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縄文時代の土偶について
縄文時代の土偶は、弥生時代になるとほとんど作られなくなったそうてすが、それはなぜでしょうか。私は社会科の教員をしており、先日授業でこのことが話題になったのですが、それ以来、大変興味を持っています。土偶が作られた目的と関連づけて考えたほうがよいのでしょうか。
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縄文から弥生に変わる時代に、大災害がありました。 土器を見ても弥生時代の方がより実用的です。 装飾にかける余裕がなかったのだと思います。 余裕が出てきた頃には文化の形が変わっていたのではないでしょうか。 ちょうど、第2次世界大戦後に、着物が廃れたような感じだと思います。
素人同士の意見なので、たわごとにすぎませんが。 >人種が違えば、生活も宗教もまったく違って当然。旧日本人の信仰は旧日本人そのものや信仰心が「より強いもの」によって徐々に淘汰されたか、宗旨替えを強いられてすたれていったと考えています。 上記の中には、3番目の人が誤解するような内容もかかれているが、大切なことは、ムラやクニが形成されていく段階で、権力者や実力者がだれであったかどうかということ。庶民がどう思っていようが、そんなことはおかまいなしに、力のある者がそうでない者に服従を強いるのが古代の政治。 また、搾取の対象となる原住民を生かさず殺さず統治するのが、上手な植民地の作り方。皆殺しした場合は、他の島で捕まえて植民地に連れてくるのが白人のやり方。 #日本語は、ちょっとだけ専門分野なので、重箱の隅つつきをしておきます。 釈迦に説法 馬の耳に念仏
>土偶が作られた目的と関連づけて考えたほうがよいのでしょうか。 > 自分は特にこの時代に詳しいわけではありませんが、最近ちょうどそのテーマを扱った本を読みました。 「縄文論争」(講談社選書メチエ 256) 藤尾 慎一郎著/\1,500/講談社 下にURLを貼っておきます。面白かったです。 この本によれば、稲作そのものは縄文晩期に始まっていましたが、彼らは狩猟や採取も並行して行っており、稲作をしたからといって宗教観を変えるまでには至らなかったといいます。 しかし、何らかの理由で(自然環境の変化とか、大陸の金属器を伴う経済活動の流入だとかが考えられます)大陸経由の“完全に稲作中心の全く別な生活形態”に切り替わった時に宗教改革も同時に起こったのでは?ということです。 私はこの本を読んで、要は、それまで“縄文型の日々の生活”を保証してもらうために祈っていた神様では、新しい“弥生型の日々の生活”はフォロー出来ない、と判断されて、新しい神様&宗教世界に頼るようになったのかなぁと思いました。 簡単に纏めすぎかも知れませんが(^^;)。 ※ところで、下のお二方は弥生人と縄文人を人種の違いと認識されておられるようですが、これは誤解です。 正確には ●縄文人=縄文文化で生活した人。 旧モンゴロイド系。北方系と南方系と二系統ある。 ●弥生人=弥生文化で生活した人。 大陸から渡来し、弥生文化を伝えた新モンゴロイド系+弥生文化を受け入れた元・縄文人の旧モンゴロイド系 です。 関東以北で縄文風の生活を保った続縄文人やなんかもいるので、在地の縄文人は全部どこぞに追いやられたと勘違いする人が多いのですが、旧モンゴロイドの骨格を持つ弥生人の遺跡も存在しますです。※ {※-※部分は、ここの書き込みを読んだ不特定多数の人に向けて蛇足を承知で念のために書きました。質問者様ご本人は社会化の先生でいらっしゃるのだから釈迦に念仏なのは存じておりますm(_ _)m。}
素人が、思いついたことを羅列してみます。 1,二つの時代の生活形態がかなり異なっていること。 2,縄文時代晩期と弥生時代前期(早期)が、ほぼ同時期で、日本国内の例えば東~北と西(北九州)に分かれること。 3,縄文人と弥生人の骨格にかなりの差異がある可能性が高いこと。 4,縄文時代の土偶・石棒などを祭器・呪術に関わる器物ととらえるならば、同様の物として弥生時代に銅鐸・銅剣・銅戈・銅鏡といった金属器が存在すること。 などから、個人的には、数千年レベルで細々と暮らしていた旧日本人(離れ小島であったがゆえに血の交わりが少なかった)の世界に、大陸から北九州にたどり着いた他民族が割り込んできて、東へ東(南は少々)へと徐々に勢力を広げたと考えるのが妥当だと思っています。なお、勢力の拡大とは、一般論である稲作・高温で焼いた土器・金属器などの新たな文化の伝播だけにとどまらず、殺戮を行うことや服従を強いることを含みます。 人種が違えば、生活も宗教もまったく違って当然。旧日本人の信仰は旧日本人そのものや信仰心が「より強いもの」によって徐々に淘汰されたか、宗旨替えを強いられてすたれていったと考えています。 #1天皇陵の墓守であった陵戸が、永代に渡ってその身分と役目を保障されていれば、墓荒らしも開墾や都の造営による破壊もありえなかったことでしょう。エジプトのピラミッド・王家の谷しかり……。 #2紆余曲折はあるにせよ、歴代の政権が長い間保護・優遇してきた寺院において、明治政府による神仏分離の政策一つで、廃仏毀釈が広まったことや、同時代のキリスト教禁止令の解除なども関連事項として興味深いです。 明治時代以降は、最も近い隣国(朝鮮・中国・ロシア)と仲良くできているとは言えませんが、離ればなれになっていた時が長すぎただけで、元は兄弟みたいなものだと思っています。 #3素人考えでも、征夷大将軍が平らげていったという、アイヌ(旧日本人のうち、ロシア系のグループ)とのやりとりなどは、こう考えれば簡単に解決できそうに思えます。
- liar_adan
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専門家でも何でもないのですが、想像で書きます。 信仰体系そのものが違うためだろうと思います。 「縄文時代」「弥生時代」という言い方をしますが、 この二つの文化は、時代の違いではありません。 人間自体が違います。 縄文人は、ずっと前(確実なのは3万年ぐらい前)から日本にいた、いわば先住民族。 弥生人は、中国・朝鮮から移民してきた渡来人。 弥生人は進んだ農耕技術と、冶金技術をもって、 縄文人をしだいに追いつめていきました。 歴史時代になっても、東北には縄文人が残っており、 「続縄文」という言い方もします。 また、アイヌが縄文の系譜をつぐものだという説もあります。 ここから先はいよいよ想像ですが、 縄文人の信仰体系は、その土器から感じ取れるものは、 すべてを神とし、生命が循環する世界。 対して弥生人の信仰は、「天」と「地」のはっきりした階層がある世界。 信仰の基盤自体が違います。 弥生の信仰が縄文の信仰を塗り替えていったのでしょう。 土偶の作られた理由は現在でもわかっていないのですが、 ある種の「犠牲」としての面があるようです。 (発見される土偶のほとんどすべてが故意に壊されていることから) 弥生に追いつめられていく過程と、それからの影響で、 縄文人の信仰もまた変質していったと思われます。