのではないようなのです。耳を傾けて聞いてくれると思います。  でもわたしでは 届かないようです。

noname#117439
noname#117439
回答No.27

A24のお礼のみを見てしたためております。 > ☆ 《世》と言う場合には 《わたし》がその過去世や未来世にいるかどうかを問わずに過去時と未来時を持ち出しているのみと受け取っているのですが ちがいましょうか? その通りですよ。 死によって阻まれる現象を飛びぬけて、未来は確かにあるそのような確信の感激を私は言い出足っぺとして「時わたり」と表現しています。 記憶とは時にかかわらず確固としており確かな永遠の中に存在する。 そこを今と言う刹那のみで垣間見るなら全てが無常である。 しかし実際は「今」すらも永遠である。 そんな感じです。 それからお釈迦様の無の悟りに関しては、感覚的で実際的な体感なり検証なりを踏まえた上で、言わんとしてことは「神様なんぞ葬り去った方が世の中はうまくいく」そんな主張であり明白に無神論です。 今も生きる「信じないほうが幸せ」そんな無神論です。 さらに批判すべきでしょう。 よって釈迦の語って限りにおいては輪廻に限らず「一切の無」がその全てにおいて生命として裏切りのすすめです。 唯一釈迦の業罪について情状酌量の余地があるのは、彼は、「自らの信仰全てが非思考である。」そのように表したなら現代においてはじめて、入滅したはずのお釈迦様の生きた姿、すなわち無が方便にすぎない事の証明と生きざまの回復が可能でしょう。 私に言わせれば「そんなもんありゃしねー」と表したお釈迦様の直系の弟子は「そんなのかんけーねー」とお笑い草にして吹っ飛ばしたお笑い芸人のみです。 お釈迦様はお笑い芸人の師匠です。

bragelonne
質問者

お礼

 昨夜からのつづきです。  ★ 「そんなもんありゃしねー」と表したお釈迦様  ☆ これはよく聞いていますが わたしはまだよく飲み込めていません。  全体を読んでわたしの反応を優先させるようなかたちで――そのことによって 互いの異同がはっきりしてくればよいと思い―― つづってまいります。  ★ 無  ☆ これは おそらく 持つ意味の範囲が広すぎるのでしょう 必ずしもピンと来るような納得を得させていないのではないでしょうか?  ○ 空  ☆ のほうがよいのかも知れません。空とは もっと分かりやすくいえば ゼロです。  この世界から 常住不変と言いますか 変わり得ないものごとを探していけば それは無かったという話ではないでしょうか。諸法(あらゆるものごと)無我(移ろい行かないもの(我)はない)。ゆえに世界を空と見る空観。諸行無常とも言いましたね。  空観のもとに世界を見るというとき ものごとは現象しているし 人びとは行為をおこなっています。つまりさまざまな現象および行為の自然的かつ社会的な関係。つまりその関係の錯綜。またそれらの構造的な連関。すなわち縁起の過程が――空観のもとにもとうぜん――あります。  実際に経験されているこの世のものごとが縁起の過程としてあるとき 移ろい行かないものがないのであるならば そのようにものごとはゼロであると見ているということなのでしょう。  ★ ・・・言わんとしたことは「神様なんぞ葬り去った方が世の中はうまくいく」そんな主張であり明白に無神論です。  ☆ 何ものにも依存せずみづからあるという不変の存在であるブラフマンなる神は ただの想定であると言いたいのでしょう。すべてがゼロである世界の上に 想定しただけなのだと。  ただ このゼロを超えたところという場は 想定しなかったのか?  ゼロと見ている(空観において世界を捉えている)《わたし》も その空観に従うなら ゼロである。これらゼロ尽くしの世界を超えたところといった領域(非経験)は では 想定しなかったのか?  たぶん それをも――今度は 空観の上のメタ空観としてのごとく―― ゼロ(空あるいは無)と想定したのでしょう。そしてもしそうだとしたら これが――今度は 経験思想としてではなく 非経験ないし非思考の場としての―― 信仰の形態にまで次元を挙げた無神論だと捉えます。  ブッダの思想および信仰のあり方は そのようであると考えます。  ★ 今も生きる「信じないほうが幸せ」そんな無神論です。  ☆ ゼロではなく何か仮りの名前で呼ぶというようにその神さまを《信じる》ことなどにはかかずらわないほうが 何かとよろしいのでは?と言っているのでないかと思います。つまり そういう信仰形態ですよね。もうそれは 思惟の問題でも範疇でもなくそれを超えた非思考の場にかかわっての結論なのでしょう。  このような中身について 簡略に《「そんなもんありゃしねー」》と表わすということは どうでしょう。わかりにくいとわたしは思います。何について言っているのか 一つひとつ仕分けして捉える必要がある表現だと思うからです。  なおもしこのようにゼロ主義(空観)を掲げたとするなら そのブッダは たとえば《涅槃》にしたところで それはゼロだとはっきり徹底して言わねばならなかった。  有神論としての信仰において その神と《わたし》との関係が たとえば仮りにこのニルワ゛-ナであるとすれば それはその非思考の場における心の明けまたは伸びとしてそういった境地を設定することができる。しかるに ゼロ主義であるのならば そのような境地も すべてはゼロだとその空観をつらぬかねばならなかった。のではないでしょうか。

