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御館の乱でどうして上杉憲正は上杉景虎に味方したの
御館の乱でどうして上杉憲正は上杉景虎に味方したのでしょうか。 上杉景虎は憲正を、上野から追い出した北条氏康の実子だから、 普通に考えると上杉憲正は、景勝に味方するほうが自然だと思いますが、景虎に味方して落命しています。 いろいろしらべたのですがわかりませんでした。 よろしくお願いします。
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結局はっきりしたことは分からないので推測するしかありませんが、上杉謙信に対して上杉憲正は少なからず「期待を裏切られた感」はあったのではないかなと思います。 確かに謙信は何十回も関東に遠征して北条と戦いましたが、むしろ北条の領土はじわじわと広まるばかりでした。 そういう中で色々あって北条家から景虎(北条三郎)がやってくると「もう北条家の関東支配は揺るぎないし、それならもう北条家と関係改善したほうがマシかも・・・」と思った可能性もあるのではないかなと思います。 これは私の推測ですが、元々越後長尾家というのは謙信のずっと前から内部対立ばかりしてきました。御館の乱もその長尾家内の対立が大きく影響しているのですが、景虎側についた勢力と憲正が近しい関係にあったのではないかなあと思います。
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- fujic-1990
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1番、補足です。訂正かな。 景虎が「以前武田家の養子だったから武田が越後に押しかけてきた」的なことを書きましたが、ウィキを見直していたら『勝頼は後北条氏の要請で景虎支援のため越後へ出兵する』という記載を発見しました。 記憶が曖昧だったのですが、そうだったかもしれません。キチンとした本でもそんなことが書いてあったような気がしてきました。 「後北条からの正式な要請」で武田は越後へ押しかけてきたんですねぇ。当然、後北条へは景虎のほうから援軍要請したのだ(景虎は後北条から勝頼が救援に向かうのを知らされていた)はずです。 だとしたら、事前にそのことが憲政の耳に入っていた(景虎が伝えた)はずですから、憲政は「景勝の負け」と判断した可能性が高いんじゃないか、と思うに至りました。 この点、補足し、考えを変えたことをお知らせします。
- fujic-1990
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私は、自分を関東から追い出した氏康の息子だから「強い=勝つ」だろうと思ったか、謙信の養子になる前に信玄の養子になっているので武田勢が味方してくれるに違いないと思ったのではないか、と思っています。 実際に、武田勢(勝頼)が景勝を狙って攻めてきたので、景勝が大金を払って引かせたのではなかったですか? あと、春日山における双方の住宅の関係から、景虎が景勝から見下ろされ続けるのに耐えられず、憲正の住んでいた「御館」に逃げ込んだという話を読んだことがあります。 「窮鳥懐に入れば…」ということで見捨てられなくなったか、最期まで景勝からの『憲正は景虎の味方』という誤解を解くことができなかったのかも。