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謙信と武田・北条氏について

あるサイトで、 1576年6月25日 将軍義昭の要請を受けた上杉謙信が、武田・北条氏と和し京都を回復することを承諾する。 と書いてあったんですが、本当なんでしょうか? 謙信が武田・北条相手に和すことを承諾することが信じられません

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  • kimari14
  • ベストアンサー率17% (50/288)
回答No.3

うわべのことです よくあることです  1576年といえば信長は安土に城を築いていますよね  その3年前に信玄が亡くなっています  その子勝頼は1575年長篠で大敗しています  1577 謙信は能登七尾城末森城を攻略し  手取川で柴田勝家を撃破していますね  その最中、正木憲時から(北条に対して)関東出兵を要請されています  そして1578年この世を去っています 義昭から信長打倒の要請がありましたが 北条は房総の攻略する間の 背後安全のため 勝頼は対家康のため 謙信は対北陸戦のため です 和といったも結んだり破ったり 都合のいいときだけのもので 挨拶程度のものです 政略結婚といっても 殺されてもよい人質しか だしません  

その他の回答 (2)

noname#101087
noname#101087
回答No.2

「大日本史料総合データベース」を見ると、この時期の「大日本史料」は未刊ですが、 「史料綜覧」に一連の綱目があります。    ↓ 天正4年6月11日(15760060110) 1条 【綱文】 義昭、使を遣し、上杉謙信、武田勝頼をして、各々和し、毛利輝元と共に信長を撃たしむ、尋で、謙信、之を諾す、 天正4年6月12日(15760060120) 2条 【綱文】 義昭、上杉謙信及び武田信豊に命じ、越後、甲斐、相模の三和を遂げ、帰京のことに努めしむ、 天正4年7月23日(15760070230) 1条 【綱文】 義昭、毛利輝元と謀り、兵を摂津に出す、是日、之を上杉謙信に報じ、武田勝頼と謀り、助力せんことを要む、 (関連史料)稿本も tif 画像で見れるようなので、そちらでお調べを。  

  • hazu01_01
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回答No.1

さて、景勝の奥さんは勝頼の妹、謙信の養子は北条一族、なぜでしょう。 上杉家、武田家、北条家との和睦がなったということでしょう。 日時、経緯は調べれればすぐわかると思いますよ。

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