noname#117439
noname#117439
回答No.26

こんな学説はいかがでしょう。 死によって阻まれた過去世、死によって阻まれた来世、それらはすなわち自らではない。

bragelonne
質問者

お礼

 ええっと。  ○ 生まれる前と死んだあとは 《自らではない》  ☆ ですか?  《自らではない》というのが まだはっきりしないと思いますが たとえば  ○ 生まれる前の世界も死んだあとの世界も わたしの知っちゃことぢゃない。  ☆ こういう意味でしょうか?  でも知識としては得ることになりますね。そういう意味で歴史をみづからの一部をするようになりますし その流れにも身を置くと思いますが?

noname#117439
noname#117439
回答No.25

拉致被害は日本民族が犯した朝鮮支配と言う業因に起因しており、日本人たる被害者は日本人に生まれた故その業因を背負うのである。 北朝鮮政府において拉致の正当性は主張可能であり、悪いのは日本人すべてである。 したがって拉致被害者を犯罪被害者の如く見なすのは日本人のみであり、北朝鮮の正当性が世界では承認されているのなら、拉致の苦情の共有は日本人ゆえの田舎くさい我がままである。 さあどうですか? こんなのがまかり通ったらとんでもない事になるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  いちど触れましたが   ○ 共業(ぐうごう)  ☆ という考え方もあるそうです。  ▲ (ヰキぺ:業) ~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD  共業: 相互に共通するような状態にありうるような果報をひきおこす力を共業(ぐうごう)といい、自己のみ特別にして他に共通しない状態の果報をひきおこす力を不共業とよぶ。 しかし、仏教の業説は釈迦が、「業論者、業道論者、精進論者」と自らを言われたように、本当に真剣に人生を生きてゆこうとする立場のうえに説かれたものである。その点、決して宿命論ではない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ しかしながら そこまで行くとなれば けっきょく――個人の場合にも 何のことはない 同様なのですが―― 原因や情況をきちんと分析すればよいということになります。何ごとにも因果関係を見つけ出して 参考にするという常識に落ち着きます。  たぶん この共業にしたところで 基本は 個人の行為(業)の因果関係であると考えられます。その集まりとして分析するというところでしょう。  言いかえると けっきょくは経験科学による調査・研究・分析等々の作業を怠りなくすすめていくに尽きます。  重なる所があると言えばそうかもしれないでしょうし いちいち業の思想を持ち出して来て云々する話ではないと言えば そういうことかと思います。  上のヰキぺの記事にも 仏 教 で さ え 《宿命論》ではないのだと言っています。  その昔 欧米列強と言われた諸国の・特に軍事的な力にどう対処すればよいかを考えて日本は 朝鮮半島の人びとに 独立を守るために協力をしようと話しかけた。その方策を遂行するのに 力にものを言わせて 人びとの考えや生活をこちらのいいように導こうとした。その反省はあると思います。