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武田、上杉、北条の三つ巴について調べています。
武田、上杉、北条の三つ巴について調べています。 『関東三国志』なんて呼び名があったんですね(笑) 中国の三国志にならってそう呼んだってことなんですかね。。 どなたか概要を教えていただけませんか?
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文字通りの三つ巴となって戦ったので「関東三国志」としばしば呼ばれます。もちろん、後世どころか戦後になってから呼ばれたんじゃないかと思います。 概要については学研の歴史群像シリーズをご一読いただければ掴めるのではないかと思います。調べていらっしゃるなら、だいたいのところはご存知でしょう。 謙信がなぜ関東管領にあれほどこだわったのか、北上戦略にこだわらざるを得なかった信玄の蹉跌、地上げ屋のようにしかじわじわ勢力を拡大できなかった北条などについての疑問があるのでしたら、質問を拝見する機会があればまたお会いしましょう。
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- kimari14
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どこがどう似て三国志なんでしょうかね。 小説家のうまいとこ? 戦国100年を見る時に、はずしてはならないことのひとつに 気候があるでしょうか。 日本農業史によれば、2、3年に1度は、 水害、日照り、冷害、台風等の飢饉 であったらしい。 領国大名は力ずくで、税を取っていたわけではなく 今と変わらず減税もやります。 さもないと、みんないなくなる。 他国に逃げていけばいいわけで、 経営のへたな大名は財力の根幹を失います。 ですから、収穫の落ち込みは、他で補填します。 それは、戦える者を引き連れて、組織だって 他国に略奪(人も、物も、奪えるものはなんでも)の 短期の出稼ぎに、いきます。 この盗人家業が、日本のあちこちであった。 今日、戦国時代といわれていますけど。 北条は関東(上野こうずけ)へ 今川は三河へ 武田は諏訪から,信濃 って順。 関東の大名は中小企業が多い割りにまとまっていませんので 北条やや有利という状況 上杉も関東には同じ野心ですが、国内統一に手間どって つばもつけれず後手後手。 そのとき、関東の管領上杉憲正の管領職要請は 都合よく、関東出兵の大義名文になり その後、なんども、関東で年を越して飢えをしのいでいます。 この当時、上杉、北条、武田は右回りに回っていて 天下という概念があったかどうかね? 地域、局地 という点で この三氏の闘争を 三国志といえるかどうか?
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質問のしかたが悪かったですね。 申し訳ありません。 回答ありがとうございました。
お礼
回答ありがとうございました。 参考にさせていただいています。 10代の頃は社会科が苦手で、何がおもしろいのか全く理解できなかったのですが… 少しだけ年を重ねた今、こうして興味を持った事例などから調べていくととてもおもしろいです。 回答いただいた中で挙げられていた3人についてのことも、自分でもっと調べてみたいと思います! それでも疑問が…というときには、また質問を書き込みたいと思いますので、その時にはぜひまた助言をよろしくお願いします。